豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

J・W・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本」

2024年07月31日 | 本と雑誌
 
 J・ウォーリー・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本(正・続)」(光文社新書、2018、19年)を眺めた。川本三郎の「東京抒情」に紹介されていたので、興味をもった本である。
 著者(撮影者)は、アメリカ軍の軍属として1956年に来日し、帰国した後1960年に再来日して日本の鉄道写真を撮りまくった自称「乗り鉄で撮り鉄」である。すべてがカラー写真というのが当時としては珍しかったようだ。著者は父母双方の祖父が鉄道関係者だったことから子どもの頃から鉄道に興味をもっていたという。
 新書版なので写真が小さく、画像がやや劣化した写真もあるが、いくつか懐かしい場面に出会えた。

 信濃町駅前の写真(1964年)には、北口側の駅前に「高級果実」の看板があって、丸正のマークが見える。ぼくが須賀町の出版社に勤めていた頃にもこの果物店があったことを思い出した。向かいの慶応病院の見舞客を当てこんでいたのだろう。
 神田須田町は、ぼくの数少ない路地歩きの行先の一つだったが、須田町電停は都電38系統の終点だったそうだ(73頁)。川本の「東京抒情」によれば須田町界隈は空襲を免れたというから、昭和レトロの懐かしい建物が多く残っていたのだろう。
 六本木の交差点に向かって溜池から登ってくる都電の背景には、高層ビルもなく秋の青空が広がっている(1964年、92頁)。高層ビルに遮られてしまって、あんな空の広さは今はもうない。
 青山墓地の中を走る都電7系統の両脇は草むらである。1956年には都電は青山墓地の中を通っていたという。最近の青山界隈からは想像もできないのどかな田園風景である(99頁)。
 東横線の学芸大学駅の写真もあった。1963年の東横線は学芸大学駅では地面を走っている(113頁)。ぼくが大学に入学した1969年頃にも、祐天寺駅から都立大学駅の手前まではまだ地面を走っていた。ある年の夏休みが明けて登校したら、突然に東横線が高架を走るようになっていて、車窓の眺めの良いことに感動した。以前にも書いたが、たしか1970年か1971年の9月に高架になったと思う。

 三軒茶屋の分岐点を曲がって下高井戸に向かう玉電の「イモムシ」も写っている(1964年、115頁)。クリーム色と黄緑色のツートンカラーのボディのあの車体である。
 豪徳寺付近を走るこげ茶色の4両編成の小田急線の写真がある(1956年、続102頁)。ここも線路の両脇は一面田んぼか草むらである。どの辺だろうか。1956年はぼくが赤堤小学校に入学した年だが、赤小の正門前(東側)は一面の畑で、玉ねぎなどが植えられていた。しかし小田急線の豪徳寺近くの沿線に畑があった記憶はない。梅ヶ丘駅よりにはこんな光景もあったのだろうか。
 さらに、1958年の小田急線豪徳寺駅付近の写真では、ガード上を走る小田急のロマンスカーと、ガード下に玉電山下駅にとまる玉電のイモムシのツーショットが見られる(続103頁)。  
 この2枚が、ぼくの世田谷の幼年時代を象徴するベストショットか。

 2024年7月29日 記

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川本三郎「東京抒情」

2024年07月26日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「東京抒情」(春秋社、2015年)を読んだ。

 本書は、「東京」をテーマにした「東京本」や、「東京人」をテーマにした「東京人」ものを川本が読みときながら、失われてしまった「東京」の残像を求めて川本自身が歩いて、彼自身の「東京」論を書き記した随筆集である。
 第1部「ノスタルジー都市 東京」、第2部「残影を探して」、第3部「文学、映画、ここにあり」(第3部は「小説、映画に描かれた東京」といった内容)から構成されるが、いずれも川本の東京ノスタルジック・ジャーニーである。

 東京は工業都市だったという指摘(34頁)は、ぼくの記憶とも一致する。
 荷風が愛し、川本が愛する東京の下町ということで、ぼくが最初に思い出すのは江東区で発生した六価クロム公害事件である。六価クロムがどんな物質かは分からないが、クロムというからメッキなどと関係がある町工場から排出された有害物質ではないだろうか。
 工業都市には当然労働者が多く住んでいた。学生時代、夕方の退け時の東横線車内で友人と教師の悪口を喋っていたところ、武蔵小杉(東京ではないか?)から乗ってきた労働者風の乗客に「偉そうな口をきくのはテメエで稼いでからにしろ!」と怒鳴られてしまった。当時の武蔵小杉は小さな工場が立ち並ぶ工場地帯だった。生意気な学生の物言いが不愉快だったのだろう。

 鉄道の「頭端駅」という言葉ははじめて知った。終着駅、ターミナル駅の意味だそうだ。東急世田谷線では三軒茶屋が「頭端駅」とあるが(48頁)、ぼくの玉電の「頭端」は、一方は渋谷駅、反対側は下高井戸か二子玉川で、三軒茶屋は分岐点にすぎなかった。
 聖蹟桜ヶ丘駅ホームが高架になったのは1969年だったというのも(83頁)、ぼくの思い出と合致する。聖蹟桜ヶ丘駅近くの老人施設に入っていた祖母が亡くなったのは、ぼくが19歳のまさに1969年だった。祖母を看取った帰りに、伯父を聖蹟桜ヶ丘駅まで車で送った。駅前にとめた車の中から見守っていると、しばらくして伯父が高架のホームに姿を現した。「秋刀魚の味」の石川台駅ホームの吉田輝雄のように、高架ホームに佇む伯父の映像が今でもありありと浮かぶ。

 神田は古本屋だけの町ではなく、印刷所の町でもあったと川本は書く(151頁~)。神田が印刷所の町だったことをぼくは知らなかったが、神田は実は1万人以上の中国人が集まる中華街でもあった。孫文、魯迅、周恩来、蒋介石らが留学生活を送った神保町には孫文や周恩来の行きつけだった中華料理屋があり(漢陽楼)、周恩来の記念碑もある(愛全公園)。
 板橋の章では、小豆沢(あずさわ)がカメラやフィルムメーカーの町として紹介されているが(165頁)、小豆沢こそ印刷所の町だろう。中山道の小豆沢交差点には凸版印刷があり、近所には小さな印刷所や製本所がいくつもあった。ぼくが出版社に就職した1974年には、凸版印刷ではすでにコンピュータ製版が導入されつつあったが、活字印刷の印刷所も残っていた。
 入社直後のぼくは研修のため、志村坂上にあった東洋印刷という印刷所で、活字の鋳造から植字、文撰、版組み、印刷といった活字印刷のプロセスを見学させてもらった。東洋印刷は平凡社の東洋文庫などの印刷も手掛けていて、旧字体の多く含まれる書籍の印刷はここに発注した。わが社の執筆者の中に、名前の「亀」の文字を略字(新字体)にすることを許さない筆者がいたため、様々な大きさの「亀」の旧字体の活字が用意してあった。

 西武池袋線の池袋駅と椎名町駅の間に「上り屋敷駅」(あがりやしき)という駅があったというのも驚いた(173頁)。西武線は池袋駅の手前、山手線の線路を跨いだ所から大きく左折して池袋駅に向かってけっこう進む。もしこの左折する所に駅があったら、池袋駅の雑踏を避けてここで降りて目白駅に向かうことができるのに、といつも思っていた。それがなんと昭和28年だったかまではこの近くに駅があったらしい。ぜひ復活してほしいけれど、無理だろう。
 ぼくを映画に誘った飯島正「映画の話」(日本児童文庫)を出版したアルスの社長は北原白秋の弟で、林芙美子が社長宅の女中をしていたというエピソードもあった(204頁)。亡父はアルスから本を出したが、同社が倒産したために印税を払ってもらえなかったと言っていた。
 五木寛之「風に吹かれて」に昭和30年頃の中野駅のことが出てくるとあった(207頁)。中野駅北口にも思い出はあるが、今はやめておこう。線路沿いの小学校の西向かいのアパートは今でもあるだろうか。
 荒木町界隈の話題も懐かしい(261頁)。ぼくの勤めていた出版社は新宿区須賀町にあり、昼食をとりに四谷三丁目や荒木町界隈の食べ物屋にしばしば出かけた。戦争前に余丁町に住んでいたぼくの伯母は、「荒木町の角の三味線屋の飾り窓の畳の上に生きた猫が置物みたいに座っていた」と言っていた。確かぼくの編集者時代(1970年代中頃)にもこの三味線屋はあったように記憶する(猫はいなかった)。それ以外に三業地の名残りは見かけなかったが、消防署近くのビルの一室で怪しげなことをやっているという噂を聞いたことがあった。

 関東大震災の際に、芥川龍之介は家族を守ったようなことを書いているが、実際には家族を残して一人でさっさと逃げ出したと奥さんが暴露しているという(179頁)。これだから物書きが書いたものは信用できない。
 司馬遼太郎、吉村昭の話はスルー。

 本書を出版した春秋社は、ぼくにとって思い出深い出版社である。というのは、学生時代に当時絶版になっていた田中耕太郎「世界法の理論」(岩波書店)を読みたいと思って探したところ、春秋社の在庫目録の残部僅少コーナーにこの本が載っていたのを見つけた。春秋社からは「田中耕太郎著作集」が出ていて、その中に「世界法の理論」(全3巻)も入っていたのである。
 さっそくぼくはこの本を買いに出かけた。春秋社は、たしか御茶ノ水駅北口の東京医科歯科大学の近くにあったように記憶する。小じんまりとした二階建ての和風の社屋で、受付机の向う側には畳が敷いてあった。応対に出た社員が「これが最後の一冊です」と言っていた。
 その後田中には興味がなくなってしまい、結局この本は読まないまま放置してあったが、その時に買った「商法学の特殊問題」と一緒に後輩の商法研究者にあげてしまった。

 ※ 53頁6行目の「まわりと」は「まわりを」だろう。もう1か所、どこかで有楽町の「交通会館」が「交通公館」となっているところがあった。

 2024年7月26日 記

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軽井沢に行ってきた(2024年7月22日)

2024年07月26日 | 軽井沢・千ヶ滝

 
 7月22日(月)、午前9時すぎに軽井沢を出発。

 発地市場で野菜を買って、帰路につく。上の写真は、発地市場から眺めたこの日の浅間山。例の山肌のハートマークは少しぼんやりしていた。

 途中、横川SAに立ち寄って、孫の好物(実はぼくの好物)「峠の力餅」を買う。むかし、信越線を汽車で行っていた頃は熊ノ平駅で買っていたお土産である。今も碓氷峠の見晴台の売店でも売っている。
 写真は横川SAから眺めた妙義山。
 その妙義山のやや左方向(東側)の少し離れたところに、もう一つギザギザ頭の山が見えていた。むかし、「イレイザー・ヘッド」(Eraser Head)というバンドがあったけれど(今もあるかも)、あんな頭か。

   

   

 その後は暑くて写真を撮る元気は出なかった。

 2024年7月26日 記

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軽井沢に行ってきた(2024年7月20日~21日)

2024年07月25日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 軽井沢 2日目の7月20日は土曜日。この日も晴れて、軽井沢にしては暑い。

 午前中から、不要になった粗大ごみを塵芥処理場に持ち込む。数十年来使ってきた綿布団などを処分した。秋冬用の布団などがけっこう置いてあったのだが、もう冬場に来ることはないだろう。もし首都直下地震で東京の家が崩壊した時に備えて、最小限の毛布などは残しておくことにした。
 その後、国道18号沿いの<カインズ>に向かう。
 土曜の午前10時ともなれば、いつもであればもっと混雑しているはずなのに、道路はガラガラと言ってもいいほど空いていた。暑さのせいでみんな出歩くのを控えているのだろうか。渋滞を覚悟していたのに、対向車も後続車もなかったので、<カインズ>への右折も簡単だった。

     
   

 <カインズ>の次は、軽井沢バイパスに出て、<ケーヨーD2>で新しい布団類を買う。荷風なら「購う」か。
 駐車場から眺める浅間山の頂上には真っ白な夏雲がかかっていた。浅間山の反対方向(東側)に見える離山の上空にも夏の雲がたなびいている(上の写真)。

        
        
 
 この日の夜は、小津安二郎の「麦秋」(1951年、昭和26年)を見た(コスモ、DVD、上の写真)。
 昭和28年の「東京物語」では68歳の東山千栄子の夫を演じた笠智衆が、わずか2年前の「麦秋」では東山の息子役を演じている。「麦秋」の笠のほうが実年齢に近いのだろうが、改めて笠の役作りに凄みを感じた。「東京物語」の笠のキャスティングは誰の発案だったのか。
 「麦秋」は「東京物語」にもまして子役の演技が煩わしい。子どもが出てくるたびに早送りする。小津と共同で脚本を書いた野田高悟にも子どもがいなかったのだろうか。
 最後に原節子と結婚することになる二本柳寛は、北鎌倉駅のホームでマルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」を読んでいたり、ぼくの好きな役者の1人である。原の選択にも共感できる。公開された昭和26年当時、この映画に共感して子持ちの四十男と結婚した女性もいたのではないだろうか。
  
 翌7月21日(日)、本当は帰京する予定だったのだが、粗大ごみの片づけで疲れてしまったので、1日延期することにした。
 朝いち番で、久しぶりに中軽井沢駅踏切脇の<佐久農協軽井沢販売所>に行ってみた。
 発地市場ができてからはご無沙汰していたが、発地は混雑しているうえに、最近では東京に比べて格安というわけでもなくなってしまった。農協販売所も、20年以上前の、まだ「知る人ぞ知る」だったころは品数も豊富でお買い得の値段だったけれど、久しぶりに訪ねてみると並べられた野菜も少なく寂しくなってしまっていた。
 駐車場に車をとめている時に、しなの鉄道の踏切警報機が鳴り始めたので、スマホを構えて待っていると、小諸方面から電車がやって来た。六文銭列車というのだろうか、えんじ色の4両編成の電車が通過していった(上の写真)。
 何か「縁起物」でも拝んだような気持になった。

 2024年7月24日 記

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軽井沢に行ってきた(2024年7月19日)

2024年07月23日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 7月19日(金)から22日(月)まで、軽井沢へ行ってきた。
 この夏最初の軽井沢である。
 19日午前9時すぎ、炎暑の東京を出発して、途中上里SAで休憩して、12時すぎに軽井沢に到着。冒頭の写真は軽井沢バイパス沿いの軽井沢消防署の火の見やぐらごしに眺めた浅間山。

 昼食は、到着初日の定番でいつも通り、国道18号沿いの “追分そば茶屋” へ。
 ところが入口に「臨時休業」の立て看板が立っている。前回、5月に来たときにも同じ「臨時休業」の看板が立ててあった。定休日は毎週木曜だから、わざわざ木曜ではない日に来ているのだが・・・。
 どうも様子がおかしいと思い、車から降りてガラス戸に貼ってあった貼り紙を読んでみると、何と、「令和6年2月29日をもって閉店いたしました」とあるではないか。半年近く前に閉店してしまっていたのだ。
 “追分そば茶屋” までもが閉店してしまうとは、いよいよもって「ぼくの軽井沢」は幻影の彼方に遠ざかってしまうではないか。

   
   

 貼り紙には「開業から60年」とあった。
 あの店ができたのは、60年も前だったのか。ぼくの記憶が間違いでなければ、当初は「かぎもとや」の追分店を名のっていたはずだが、いつの頃からか “追分そば茶屋” で定着した。千ヶ滝に住むぼくとしては、わざわざ混雑する中軽井沢駅前の “かぎもとや” まで出かける必要がなくなり、近くに美味しいそば店ができたので大歓迎だった。
 たいていは天せいろを食べ、5月や9月の肌寒いような日には温かい天ぷらそばを食べた。息子は山菜そばが好物だった。

 夏休み中はいつも大繁盛していて、駐車場が満杯に近いことも度々あった。南側の広い窓からは遠くに八ヶ岳連峰の蒼い山肌が夏空に映えていた。店内ではアルバイトの女性たちが忙しく立ち働いていて、壁には皇室カレンダーが貼ってあった。
 何かのテレビ番組で、現在の天皇が皇太子だったか皇孫だった頃に食べに来たことがあったと紹介されていた。ぼくが一度だけ加藤周一を見かけたのもこの店の座敷席だった。
 一昨年だったか、閉店の4時近くに食べ終わって店を出たところ、ちょうど国道側の調理場から仕事を終えた店主らしい老人が出てきて「有り難うございました」と挨拶をしてくれた。あの方が仕事を続けることがきつくなったのだろうか。 
 どこでも個人事業の継承は難しいが、馴染の店がなくなってしまうのは寂しいことである。
 
 仕方なく(失礼)、中軽井沢駅前に移動して “かぎもとや” で天ざるを食べた。荷風なら「飯す」と書くだろう。
   

 昼食後は、軽井沢駅南口の軽井沢プリンスプラザ(?いまだに正式な店名を覚えられない)に出かける。目的は買い物ではなく、ウォーキング。
 軽井沢もこの日は29℃あって、東京ほどではないがそれでも歩くとさすがに暑い。暑くなったらエアコンの効いた店に入って、涼んでからまた歩く。
 離山の向うにわずかに浅間山と石尊山の頂を眺めることができた。
   

 夜は小津安二郎の「東京物語」(コスモ、DVD)を見た。
 川本三郎の講演会を聞いたり著書を読んだりして、小津映画(のロケーション)に与えた永井荷風の影響について知ったので、そのシーンも確認した。

   

   

 祖母(東山千栄子)が孫を連れて荒川放水路の土手に散歩に出かけ、孫に向かって「あんたもお父さんみたいにお医者さんになるのかい」と話しかけるが、孫は何の返事もしない。祖母は「あんたがお医者さんになるころまで、おばあちゃんはおられるだろうか」と独り言をいう(不吉な予感)。
 この長男(山村聰)の家の孫二人は、上京してきた祖父母に悪態をついたりして、見苦しい。そんな子どもに育つような家庭(母親は三宅邦子)には描かれていないのだが。小津の映画に出てくる子どもはどれも好感が持てない。

 2024年7月23日 記

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川本三郎「いまも、君を想う」

2024年07月15日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「いまも、君を想う」(新潮社、2010年)を読んだ。

 川本が、2008年6月に57歳の若さで亡くなった妻への哀惜を綴った文章を収める。
 記者時代の川本が、大学紛争の取材で訪れた武蔵野美大で彼女を見初めて婚約したが、その後川本は公安事件で新聞社を退職する。それでも彼女は川本と結婚し、筆1本で立つことを決意した夫を支えつづけ、やがて彼女自身も服飾関係のライターとなったという。服飾関係に疎いぼくは知らなかったが、家内は川本恵子さんの名前を知っていると言う。

 二人の思い出が切々と語られるが、話題はニューヨーク、台湾、国内の旅行、映画の思い出から、川本の服飾センス、食べ物や食べ物屋の好みなどにまで及んでいる。
 舞台は川本得意の下町ではなく、三鷹、吉祥寺、井の頭公園、善福寺公園、浜田山、それに彼女が闘病生活を送った順天堂病院(御茶ノ水)など、ぼくにも比較的なじみのある場所だったので、光景を想像しながら読むことができた。

 本書の文章の中で、1944年生れの川本と1951年生れの妻の共通の話題としてテレビドラマの「ホームラン教室」と「少年探偵団」のことが語られていた。この番組はぼくにも思い出がある。
 小柳徹主演の「ホームラン教室」の主題歌の「ツー・ストライク、ノー・ボール・・・」というピンチの場面の歌詞への共感を書いていたが、ぼくは「ノーダン・満塁、そら、チャンス・・・」という歌詞のほうが記憶にある。「少年探偵団」も「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団・・・」の思い出が語られていたが、ぼくの記憶では「轟く、轟く、あの足音は・・・」という歌詞で始まる別番組の「少年探偵団」もあった。

 その昔、妻の三益愛子に先立たれた川口松太郎が「愛子恋しや」というエッセイの中で、「夫婦は絶対に夫が先に死ななければならない」と書いていたのを今でも覚えている。夫を亡くした吉川英治と谷崎潤一郎の未亡人が二人で元気に歌舞伎座だかに来ているところに出会った川口が上のような言葉を吐いたのである。
 当時の夫婦は妻が夫より数歳から10歳くらい若いのが一般的だったから、妻に先立たれる夫は少数派だっただろうが、若くて未婚だった当時のぼくには川口のこの言葉が印象に残った。

 川本は終章近くで、同じく妻に先立たれた「映画評論家の大先輩」飯島正の短歌への共感を記している。
 飯島正はぼくが映画に関する文章を読んだ最初の筆者である。子どもの頃、アルス少年文庫というシリーズのなかに、飯島正「映画の話」という巻があった。「自転車泥棒」のスチール写真を交えながら映画の見方を子どもに向けて解説していたのだと思う。申し訳ないことに飯島の文章はまったく記憶にないのだが、「自転車泥棒」のスチール写真は今でも覚えている。1ページに2、3枚の写真が載っていて、数行のキャプションがついていた(と思う)。
 最近では飯島の名前をほとんど見かけなくなったが、懐かしい名前に出会った。

 それにしても、これほどの愛妻家が何ゆえに、あれほど足繁く娼家に通い、愛人(?)を何度も取りかえる荷風のような作家を愛せるのかがぼくには分からなかった。本書を読んで、その謎はますます深まった。
 変な男に買われるよりは荷風のほうがマシだとでも言うのだろうか。

 2024年7月15日 記

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川本三郎(講演会)「永井荷風を読む楽しみ」

2024年07月14日 | 本と雑誌
 
 きょう(7月13日、土曜)午後2時から(4時半まで)、川本三郎さんの講演会「荷風を読む楽しみ」を聞きに行ってきた。
 場所は武蔵境駅前にある武蔵野市スイングホール11階、レインボーサロン。「本を楽しもう会」という団体の主催で、同会に携わっている中学高校時代の旧友から誘われて出かけてきた。
 東京の気温は30℃くらい、酷暑というほどではなく雨も降らなかったので助かった。参加者は100人かくらいだろうか、男性の老人が多かったが、女性も結構いた。荷風ファンというより川本ファンなのではないか。

 川本さんの著書は「朝日のようにさわやかに」「『同時代』を生きる気分」から「シネマ裏通り」「町を歩いて映画の中へ」など若い頃にかなり読んだが、「雑!エンタテイメント」「走れ!ナフタリン少年」で川本はもう卒業という気分になって、その後は「向田邦子と昭和の東京」「郊外の文学誌」を読んだだけだった。
 しかし、今回の講演会に誘われたので、予習しておこうとまずはテーマの永井荷風「断腸亭日乗」を「摘録」で読んだ(岩波文庫)。そして、荷風に関する川本の最近の著作「荷風好日」「荷風語録」「老いの荷風」など数冊を図書館で借りてきて読んだ。「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)は古書店で購入したがまだ読んでいない。
 そんな川本さんご本人にお会いするのは今日が初めて。作家の講演会に参加するというのもおそらく初めての経験ではないかと思う。それこそ一期一会と思って出かけてきた。

 最寄駅である中央線武蔵境駅の変貌ぶりに驚いた。
 下の息子がICUに通っていたので何度か近くをクルマで通ったことはあったが、電車で武蔵境駅に降り立つのは久しぶり。 
 ぼくが高校生だった1960年代半ば頃の中央線は地面を走っていて、駅の南側には日本獣医畜産大学の馬場(?)が見えていた。駅の一番南側には西武是政線(現在の西武多摩川線)のホームがあり、是政線の沿線にはアメリカン・スクールがあったので、武蔵境から中央線に乗りかえてくる生徒がいた。当時三鷹市在住だったジュディ・オングに会えるのではないかと、放課後にホームのベンチで時間を過ごしたこともあった。
 ぼくの記憶の中の武蔵境駅ホームは小海線の岩村田駅くらい鄙びた駅だった。もちろんジュディ・オングに会えることもなかったし、そもそも彼女が是政のアメリカン・スクールに通っていたかどうかも定かではない。

   

 さて、今日の川本さんの講演だが、この7月15日だったかに荷風をこえて80歳になるという川本さんはやや声がくぐもっていて、耳が遠くなったぼくは時おり聞き取れなかった。
 話の内容は、これまでにすでに活字になている話題が多かったが、いくつか新鮮な視点も教えられた。
 例えば、荒川放水路は「運河」であること(シムノンの「メグレ警部」に出てくるベルギー国境の運河を思い出した。荒川放水路は運河なのに自然の川のように河原があるという)、山の手は「坂の文化」であるのに対して下町は「水の文化」であること(なるほど四ツ谷、世田谷など坂と谷が多い)、日本小説の理想の男性像には「英雄」と「世捨人」(西行、荷風など)の対抗があること、「ぼく」(僕)というのは勤王志士が使った言葉で、荷風は自分を一貫して「わたくし」と呼んだこと、など。
 「断腸亭」に登場する「阿部雪子」は仙台出身、荷風のフランス語の弟子で、原節子のようなロングスカートに白いブラウス姿の彼女の写真を川本さんは見たことがある、小津の「東京物語」で、荒川の土手で東山千栄子が孫たちに「あんたたちもお父さんのようにお医者さんになるのかい」と話す場面は、小津が「断腸亭」を読んでロケ地に決めたと小津の「全日記」に書いてあること、最近キネマ旬報の賞を受賞した映画(聞き取れなかった)にも同じ荒川が登場すること、など。
 最大の収穫は、荷風のお通夜の折の福田とよさん(荷風宅の通いのお手伝いさん)の写真を見ることができたこと。「毎日グラフ」1959年5月17日号に載った写真だそうで、両手で顔を覆って泣く割烹着の彼女の後ろ姿が写っている(上の写真)。小津安二郎の映画の1シーンのようである。小津にしては少しアングルが高いけれど。
 活字にしにくい荷風の周辺の人物の話題もあった。荷風は人間と人間の関係には興味がなく、人間と風景(特に東京の下町の風景)の関係だけを書いたという川本さんの解釈を伺ったが、川本さんご自身は、風景だけでなく人間関係にも関心がおありのようだった。

   *   *   *

 ところで、先日(2024年7月9日)の東京新聞夕刊に、永井荷風「断腸亭日乗」の完全版が岩波文庫から出るという記事が載っていた(下の写真)。全9巻で、この7月12日に第1巻が発売される。岩波書店版「荷風全集」の「日乗」を原本として、これに補注と解説がつくという。

  

 「摘録・断腸亭日乗」(磯田光一編、岩波文庫)では省略された個所に何が書いてあるのかが気になったので、少なくとも昭和以降の日記は完全版で読んでみようと思う。とくに荷風が天皇をどう考えていたのかを知りたい。新刊予告によると、伏字や切取・削除された個所を復元したとあるから、難波大助処刑の日などの伏字や削除の部分も復元されているのだろう。
 なお、文庫版第1巻の表紙カバーを見ると、大正期の書名の草稿は「断腸亭日記」となっているではないか。「日乗」という語がワードでは出てこないために苦労しているぼくとしては、なんで「日記」のままにしてくれなかったのかと恨めしい。

 2024年7月13日 記

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川本三郎「荷風語録」

2024年07月12日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「荷風語録」(岩波現代文庫、2000年)を読んだ。

 「小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写である」と荷風自身が「濹東綺譚」(本書173頁に引用あり)で書いているように、荷風作品の情景描写には荷風が下町散歩の観察から得た情報が細部にまで再現されている。
 本書は、川本が「荷風と東京」という視点から、荷風作品に見られる往時の東京風景を作品の発表年代順に再録(抄録もある)したものである(ⅳ頁)。第1部「明治・大正の作品」、第2部「戦前の作品」、第3部「戦後の作品」、第4部「『断腸亭日乗』の世界」という構成で、各部の冒頭に川本の解題がつく。

 「語録」という書名から、本書は「老い」とか「家族」とか「娼婦」とかいったテーマ「語」や場所ごとに、荷風の考えや見方がわかる文章を集めた本かと思ったが、しかしこれは嬉しい誤算で、実際には「荷風短編傑作選」とでもいった内容の本であった。 
 ぼくは、川本が「老いの荷風」や「荷風好日」の中で評価していた戦後の荷風の小品ーー「勲章」「にぎり飯」「吾妻橋」などを読んでみたいと思っていたので、これらを本書第3部で読むことができたのが最大の収穫だった。第3部に収められた「草紅葉」「老人」も良かったが、できれば「羊羹」も読みたかった。

 「勲章」の主人公は、浅草オペラ館の楽屋に出前を運んでくる爺さんである。日露戦争に召集された自慢をしたところ、ある日踊り子らにおだてられ、楽屋に置いてあった舞台衣装の軍服を着て、日露戦争の際の勲八等の勲章をつけた写真を荷風に撮ってもらい、いつになく嬉しそうな顔を見せる。しかし、その写真の現像ができる前に爺さんは人知れず死んでしまう(「勲章」昭和17年)。同じくオペラ館で、いつも楽屋手前の通路で風呂焚きをしていた爺さんは、戦後の薪不足で解雇され、その後の消息は分からない。誰にも知られずに死んでしまったのだろう(「草紅葉」昭和21年)。
 オペラ館の踊り子で、荷風原作のオペラ「葛飾情話」にも出ていた栄子は、三社祭の当日、いつも世話になっているからと言って、おっかさんが作った強飯を楽屋の荷風に差し入れる。その後オペラ館を去った栄子は東京大空襲でどうなったのか。荷風は「栄子が父母と共にあの世へ行かず、娑婆に居残っている事を心から祈っている」と書く(同、226頁)。
 この2作品と「吾妻橋」が荷風の戦後作品ベストスリーだとぼくは思った。

 その他、空襲で生き別れになった(内縁の)夫が死んだものと思って別の男と結婚した女が、生きていた夫と偶然に再会してしまう話は(「にぎり飯」昭和22年)、戦後それほど珍しくなかった「失踪宣告」ものだが(ソフィア・ローレン「ひまわり」など)、内縁だったので法的な問題は小さいし、話の結末もややあっけない。
 「老人」(昭和25年)の登場人物は、亡くなった妻の葬儀を終えた夫(元は病院の会計係だった)と、離れて遠くに住む中年になった一人娘と従妹の3人だけ。葬儀を終えた3人は、残された夫の今後について語り合う。夫は、なかなか上京できないだろうからといって妻の着物を形見分けに持って帰ることをすすめ、娘たちはそそくさと品定めをする。「東京物語」の長女杉村春子を思い出すが、「老人」では父親のほうから形見分けを言い出している。
 「吾妻橋」(昭和28年)の主人公道子は、浅草の街娼である。貧しい大工だった父親は空襲で亡くなり兄も戦死したため、周旋する者があって街娼となる。小津安二郎「風の中の雌鶏」の娼婦役、文谷千代子が思い浮かんだ。ある日道子は思い立って亡母の墓所を探しに松戸の寺を訪ねる。遺骨のまま放置されていた亡母のために、道子は7000円を払って墓石を建立する。1日で1500円稼げるから7000円くらい何とかなる。道子のモデルは「断腸亭日乗」に出てくる、あの浅草駅ホームで荷風が300円を渡した娼婦だという。やっぱり荷風は300円(後日さらに300円)を渡して小説のネタを仕入れていたのだ・・・。
 
 どの作品も、山の手の人間が勝手に抱く「下町情緒」に訴える雰囲気はあるが、浅草や立石をほとんど知らないぼくには、これらの作品の場所が浅草、立石でなければならない必然性は分からなかった。浅草、立石を知らなくても、登場する老人や娼婦たちの好ましい性格は十分に伝わってきた。道子たちは「駅馬車」や「ウィンチェスター銃 73」の娼婦(後者はシェリー・ウィンタース)を思わせる。
 第3部に収録された諸作品は、いわゆる「人情もの」として読めた。石川淳は戦後の荷風作品を酷評したというが、石川に嫌われたとしても、ぼくは人情ものとして好ければそれでいいと思う。

 第1部では、荷風の「散歩」の原点というべき「日和下駄」(大正4年)がいい。
 身長180センチを超える荷風は、いつも日和下駄を履き蝙蝠傘をもって散歩に出た(76頁~)。雨が降っても、泥濘を歩くにも便利だからという。日和下駄というのがどんな下駄なのかぼくは分からないが、革靴の中に雨水が漏れるより、いっそ裸足に下駄履きのほうがマシであるという気持ちは分かる。
 13、4歳頃の荷風は、麹町永田町の自宅(親の官舎)から、半蔵門、吹上御苑、竹橋、平川口、一ツ橋に出て、神田錦町の私立英学校まで歩いて通ったという。これだけでも結構な距離だが、登下校の際に寄り道をして通学路の近辺を歩いたのが荷風の散歩の始まりだという。
 その後の東京市中の散歩は、生まれてから今日に至るまでの過去の生涯に対する追憶の道を辿り、日々名所古跡を破壊してゆく時勢の変遷に無常悲哀の寂しい詩趣を感じるためであったという(78頁)。荷風は「ノスタルジー作家」である。

 川本の第1部解説によれば、荷風は、四ツ谷見附から東京の市電(街鉄)に乗ると「女学生と軍人が多い」と書いている(5、6頁)。荷風は女学生と軍人を毛虫の如く嫌っており、それが築地への引越しの一因だったと川本は推測する。安岡章太郎も、青山は軍人が作った町だったと書いているという(5、6頁)。戦前の六本木には陸軍第一連隊があり、青山には陸軍大学、市ヶ谷には陸軍省があった。
 川本は「現在の感覚では考えられないが、山の手は戦前までは軍人の町だった」と書く(6頁)。ぼくは浅草や玉の井のことは分からないが、祖父が(荷風が毛虫の如く嫌う)軍人で、余丁町の官舎から青山、六本木に通っていたと聞いていたので、青山や六本木が軍人の町だったことはよく分かる。須賀町にあった出版社のサラリーマン時代、信濃町から青山への外苑東通りを歩くと、その昔祖父もこの通りを通ったのだと時空を超えた感慨を覚えた。われわれのDNAには先祖の記憶が刻印されていると聞いたが、本当だろうか(デジャブ)。
 荷風の住んだ余丁町の近くには市ヶ谷監獄があった。そこで大逆事件の幸徳秋水らが処刑されたことは「断腸亭日乗」に書いてあったが、荷風は「花火」(大正8年)で、この事件ほど「嫌な心持のした事はなかった」と書き、これを契機にいわゆる「戯作者宣言」をしたという(14、5頁)。余丁町から三輪田に通っていた伯母は、監獄前の通りで足枷をはめられた囚人服(着物)姿の囚人が帚で道を掃いていて、その脇を通るのが怖かったという思い出を話していた。

 第2部に収録「つゆのあとさき」(昭和6年、抄録)の主人公は、その頃から流行し始めたというカフェの女給である。芸妓(吉原)、公娼(どこ?)、私娼(玉の井、浅草)の区別も十分に実感できないうちに、新たにカフェ女給(銀座?)という職種が登場してきた。
 民法の講義で「カフェ丸玉女給事件」という判例を読んだ(大審院判決昭和10年4月25日)。女給が馴染客から400円をもらう贈与契約を結んだが、客が履行しないとして訴えた事件。大審院は、この債務は客が任意に履行すれば女給は受領してよいが、任意に履行しない場合には裁判所に訴えても裁判所は履行を命じないとして(「自然債務」という)、請求を退けた。
 ※久しぶりに判決を見たら、何と差戻審で女給側が逆転勝訴していた。女給の窮状を認定するその理由づけが荷風的である。 
 「寺じまの記」(昭和11年)。題名の「寺じま」とは何だろうと思っていたら、これは玉の井の旧町名「寺島町」に由来するという(103頁)。この話は、玉の井の娼家の構造とそこに棲む娼婦の顔貌までもが微細に描写されている。当時の読者にとって、風俗店ガイドブックの用も果たしたのではないか。

 第4部「断腸亭・・・」はこれまでに書いたので省略。

 2024年7月12日 記

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川本三郎「老いの荷風」

2024年07月09日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「老いの荷風」(白水社、2017年)を読んだ。
 
 永井荷風の作品を、荷風の老いと単身者という側面に焦点を当てて、「老人文学」「隠棲者文学」とみる立場から読み解く随筆集である。
 川本が、荷風作品の現場を歩き、先行書に表れた当事者の発言などを渉猟しながら分析する記述は、ミステリー小説の謎解きを読むような興趣があった。

 例えば、発禁となったにもかかわらず、少部数だけ世の中に出回った「ふらんす物語」初版本をめぐるエピソードがある(77頁~)。
 発売前(それどころか製本前)に発禁になった「ふらんす物語」が少なくとも11冊は流布していたことを川本は突き止める。流出のルートとして、出版社(博文館)、印刷所、製本業者などの関係者から流出したものが転々流通して、古本屋や屑屋などを経て現在の所有者の手に収まる顚末が追跡される。中には、検閲した側の内務省の役人が戦後になって古本屋に売ったものもあった。この手の内務省マル秘本は、ぼくも何冊か古本屋で手に入れたことがある。
 荷風が捜していたフランス語訳「聖書」を、網野菊が匿名で寄贈したエピソードもいい(107頁)。

 荷風の葬儀、通夜に参列しながら、名前を名のることもなくひそやかに去っていった謎の女性が、昭和18年以降「断腸亭・・・」に50回以上登場する「阿部雪子」だったとある(180、4頁)。
 阿部雪子のエピソードの初出は、川本が「週刊朝日」平成22年7月2日号に書いたエッセイで暗示された謎が、毎日新聞平成25年5月26日付の書評でタネ明かしされる。初出時の読者はタネ明かしまでに2年以上待たされたことになるが、本書では並んで掲載されている。
 同じく「断腸亭・・・」に登場する、荷風が浅草駅のホームで300円を渡した私娼が、後に「吾妻橋」の主人公として描かれる話(229頁)なども、荷風作品の登場人物の謎解きの趣きがある。

 荷風の最晩年に通いのお手伝いとして身の回りの世話をし(やるべき仕事はそれほどなかったらしい)、遺体の発見者にもなった福田とよという女性の消息を尋ねて、彼女を知る3姉妹に巡り合うエピソードも(143頁~。出会いのきっかけが市役所職員からの情報提供というのは減点材料だが)、川本の調査への熱意が伝わる。
 この女性を半藤一利は「文字が読めない」と書いたが、川本の会った3姉妹たちは「教養のある人」だったと言い、文字も読めたと言った。川本は3姉妹に与する書き方だが、真相は分からない。文字が読めなくても教養のある人はいるだろう。文字は読めるけれど教養のない人もいるように。

 本書に、吉屋信子「岡崎えん女の一生」という小説が紹介されている(109頁)。このエピソードもまた「事実は小説より奇なり」の面白さがある。
 吉屋は昭和38年11月の新聞で、養護老人ホームに住む岡崎えいさん(70歳)が京成線小岩近くの踏切で電車にはねられ即死したという記事を目にする。この女性は、昭和30年から生活保護を受けて老人ホームに入っていたが、かつては日本橋の料亭の一人娘で雙葉女学校出のインテリだと記事で紹介されていた。
 これに興味をもった吉屋が調べると、彼女は荷風の「断腸亭日乗」に「岡崎栄」「お艶」として登場する女性だったことが分かる。彼女は、かつては銀座の裏通りで酒場や料理屋を営んでおり、その店には泉鏡花、水上瀧太郎らのほか荷風も通っていて、店には荷風の扁額が飾られていたという。戦時中の物資不足の折には荷風に食料を送ったりしているが、空襲にあって店は焼失し、戦後は女中などをしながら最後は老人ホームで過ごした。
 「岡崎えん女」の名で俳句も詠んでいた彼女は、大木喬任(たかとう)と芸妓だった母親との間に生まれた子だったとある。

 このような事情に詳しいわが愛読書、黒岩涙香「弊風一斑 蓄妾の実例」(元は萬朝報、社会思想社、1992年)を探してみると、はたして大木が登場する(83頁~)。
 伯爵大木(67歳)は「好色家」にして、自分の子どもくらいの年齢のきよ(36歳)を妾とし、その妹きせ(19歳)も準妾としたとある。この女性のいずれかが岡崎の母親なのかは、川本と黒岩の本だけからは分からない。
 法律を専攻した者としては、大木喬任と妾との間の娘という人物の生涯には興味が湧く。
 大木は明治初期政府の司法卿として民法制定に携わった。最初江藤新平が箕作麟祥に命じて作成させた民法草案(明治11年)が、フランス民法の翻訳調にすぎるとして却下され、改めて大木司法卿のもとで、お雇い外国人ボアソナードに起稿させた原案をもとに民法草案が起草された。家族法に当たる人事編の部分は明治19年頃に完成したが、これが後に「民法出て忠孝亡ぶ」と穂積八束らに批判されて結局は施行延期される旧民法人事編の草案である(石井良助編「明治文化史料叢書(3)法律篇(上)」3頁~、風間書房、1959年)。

 ちなみに、黒岩の本には、伊藤博文、山縣有朋らの政府高官から、鳩山和夫、磯部四郎、尾崎三良らの法学者、新札で話題の渋沢栄一、北里柴三郎その他、国会議員、大臣・官僚、財界人・実業家、学者、医師、弁護士から市井の人まで500名余の蓄妾の実例が紹介してある。
 かつては「好色小説」「花柳小説」作家などのレッテルを貼られた荷風を「フェミニンな作家」だったと評価する女性評論家が登場するご時世だというから(175頁)、大木や渋沢、北里たちが妾を囲っていたことをとやかく言う時代ではなくなったのかもしれないが、紙幣の肖像にまでなるとは!ぼくは蓄妾を日本の弊風として告発した黒岩涙香の側で、こんな紙幣を使うことは愉快ではない。
 
 本書でも荷風の散歩への言及はたくさん出てくる。
 老人で単独者、食事は外食ばかり、新聞も雑誌も読まず、ラジオも聴かなかった(もちろんテレビなど見なかっただろう)という荷風は、散歩でもしなければ時間がつぶれなかっただろう。小津安二郎「東京物語」の終章近くで、妻に先立たれた笠智衆が窓から顔をのぞかせた隣人の高橋とよに向かって、「一人になると日が長うなりますわい」と独りごつ場面があった。
 笠も尾道を散歩でもすればよかったのだろうが、幸運にも彼には末娘の香川京子がいた。 

 荷風の漢語趣味(159頁、「国手」「晡下」ほか)、荷風の薩長嫌い幕臣びいきの指摘もあるが(151頁ほか)、荷風の「田舎漢」嫌いへの言及はなかった。「断腸亭・・・」に頻出する「田舎漢」という荷風の表現について(「摘録」上巻127、175、196頁、下巻67頁など)、川本はどう解釈しているのだろうか。佐賀、滋賀、新潟、石川のクォーターとして生まれた「田舎漢」の1人であるぼくとしては知りたいところである。
 どこかに「愛国心」は「田舎漢」の錦の御旗のような表現もあったが、荷風は「非国民」というレッテル貼りはどう思っていたのか。本書には、友人の宅孝二が、岡山での荷風、菅原明朗らとの疎開生活を「非国民集団のような部落」と表現したことが紹介してあった(36頁)。
 
 石川淳らが酷評した戦後作品についての川本の評価も良かった(201頁~)。
 川本が紹介する「羊羹」「にぎり飯」「買出し」などは読んでみたい気もする(川本の紹介で十分かもしれないが)。「買出し」に登場する、千葉から籠(帚も)を背負って世田谷にまで行商に来ていたお婆さんの姿はぼくの記憶にもある。「買出し」の強かなお婆さんの印象もそのままである。
 ※ 113頁の「田村水泡」は「田河水泡」の誤り。223頁の映画の公開年、「つゆのあとさき」昭和56年は1956年、「踊子」昭和57年は1957年、「裸体」昭和62年は1962年の誤りである。

 2024年7月9日 記

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川本三郎「ひとり遊びぞ我はまされる」

2024年07月05日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「ひとり遊びぞ我はまされる」(平凡社、2022年)を読んだ。

 永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫)が面白かったので、川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)も読んでみようという気になり、その助走として川本の荷風に関する随筆「荷風好日」(岩波現代文庫)を読んだ。しかし重複もあって荷風は少し食傷気味になったので、目先を変えて、荷風を前面に出さない川本の随筆集を読むことにした。
 なかでも特にこの本を選んだのは、「三原葉子を偲んで盛岡へ」という文章が目にとまったからである。
 三原葉子は新東宝の女優だが、以前にも川本の本で彼女にふれているのを読んだことがある。川本は、ぼくが30歳代の頃にけっこう読んだ筆者の1人だが、彼の広い守備範囲にもかかわらず、ぼくの興味と重なる所はそれほど多くはなかった。しかし三原葉子と大西康子、それと西荻映画通りのことだけは、彼と思い出を共有している。

 中学生か高校生だった昭和39~40年頃に、ぼくは「猥褻と表現の自由」に関するファイルを入手した。そのファイルに収められた新聞記事や週刊誌の記事、グラビアの中でぼくの心をとらえたのが、三原葉子と筑波久子と嵯峨三智子だった(嵯峨は荷風原作の「裸体」という映画で主役を演じたと「荷風好日」に書いてあった)。
 その後忘れていた三原葉子のことが、30代になってから川本の「シネマ裏通り」(冬樹社、1979年)に書いてあるのを発見した。川本はもっと高尚な映画を論じる人だと思っていたから、新東宝のグラマー女優のことが出てきたので驚いた。
 ※「シネマ裏通り」の最終ページには、「1981・2・8(日)pm1:07 春の訪れか、暖かい。12、3℃ありそう。谷ナオミと三原葉子とジャック・レモンのことがいい」と感想が書いてあった。
 それどころか、川本の本には、大西康子のことまで出てきた。「忘れもしない、大西康子」と書いてあった(と思う)。大西はピンク映画の女優である。中学時代に同姓同名の女生徒がいたので、ぼくの記憶にも残っていた。ピンク映画など新東宝以上に日陰の存在だと思っていたから、川本があっけらかんとして論じていることに驚いた。

 さて、本書「ひとり遊びぞ・・・」だが、これも「荷風と東京」と同じく、「東京人」という雑誌の連載を本にまとめたものである。表題は良寛の句の一節だという。
 旅行と読書と映画の話題、中でも鉄道の話が多い。台湾の映画、鉄道のことも出てくる。
 三原葉子の話も、彼女の出身地である盛岡を訪ねた旅行記である。彼女は盛岡の裕福な毛皮商の娘で、お父さんが娘の活動が記録された記事類をファイルにしてあったという。地元の(三原の)後援会(?)に依頼されての講演旅行だった。彼女はなかなか周囲の人望の厚い女優だったらしい。
 お父さんが保存したファイルには、昔ぼくが目にした週刊誌の記事なども保存されているだろうか。「彼女は可愛い口をとがらせて抗議した」云々という文章があった(と思う)。

 荷風のことも少し出てくる。ぼくが勤めていた出版社は須賀町にあり、信濃町駅で下車して通勤していた。その「信濃町」の由来が、荷風の先祖の戦国武将の名前(何とか「信濃守」)に由来するとのことだった。
 会社の近所にあった須賀神社のことも出てきた。近くには「於岩稲荷」というのもあり、四谷怪談を演ずる役者は必ずお参りに来るという話だった。
 
 映画は「エデンの東」だけ、小津は「父ありき」だけ、女優はソフィア・ローレン(+ジーナ・ロロブリジータ、ロッサナ・ポデッサ)だけ、鉄道は草軽電鉄と玉電だけ、漫画は寺田ヒロオだけが有難いといった狭量なぼくにとっては、知らない人物、見ていない映画、漫画(家)ばかりが多かった。三原葉子は除いて。
 川本は、以前何かでマリリン・モンローよりジェーン・マンスフィールドのほうがいいと書いていたように記憶する。これも数少ない共感するところだった。※「シネマ裏通り」67頁にあった。

 ※282頁の「台湾人児童の就業率は70%を超えている」は、前後関係からすると「就学率」の誤りではないか。

 2024年7月5日 記

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川本三郎「荷風好日」

2024年07月04日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「荷風好日」(岩波現代文庫、2007年)を読んだ。

 永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫)に出てきたまったく地理勘のない土地や知らない人物について知りたいと思って、川本の「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)を買ったのだが、ものすごい分厚いコンメンタールだったので、まずは荷風入門書から始めたほうがよいだろうと考え直して、この本を読んだ。
 川本の「荷風と東京」以降に発表された荷風をめぐる随筆を集めた内容で、読みやすかった。「私註」の前に目を通したのは正解だった。 

 荷風は「市中」を散歩したが、隅田川や荒川放水路など東東京が中心で、西東京はほとんど出てこない。荷風にとって西東京は「郊外」であって「市中」ではないそうだ(31頁)。ぼくは「断腸亭・・・」を読んで、井の頭線の高井戸以西の車窓の風景を描写した個所が一番印象に残ったが、あれは荷風にとって珍しい「郊外」への遠征だったのだ。
 ぼくが、川本ほどには荷風を好きになれないのは、彼が徘徊する場所が(ぼくにとっては「異境」といっていい)東東京に偏っていることが理由の一つだろう。
 路地歩きはぼくも好きなのだが、ぼくが好きな路地(というほど細くはないが)の東端は、かつての須田町電停近くの靖国通りを一本南に外れたところにある、レトロな外壁煉瓦造り3階建てのビルが残り、バナナと大学芋だけを販売する八百屋(?)がポツンと残っている通りである。10年以上行ってないから、もうなくなってしまったかもしれない。

 林芙美子は荷風の愛読者で、荷風の小説に見られる季節の気配を論じているという(156頁)。
 ぼくも、「断腸亭・・・」の中の、「涼風秋の如し」「空俄にくもり疾風砂塵を捲く」などといった簡潔な気候の表現が好きである。芙美子自身は雨が好きだと書いているが(同頁)、ぼくも「断腸亭・・・」の気候描写でもとくに雨の描写が好きだった。「細雨烟る」「驟雨」「雨、歇む」など。
 荷風は曇りの日を「陰」と表記する。「くもり」と読むらしいが、「陰」の日は頻繁に出てくる。ただ空が曇っているだけでなく、心も陰鬱になる気分が表れている。 

 荷風と面談したことのあるドナルド・キーンは、彼の話し言葉の日本語が美しかったと感想を書き残している(202頁)。このことはぼくも納得できる。「断腸亭・・・」は、内容はともかく、その文章は音読しても良いような文章だった。ぼくには読めない漢字も多かったのだが、簡潔な漢文調で読んでいて心地よい。
 ぼくが一番気に入ったのは、何かを食べるときに、「銀座食堂に飯す」(「はんす」とルビがある。「飩」の食偏に、作りは「下」のうえに片仮名の「ノ」。IMEパッドでも出てこなかった)と書くことである。最近テレビなどで、それほど上品とも思えないタレントが、ラーメンを「いただく」などと言っているのを聞くが、ラーメンなど「食べる」でいいだろう。「飯す」は、食通ぶらない所がよい。

 小津安二郎が「断腸亭日乗」を熟読していたことと、「東京物語」の長男山村聰の医院が荷風の愛した荒川放水路の堤防の下に位置していたこととの関連性の指摘など、なるほどと思った(112頁)。あれが「荒川放水路」だったのか。「お早う」の土手も「荒川放水路」だったのか。
 小津「風の中の雌鶏」で、佐野周二が娼婦役の文谷千代子と川原でおむすびを食べるシーンなども荷風を下敷きにしたのだろうかと思ったが、「風・・・」は昭和23年、「断腸亭・・・」は昭和24年以降の公表らしいから、関連はなさそうである。娼婦と客が川原で弁当を食べるようなことも、当時としてはありがちなことだったのだろう。
 「荷風の映画」という章も興味深かった(188頁~)。
 荷風の小説を原作とした映画が数本あったらしい。「渡り鳥いつ帰る」という映画は(題名からはまったく見る気にもならないが)、田中絹代、森繁久弥、水戸光子、淡路恵子、高峰秀子、岡田茉莉子などの出演者を眺めると見たくなった。DVDはないようである。川本もこれらの映画に出てくる風景を懐かしんでいるが、小津映画のような風景なのだろうか。山本富士子の「濹東奇譚」も見てみたい。

 川本の本には、戦後の荷風を「すべて読むに堪えぬもの」と批判した石川淳その他の文章が引用されていて、諸氏の荷風評価を知ることができる(151頁)。荷風自身が、60歳前後で死ねなかったことはこの上もない不幸だったと述懐していることは「摘録」にもあった。「精神貴族」荷風にとって、著作が泡沫出版社から仙花紙で出版される戦後初期は(154頁)屈辱の時期だっただろう。
 しかし、川本は、安岡章太郎などとともに戦後の荷風をも評価する。敗戦も近い昭和20年になって、荷風は5回も空襲に遭っている。3月10日の東京大空襲で麻布の偏奇館を焼かれ、疎開先の代々木の従弟宅を焼かれ、東中野、明石、岡山と、逃げ延びた先々でも空襲に逢っている。戦後の荷風の奇矯な言動は空襲恐怖症によるものだったと川本は弁護する(170頁~)。
 
 荷風は遺書の中で墓石を建てることを拒絶し、石碑などを建てる文学者を「田舎漢」と軽蔑していたはずだが、川本によると、荷風の墓は雑司ケ谷墓地にあり(父の墓か)、父祖の出身地である愛知県名古屋や三ノ輪のお寺には荷風の文学碑もあるらしい(208、250頁)。その他にも作品に登場するゆかりの土地に何か所かには、その手の碑があるらしい。
 生粋の東京人かと思っていた荷風の一族が名古屋の出であるとは知らなかったし、荷風の文学碑を建立するなど贔屓の引き倒しではないかと思うが、文化勲章を受章したり、「断腸亭・・・」の中であんなに嫌っていたラジオの番組に出演して饒舌に喋ったりしたというから(161、200頁)、荷風の気持ちも戦後になって「断腸亭・・・」の頃とは変わっていたのかもしれない。
 文化勲章の受賞によって、父親に顔向けできるような気持になり、父親にたいするコンプレックスから解放されたのかもしれない。
 
 川本は、若い女性はほとんど荷風を読まない、荷風は「老人文学」「隠棲者文学」だからだろうと書いている(249頁)。荷風は、過去に戻ろうとしたのではなく、幻影の過去を作ろうとした「ノスタルジーの作家」であったとも書いている(105頁)。この評言にも共感する。
 
 2024年7月4日 記

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