豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

きょうの軽井沢(2024年11月25日)

2024年11月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 日帰りで軽井沢に行ってきた。紅葉は終わってしまったようだが、25日は全国的に晴れて絶好の行楽日和で、26日からは天気が崩れるというので、今年最後の軽井沢に行くことにした。
 朝8時20分に出発してほどなく関越道に入る。天気が良く、遠くに富士山も見える。本庄児玉を過ぎると、時おり正面に浅間山と石尊山が見え隠れする。山腹から山頂まで一片の積雪すらなかった。昔なら11月も末になれば山頂は雪で覆われていたのに。約50分で上里SAに到着。
   
 
 上里を出て、藤岡から上信自動車道に分岐して、碓氷峠(?)を登る。妙義山の山影が見えてくる。妙義山といえば、大相撲の妙義龍が引退してしまった。勝っても負けても悠然として表情を変えず、好きな力士だったのだが。九州場所では花道で警備をしている姿をテレビで見かけた。
   

 碓氷軽井沢インターで下りて、取り付け道路(?)を軽井沢の町中に向かう。山道の両側は紅葉はすでに終わったのか、早くも枯れ木モード。
   

 まずは発地市場に立ち寄って野菜を買い込み、ツルヤにも立ち寄って、11時すぎに到着。
 発地からは、冬の青空を背景に浅間山が裾野を広げている全景が眺められた。
   

 日が暮れる前に帰宅したかったので、3時前には軽井沢を出発する。4時前というのに、日陰に入ると早くも冬の夕枯れの空気が漂っていて気が滅入る。
 夏休みに孫たちが蝶々やトンボ、バッタを追いかけた浅間台公園の草も枯れ、人っ子一人いなかった。なぜか駐車場には10台近くの車が止めてあった。
   
   
 
 最後の写真は、国道18号線、借宿の交差点から眺めた浅間山。今年最後の浅間山だろう。

 2024年11月25日 記

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紅葉の軽井沢(2024年11月13日)

2024年11月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今朝のテレビ朝日「モーニングショー」で、軽井沢が映っていた(写真はその画面)。
 紅葉が見ごろを迎え、見物客で軽井沢のあちこちが平日でも大渋滞になっているという。雲場の池から始まって、旧軽井沢通り、峠の見晴台、国道18号バイパス、鳥井原のツルヤなどあちこちの混雑ぶりを紹介していた。

   

 先月に行ったときにはまだ紅葉していなかったが、その後気温が下がって紅葉したのだろう。わが家にももみじが数本植わっていて、亡くなった母がその紅葉を楽しみにしていた。毎年紅葉シーズンに出かけるため、軽井沢には石油ストーブが数台置いてあり毛布や冬用の布団などが何枚も置いてあった。
 ぼくの現役時代には、授業に加えて入試業務も始まる紅葉の時期に軽井沢に行くことなど不可能だったし、定年後もこの時期に泊まりがけで行くこともなくなったので、石油ストーブは数年前に、冬用の布団類は去年すべて粗大ゴミに出して廃棄し、残っていた灯油は行きつけのガソリン・スタンドで廃油処分してもらった。

 亡くなった母は、庭に生えている羊歯と、夏の庭に3、4本咲く実生の百合(鬼百合?)と、秋になると紅葉するもみじが好きだった。今年庭木を伐採した際に、車の通行の邪魔になっているもみじの木も伐採しようかと思ったが、亡母に恨まれそうなので思いとどまった。植木屋さんからも、この木を切るのはもったいないと意見されてしまった。
 ちなみにぼくが好きな軽井沢の植物は、「軽井沢の三大植生」といわれているらしい羊歯と熊笹と苔である。すべて数十年前から自然のままに自生しているものである。その次が1960年代に植えた白樺と落葉松だが、植えた当初はせいぜい2メートル足らずの背丈だったのが、数十年経ってみると巨木化してしまって植えた当初の可憐さがなくなってしまった。
 わが家のもみじも今ごろ紅葉しているだろうか。

 2024年11月13日 記

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海野宿(旧北国街道、2024年10月20日)

2024年10月24日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 10月20日(日)、快晴。
 青空と浅間山のすそ野の緑を眺めながら、浅間サンラインを小諸、上田方面に向かってゆったりとプロムナードする。行先も決めない気ままなドライブだったが、道路沿いに小林農園という販売所の上りを見つけ、ちょうど信号も赤だったので立ち寄ってみる。東京よりも安くて新鮮な野菜を買い込む。
 上の写真はその小林農園前からサンライン道路ごしに浅間山方向を撮ったもの。残念ながら、この日の浅間山はかなり裾野の方まで雲がかかっていて見ることができなかった。

 ついで、以前に立ち寄ったことのある「雷電の里」という道の駅に向かう。
 大昔の大関、雷電の生まれ故郷の近くだという。数年前は地元長野出身ということで、大関御嶽海のポスターが貼ってあったが、去年あたりからなくなってしまった。
 浅間サンラインの北側は浅間連山(というらしい)が連なっていて、南側には佐久平が開けていて景色がいいのだが、雷電の里の見晴台は目の前を上信自動車道が走っていて、景色はいまいち(下の写真)。

   
   

 さて次はどこへ行こうか。道路の行先標示では高峰高原、湯の丸高原、小諸市内などいくつか候補を見つけたが、家内が以前に行ったことがあって、雰囲気がよかったというので、海野宿(うんのしゅく)というところに行くことにした。海野宿は長野県東御市(「とうみ」と読むらしいが、どのような謂れがあるのか)というところにある。雷電の里からは10キロ足らず。
 サンラインを降りて国道18号に出て、さらに田畑や民家の散在する曲りくねった道を行くと、海野宿の駐車場が右手に見えてきた(無料だった)。
 道の反対側には、川が流れていた。千曲川だろうか。草の生えた広い河原にはススキの穂がなびいている。
 
   
   
   
 旧北国街道沿いの海野宿は、入口に神社があって、その先数百メートルにわたって道の両側に古い街並みがつづいている。※そういえば、今年の春先に彦根を旅した折に、大津市街で旧北国街道の標識が立っていた。たしかロシア皇太子受難大津事件の現場も旧北国街道沿いだった。追分の分去れで中山道から分岐した北国街道は滋賀大津にまで及んでいたのだった!
 さて海野宿の街道沿いは、宿屋や土産物屋や喫茶店がちらほらと並んでいるが、あまり観光客もいなくて、ゆっくりと歩くことができた。気温も20℃前後で、ウォーキングには程よい。
 
   
   
      

 途中のT字路に「シフォンケーキ製造・販売の店何とか」という看板が出ていたので、曲がって坂道を登ってみたが、いくら登っても行き当らないので、あきらめる。その途中で、しなの鉄道の線路を跨ぐ跨線橋を渡る。電車は通過してくれなかった。
 もとの旧北国街道に戻り、古い海野宿の街並みが切れるところまで歩く。同じ道を帰るのでは能がないので、南側の細いあぜ道を戻る。半分刈り取りの終わった田んぼがつづいている。来る時にしなの鉄道の田中駅というのを通ったが、文字通りの田んぼの中である。

   
   

 再び、旧北国街道に戻り、古い建物で古書店と喫茶店をやっている店を覗いてみる。
 土間の部屋の壁一面が本棚になっていて、店主の趣味らしい古本が並んでいる。小津安二郎関連の本を並べた一角があったので、そこから與那覇潤「帝国の残影ーー兵士・小津安二郎の昭和史」と千葉伸夫「小津安二郎と20世紀」という2冊を買った(あわせて1800円)。駐車場が無料で申し訳なかったので、地域に貢献するつもりである。與那覇さんに小津をテーマにした著書があったとは知らなかった。千葉の本は「20世紀の家族が形成され、成長、衰退、やがて消滅する」という帯の文句につられて買ってしまった。
 與那覇さんの本は面白く読んでいるが、コメントは後ほど。

   
      

 1時間半ほど歩きまわって、1時過ぎに海野宿を出発し、帰途につく。市議会議員選挙の最中らしく、選挙カーと何度もすれ違う。
 昼食は御代田まで戻って、蕎麦処「香りや」(正式な名称か不確か)で。今年の2月で閉店してしまった追分の「峠のそば茶屋」に代わって、最近時々訪れる。ここの駐車場からの浅間山も軽井沢から見る眺めとは違って鄙びていて好い(上の写真)。

 2024年10月24日 記   

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軽井沢へ行ってきた(2024年10月19日~21日)

2024年10月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 10月19日(土)から今日10月21日(月)まで、軽井沢に行ってきた。3日間とも秋晴れで天候には恵まれたが、20日と21日は夜間や朝方の寒さが厳しかった。今朝(21日)午前4時ころに目が覚めてスマホを開くと、「軽井沢の現在の気温 4℃」と出ていた。日中は 11~14℃くらいになっていた。

 19日(土)は早朝から鶴ヶ島あたりで多重追突事故のため、関越道は東松山まで通行止め。
 もともと急いで出かけるつもりはなかったので通行止めが解除されるのを待っていると、11時ころにネクスコのHPに「解除は11時20分頃の見込み」という記事が載った。11時20分にもう一度HPを見ると、もう関越道の通行止めの表示は消えていたので、出発。
 上里で小休憩し、2時間ほどで軽井沢に到着。この日はツルヤに立ち寄って、数日分の食料だけを買い込んで、そのまま家へ。家じゅうの雨戸、窓を開けて風を通し、布団を干す。9月初旬に置いてきた除湿剤ケースの半分の所まで水がたまっていた。この秋はとくに雨が多かったが、1か月でこんなに湿けるのか。

 20日(日)は、浅間サンラインをドライブ。
 「秋の童話」のMDを聞きながら、浅間山のすそ野に沿ったこの道を中古のPOLOで走ったのは、もう20年近く前のことになるだろうか。ソン・ヘギョ、ソン・スンフォン、ウォンビン、そしてムン・グニョンたちもどうしているのか。最近は見かけないが・・・。韓国のスターたちは新陳代謝が激しくていつの間にか消えてしまう。残っているのは脇役ばかり。
 ドライブの先々で撮った写真はまだ転送してないので後日改めてアップするが、ひとまずこの日の夕方、浅間台公園を散歩した折の写真だけを。
 植え込みのナナカマドが真っ赤に咲きほこり、白樺は黄葉して枯葉が落ち始めていた。やや紅葉した中木は何の木か。

   
    
 
 雲にかかった浅間山の頂上がわずかに見えていた。
 浅間山を裾野までもう少し眺めるために、借宿交差点のローソンまで歩く。わが定番の(?)「ローソンと浅間山」を撮る。

   
   

 21日(月)午前中、最後の風通しをしてから戸締り、ガス、電気、水道を止めて帰路につく。
 19日は裾野まで雲に隠れ、昨日20日は山頂に雲がかかっていて、2日間とも浅間山の全容を拝むことができなかったので、浅間山を眺めるために発地市場に立ち寄る。
 期待通り、石尊山のすそ野までくっきりと浅間山の蒼い山肌が秋の空に映えていた。あのハート形の窪みもしっかりと見ることができた(冒頭の写真)。

   

 発地通りに面した「モミの木」にも寄って、上信道、関越道を東京へ。上信道はガラガラ、関越道に入ってからも流れはスムーズだった。
 上の写真は関越道上空の秋の空。あの雲はいわし雲というのだろうか。魚のうろこのように見えるが。

 2024年10月22日 記

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軽井沢は秋の気配(9月6日、7日)

2024年09月09日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 9月6日(金)の夕暮れ、この夏最後の軽井沢の空気を感じるために散歩に出かけた。
 日中はまだ暑さの残る軽井沢だが、夕暮れ時になるとさすがに軽井沢らしく秋の気配が漂っている。気温も多少は下がっているのだろうが、何より空気が夏とは明らかに違っている。

   
              
 
 道端の空き地では、すすきの穂が夕日を浴びていた。
 夏の日に孫たちがトンボを追いかけた公園には人影もなかった。遊ぶ子どものいない滑り台がポツンと夕日を浴びていた。「トンボとり きょうはどこまで 行ったやら」という句は有名な俳句なのか。
 夕日に背を向けると、自分の影が長く延びる。秋の訪れを強く感じる影法師である。
 8月はじめころは午後7時近くまで日が沈まなかったのが、今では午後5時半には日没が迫ってくる。

      
 
 借宿まで足を延ばし、<ローソン>に立ち寄る。
 「ローソンと富士山」というのがニュースになっていたが、ローソンと浅間山も悪くない(上の写真)。
 毎年夏の終わりになると、ここからの夕焼け空を撮るのだが、中学校の音楽の副教材に載っていた「エデンの東」の日本語の歌詞にぴったりの写真が撮れない(冒頭の写真)。どうしたら、「むらさきの 雲の流れに ♪」なってくれるのだろう。

 --などなど書きつらねてきたが、15、16、17、18、19歳の頃、いや24、25、26歳の頃でも感じた、夏の終わりのあの切なさは、残念ながら今はもう感じられない。青春時代のあの寂寥感が懐かしい。

   
 
 最後は、9月7日(土)の朝、土産を買いに立ち寄った<デリシア>の屋根の上に広がった軽井沢の朝の空。

 2024年9月9日 記

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軽井沢に行ってきた(9月4日~7日)

2024年09月08日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 9月4日(水)。台風が去って、ようやく晴れの日がしばらく続きそうな予報だったので、軽井沢に行ってきた。
 朝10時半に出発して、上里SAで小休憩して、13時に軽井沢に到着。快晴、気温は南軽井沢交差点の道路標示で26℃となっていた。
 まずはツルヤに立ち寄って、数日分の食料を買い込む。さすがに8月中に比べれば駐車場はかなり空いている(下の写真)。
   

 東京ではコメ不足だが、ツルヤには大量の米が置いてあった。ただし、残っているのは3000円台後半の千葉県産の新米ばかりで、もっとお手頃価格(らしい)のコメの棚は空っぽで、「完売」の札が立っていた。わが家でいつも買っている長野県産の無洗米(4㎏)が残っていたので買っておくことにした。

 到着後ただちにすべての窓を全開にして空気を入れ、つづいて、この夏使った布団、枕やクッション類を一斉にテラスに運び出して、虫干しをする。
 寄る年波で、毎年夏の終わりの布団の虫干しがしんどくなってきたので、この夏の初めに、思い切ってこれまでの思い出が詰まった重い綿布団を処分し、新しい敷布団と掛け布団を買った。荷風なら「購う」と書くだろう。「あがなう」と読むのかと思っていたが、この夏読んだ「濹東綺譚」では「かう」と振り仮名が振ってあった。

 そう言えば、「断腸亭日乗」を読むと、荷風は、日々の庭掃除(掃葉)と、時おりの蔵書の虫干し(曝書)を趣味としていた様子が伺える。「曝書」とは、「大辞泉」(小学館)によれば、「書物を虫干しすること、蔵書を取り出し、広げて風に当てること」の意で、夏の季語だそうだ。
 ぼくの亡父も、趣味で集めていた江戸時代の和綴じ本を天気の良い日に、二階南側の廊下に並べ硝子戸を開けて虫干しすることがあった。時おり2、30頁くらいの薄い本が風で道路にまで飛ばされて失くなることもあった。夏の季語というが、わが家では秋の小春日和の頃の風物詩だったように思う。ちなみに、「布団干し」は季語なのだろうか。
   
 翌日、9月5日(木)も朝から快晴。
 この日も布団干しに追われる。気持ちよいくらいに乾いてくれる。
   
   

 昼から<ツルハ>と<ケーヨーD2>に行って、除湿剤とダニ避けシートその他を買う。家を閉めた後の冬、春、梅雨時の湿気対策のためである。昭和の昔ならナフタリンが定番だった。
 天気は良くて空は青空だが、なぜか浅間山には真っ白の雲がかかっていて山頂や中腹のハート形の窪地は見えなかった。残念。離山はしっかりと見えている(上の写真)。
 この日の夜、永井荷風「濹東綺譚」を読み終えた。昔買ったままで手元にある岩波文庫は文字が小さくて読みにくかったので、図書館で借りてきた岩波文庫ワイド版で読んだ。本文に違いはなかったが、挿絵の濃淡が多少違っていた。

 9月6日(金)も晴れ。布団干しと、部屋の風通しがつづく。
 昼食は、御代田の浅間サンライン沿いにあるそば屋「香りや」に行く。国道沿いの「追分そば茶屋」が閉店してしまって寂しい思いをしていたところ、叔母がこの夏この店に行ってみたところ値段も手ごろで美味しかったと言っていたので、出かけてみた。
 緑の田畑が広がる中に新しい木造の店舗が建っている。駐車場も草地でトンボが舞っていた。孫が喜びそうである(冒頭の写真と下の写真)。
   
   
     

 店の前にある駐車場が満車だったので奥の第2駐車場に止めた。30分くらい待たされるのではないかと恐るおそる入ってみたが、店内に10卓くらい、テラスに4、5卓くらいある客席には何卓か空きがあって、すぐに座ることができた。
 メニューはシンプル。定食の天ぷらそばは、普通の麺つゆ(+ゴマだれ)か、温かいつけ汁(きのこ入り)か、ぶっかけかの3種類。ぼくは普通の麺つゆ、家内は温かいつけ麺にしたが、どちらも美味しかった。とくにゴマだれが好かった。
 蕎麦は、同じ経営という発地市場内のそば屋の蕎麦と同じ。発地では数年前に一度だけ食べたことがあるが、お爺さんが一人で蕎麦打ちをしていて美味しかった。(発地店は)蕎麦がなくなり次第閉店とかで、その時は昼前に閉店してしまった。

 帰りに久しぶりに追分旧中山道沿いの「すみや」(看板は「寿美屋」)に立ち寄る。
   
   

 荒井輝允「軽井沢を青年が守った」だったか、橋本福夫「著作集」だったかによると、敗戦後に橋本らが追分を拠点に生活協同組合を立ち上げて、物品販売所を開いたのが追分の旅館「すみや」の軒先を借りてのことだったと書いてあった(一時は旧軽井沢にも進出した)。その「すみや」が現在の「すみや」だろうか。そうであってほしい。

 9月7日(土)、この日も天気が良くて帰るのはもったいなかったが、戸締りを済ませ、電気、ガス、水道の元栓を閉めて、午前10時すぎに軽井沢を出発する。
 帰りがけに門扉のチェーンを閉めていると、1軒お隣のご主人に声をかけられた。ぼくと同世代だろうか。お会いするのも、お話しするのも今回が初めてである。お聞きすると、奥様が亡父がかつて属した職場の元同僚だったという。世間は狭いものである。

 戻った東京はいまだ炎暑。持ち帰った大量の洗濯物があっという間に乾いた。

 2024年9月8日 記

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この夏の軽井沢・3(8月12日~17日)

2024年08月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月12日(月) 夕方、芦原伸「草軽電鉄物語」を読む。
 夜、図書館で借りてきたDVD「パブリックーー図書館の奇跡」(2020年、アメリカ)を見る。シンシナティ市立図書館はホームレスの人たちが暖をとる場になっていたが、市長が彼らを締め出して厳寒の屋外に排除しようとしたため、市長に反発したホームレスたちと図書館員が一緒になって戦うといったストーリー。画面からは屋外の厳寒さがあまり感じられなかった。

 8月13日(火) 曇り。午前中、<ツルハ>と<しまむら>に立ち寄ってから、図書館で本とDVDを返却。
 8月14日(水) 12時15分軽井沢駅着の新幹線で息子夫婦と孫2人の一家4人が到着。
 少し早めにプリンス・プラザに車をとめて、駅周辺を歩く。北口の駅と交番との間に、旧軽井沢駅舎が保存してあり、草軽電鉄のカブト虫型機関車(の模型?)も展示してあった。
 
   
   

 8月15日(木) 孫は軽井沢での虫採りを楽しみにしている。トンボが群舞する浅間台公園に出かけるが、放っておけば一日中でも虫取りに興じていそうである。
 この日は終戦記念日。孫とトンボ採りができる平和のありがたさをつくづく感じる。

 8月16日(金) この日息子一家は帰京の予定だったが、台風7号の影響で東京駅の混乱が予想されるというので、1日延期する。
 この日も、浅間台公園で虫採り。午前中はけっこう捕まったが、夕方に出かけたときはトンボはほとんどいなくなっていた。トンボを求めて大日向のレタス畑に出かけてみる。昨年までは一面レタス畑だったが、今年行ってみると一部でモロッコいんげんが栽培されていた。
 トンボは捕まらなかったが、浅間山が夕もやの彼方にうっすらと姿を見せていた(冒頭の写真)。
 ※ テレビ報道によると、昨日から上皇ご夫妻が軽井沢を訪問中で、きょう(24日)は大日向の「キャベツ畑」を訪問したと言っていた。あそこで作っているのはレタスではなくキャベツだったようだ。

   

 8月17日(土) 朝10時00分軽井沢駅発の新幹線で孫たちは帰京の途に。お盆期間の土曜日で軽井沢駅までの国道が渋滞する恐れがあるので、信濃追分駅に送り、しなの鉄道で軽井沢駅に行ってもらうことにする。9時37分信濃追分駅発のしなの鉄道に乗れば、10分で軽井沢駅に着く。
 追分駅には20分ほど早めに着いたが、駅前の小さな原っぱで孫は軽井沢最後の虫捕りをして時間をつぶす。

   
   

 孫たちを見送った後、われわれもゴミを出し、荷物を片づけて東京へ。明日18日には友人の四十九日の法要があるので、東京に戻らなければならない。
 下の写真は、帰り道の車窓からの<ケーヨーD2>。
   

 2024年8月24日 記

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この夏の軽井沢・2(8月7日~11日)

2024年08月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月7日(水) 午前中に給湯器の修理、15分ほどで完了。一安心。
 <しまむら>で衣類その他を買い、昼すぎ、借宿のガソリンスタンドで給油。

 8月8日(木) 午前中、中軽井沢図書館に行く。
 清永聡「家庭裁判所物語」、片山杜秀「見果てぬ日本」、芦原伸「草軽電鉄物語」の3冊と、高峰秀子主演「放浪記」(成瀬巳喜男監督)のDVDを借りる。
 上の写真は、中軽井沢駅前を出発するコミュニティ・バス。この夏の軽井沢では、黄緑色で小型のこのバスを各所で時おり見かけた。
 下の1枚目は「沓掛テラス」と呼ばれる中軽井沢駅舎。
 2枚目は、図書館の 2階から眺めた中軽井沢駅前の風景。中軽井沢駅前は、閉められたままの土産物店が寂しい。駅舎は立派になり人も集まるようになったが、駅前の風景も、西武(高原)バス案内所、タクシー会社、土産物店(沓掛時次郎饅頭!)などが並ぶ昭和の中軽井沢駅前を再現できないものか。
 3枚目は、駅前広場から眺めた離山。

   
   
   

 8月9日(木)
 清永聡「家庭裁判所物語」を読了。面白かった。

 8月10日(金) 午後、叔母宅のBBQに招かれる。
 夜、帰宅後に「放浪記」(DVD)を見る。高峰の演技はぼくには「?」だった。晩年の芙美子に金を無心する連中がいたとは。

 8月11日(日)
 片山杜秀「見果てぬ日本」を読む。
 夕方、浅間台公園から借宿東交差点まで散歩。
   

 国道18号から 100mほど離れた北側を、国道と並行して「御影用水」という疏水が流れている。
   
   
      

 下の写真は、散歩道から浅間山を眺めた景色。雲に隠れて頂上は見えない。
   
   

 借宿東交差点で国道18号に出て、次の借宿交差点にあるローソンに立ち寄って帰宅する。
 ※ 上の写真は18日に撮影したもの。

 2024年8月22日 記
 

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この夏の軽井沢・1(2024年8月4日~6日)

2024年08月21日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月3日(土)から8月17日(土)まで軽井沢に行ってきた。
 前半の1週間は好天に恵まれたが、後半の1週間は天気はいま一つで曇りの時間が多く、雨もよく降った。ただし軽井沢にしては暑い日が多かった。

 8月3日(土)、関越道下りの渋滞が収まった頃を見計らったつもりで午後に出発したのだが、関越道は坂戸西インターを先頭に21キロだったかの渋滞。それでも1時間半ちょっとで上里サービスエリアに到着。上信道はそれほど混んでなくて、1時間ほどで軽井沢に到着。 

 8月4日(日)は、<ツルヤ>と<ケーヨーD2>で食料品、日用品を買い込む。
 上の写真は、8月4日に<ケーヨーD2>の駐車場から眺めた軽井沢消防署の火の見やぐら。本当はその向こうに浅間山が見えるはずなのだが、残念ながら浅間山は雲に隠れていて見えない。今年は、浅間山の全景がはっきり見えることはほとんどなかった。
 下の写真は8月4日に、<ツルハ>の駐車場から眺めた南方の景色。すぐ下(南側)は<しまむら>の駐車場、国道軽井沢バイパスの向うは<ケーヨーD2>で、その更に向こうには、八ヶ岳の連なる峰々がうっすらと見えている。
 この夏は<ケーヨーD2 ><ツルハ><しまむら>にお世話になった。

 12、3年前に息子が衣類を入れたバッグを忘れて軽井沢に来てしまったため、トランクスを売っている店を探したが軽井沢には洋品店というものがほとんど無く、わずかに中軽駅踏切りの近くに学生服の店が1軒あるだけだった(上ノ原の<ジャスコ>には衣料品も置いてあったが、数年で閉店してしまった)。あちこち探し回って、ようやくプリンス・プラザの中にできたコンビニで売っているのを見つけて辛うじて入手することができた。そのことを思い出すと、<しまむら>はとくに有難い。
 これらの店は、いずれも国道やバイパスを通らないで行くことができる。わがB級軽井沢生活には大いに有りがたい存在である。

   

 8月5日(月)は発地(ほっち)にある町の塵芥処理場に粗大ごみを運ぶ。祖父母の代から放置されていたステレオ・セットその他を処分。
 下の写真は、8月5日の散歩の折りに見かけた鬼百合。花は散ってしまっていた。

       

 8月6日には給湯器がつかなくなってまった。施工した地元のガス会社に連絡すると、翌 7日には長野から製造元の修理業者が来てくれた。彼によると、点火プラグが壊れているとのこと。霧の多い軽井沢で一番よく起る故障だという。
 その8月6日の夕方、散歩で見かけたブッドレア。家内は以前にイギリスを旅行した時にブッドレアの花の咲きほこる庭を見て感動して以来、ブッドレアのファンになった。しかし、数年前にはいっぱいの花(?)が咲きほこっていたのに比べると、この夏の軽井沢のブッドレアは元気がない。

   

 夕食は国道18号、借宿交差点近くの<おらんち食堂>に行ってみる。通りかかるたびにいつも混んでいて気になっていた店である。午後 6時前に入ったが、6時半には満席になる。B級グルメの水準店といったら失礼だろうか。衣が少なくさっぱり揚がった揚げ物がいい。
 下の写真は、<おらんち食堂>のテーブル席から眺めたバイパスと浅間山。

       

 夜、川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私注」(都市出版)を読む。

 2024年8月21日 記

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軽井沢に行ってきた(2024年7月22日)

2024年07月26日 | 軽井沢・千ヶ滝

 
 7月22日(月)、午前9時すぎに軽井沢を出発。

 発地市場で野菜を買って、帰路につく。上の写真は、発地市場から眺めたこの日の浅間山。例の山肌のハートマークは少しぼんやりしていた。

 途中、横川SAに立ち寄って、孫の好物(実はぼくの好物)「峠の力餅」を買う。むかし、信越線を汽車で行っていた頃は熊ノ平駅で買っていたお土産である。今も碓氷峠の見晴台の売店でも売っている。
 写真は横川SAから眺めた妙義山。
 その妙義山のやや左方向(東側)の少し離れたところに、もう一つギザギザ頭の山が見えていた。むかし、「イレイザー・ヘッド」(Eraser Head)というバンドがあったけれど(今もあるかも)、あんな頭か。

   

   

 その後は暑くて写真を撮る元気は出なかった。

 2024年7月26日 記

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軽井沢に行ってきた(2024年7月20日~21日)

2024年07月25日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 軽井沢 2日目の7月20日は土曜日。この日も晴れて、軽井沢にしては暑い。

 午前中から、不要になった粗大ごみを塵芥処理場に持ち込む。数十年来使ってきた綿布団などを処分した。秋冬用の布団などがけっこう置いてあったのだが、もう冬場に来ることはないだろう。もし首都直下地震で東京の家が崩壊した時に備えて、最小限の毛布などは残しておくことにした。
 その後、国道18号沿いの<カインズ>に向かう。
 土曜の午前10時ともなれば、いつもであればもっと混雑しているはずなのに、道路はガラガラと言ってもいいほど空いていた。暑さのせいでみんな出歩くのを控えているのだろうか。渋滞を覚悟していたのに、対向車も後続車もなかったので、<カインズ>への右折も簡単だった。

     
   

 <カインズ>の次は、軽井沢バイパスに出て、<ケーヨーD2>で新しい布団類を買う。荷風なら「購う」か。
 駐車場から眺める浅間山の頂上には真っ白な夏雲がかかっていた。浅間山の反対方向(東側)に見える離山の上空にも夏の雲がたなびいている(上の写真)。

        
        
 
 この日の夜は、小津安二郎の「麦秋」(1951年、昭和26年)を見た(コスモ、DVD、上の写真)。
 昭和28年の「東京物語」では68歳の東山千栄子の夫を演じた笠智衆が、わずか2年前の「麦秋」では東山の息子役を演じている。「麦秋」の笠のほうが実年齢に近いのだろうが、改めて笠の役作りに凄みを感じた。「東京物語」の笠のキャスティングは誰の発案だったのか。
 「麦秋」は「東京物語」にもまして子役の演技が煩わしい。子どもが出てくるたびに早送りする。小津と共同で脚本を書いた野田高悟にも子どもがいなかったのだろうか。
 最後に原節子と結婚することになる二本柳寛は、北鎌倉駅のホームでマルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」を読んでいたり、ぼくの好きな役者の1人である。原の選択にも共感できる。公開された昭和26年当時、この映画に共感して子持ちの四十男と結婚した女性もいたのではないだろうか。
  
 翌7月21日(日)、本当は帰京する予定だったのだが、粗大ごみの片づけで疲れてしまったので、1日延期することにした。
 朝いち番で、久しぶりに中軽井沢駅踏切脇の<佐久農協軽井沢販売所>に行ってみた。
 発地市場ができてからはご無沙汰していたが、発地は混雑しているうえに、最近では東京に比べて格安というわけでもなくなってしまった。農協販売所も、20年以上前の、まだ「知る人ぞ知る」だったころは品数も豊富でお買い得の値段だったけれど、久しぶりに訪ねてみると並べられた野菜も少なく寂しくなってしまっていた。
 駐車場に車をとめている時に、しなの鉄道の踏切警報機が鳴り始めたので、スマホを構えて待っていると、小諸方面から電車がやって来た。六文銭列車というのだろうか、えんじ色の4両編成の電車が通過していった(上の写真)。
 何か「縁起物」でも拝んだような気持になった。

 2024年7月24日 記

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軽井沢に行ってきた(2024年7月19日)

2024年07月23日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 7月19日(金)から22日(月)まで、軽井沢へ行ってきた。
 この夏最初の軽井沢である。
 19日午前9時すぎ、炎暑の東京を出発して、途中上里SAで休憩して、12時すぎに軽井沢に到着。冒頭の写真は軽井沢バイパス沿いの軽井沢消防署の火の見やぐらごしに眺めた浅間山。

 昼食は、到着初日の定番でいつも通り、国道18号沿いの “追分そば茶屋” へ。
 ところが入口に「臨時休業」の立て看板が立っている。前回、5月に来たときにも同じ「臨時休業」の看板が立ててあった。定休日は毎週木曜だから、わざわざ木曜ではない日に来ているのだが・・・。
 どうも様子がおかしいと思い、車から降りてガラス戸に貼ってあった貼り紙を読んでみると、何と、「令和6年2月29日をもって閉店いたしました」とあるではないか。半年近く前に閉店してしまっていたのだ。
 “追分そば茶屋” までもが閉店してしまうとは、いよいよもって「ぼくの軽井沢」は幻影の彼方に遠ざかってしまうではないか。

   
   

 貼り紙には「開業から60年」とあった。
 あの店ができたのは、60年も前だったのか。ぼくの記憶が間違いでなければ、当初は「かぎもとや」の追分店を名のっていたはずだが、いつの頃からか “追分そば茶屋” で定着した。千ヶ滝に住むぼくとしては、わざわざ混雑する中軽井沢駅前の “かぎもとや” まで出かける必要がなくなり、近くに美味しいそば店ができたので大歓迎だった。
 たいていは天せいろを食べ、5月や9月の肌寒いような日には温かい天ぷらそばを食べた。息子は山菜そばが好物だった。

 夏休み中はいつも大繁盛していて、駐車場が満杯に近いことも度々あった。南側の広い窓からは遠くに八ヶ岳連峰の蒼い山肌が夏空に映えていた。店内ではアルバイトの女性たちが忙しく立ち働いていて、壁には皇室カレンダーが貼ってあった。
 何かのテレビ番組で、現在の天皇が皇太子だったか皇孫だった頃に食べに来たことがあったと紹介されていた。ぼくが一度だけ加藤周一を見かけたのもこの店の座敷席だった。
 一昨年だったか、閉店の4時近くに食べ終わって店を出たところ、ちょうど国道側の調理場から仕事を終えた店主らしい老人が出てきて「有り難うございました」と挨拶をしてくれた。あの方が仕事を続けることがきつくなったのだろうか。 
 どこでも個人事業の継承は難しいが、馴染の店がなくなってしまうのは寂しいことである。
 
 仕方なく(失礼)、中軽井沢駅前に移動して “かぎもとや” で天ざるを食べた。荷風なら「飯す」と書くだろう。
   

 昼食後は、軽井沢駅南口の軽井沢プリンスプラザ(?いまだに正式な店名を覚えられない)に出かける。目的は買い物ではなく、ウォーキング。
 軽井沢もこの日は29℃あって、東京ほどではないがそれでも歩くとさすがに暑い。暑くなったらエアコンの効いた店に入って、涼んでからまた歩く。
 離山の向うにわずかに浅間山と石尊山の頂を眺めることができた。
   

 夜は小津安二郎の「東京物語」(コスモ、DVD)を見た。
 川本三郎の講演会を聞いたり著書を読んだりして、小津映画(のロケーション)に与えた永井荷風の影響について知ったので、そのシーンも確認した。

   

   

 祖母(東山千栄子)が孫を連れて荒川放水路の土手に散歩に出かけ、孫に向かって「あんたもお父さんみたいにお医者さんになるのかい」と話しかけるが、孫は何の返事もしない。祖母は「あんたがお医者さんになるころまで、おばあちゃんはおられるだろうか」と独り言をいう(不吉な予感)。
 この長男(山村聰)の家の孫二人は、上京してきた祖父母に悪態をついたりして、見苦しい。そんな子どもに育つような家庭(母親は三宅邦子)には描かれていないのだが。小津の映画に出てくる子どもはどれも好感が持てない。

 2024年7月23日 記

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「消えゆく草軽電鉄」(東芝レコード)

2024年06月24日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 「消えゆく草軽電鉄」(浜本幸之=発行、企画=河野隆次、監修=加藤いずみ、東芝レコード4RS-374、非売品)というレコードが手元にある。
 そのジャケットには「軽井沢叢書 草軽電鉄五拾年誌・付録」と書いてある。このレコードの発行者は「軽井沢書林・浜本幸之」となっているが、レコード自体は非売品とある。この「草軽電鉄五拾年誌」という本には、レコードの他に実際に使用されていた切符も1枚付属していた。

 レコードのA面は「高原を往く」と題され、発車、上り坂のモーター音、レールのきしみ、ノッチをあげてノックする音、平坦路、ポイント通過、ブレーキ音、停車の音が収録されているらしい。久しく聞いていないが、やたらギーギーとうるさかった記憶がある。(6分33秒)。
 B面は「さみしい山の駅」と題され、ポイント切り替え、列車の到着、機関車の通過、列車交換、ポイント切り替えの音が収録されているらしい(6分25秒)。B面もその昔聞いたはずだが、まったく記憶にない。 
 録音は営業終了間近(昭和37年か)の3月に収録されたとジャケットの解説に書いてある。こんな文章をジャケットから転記していたら、レコードを聞きたくなってきた。

 以前平安堂書店の軽井沢店(国道沿いのマツヤの隣り)で、草軽電車のDVDを売っていたが、1万円近かったので買わなかった。草軽電車の動く姿は、木下恵介監督の「カルメン故郷に帰る」でふんだんに見ることができる。確か500円くらいのDVDだったはずである。
 ※ このレコードについては、昨日(2024年6月23日)の書き込み以前にも書いた。2006年3月3日付の「想い出の草軽電鉄」である。このレコードのジャケットは、一般的なドーナツ盤のジャケットのような正方形ではなく、実際はやや長方形である。 

 2024年6月24日 記

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浜本幸之「草軽電鉄五拾年誌」

2024年06月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 浜本幸之「草軽電鉄五拾年誌」(軽井沢書林、昭和48年、発売=軽井沢新聞社)限定500部の105番、定価2500円。
 「消えゆく草軽電鉄」(発行=浜本幸之、東芝レコード4RS-374、非売品)というレコードと、草軽電車の実際に使われていた切符(硬券)が1枚付属していたが、切符は失くしてしまった。

 これは五反田の古書展の目録で見つけて購入した。
 入札日に、「当選しました」と連絡があったので、わざわざ五反田の会場まで取りに行ったら、店員が「連絡の手違いで落選でした」という。きっと抽籤に外れた購入希望者がゴリ押ししたのだろう。頭にきたので、「それなら別の店で購入するので、その差額と交通費を弁償しろ」と言ったところ、応対した店員が裏に引っこんで、しばらく待っていたら出てきて、「あなたにお売りします」という。ふざけた古本屋ではないか。40年以上昔の話だが、今でも思い出すと腹が立つ。
 こんな次第でやっと手に入れた本である。その後、「日本の古本屋」や「アマゾン」でも一切見かけない。レコードともども、相当レアの部類に入る本といえるだろう。

   

 本文53頁の簡単な本だが、和綴じ本で、全文毛筆で手書き(の印刷)のうえ、モノクロの写真も多数掲載されている(上の写真)。
 大正4年の草津軽便鉄道の軽井沢―小瀬温泉間の営業開始から、昭和35年4月の草軽電気鉄道会社の軽井沢ー上州三原間の営業廃止、昭和37年の全線(上州三原ー北軽井沢間)の営業廃止までの約50年間の草津電鉄の歴史が語られる。
 ※ ある年の夏休みに旧軽井沢に行ったら、前年の夏休みには走っていた草軽電車が忽然となくなってしまっていたのは、ぼくが小学校5年生だった昭和35年(1960年)の夏のことだったのだ。
 草軽電鉄ではトンネルを作らない方針だったため、傾斜25度の急勾配に苦労したこと、冬の雪、夏の台風や落雷の苦労、皇族用の特別列車やハンセン病患者用のベッド付き列車のこと(草津にはハンセン病の治療施設があった)、はては当時からいた銅線泥棒との対決など知らなかった話題も多い。

     

 この本も旧友の息子のS君にあげようと思っていたが、ネットで調べると、この「草軽電鉄五拾年誌」は軽井沢図書館にも所蔵されていないらしい。沓掛テラスの中軽井沢図書館なら、見たい時に見に行くことができるから寄贈してもいいという気がしてきた。軽井沢にゆかりの深い本なので、もう暫らくはぼくが閲覧可能なところに置いておきたい。
 「鉄オタ」だというS君には、代わりに「写真集・草軽電鉄の詩ーー懐かしき軽井沢の高原列車」(郷土出版社、改訂版=1995年)で勘弁してもらおう。この本は2冊持っているので。改訂版は間違いなく神田神保町の篠村書店で古本を買ったのだが、新装版が出たので軽井沢の平安堂書店で買った(上の写真)。
 ※ 「草軽電鉄の詩」のことは、2006年12月21日(旧版について)、2008年8月5日、同年9月18日(新装版について)の3回にわたって「豆豆」に書き込んである。

 2024年6月22日 記 
                   

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軽井沢に行ってきた(2024年5月18〜19日)

2024年05月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 5月18日(土)も快晴、気温は昨日と同じ23℃で、気持ちがよい。

 午前中から旧軽井沢に出かける。いつも通り、水車の道沿いの神宮寺に駐車。
 昭和30年代の終わり頃に、毎年夏休みをこの寺の宿坊で過ごす友人に亡父が会いに行っていた懐かしい寺である。2、3年前に読んだ堀辰雄や川端康成「高原」にも、この寺に隣接する藤屋旅館が登場していたので、それからは、堀や川端の姿も懐かしさの中に加わった。
 本堂は新しくなったようでかつての面影はないが、境内の樹齢400年という枝垂れ桜や木立がかつてを思い出させてくれる。堀も川端もこれらの木々を眺めたのだろう。堀が友人にあてた葉書にはここの桜のことが書いてあった。駐車料金はお布施のつもりである。

   

 つるや旅館の手前の路地を入ったところにある「デリカテッセン」の向かいにある花屋さんの店先を借りて、万平ホテルのアップルパイを販売しているという記事を読んだので行って見たが、連休中だけの臨時営業だったようで、花屋さんは閉まっていた。
 上の写真は、その「デリカテッセン」。創業1980年(?)と壁面に書いてあったので、1960年代の旧軽井沢にあった「デリカテッセン」とは別の店なのだろう。現在の店名が “Delicatessen” という英語なのに対して、昔あったデリカテッセンの看板はドイツ語の “Delikatessen” で、店も本通りに面していたように思う。それにしても、まったく関係がないのか聞いてみたい気がしている。

 旧軽井沢通り(本通り)をそぞろ歩いたが、旧道もかつての賑わいはなく、「貸店舗」の掲示が貼ってある空き店舗も目立つ。物産館は建物もなくなってしまい、大城レース店の旧店舗はシートがかかって改装中だった。三笠会館はどの辺にあったのかすら分からなくなってしまった。
 正午を過ぎたので、浅野屋で昼食をとることにした。
 満席だったが、幸い一組が席を立ったので、ほどなく席につくことができた。ランチのメニューは3つのみ、サービスも若い男性1人だけで、注文、食器の片づけはセルフサービスになっていた。三笠会館は最後までブラック・スーツの年配の男性2人でサービスをしていたが、結局軽井沢から撤退してしまった。浅野屋のような形ででも持続してくれたほうがよかったのに。
 ぼくは、信州産鶏のトマト煮込み、野菜添えを注文。パンは食べ放題だが、われわれの胃ではおかわりは無理だった。ドリンクがついて2180円は、昨今の値上げの時代にあってはリーズナブルだろう。
   
   

 観光会館に立ち寄って、今年の軽井沢のカレンダーとポスターをゲット。冒頭の写真は観光会館の正面。かつては郵便局の建物だった。ここの館内は夏でもひんやりしていて涼しい。

 神宮寺を出て、鹿島の森、雲場の池、六本辻、離山を経由して(スコルピオーネの跡地は何とか温泉になっていた!)、中軽井沢駅前から国道146号に右折して、かつての西武百貨店軽井沢店の手前のスケートセンター、テニスコート跡地を曲って、セゾン美術館、立教女学院キャンプ場を通って帰宅。
 そう言えば、軽井沢新聞5月号に、千ヶ滝温泉ホテル跡地など約22ヘクタールを、西武と野村不動産が大規模開発するという記事が載っていた。2029年の完成を目ざすというが、開発の中味は未定とのこと。どうなるのか心配だが、リゾートマンションなどが建たないといいのだが・・・。
 できればスケート場を作ってほしい。赤坂サカスや、日比谷シティのスケートリンク程度でもいいのだが。それと、西武百貨店軽井沢店も昭和の姿のままに再建を願う。
 記事の見出しには「千ヶ滝温泉ホテル跡地」と書いてあり、ぼくも学生時代に千ヶ滝温泉ホテルにアイスホッケーの合宿で泊ったことはあるが、あの辺りは「軽井沢スケートセンター跡地」と言うべき場所ではないか。

 夕方から散歩に出かける。
 浅間山の夕景がきれいだったので、浅間台公園から大日向神社にむかって坂道を上る。途中で、ISAC(軽井沢インターナショナル・スクール?)の生徒らしい2人組の女の子と、1人歩きの男の子に出会う。ともに外国人のようだったが、女の子たちは「こんにちわ」と声をかけてくれ、男の子は軽く会釈をしてくれた。

   
   

 翌5月19日(日)、午前9時過ぎに東京に向けて出発。渋滞を避けるために、たいていは土曜か日曜の午前中に軽井沢を出発して帰宅することにしている。
 発地(ほっち)市場に立ち寄って野菜を眺めるが、家内の話では東京とほとんど値段は変わらないという。ブロッコリーなどは東京よりも高いという。そのせいか、土曜日の午前というのに人影は少なかった。

 風越公園の交差点を右折して、碓氷軽井沢インターに向かう途中の道沿いに(地図には「女街道」と書いてあるのと「下仁田街道」と書いてあるのがあった)、「モミの木」という洋菓子店があることを知った(下の写真)。
 軽井沢の不動産屋が出しているパンフレットに紹介が載っていて、ここのオーナーは元は東京のヴィクトリアで修業し、夏は旧軽井沢の店舗に勤務していたとあった。軽井沢のヴィクトリアは、あの、「レイホホ レイホホ レ イッ ホ~ ♪」とヨーデルを流しながら千ヶ滝を販売車がまわっていた懐かしい洋菓子店である。

     
 
 ご夫婦でやっているようで、ご主人も厨房(?)から出てきて、しばし昔話に花が咲いた。ヴィクトリアから独立した後は高崎で洋菓子店をやっておられ、最近高崎の店は息子さんに任せて、軽井沢で開店されたとのこと。
 旧軽井沢の旧道入口手前、草軽電鉄の旧軽井沢駅前にあったヴィクトリアのこと、千ヶ滝の西武百貨店にも出店していたこと(そういわれてみると確かに西武の中にもあったのを思い出した)、西武百貨店の入口近くには島津貴子さんプロデュースのPISAのコーナーがあったこと、高崎観音の川向かいの小高い丘の上にあったドライブインや、安中でヤナセがやっていたピラミッド型のドライブインなど、しばし共通の思い出話で盛り上がった。
 ヴィクトリア時代からの定番だというバナナのパイと、イチゴのタルトを買って帰る。値段もリーズナブルで、美味しかった。

 途中横川の荻野やに立ち寄って、孫の好物の力餅も買って帰ったのだった。

 2024年5月20日 記

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