J・ウォーリー・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本(正・続)」(光文社新書、2018、19年)を眺めた。川本三郎の「東京抒情」に紹介されていたので、興味をもった本である。
著者(撮影者)は、アメリカ軍の軍属として1956年に来日し、帰国した後1960年に再来日して日本の鉄道写真を撮りまくった自称「乗り鉄で撮り鉄」である。すべてがカラー写真というのが当時としては珍しかったようだ。著者は父母双方の祖父が鉄道関係者だったことから子どもの頃から鉄道に興味をもっていたという。
新書版なので写真が小さく、画像がやや劣化した写真もあるが、いくつか懐かしい場面に出会えた。
信濃町駅前の写真(1964年)には、北口側の駅前に「高級果実」の看板があって、丸正のマークが見える。ぼくが須賀町の出版社に勤めていた頃にもこの果物店があったことを思い出した。向かいの慶応病院の見舞客を当てこんでいたのだろう。
神田須田町は、ぼくの数少ない路地歩きの行先の一つだったが、須田町電停は都電38系統の終点だったそうだ(73頁)。川本の「東京抒情」によれば須田町界隈は空襲を免れたというから、昭和レトロの懐かしい建物が多く残っていたのだろう。
六本木の交差点に向かって溜池から登ってくる都電の背景には、高層ビルもなく秋の青空が広がっている(1964年、92頁)。高層ビルに遮られてしまって、あんな空の広さは今はもうない。
青山墓地の中を走る都電7系統の両脇は草むらである。1956年には都電は青山墓地の中を通っていたという。最近の青山界隈からは想像もできないのどかな田園風景である(99頁)。
東横線の学芸大学駅の写真もあった。1963年の東横線は学芸大学駅では地面を走っている(113頁)。ぼくが大学に入学した1969年頃にも、祐天寺駅から都立大学駅の手前まではまだ地面を走っていた。ある年の夏休みが明けて登校したら、突然に東横線が高架を走るようになっていて、車窓の眺めの良いことに感動した。以前にも書いたが、たしか1970年か1971年の9月に高架になったと思う。
三軒茶屋の分岐点を曲がって下高井戸に向かう玉電の「イモムシ」も写っている(1964年、115頁)。クリーム色と黄緑色のツートンカラーのボディのあの車体である。
豪徳寺付近を走るこげ茶色の4両編成の小田急線の写真がある(1956年、続102頁)。ここも線路の両脇は一面田んぼか草むらである。どの辺だろうか。1956年はぼくが赤堤小学校に入学した年だが、赤小の正門前(東側)は一面の畑で、玉ねぎなどが植えられていた。しかし小田急線の豪徳寺近くの沿線に畑があった記憶はない。梅ヶ丘駅よりにはこんな光景もあったのだろうか。
さらに、1958年の小田急線豪徳寺駅付近の写真では、ガード上を走る小田急のロマンスカーと、ガード下に玉電山下駅にとまる玉電のイモムシのツーショットが見られる(続103頁)。
この2枚が、ぼくの世田谷の幼年時代を象徴するベストショットか。
2024年7月29日 記