豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

今津勝紀『戸籍が語る古代の家族』

2022年06月24日 | 本と雑誌
 
 今津勝紀『戸籍が語る古代の家族』(吉川弘文館、2019年)を読んだ。
 日本史の通史の古代編を読んで古代家族を知りたいと思っても、古代家族のイメージが湧いてこないので、そのものズバリの書名の本書を借りてきた。

 面白かった。
 結論的には、古代の「戸籍」や、その前提となる「戸」「里」は、必ずしも古代家族の実像を反映したものではないことが分かった。
 古代戸籍および「戸」、「里」は基本的に租庸調の徴税および兵士の徴発を目的としており、しかも、兵役逃れ、徴税逃れ、給田の不正受給のためなど、様々な理由から古代人も戸籍を偽ることがあったらしく(「偽籍」という。205頁)、戸籍が実態とかけ離れることもあったようだ。
 明治以降の兵役逃れのための養子縁組、相続税逃れのための孫養子、債務踏み倒しのための偽装離婚から、最近の持続化給付金の不正受給まで、小賢しい日本人は古代から現代に至るまでいつの時代にもいたのだった。
 
 さて、本書は「魏志倭人伝」に見られる「戸」数の話題から始まる。同書によれば、3世紀の卑弥呼の邪馬台国には7万余戸あったという。「日本書紀」によれば、6世紀に渡来人である秦人・漢人を一定の地域に集住させるに際して「戸」の呼称が用いられたことから、わが国の「戸」は、中国古代の戸が朝鮮半島を経由して伝播したと考えられる(16頁)。
 「書紀」によれば、後世まで氏姓の根本台帳となったのが、670年の「庚午年籍」(こうごねんじゃく)と呼ばれる戸籍である(23頁)。その後の律令による戸籍は30年間保存だったのに対して、庚牛年籍は永久保存とされた。しかし前述のような「偽籍」もあって、最終的には平安時代末期の11世紀には根本台帳たるべき庚午年籍は全国で散逸し「已に実無し」の状況になったという(「平安遺文」、24頁)。
 正倉院文書などの中に古代戸籍の現物が何件も保存されているという。それらは、「大日本古文書」「奈良遺文」「平安遺文」などを出典として引用されている。古代の戸籍担当の役人の毛筆、楷書の文字がきれいなことに驚かされる(32、46頁ほか)。

 古代の地方行政は、「国」「郡」「里」からなり、1里は50戸をもって編成された(26頁)。前述のように、「里」は軍事と徴税目的の人為的な組織であり、「戸」も軍事、徴税を支える基本単位として構想されたものであった(23頁)。
 戸籍には、戸の構成員が、男女奴婢の別および年齢区分によって記載された(33頁)。60歳以上の者や疾患のある者は課役負担を減免された。1戸の平均人数(戸口)は20人前後であった(35頁)。1戸1兵士の原則があったと思われ、そのために各戸から徴発される兵士の数を平準化するために操作が行われたと推測されている(直木孝次郎説、37頁)。
 なお、8世紀前半の人口は約450万人、平均余命は約28歳(しかし80歳まで生存したものもある)、合計特殊出生率は約6・5人と推定される(~73頁)。 

 古代の戸籍が課徴の台帳だとしても、戸籍から当時の家族の形態をまったく知ることができないわけではなく、戸主である男性を軸としたまとまりを示しており(95頁)、その範囲は戸主から男系、女系双方の親族関係をたどってイトコを超えない範囲の親族を組織したというのが最大公約数であろうとされる(杉本一樹説、98頁)。
 当時の戸籍には夫婦が同籍しているものや、乳幼児が父のみと同籍しているものもあり、夫婦別居の妻問婚が一般的だったわけではない(95頁)。戸籍には妻だけでなく妾が同籍しているものもあり、再婚率も高い(~122頁、150頁も参照)。なお夫婦は別姓である(100頁)。
 
 わが国には文字がなかったため、漢字が輸入されると、当時の人々は1音声に漢字1文字をあてる上代特殊仮名遣いを作り出した。「ツマ」は男女双方を指す言葉であり、「トフ」は「訪れる」ではなく「問う」の意味であり、したがって「ツマドヒ」とは「すでに性関係のある相手(ツマ)に口をきく行為」と解釈される(栗原弘説、135頁)。要するに「ツマドヒ」とはツマとの睦言、情交の意味であり、「妻問婚」という概念は意味をなさないという(137頁)。
 しかし婚姻は通いから始まった。養老令では男15歳、女13歳から結婚が認められたが、結婚が定まってから故なく3か月以上結婚がならざる場合等には、結婚を解消し改嫁することができた(142頁)。通婚の範囲は半径数キロ程度で、近親婚忌避も存在したが、異母キョウダイの婚姻例も見られ、外婚規範は明確ではない(150頁)。
 著者は、戸籍だけでなく、「万葉集」「日本霊異記」などの作品も援用して、古代の家族の実態を推測するが、「万葉集」の歌にも夫婦同居が見られることから、夫婦は通い(婚)から同居に移行したと推測される(153頁)。また、律令では婚姻に際して尊属近親への告知が要求されていたが、その実効性は疑わしく、ただ娘の性に対して母親の影響力は大きかったという(168頁)。

 良民の場合60歳になると正丁から次丁となり租税負担は半分になり、66歳になると租税は免除となった。80歳を超えると侍(じ)という介護者があてがわれ、介護者は力役が免除されたという。侍となる者は男で、子か孫の中から選ばれた(176頁)。
 現代の老人は70歳をすぎても、6月になると、固定資産税、都市計画税、特別区民税、都民税、介護保険料、健康保険料など、次々に請求書が襲ってくる。古代の高齢者がうらやましい。

 2022年6月24日 記
 

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ジャレド・ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』

2022年06月23日 | 本と雑誌
 
 ジャレド・ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』(長谷川寿一訳、草思社文庫、2013年、原題は“Why is Sex Fun ?”、旧邦題も「セックスはなぜ楽しいか」)を読み始めたが、半分でやめた。 

 著者は人間の性生活は他の哺乳類と比べて奇妙なものだという。
 具体的には、
 1 ヒト社会のほとんどの男女は長期的ペア関係(結婚)を維持し、夫婦間(でのみ)繰り返し性交を行なう
 2 夫婦は両者の間に生まれた子を共同で育てるパートナーにもなる
 3 男女は夫婦になるが、他の夫婦とテリトリーを共有し合う
 4 性交は内密に行なわれる
 5 ヒトの排卵は隠蔽されており、ヒトは受精のためではなく楽しむために性交する
 6 女性は4~50代を過ぎると閉経を迎え、繁殖能力が完全に停止するする
 という6点を指摘して、人間の性生活が「奇妙」、他の哺乳類に比べて特殊だという(15~7頁)。

 これを「進化生物学」の観点から説明したのが本書である(らしい)。
 指摘された6点は、確かに現代の人間の配偶行動ないし性行動をおおむね反映していると思うが、「結婚」や「共同養育」などは、はたして最近の人間に一般的な事実といえるのか疑問がある。
 そもそも「婚姻」や「養育」を、あるいは「一夫一婦制」や「姦通」を「進化生物学」の観点から分析することにどれほどの意義があるのか、ぼくには分からなかった。
 婚姻、子の養育、扶養、相続、それらの関連性、あるいは姦通(不貞行為)については、家族法その他の領域からのアプローチのほうがぼくには説得的に思えた。例えば、たまたま今読んでいるのだが、比較家族史学会編『扶養と相続』(早稲田大学出版部)の諸編を読んで、そこで示された所説を「進化生物学」の観点から検討し直す必要はぼくには感じられない。現在の日本の結婚・離婚、姦通、子育て、扶養、相続を考える場合に「進化生物学」の知見が役に立つことはないだろう。

 「なぜ男は授乳しないのか?」でしんどくなり、「セックスはなぜ楽しいか?」でやめる決断をした。他の哺乳類動物の繁殖戦略にはなるほどと思う個所もあったが、それに対比される人間の「奇妙さ」はあまり実感できなかった。「人間」一般ではなく、いかにもアメリカ西海岸のインテリ的な「人間」が垣間見えてしまうのである(「マイホームパパ説」(116頁)など)。
 R・ドーキンス『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)や、福岡伸一『できそこないの男たち』(光文社新書)を読んだときのような衝撃というか、「目から鱗」的な意外さ、新鮮さは感じられなかった。
 訳者あとがきが言う「トンデモ系の類書」と本書との違いも見分けられなかった。ぼくには縁のない本だったのだろう。何でこの本を借りてきたのかも思い出せない。
 今日が返却期限なので、今から散歩がてら返却ボックスに行ってこよう。

 2022年6月23日 記
 

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黒岩麻理『消えゆくY染色体と男たちの運命』

2022年06月22日 | 本と雑誌
 
 黒岩麻理『消えゆくY染色体と男たちの運命--オトコの生物学』(秀潤社、2014年)を読んだ。
 以前、NHK-BSプレミアムの「サイエンス・ゼロ」(だったか、織田祐二が司会する番組)に著者が出演していて、Y染色体の短小化に従って「男」は絶滅するかを解説していた。
 面白かったので図書館で借りてきたのだが、天皇に興味が行って放置していたら、返却期限が迫ってきたので読んだ。

 「男」とは何か、「女」とは何か、というテーマはぼくが現役時代に最後に関心をもったテーマだった。
 家族法の授業では「婚姻の要件」というのをやるのだが、最近話題の同性婚の可否の前提として、「そもそも、“男” とは誰か、 “女” とは誰かを定義してごらん」と質問すると、ほぼ答えられない。
 「それでは辞書では何と定義しているか調べてごらん」と言って、スマホで調べさせる。男とは「人間の性別の1つで、女でない方」!(広辞苑)。女は「人間の性別の一つで、子を産み得る器官をそなえている方」(同)など、どの国語辞典も大同小異である。「それでは、病気で子宮を摘出したり、卵巣を摘出した人は “女” ではなくなって “男” になるのね?」などと突っ込みを入れると、彼らは沈黙してしまう。
 受講している学生たちが悪いのではない。憲法では、婚姻は「両性」の合意のみに基づいて成立すると言っていながら(24条)、わが国の法律には「両性」すなわち「男」と「女」を定義する規定はないのである。したがって、たとえ日本の民法が異性婚、すなわち「男」と「女」の婚姻だけを想定しているとしても、婚姻当事者が「男」か、「女」かを判断する基準を定めた法律はないのである。
 実際には、新生児を取り上げた産科医ないし助産師が児の外性器などから経験的に判断して出生証明書の性別欄に「男」か「女」かにチェックを入れて(実は出生証明書の性別欄には「不明」と記載することも認められている)、それで新生児の(その後の)性別が決まっているのである。
 ところが、すべての人間を「男」と「女」に二分する考え方に対して最近の法律学からは疑問が提起されている。古くヨーロッパでは、両性具有者は法的な性別を自分で決めてよいとする時代と地域もあった。最近の生物学の世界でも、「男」(オス)と「女」(メス)は二分可能なカテゴリー(範疇)ではなく、性別はグラデーションないしスペクトラム(連続体)とする考えが有力になっている(麻生一枝『科学でわかる男と女になるしくみ』サイエンス・アイ新書[ソフトバンク]、2011年など)。
 下の写真は、生物学において「性」をグラデーションとみる見解を紹介する新聞記事(東京新聞2022年2月10日付)。
   

 最近では少しずつだが男女二分法にこだわらない社会的、公的な対応をする場面は増えている。日本では、受験の出願書や就職時の履歴書などで「性別欄」廃止したりする例が見られるが、諸外国では出生届の性別欄や(ドイツなど)、パスポートの性別欄を(アメリカでは「M」「F」のほかに「X」とすることができる。下の写真は朝日新聞2021年10月28日付の記事)廃止する国も少なくない。
   

 さて、黒岩本だが、残念ながら著者は「性別=グラデーション」説はとらないようである。そもそも書名からして「消えゆくY染色体」とともに「男」の運命はどうなるのかというのだから、生物的な「男」というカテゴリーの存在が前提とされている。
 著者は、「性決定」を生物学的にかつ具体的に定義すると、「生物としてのオスとは、子孫を残すための精子を生産する個体」のことで、「一方で卵子を生産する個体をメス」とする(21頁)。この定義も、広辞苑と同じく人間(ヒト)の少なくない部分は「男」でも「女」でもないことになりそうである。 

 しかし同時に著者は、「性」は受精の瞬間から一貫して男女に二分できるわけではなく、性決定が徐々に進行するものであることも指摘する(3頁、21~2頁)。
 著者によれば、「男のスタート」は受精卵の性染色体がXYとなることである、「しかし、それだけでは男には」ならない、胎児の時にY染色体上の遺伝子(SRY遺伝子、22頁)や環境(30頁)の働きかけが「男スイッチを入れること」、その後に「男性ホルモンのシャワーを浴びること」(アンドロゲンシャワー、54頁)、出生後も遺伝子やホルモンがバランスよく働くことによって「男はつくられていきます」とあって、性決定(性別の確定)が段階的に行なわれ、「男」が形成されることになる(3頁~)。
 さらに、第2次性徴や男性脳の形成へと進む(55頁~)。「草食男子」の話題まで登場して、「男」の中にもグラデーションがあることを論じている(48頁~)。
 こうしてみると、必ずしも、最初の「男」「女」の定義が維持されているわけではなく、論旨からは著者も「性別=グラデーション」説をとっているようにも読める。

 本書で著者が一番言いたかったことは、「性のグラデーション」ではなく、Y染色体の消滅である。
 もともとはX染色体と同じ大きさだったY染色体が、哺乳類の数億年の進化の過程で次第に小さくなり(一本しかないので損傷や欠失を補てんできなかったため)、機能(Y染色体上の遺伝子は50種しかない)も少なくなっており、このまま行くと1400万年後にはY染色体は消滅するという仮説が紹介される(~185頁)。
 しかし、著者自身はそれでも人類は滅亡しない、たとえY染色体が消滅しても、あの手この手で「男」はしぶとく生き延びるだろうと予言する(201頁~)。
 Y染色体をもたない哺乳類は世界で3種確認されているが、そのうちの2種は日本に生息している「アマミトゲネズミ」と「トクノシマトゲネズミ」だという!(195頁)。彼らはY染色体上にあるべき遺伝子を他の染色体と融合させているのだそうだ。人類の存続がトゲネズミの生存戦略にかかっているというのもトホホ(?)な話だが、いずれにせよ1400万年後のことだから、その前に地球や人類は滅んでしまうような気もする。

      

 以下は、豆知識。その1は、ヒトのY染色体には50種程度の遺伝子しか存在しないところ、その大部分は精子をつくる精巣の造営機能にかかわるが、男の身長を(女より)高くする機能や(86頁~)、歯の形成にかかわる遺伝子も含まれること(92頁~)がわかっているという。
 その2は、日本人のY染色体の特徴である。ラテンアメリカ先住民やポリネシア人のY染色体には侵略者であるヨーロッパ系白人由来のY染色体が見られ、チンギスハーンに由来すると思われるY染色体をもつアジア人が1600万人存在する(これは福岡伸一『できそこないの男たち』(光文社新書、2008年)にも出ていた)。これに対して、アリューシャン列島から渡来した縄文人と、朝鮮半島から渡来した弥生人に由来するY染色体をもつ日本人は、全国的にほぼ1:1 の比率で分布しており、日本においては比較的平和のうちに縄文人と弥生人が混じり合ったことがY染色体からうかがわれるという(42頁~)。
 その3は、父親の記憶は精子上の遺伝情報として子に遺伝することが実験によって証明されたという話題である(172~3頁)。花の香りを嗅がせながら同時に苦痛を与えられたマウスから生まれた子マウスは、苦痛を受けた経験がなくても、その花の臭いを嗅ぐと脅えた行動をとる。その子の臭覚に関する遺伝子には特別な印が確認されたというのだ。親が受けたストレスが子に遺伝することも、熱刺激を受けたショウジョウバエによって証明されたという(“エピジェネティクス” という概念で説明されるそうだ)。

 「読んで考えないことは、食べて消化しないことと同じだ」というバーク先生に従って、読んで考えてみた(書くことは考えることであれば、だが)。それでは図書館の返却ボックスに返しに行くか・・・。雨になる前に。

 2022年6月22日 記

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きょうの軽井沢(2022年6月18日~19日)

2022年06月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 6月18日(土)はやや曇り空。
 この日は旧軽井沢(旧道)に出かけた。いつもの通り、神宮寺にとめる。
 今回は、堀辰雄の「美しい村」「ルウベンスの偽画」や、川端康成の『高原』などに出てきた光景を確認するのが目的に1つだった。堀や芥川が滞在したことがある「軽井沢ホテル」はこの辺りだろうか、川端が逗留した「藤屋旅館」はこの辺りだろうかなどと考えながら、聖パウロ・カトリック教会の周辺や神宮寺の境内を歩いた。
 コロナ禍の緊急事態が解除され、人出も少し回復してきた印象。みんなマスクはしているが、コロナ感染を心配する気配は感じられなかった。

       

 堀辰雄が芥川か川端かに送った葉書に「神宮寺の枝垂桜がいま満開です」と書いているが(堀辰雄『風立ちぬ』角川文庫、1950年! 262頁。軽井沢ホテルの位置もこの葉書に示してあった)、その枝垂桜(だと思う)が参道の脇に立っていた。立札に樹齢約400年とある。軽井沢には、浅間山以外にも変わらないものがもう一つあった。
 旧道入口わきの竹風堂に「今季は営業しません」という張り紙があった。ここではマロンソフトくらいしか食べなかったのだが、やはり寂しい。竹風堂の栗羊羹、栗鹿の子は時おり親戚に送るのだが、配送依頼が便利なのでツルヤで注文している。
 昔は町営駐車場からこの竹風堂に抜けることができたのだが、最近はどうなっていたのか。
 草軽電鉄の旧軽井沢駅と踏切際のあたりもずい分様変わりしてしまった。周辺の土産物屋も次々に淘汰されてしまって、健在なのは右手の八百屋さんくらいか。

   

 夕方、肩の脱臼でリハビリ中の家内は、湯治をかねて千ヶ滝温泉に出かける。

   
   

 以前松山で学会があった折、朝一番で道後温泉の本館に行った友人が、「芋の子を洗うような混雑で、温泉気分もあったものではなかった」と述懐していたので、家内にも星野は避けてスケートセンターくらいが空いているのではないかとアドバイスしたのだが、それでも結構混んでいたという。
 ぼくは温泉は嫌いなので、旧千ヶ滝スケートセンターのテニスコートや、旧西武百貨店軽井沢店跡、旧文化村の親戚の家の周辺を散策して時間をつぶした。

   
   

 今では雑草のおい繁っているテニスコートでは、その昔、皇太子時代の上皇がテニスをするのを眺めたこともあった。かつての観客席のはずれになぜか公衆電話ボックスがポツンとあった。森高千里の「渡良瀬橋」を思わせるけど、あの電話で恋を語る若者などいないだろう。

   

 待ち合わせまでなお時間があったので、いつもはクルマで通り過ぎるだけだった、堤康次郎の銅像を見物してきた。
 緑の木立の向うに銅像があって、右側には神社と鳥居が立っていた。
 わが家の軽井沢との縁は、彼の千ヶ滝開発の恩恵をこうむっている(remote causation)。わが家が土地を買ったのは国土計画からだったし、ぼくの軽井沢、千ヶ滝の思い出は、西武、国土計画(昔は別会社で、実業団アイスホッケーのチームも分かれていた)が経営したグリーン・ホテル、軽井沢スケートセンター、西武百貨店軽井沢店などとともにある。
 浅間山麓の米軍軍事演習場化反対運動の成功(基地化断念)の裏には、千ヶ滝に広大な土地を所有しており、衆議院議長でもあった堤の影響力もあったようだ(荒井輝允『軽井沢を青年が守った』ウイン鴨川、2014年、104頁)。同書には「康治朗」と表記してあるが、銅像の銘板は「康次郎」だった。
 
   

 あまり手入れも行き届いてない様子で、枯れ枝が散らかっていた。奢れる者も久しからず、のあわれを感じた。
 そう言えば、西武があちこちのプリンス・ホテルを手放すという記事を読んだが、「プリンス・ホテル」の本丸とも言うべき、本当に “プリンス” が毎夏休みに滞在していた千ヶ滝プリンス・ホテルがなくなってしまったのは何年前のことだったか。秋篠宮が幼少の頃に、あのホテル前の道路を歩く姿を見かけたことがあったから、50年近く前のことになるのだろう。
 あの頃も道路から建物は見えなかったが、建物は今でも残っているのだろうか。「千ヶ滝プリンスホテル」と手書きの書体で墨書(?)された門標、火山岩を積んだ低い門柱と木製の大きな門扉はしばらく残っていたが、それらも今はない。  

 旧スケートセンター入り口から千ヶ滝温泉に下る坂道の中腹から眺めると、夕霞に煙った浅間山と前掛山(?)と石尊山が三つのこぶになって見える場所があった(冒頭の写真)。
 真中の山は、わが家では「前掛山」と言い慣わされてきたが、地図には載っていない。

   

 そして、きょう19日(日)はもう帰京の日。
 朝6時前から青空が広がり、木々の緑が朝日をあびて輝いている。帰るのがもったいない天気である。
 9時前に帰り支度を済ませて、出発。

   

 発地市場で、野菜を買って帰路についた。この時期、野菜は数も質もいまいち。細い薩摩芋くらいの玉蜀黍が2本で450円だった。この時期どこで玉蜀黍を作っているのだろう。家内によれば値段も東京とそれほど違いはない、ただ東京に比べて新鮮なので買って帰るとのこと。
 昨日立ち寄った地元のオバさんも、まだ野菜ができてなくて差し上げるものが何もなくて、と申し訳ながっていた。
 峠を下り、藤岡に近づくと気温は30℃を越えていた。

 2022年6月19日 記

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きょうの軽井沢(2022年6月16日~17日)

2022年06月19日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 木曜日(16日)から日曜日(19日)にかけて、天気予報では梅雨の中休みで好天が続くとのことだったので、思い立って軽井沢に出かけてきた。
 めずらしく天気予報が見事に当たって、4日間とも軽井沢は好天に恵まれた。昨土曜日(18日)だけは、やや曇り空だったが雨はまったく降らなかった。おかげで室内にしっかり風を通すことができた。

 16日(木)の昼過ぎに到着。南軽井沢交差点の道路気象情報では気温は22℃だった。
 ツルヤで食料品を買い込む。ツルヤは今年で創業130周年とのことで、「ツルの恩返し」セール(笑)をやっていた。
 前にも書いたが、軽井沢の食料品店の栄枯盛衰をたどると、昭和30年代に(それ以前のことはぼくは知らない)明治屋、小松ストア、紀ノ国屋、ジャスコが相次いで進出しては、やがて消えていってしまったが、ツルヤはこれらの店舗にうちかって生き延びてきた。
 調べてみたら、明治屋だけはツルヤよりも創業が少しだけ古いが、他の店はすべてツルヤよりも後発の会社だった。ツルヤはもとは確か肥料問屋だった。

   

 17日(金)は、プリンス・ショッピングモール(現在の正式名称は知らない)に、孫のスニーカーを探しに行った。
 子供向けのアパレルメーカーに就職したゼミ卒業生から、「洋服は何でもいいけど、靴だけはいい物を買ってあげてください」とアドバイスされたので、足が大きくなって靴のサイズが小さくなるたびに、奮発してナイキのスニーカーを買っている。
 残念ながら、今回はナイキショップにサイズがなかったので、後日、旧軽の靴屋で買った。
   

 ショッピング・モールを歩いていると、離山の頂きごしに、浅間山の山頂と石尊山がわずかに見えるのを発見した。

   

 昼食は、毎度のことで能がないが、国道18号沿いの追分そば茶家で。この店ももう20年以上になるだろうか。最初は「かぎもとや追分店」と称していたように記憶するが。
 先日何かのテレビ番組で、地元のタクシー運転手がすすめるおいしい店というコーナーに、追分そば茶家が出てきた。店主の話では、現在の天皇が皇太孫だったころ、この店に来て店内を走り回っていたという。この店の店内には毎年皇室アルバム風のカレンダーが飾ってある。
 夫婦で天ぷらを二人前食べられなくなったので、最近は2人でシェアしている。

  

 昼食後、天気がよく青空がきれいなので、浅間山を眺めに行くことにした。
 散歩で通りかかったぼくと同年代の老人と、しばし言葉を交わす。ぼくは、軽井沢の散歩の途中で人と会話することはない。先方が気さくな人で、人懐っこく話しかけてきた。
 当然浅間山が話題になる。
 子どもの頃に、峰の茶屋から浅間山に登ったことや、石尊山に登ったが途中で挫折したこと、赤滝、血の池などという名前にもかかわらず、赤い水ではなかったことなどを話した。
 彼によれば、今では石尊山(かれは「せきぞん」と発音していたが、ぼくは「せきそんさん」である)の登山道が整備されて、自転車で登る若者までいるとのことである。南側の噴火口に「ゴリラの顔」ともう一つ何とかというあだ名をつけたとも言っていたが、忘れてしまった。
 赤い水が湧いているところもあるとのことだったが、もう浅間山や石尊山に登る元気はないので確認はできない。
 
   

 浅間山は、遠くから眺めることができれば十分である。映画『カルメン故郷に帰る』を撮影したときの笠智衆よりも年寄りになってしまったのではないか(上の写真、冒頭の写真はその時のもの)。

 2022年6月19日 記

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保阪正康『天皇--"君主"の父、"民主"の子』

2022年06月13日 | 本と雑誌
 
 保阪正康『天皇--"君主"の父、"民主"の子』(講談社文庫、2014年。旧題は『明仁天皇と裕仁天皇』講談社、2009年刊)を読んだ。
 この著者の本を読んだのは今回が初めてである。この著者は新聞への寄稿や対談などしか読んだことはなく、ぼくの座標軸ではどこに位置する人なのかよく分からなかったが、本書に示された上皇(明仁天皇)に対する評価はほぼ共感できるものだった。

 昭和天皇と明仁天皇を、「君主の父」と「民主の子」とする対比(本書のサブタイトルにもなっている)、ないし昭和天皇は「君主制下の軍事主導体制」(戦前)、「君主制下の民主主義体制」(戦後の昭和天皇)だったのに対して、明仁天皇になって初めて「現実の政治体制の下での天皇」(10頁)、「民主主義体制下の天皇」になったという対比を提示して、これ(後者)が本書を貫く一本の芯であると著者はいう(10頁)。
 この対比は(161頁ほかに頻出するが)、太平洋戦争の開戦と敗戦、ポツダム宣言受諾、アメリカによる占領と新憲法の誕生という昭和20年の革命的な変革を軽視していると思うが(「君主制」の継続)、明仁天皇(現上皇)を、立憲君主制から象徴天皇制へ、すなわち「非軍事、戦後民主主義体制下の天皇」を確立することを誓った、天皇制そのものの改革者と規定する見解(300頁)は大いに納得できた。
 
 明仁天皇は昭和8年12月に生まれた。皇太子誕生を祝賀する歌が作られた。作詞は北原白秋だった。ぼくの祖母は「皇太子さま お生まれなす(っ)た ♪」と歌って聞かせたが、原詩は「お生まれなつた」らしい(24~30頁)。
 ぼくの祖母は、1964年の秋、都内でタクシーに乗っていた折に、東京オリンピックの聖火リレーの渋滞に巻き込まれ、運転手が「聖火が通る」と言ったのを「陛下が通る」と聞き違えて、草履を脱いでタクシーの後部座席の上に正座したという逸話を残したおばあさんだった。「なす(っ)た」は敬語だったのだと思う。

 昭和天皇夫妻は皇太子を手もとで養育したい意向だったが、旧慣を主張する側近(牧野伸顕、木戸幸一ら)の反対にあって、3歳までは親もとで養育するが3歳になったら親元を離れ、東宮御所で養育係(東宮傅育官)によって養育されることになる。週に1回は両親との面会が認められるはずだったが、完全には履行されなかったという(39頁)。
 家族愛の深まりは天皇家にとって良いことではないという西園寺公望らの主張(200頁ほか)が通ったのだという。
 ヴァイニング夫人が、父子は同居し、皇太子が近くで天皇を見つめるほうが望ましいのではないかと意見したのに対して、昭和天皇が、自分は戦争を止めることができなかったから、自分の後継ぎを育てる資格はないと答えたという(78頁。ただし伝聞)。 
 昭和天皇は社会党内閣の首相片山哲に好意的な印象を持っていたが(92頁)、片山の東宮職廃止の提案に対して、自分も本当は手もとで養育したいが、そうすると女官らが皇太子に追従や迎合をして教育上好ましくないとして(東宮職の廃止に)反対したという(92~3頁)。

 昭和18年、皇太子が10歳になった際に、東條英機から天皇に対して、皇太子を武官に就任させる要請があったが、この戦争は私の戦争である、皇太子に迷惑をかけるようなことがあってはならないとして、天皇は要請を拒否したという(53頁)。
 戦後に天皇の退位問題が発生し、天皇自身も退位を考えたことがあったが、自分が退位して若い皇太子が即位した場合に誰が後見人になるかを心配し(131頁)、芦田均首相や側近らも、高松宮が摂政に就任することを懸念して退位に反対したという(135頁)。
 これらのエピソードからは、昭和天皇が、皇太子を戦前の軍部や高松宮から遠ざけたいと考えていたことがうかがわれる。 
 
 学習院高等科卒業時のインタビューで、皇太子は好きな学科として「生物、歴史、語学」と答えており(140頁)、愛読する新聞雑誌として「朝日、毎日、読売、時事、東京など、雑誌は中央公論、文藝春秋、リーダーズ・ダイジェストなど」のほか、ライフやロンドン・タイムズなども読んでいると答えている(140頁)。皇太子が東京新聞とは意外な!
 皇太子は学習院大学政経学部に入学したが、公式行事などのため授業に出られない事態が起きた。院長の安倍能成が、公的な理由であっても授業に出ないのならば学習院大学の卒業証書は出すべきではないとしたため、皇太子は同大学を中退したという(178頁)。見識ある院長だとは思うが、当時は院長が単位認定権を握っていたのだろうか。

 皇太子妃選びに際して、小泉信三(東宮職参与)は、従来のような形の結婚はいいことではない、近親婚によってマイナスの影響が生じるのではないかと助言し、公言もしたという(182頁)。皇太子自身も元皇族は絶対にもらわないと学友に語っていたそうだ(195頁)。
 妃候補者は小泉自身がリストアップして、美智子妃に白羽の矢が立ったこと、正田家が学問の家系でもあり、美智子妃が成績優秀だっただけでなく、聖心時代に自治会の会長も務めるなど人望も厚かったことから選ばれたという(183頁~)。聖心に自治会があったとは!
 軽井沢のテニスコートでの出会いも偶然ではなく、小泉や彼に同調する宮中の人たちによって演出されたものだったという(185頁)。婚約会見で美智子妃が語った「ご誠実で・・・」という一言は(189頁)、その声色まで小学生だったぼくの記憶に残っている。
 この結婚には、皇后(香淳皇后)や常磐会、女官などが激しく反発し、結婚後も嫌がらせを行なうなど皇太子妃を冷遇したことは噂では聞き及んでいたが、本書ではかなり具体的にその事実が記されている(190、212頁ほか)。
 ぼくは皇太子を一度だけ見たことがある。昭和30年代末か40年代初めだったと思う。場所は軽井沢の千ヶ滝にあった軽井沢スケートセンターのテニスコートである。テニスのトーナメントがあって、皇太子は確か石黒賢のお父さん(元デ杯選手だった)と組んでダブルスに出場していた。
 道路沿いの石段の観客席に座ってその試合を眺めたのであった。

 明仁天皇は、昭和天皇について、昭和天皇即位50年に際して、「陛下の中に一貫して流れているのは、憲法を守り、平和と国民の幸福を考える姿勢だったと思います。・・・」と述べ(238頁)、昭和天皇の崩御に際しても、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、・・・」と述べている(296頁)。本書で紹介された多くのエピソードを読むと、昭和天皇と皇太子が互いに深い愛情で結ばれていたことがうかがわれる。 
 日本国憲法の象徴天皇制こそ、伝統的な天皇のあり方に沿うものだという言葉もある(370頁)。「皇室の伝統は “武” ではなく、つねに学問でした。(歴史上も)軍服の天皇は少ないのです。学問を愛する皇室、という伝統は守り続けたい」とも語っている(252頁)。著者は、これを明仁天皇の「自らの核になっている思い」であるとする(同頁)。
 天皇は、終戦の日、沖縄戦終結の日、広島および長崎への原爆投下の日の4つの日をどうしても記憶しなければならない日として、黙とうを捧げていると語っている(273~4頁)。 
 
 上に引用した事実の多くは、本書を読んではじめて知ったことである。以前から知っていたことの確認も含めて、ぼくの天皇(現上皇)に対する理解は深まり、抱いてきた感情の淵源にも近づくことができたと思う。この本は明仁天皇とその時代をかえりみるスタンダード、基準点として手元に置いておきたいので、さっそく注文した。
 昭和天皇に関しては、改めてこの著者による「昭和」ものを読んで考えてみたいと思った。保阪は昭和史、昭和天皇について多くの本を書いているようだが、1冊だけだとどれがおすすめだろうか。 

 2022年6月12日 記

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原武史『平成の終焉ーー退位と天皇・皇后』

2022年06月11日 | 本と雑誌
 
 原武史『平成の終焉ーー退位と天皇・皇后』(岩波新書、2019年)を読んだ。

 古代史から天皇の「万世一系」を辿っても、なかなか現代まで到達できない。そこで、現在から遡ることにして、まずは図書館の書棚で目にとまった本書を借りてきた。

 巻末の「あとがき」によると、本書は、宮内庁が「皇室関連報道について」と題して、著者を名指しして、「基本的な事実を確認せずに」皇室について議論することは遺憾である旨の批判をしたことに対する「再反論」の書であるという(221頁)。
 それで合点がいった。この本は、皇太子、天皇時代の上皇夫妻の行動と発言を、具体的な事実を列挙した後に、著者自身の意見・感想を記したり、研究者らの論評を紹介するというスタイルで書かれている。どちらかと言えば、事実をジャーナリスティック(=日々の記録的)に記録した内容である。
 上皇夫妻の、皇太子・皇太子妃、天皇・皇后時代の発言と行動を、時代ごと、事例ごとにふり返るうえでは役に立った。とくに巻末の資料(行啓、行幸啓、国民との懇談会などの日時や頻度、訪問先が掲載されている)は事跡を通覧するのに便利である。
 しかし、事実を列挙する合間に挿入された著者の意見には違和感を覚えることが少なくなかった。

 違和感は、「明仁」「美智子」という表記から始まる。この呼称が出てくるたびに引っかかった。
 著者は、本書は「学術書なので」敬語や敬称を用いないと宣言するのだが(10頁)、岩波新書は「学術書」だろうか。岩波新書巻末の「岩波新書新赤版1000点に際して」によれば、岩波新書が追求するのは「教養への道案内」である。
 ぼくは、「学術書」か否かの基準は、引用文献の出典明記の有無によると考える。本書は、引用の場合に出典は明記されているが、出典の多くは新聞記事である。新聞記事は、記者が出来事や発言のどこを切り取るかで印象は異なってくる(赤瀬川原平『鏡の町 皮膚の町』筑摩書房、1976年)。
 本書に引用された天皇の行幸啓に関する報道も、取材、執筆した記者の主観によって取捨選択が行われているだろう。新聞記事の出典としての信ぴょう性を高めるためには、少なくとも2紙以上の比較による検証が必要だと思う。

 著者は、「明仁」「美智子」と表記する一方で、「皇太子」「皇太子妃」(105、108-10、141、122頁など)、「天皇」「皇后」とか、「皇太子夫妻」と表記することもあるが(112、122頁ほか)、区別する基準は何なのか。時おり「美智子妃」とも表記するが(142、160頁ほか)、「妃」の有無の基準は何なのか。
 「皇太子、皇太子妃」、「天皇、皇后」、「上皇、上皇后」と表記すれば、時代と文脈から現在の上皇夫妻であることは分かると思うのだが、それではいけなかったのか。天皇、皇后をどう呼称するか、敬語を使うか否かは国民各自の自由だと思うが、敬称略(呼捨て)と地位による表記の混淆に、ぼくは違和感を覚えた。
 ところで、「あとがき」の中に登場する「ある人物」(221頁)とは誰なのか、気になった。

 自衛隊との関係で、天皇、皇后の行幸啓などのたびに、自衛隊が堵列(とれつ=隊列を組むこと)を行なうことを著者は批判する(141頁~)。
 ぼくは、妻の実家が甚大な水害被害に見舞われた際の経験から、災害救助活動に携わる自衛隊員に対して感謝の気持ちを強く持つようになった。避難先の親戚からも迷惑がられ、唯一頼りになったのが、連日夏の暑さの中を水筒1つで廃家具や土砂・瓦礫の撤去作業を手伝ってくれた自衛隊員だったと妻は言う。
 そのような被災地を天皇、皇后が慰問することによって、「現実の政治に対する人々の不満が高まれば高まるほど、天皇や皇后がそこから超越した「聖なる存在」として認識される構造がはっきりと現われ・・・、昭和初期の超国家主義にも通じるこの構造は、・・・天皇と皇后が被災地を訪れるたびに強化されていった・・・」と著者はいう(148頁)。
 天皇、皇后にスマホを向けて写真を撮るような「市井の人々」が、天皇を「聖なる存在」と認識しているとも、「超国家主義」に通じるとも思えないが、もしそのような状況が出現しているとしたら、これも被災地に心を寄せない政治家らの怠慢、不徳の問題であって、だから天皇は被災地を慰問すべきでないということにはならないだろう。
 
 上皇が平成の時代に行なった多くの発言のなかでも、自らの出自に関して、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫と『続日本紀』に書かれていると述べた、あの発言がぼくは一番印象的だった。
 宮内庁のHPによれば、その言葉は、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。/しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。」というものであった(「天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)」、平成13年12月18日)。
 日本と韓国の関係を憂慮し、このような史実に言及した天皇の心情がうかがわれるが、『平成の終焉』の著者は重要性を認めなかったのか。
 なお、桓武天皇の生母高野新笠が百済から渡来した氏族であることは事実だが、百済王(武寧王)の末裔であったかは疑わしいようだ(田中史生『渡来人と帰化人』角川選書、2019年、258頁~)。同書は、桓武天皇は中国皇帝をモデルに日本王権の婚姻の「国際化」をすすめようとしたという荒木敏夫説を引用している(261頁)。

 数十年にわたって、沖縄から南洋諸島にまで足を延ばして戦争被害者を慰霊する旅を続ける一方で、昭和天皇を引き継いで靖国神社には参拝しない、折あるごとに日本国憲法を尊重する姿勢を明確な言葉で表明しつづけた上皇夫妻の発言と行動に、ぼくは、天皇の「象徴性」を「血統」ではなく「徳」に求めた自由民権の私擬憲法と同じ精神を見るのである。
 石流れ木沈む日々の中で、そのような天皇がわが国の「象徴」であったことに、ぼくは救いを感ずる。
 
 2022年6月9日 記

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皇后と五日市憲法ーー原武史『平成の終焉』

2022年06月10日 | 本と雑誌
(承前)
 原武史『平成の終焉--退位と天皇・皇后』(岩波新書)を読んだ感想、その2。

 皇后(美智子妃)が五日市郷土館を訪問した際の発言も、著者によって批判される。
 2013年(平成25年)の誕生日記者会見における回答(文書)で、皇后の言葉は以下のようなものであった(宮内庁HP「皇后陛下お誕生日に際し(平成25年)」から)。

 「※5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。※※ 明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」

 この皇后の言葉を引用した後で(170頁。ただし冒頭※から※※までの部分は引用されてない)、著者は、「皇后の言葉を敷衍すれば」、日本国憲法は決して米国からの押し付けではない、その原形にあたるものが明治初期の「市井の人々」によって作られていたからだとして、改憲を目ざす安倍政権に対する批判として護憲派の人々から歓迎されたゆえんである旨を述べる(171頁)。
 この皇后の言葉に対して、著者は、「五日市憲法」が定めた基本的人権保障や法の下の平等などに言及しながら、この憲法が神武の正統である天皇を神聖視する規定をおいていたことに言及しないことによって、皇后は「一つの政治的立場を表明しているように思われる」と批判するのだが(171~2頁)、これは的外れの批判だと思う。
 上に引用したように、皇后の「回答」では、日本国憲法が米国からの押し付けではない云々とは一言も言っていない。「敷衍すれば」と著者はいうが、「敷衍」という言葉の意味をどんなに敷衍しても、上記の皇后発言から「押しつけ憲法」論批判を導くことはできないだろう。

 もし著者が批判するのであれば、その対象は、皇后の言葉ではなく、「五日市憲法」の天皇制規定それ自体であろう。
 自由民権家たちが構想した私擬憲法は、五日市憲法だけでなく、ほぼすべてが君主制、天皇制を採用している。例えば小田為綱案は、皇帝が暴政を行った場合には人民は廃立の権利を有するとして、君主の地位を国民の意思にかからしめる点で、日本国憲法第1条につながる構想として注目されるが、その小田案にしても、天皇制を「万世一系の皇統は万国未だその比類を観ず」、「万世一系の皇族は日本人民にして誰か冀望(きぼう)せざる者あらんや」(原文は片かな)と称揚しているのである(家永三郎ほか『新編・明治前期の憲法構想』福村出版、2005年、49頁ほか)。
 小田案は不徳の皇子は嫡長でも廃帝させるなど、「血統」よりも「徳」を重視していると評される。ちなみに同案は、男系が絶えた場合は女系によるとしている。
 たんなる思想、机上の空論ではなく、現実の政治運動だった自由民権運動においては、天皇制が厳然として存在し、その廃止が現実にありえない以上、その存在を前提として、小田案のように天皇の権力を統制する手段を憲法に規定したり、植木枝盛や馬場辰猪のように、当面は君主制を前提として議会による「民主的」コントロールの手段を構想したことは適切な選択であったと思う。
 ここでも、私たちに課せられた課題は、自由民権運動の中から生まれた私擬憲法すらもが天皇制、君主制を支持していた背景や、自由民権運動家たちの心情の解明である。
 
 民主政治の根底には「徳」(virtue)が存在しなければならないと、阿部斉さんの『政治』(斎藤眞、有賀弘共著、東大出版会、1967年)か何かに書いてあった(未確認)。モンテスキュー『法の精神』は、民主政(共和政)の原理は「徳」(vertu)であり(岩波文庫版(上)71頁)、民主政における教育の目標も「徳」である(95頁)、共和政における「徳」とは祖国愛と平等愛のことだといい(31頁)、ホッブズ『法の原理』は、自己保全こそすべての人間が目指す目標であり、自己保全に資する自然法や自然法に従う慣習を「徳」(virtue)と呼ぶ(ちくま学芸文庫190頁)。新渡戸稲造が “democracy” を「平民道」と訳したのも同趣旨と思われる。
 ぼくは、すべての個人が個人として尊重され、他人の権利を侵害しないかぎり、各個人が自分らしく生きることができる自由な社会を保障することが日本国憲法の精神(13条、個人の尊重)だと思う。
 「徳」の有無の評価は主観的なものであるが、ぼくは、個人の自由を尊重する憲法の精神こそ、民主主義の根底にあるべき “virtue”、民主主義における「徳」の核心と考える。
 小田為綱は「万世一系」の天皇に「血統」ではなく「徳」の継承を求めたが、ぼくは、本書でも紹介された皇太子時代以来の長年にわたる行動や発言を見聞きして、天皇、皇后(現上皇夫妻)は、日本国憲法の精神を尊重しつづけ、それを行動で示したという意味で「有徳」の人であると思っている。

 ぼくたちの世代は、リベラルであろうとする者は天皇制を支持してはいけないとする空気を感じてきた。しかし、もうこの年になったら、自分の感情に正直になろうと思う。
 五日市憲法に対する皇后の「言葉が護憲派の人々から歓迎された」ことを、ぼくは本書ではじめて知ったが(171頁。出典は明示されていない)、ぼくも上のような意味で歓迎したい。
 
 ※ 適切な写真がないので、イギリスのエリザベス女王即位70年記念式典を報じたNHK-BS1の画面を添えておいた。ただし、歓迎する群衆の大部分は白人で、ロンドンの街中で見かけた人口構成とはまったく異なっていたのが印象的だった。
 
 2022年6月9日 記

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きょうの浅間山ーー190万アクセス達成!

2022年06月04日 | あれこれ
 
 上の写真は、現在の浅間山(鬼押出し)の風景。
 ようやく浅間山にも春が訪れた様子で、うっすらと春霞がかかった浅間山の山肌が噴火口(?)までくっきりと映っている。
 今回も、気象庁監視カメラ(浅間山鬼押)から。2022年6月4日午前9時51分頃の画像である。
 
 ところで、昨日、6月3日(木)、「豆豆先生の研究室」の閲覧数が190万回を突破した。
 <アクセス解析>によると、
 一昨日、6月2日には「トータル閲覧数 1,899,838 PV、 トータル訪問数 761,686 UU 」だったのが、
 昨日、6月3日に「トータル閲覧数 1,900,283 PV トータル訪問数 761,938 UU」となった。
 見てくださった方々に感謝です。興味もないのに偶然開いてしまった方には申し訳ないです。

 2006年2月に、息子にこのGoo Blog を開設してもらって以来、16年目の(ぼくとしては)快挙である。
 ブログを始めた当初は誰かに読んでもらうことはまったく期待していなかった。個人的な思い出話を書きとどめておこうといった程度の気持ちだった。それが16年も続くとは、飽きやすいぼくの性格からして、思ってもいなかった。
 正直言うと、途中の一時期アクセス数の増加に気を良くした時期もあった。そしてクルマ関連の書き込みで、クルマの車種名をやたらと列挙しておくとアクセス数が増加するなどというワザ(?)を覚えたりもしたが、やがてそんなことでアクセス数を増やしても意味がないと悟り、また元の<Nostalgic Journey>に戻った。
 途中で、Goo のサービスを利用して軽井沢関係の書き込みを書籍化したが、これも私家本で家族にしか配らなかった。

 定年退職後は<Nostalgic Journey>というよりは、「読書ノート」のようになってしまったが、「読書」といっても、最新刊を読むというのではなく、積年の未読書(積読=ツンドク書)を読むというか片づけるという傾向が強いから、「思い出の旅」の趣もあるかもしれない。
 最近は「読んで考えないことは、食べて消化しないのと同じことだ」というE・バークの言葉に背中を押されて「読書ノート」を書いているが、毎回消化不良の感があることは自覚している。

 あと何年かかるかわからないが、200万アクセス達成を人生の目標に(大袈裟か?)頑張りたい。
 よろしかったら、時々おつき合い下さい。

 2022年6月4日 記

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吉村武彦『新版・古代天皇の誕生』

2022年06月03日 | 本と雑誌
(承前)
 天皇(現在の上皇)が、桓武天皇の生母(高野新笠)は百済の武寧王の子孫と伝えられている旨の発言をしたことがあった。
 2002年のサッカー・ワールドカップが日韓共同で開催された折の発言と記憶していたが、ネットで調べると、2010年に開催された平城京遷都1300年記念式典における発言だったようだ。
 ※ 宮内庁のHPで確認したら、やはりぼくの記憶の方が正しくて、この発言は2001年の誕生日に際して、ワールドカップ日韓共催に関してなされた発言であった(「天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)」、天皇陛下の記者会見、会見年月日:平成13年12月18日の項)。(2022年6月4日追記)
 ネットの情報には気をつけないと、と自戒。

 吉村武彦『新版・古代天皇の誕生』(角川ソフィア文庫、2019年、上の写真)は、著者がニューヨーク・タイムズ紙の取材を受けた経験から書き起こされている(6頁)。
 N・Yタイムズの記者は、当局が天皇陵の発掘を禁止しているのは、副葬品によって天皇が朝鮮系の帰化人であることが発覚するのを恐れているからではないかと質問したそうだ。
 著者は、天皇陵の発掘に関してはN・Yタイムズ記者と見解を異にするようだが、天皇(現上皇)が上記発言の際に根拠としたのと同じく、『続日本紀』の記述から、桓武天皇の生母が百済出身と認識されていたこと、「平安朝以降の天皇家には蕃国人の血が流れており、この事実は疑いようがない」と断言する(9頁)。
 さらに、『日本後紀』や『新撰姓氏録』の記述から、京、畿内の古代豪族のうち約28%が朝鮮、中国からの渡来人の出自であり、母系も加えるとその比率はさらに高まるだろうと述べる(~10頁)。

 倭人と渡来人(帰化人)との混血に関するこのような文献史学に基づいた知見は、最近の遺伝子研究に依拠した人類学上の知見(前に引用した中橋孝博『日本人の起源』講談社学術文庫など)によっても立証されるところである。
 史書には「蕃国」とあるが、当時の朝鮮はわが国よりはるかに文化が発達していた。当時の倭国はいまだ無文字、口承文化の社会であり(稗田阿礼!)、青銅器、鉄器から紙、文字(漢字)、仏教まで、多くは中国から朝鮮を経由して伝播したのであった。
 以前NHKテレビで聖徳太子を主人公としたドラマを放映していたが、聖徳太子役の本木雅弘が宮廷内でコリア語で会話しているシーンがあった。史実かどうかわからないが、そんなことがありえた時代だったのだろう。

 また今回も、本書からぼくが学んだ豆知識をいくつか記しておく。以前この手の情報を「トリビア」と書いたが、“trivia”(“trivium”)は「些細な、くだらない、(せいぜい)クイズ的な雑学情報」といった意味であり、適切ではなかった。「豆知識」もしっくりしないが、「豆豆」先生が得た知識ということで。
 
 (1) 『書紀』では、飯豊青皇女(顕宗天皇の姉)は政務を担った女性だが、「角刺宮において、与夫初交(まぐはひ)したまふ。人に語りて曰く、『一女の道を知りぬ。・・・終に男に交(あ)はむことを願せじ』とのたまふ。」とある(98頁)。同皇女は、弟(後の顕宗天皇)と兄(後の仁賢天皇)が互いに即位を譲り合ったために政務を担うことになったのだが、本来同皇女には(卑弥呼と同様に)男性と関係をもたないことが期待されていたから、『書紀』ではあえてこのようなことが記述されたのだろうと著者はいう(99頁)。
 
 (2) 『書紀』(允恭紀)によれば、允恭天皇の後継者として長子の木梨軽皇子が立太子したが、同皇子は実妹の軽大娘皇女と「結婚」しており、当時は同母兄妹の婚姻は「親親相姧(はらからどちたわけ)」といって禁忌の対象だったため、同皇子は群臣の推挙を得ることができず、(後の)安康天皇に戦いを挑んだが破れて自害し、安康天皇が即位したとある(106~7頁。112頁に再出)。前著(『ヤマト王権』)で「近親婚が多くなる」とあったが、その一例だろうか。
 
 (3) 王位継承の問題は、「王とどのような血縁関係にある人物が後継者に選ばれるか」という候補者の問題と、「どのような手続きを経て選出されるか」という手続の問題に分けられる(237頁)。
 候補者に関しては、兄弟継承が原則とされ、兄殺しの伝承に見られるように、「知力・体力などの実力が即位に際して重要な要素になった」。兄(王)の没後は弟に継承される6世紀前半になると、王位の世代間継承では王の嫡子である大兄(おおえ=長子)が継承するようになった(238頁)。しかし、一夫多妻制のもとでは大兄が複数存在することから、太子、皇太子制が模索されるが、定着しなかったようだ(106~114頁)。 
 『書紀』(允恭紀、雄略紀)には、兄弟間継承をめぐる王殺し、兄弟殺しの伝承が多く記されている(106頁)。例えば、上出の安康天皇は後に暗殺されるが、暗殺をめぐって允恭天皇の皇子の間で争いが生まれ、2番目の皇子と3番目の皇子が相ついで、4番目の皇子である(後の)雄略天皇によって暗殺されるという兄弟殺しの伝承を通して、兄から弟への王位継承が記されている(107頁)。

 (4) 王位継承の手続面では、群臣の協議を経た推挙によって王位継承者が決まったが、例えば木梨軽皇子は上記のような妹との近親姦があったために群臣の推挙を得られず、安康天皇が即位した(112頁)。
 大化改新(645年)において、初めて在世中の皇極天皇の譲位が行われ、群臣の推挙を経ないで王族の意思で新帝(孝徳天皇)が即位した(238頁)。蘇我家(総本家)が打倒されたのを背景に群臣の意向が排除されたのである。これを機に国王による自立的な王位継承が実現し、最終的には天智朝の「不改常典の法」によって直系の王位継承法が定まることになるが(162~4頁)、天皇は律令法を超越した存在であるため、律令には王位継承の法は定められていない(170頁)。
 ただし、「不改常典の法」の内容については、現在のところ学説上の定説はないという(238~9頁)。直系承継と兄弟承継との優劣も不明確で、壬申の乱では天智天皇の直系大友皇子と、兄弟大海人皇子が争い、大海人が勝利して天武天皇になっている(240頁)。

 (5) 『書紀』には、百済の武烈7年(507年)に斯我君(しがきし)が百済から派遣された記事があり、さらに斯我に子が生まれ、その子は「倭君の祖」とある(222頁)。この記述が事実であれば、百済の王族の一人が倭国に滞在し、その子孫が「倭(和)君」を名のったことになる。この「和氏」は桓武天皇の母である高野新笠が生まれた氏族である。ただし、著者は、高野新笠が主張した伝承が正確かどうかは「別の問題となる」と留保する(222頁)。前述の個所(9頁)では、『続日本紀』を根拠として、桓武天皇の生母の出自を武烈王の末裔と認識されていたと書いている。
 百済滅亡(660年)後に百済から多くの貴族、民衆が亡命してきたが、百済王族は天智、天武期のヤマト王権において優遇されたという(229頁~)。
 現在の日本社会よりもはるかに東アジア、中国や朝鮮に対して開かれた社会だったことがうかがわれる。

 2022年6月3日 記
 

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