豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

1888年8月31日 ロンドンで

2020年08月31日 | 本と雑誌
 
 NHKの朝6時ころのラジオ番組で<きょうは何の日?>というのをやっている。
 その日(今日なら8月31日)に起きた歴史的な事件を5、6件、簡単なエピソードを添えて紹介する番組である。
 それにならって、1888年のきょう8月31日に起きた歴史的事件から。

 牧逸馬『浴槽の花嫁』で紹介した19世紀末ロンドンの<切り裂きジャック>事件の、最初の殺人事件が起きたのが、1888年8月31日(金曜日)だった。

 きょう、仁賀克雄『ロンドンの恐怖--切り裂きジャックとその時代』(ハヤカワ文庫、1988年、1994年2刷)を読んでいて、偶然この日付に出会った。
 切り裂きジャックはヴィクトリア女王時代のロンドンの貧民街、イースト・エンドで1888年に起きた連続娼婦殺人事件だが、その最初の事件がこの日の午前3時ころに起きたという。

 解剖場面で描写される被害者の服装が、きょうの東京の暑さからは想像もできない厚着である。「赤褐色のアルスター・コート、褐色の麻毛混紡のドレス、黒いウールの靴下、フランネルとウールのペチコート各1枚、褐色うねり織りのコルセット1着」とある(44頁)。
 訝しく思ったが、著者によると8月の末ともなるとロンドンの夜は涼しく、夜間の気温は11、2度しかない、日本でいえば秋の終わりくらいの寒さを感じるという。
 北海道、滝川に住む知人が、1週間ほど前に、滝川は朝晩は肌寒く毛布を掛けてねていると言っていた。北海道とロンドンの緯度は同じくらいだから、同じような「寒さ」なのだろう。
 今度はNHKラジオの「世界の気温」を気をつけて聞いてみよう。※注

 この日を皮切りに(ちょっとショッキングな比喩か)、同年11月9日に第5の事件が起きるまでに、売春婦を被害者とする惨殺事件が5件連続して発生し、それ以降はぱったりと止むことになる。殺害方法や殺害後の陵虐行為からみて同一犯による犯行と考えられている。
  
 仁賀氏は「日本でただ一人のリッパロロジスト」と紹介文にある。
 「切り裂きジャック」をめぐっては多くの著書が書かれているようだが、ぼくは仁賀氏のこの本と牧逸馬のほかには、コリン・ウィルソン(&ロビン・オーデル)の『切り裂きジャックーー世紀末殺人鬼は誰だったのか?』(徳間文庫、1998年)を持っているだけである。
 結局犯人が逮捕されなかったために、推理作家や犯罪研究者の想像力を刺激し、様々な憶測による執筆を可能にしたのだろうが、「リッパロロジスト」まで存在するとは恐れ入った。ちなみに「リッパロロジスト」とはコリン・ウィルソンの造語だそうだ。

 この本にも引用されているが、この事件はたんなる猟奇的犯罪というだけでなく、ヴィクトリア朝時代を象徴する事件としても関心をもたれているようだ。
 明治5年に岩倉使節団の一行が、先進国イギリスの影の部分であるイースト・エンドの貧民街を視察したことが紹介されている(38頁)。自国の恥部も後進国日本に紹介するとは、さすがイギリスである。

 8月はMY「怪奇小説月間」ということで、最終日の書き込みにふさわしいかどうか。
 この本を最初に読んだのも、1994年8月5日と巻末の余白にメモがあった。

 ※ 昨夜(正確には今日9月1日の深夜0時台)、0時50分にチェロ(?)が奏でる“ミスター・ロンリー”が流れて“ジェット・ストリーム”(東京FM)が終わったので、チューニングをNHK第1に回すと、ちょうど「世界の天気」をやっていて、きょうのロンドンの気温は「最高気温17℃、最低7℃」と言っていた。午前3時だったら最低気温の7℃に近いだろうから、これくらい衣装を着こんでいてもおかしくはない。(9月1日 追記)

    *    *    *

 8月31日ということで、2020年8月31日、きょう限りで閉園した<としまえん>について書こうと思ったが、写真が見つからなかったので、断念した。
 昭和30年ころに、近所のおばさんに連れて行ってもらって、ロバだかポニーだかに乗った記憶がある。写真もあったように思う。場末のぬかるみのようなところに粗末な柵が設けられていて、その前で撮った写真だった。恐らく当時の<としまえん>だったと思う。
 その後も、子どもが小学生の頃までは何度かプールに泳ぎに行ったが、その後は30年近く行っていない。

 ところで、西武線の「豊島園」の駅名はどうなるのだろうか? 東横線の「都立大学」や「学芸大学」のように、大学は移転しても駅名は残るのだろうか。そういえば、小田急線の「向ヶ丘遊園」駅は遊園地がなくなった今でも駅名はそのままである。
 豊島園近辺には西武のお偉いさんが住んでいるので、豊島線がなくなることは絶対にないと、豊島園(駅)から通っているおばさんが言っていた。真偽のほどは分からないが。

 
 2020年8月31日 記


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篠田正浩 『少年時代』(シネフィル WOWOW)

2020年08月30日 | 映画
 
 きのう、8月29日午前中にBS放送をつけると、シネフィルWOWOW(451ch)で、篠田正浩監督『少年時代』(柏原兵三、藤子不二雄A原作)をやっていた。

 この映画はぼくの好きな映画の一つだが、ビデオもDVDも販売されておらず、街の映画館でも上映されないため、めったに見ることができない。
 夏の終わりに(今年の夏はまだ終わりそうにないが)、1945年の夏の終わりとともに終わった一つの少年時代をすがすがしい気持ちで見た。
 ぼくにとって、8月映画は『火垂るの墓』と『少年時代』である。

          

 ぼくは昭和30年代初めに、毎夏を母の実家のあった仙台で過ごしたが、地元の子どもたちに標準語(東京弁?)を馬鹿にされて、いじめられた経験がある。当時は仙台の子でも東北弁丸出しで喋っていたし、東京から来た子はスカして見えたのだろう。
 疎開した少年の比ではないだろうが、彼らの立場を少しは実感できる世代である。
 かれら仙台少年とぼくの人生は、その後二度と交差することはなかったが、おそらく『少年時代』のラストシーンで、東京に帰る風間君が乗った汽車に向かって手を振っていた武も、その後風間君と会うことは二度となかっただろう(最初の写真)。

 『少年時代』では、登場人物がみんな頭を丸刈りにしているのも、この映画の本気さを示している。
 最近のテレビや映画は、時代背景が戦争中であるにもかかわらず、時には軍人役の俳優までもが、平気で髪を伸ばしたままで出演していたりして、興ざめする。
 リアリティーがないというのではなく、その作品の製作者、出演者の真剣さが感じられないのである。
 ぼくの記憶に残るものでは、何十年も前にNHKテレビで放映された『歳月』という、戦争中の野田の造り醤油屋を舞台にしたドラマがある。主役の中井貴一は短めにカットしただけだったのに、脇役の船越栄一郎が丸刈りになっていた。ヒロインは確か島田陽子だった。
 最近では三浦春馬である。ぼくは、三浦春馬という俳優を亡くなるまでほとんど知らなかったのだが(10年以上昔に近所の三菱銀行のポスターで見かけたくらいである)、亡くなった後で、戦争を描いた作品で彼が頭を丸刈りにしているのを見て、彼の真摯さを知った。


 2020年8月30日 記



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牧逸馬 『浴槽の花嫁ーー世界怪奇実話Ⅰ』

2020年08月29日 | 本と雑誌
 
 『魂の叫び』や『少年たちの迷宮』を読み、イギリスの少年刑事司法、非行少年の処遇、陪審制度などについて書きこんだ。
 しかし、正直なところ、これらの本を20年前に購入した動機、そして今回読んだ動機は、年少者の責任能力の有無への関心だけではなかった。

 10歳の少年(少女)による幼児殺害事件という「猟奇」的事件への関心がなかったとは言えない。ちなみに、「猟奇」とは、「奇怪なもの、異常なものに強い興味をもち、それを探し求めること」([現代国語例解辞典、小学館])であるらしい。
 事件当時、これらの事件を連日報じたタブロイド新聞を買い求め、テレビに釘づけになったイギリスの庶民と同じ興味がなかったと言ったら嘘になるだろう。

 ぼくはまだ中学生だった頃、軽井沢の旧道沿いにあった<三笠書房>の店先に置いてあった、アメリカ(?)の犯罪実話雑誌を立ち読みしたことがある。
 道路に近い書棚の下の方に置いてあった。立ち読みではなく、しゃがみ読みだったかもしれない。道路側のショー・ウィンドウからは夏の日ざしが射し込んでおり、外の道路を外国人の老夫婦が歩いていた(だろう)。
 しかし何気なく手に取った(猟奇趣味?)その雑誌には、殺人事件の現場の写真や殺害された被害者の死体の写真なども載っていて、ぼくは血の気が引いた。

 それから数年後、角川書店が横溝正史の復刊でブームを作ったあたりから、出版界に<昭和レトロ>ブームが起きて、新青年などで一世を風靡した作家の復刻版が相次いで出版されるようになった。
 その中に、牧逸馬の<世界怪奇実話>シリーズもあった。社会思想社の現代教養文庫(!)に入っていた。
 こんな本を読んでいると、ぼくも登場人物のような犯罪者になるのではないかと祖母が心配していたが、幸いそのようなことはなく、無事社会人として生きて来た。
 祖母を心配させまいと、牧逸馬の本はどこかに仕舞いこんだまま見つからなくなってしまっていたのだが、最近本棚の奥から数十年ぶりに出てきた(上の写真)。

                   

 牧逸馬『浴槽の花嫁--世界怪奇実話Ⅰ』は、奥付によれば、1975年6月刊とある。
 久しぶりに第1話「女肉を料理する男」を読んだ。19世紀末に、ロンドンのイースト・エンドで起きた連続売春婦殺害事件、「切り裂きジャック」の話である。
 この題名は、テーマにそぐわないもので、絶対におかしい。題名だけは、読者の猟奇趣味におもねっている。

 「辻君」、「襤褸」など、時おりやや古風な言葉が出てくるが、文章は簡潔で、読みやすい。1930年代の作家の文章とは思えない。犯罪ドキュメントのジャンルに入るだろう。ちなみに巻末の解説は松本清張が書いている。
 驚くことに、牧は実際にロンドンまで取材に行っており、ボディーガードを雇って夜のイースト・エンドを歩いている。
 決しておどろおどろしい描写ではなく、事実を追っていて(その事実はグロテスクだが)、(逮捕されることのなかった)犯人の推理についても当時の諸説を検討している。牧は、ロシア人医師説、アメリカ滞在経験のある医師説などを有力視している。
 その後、DNA鑑定によって(当時から疑いをもたれていた)ポーランド人犯人説が有力になったという新聞記事を読んだ(2014年9月8日毎日新聞夕刊)。
 
 旧軽井沢の三笠書房でアメリカの犯罪実話雑誌を目にしたのは(1963、4年ころの)8月、牧逸馬を読んでいたのも(1975年ころの)8月だった。
 中学生の頃に定期購読していた旺文社の「中学時代」だったか、学研の「中2コース」だったかの付録に付いていた文庫本で「牡丹燈籠」の原典である中国の怪談を読んだのも8月だった。棺桶の中で女の幽霊と主人公が眠るラストシーンを描いた挿絵を今でも忘れない。

 8月は怪奇小説の季節である。


 2020年8月29日 記


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ホンダ E (honda-e)

2020年08月28日 | クルマ&ミニカー
 
 ホンダの電気自動車の市販開始が公表された。

 外形は以前から時おりインターネット上で予告されていたモデルと大きな違いはない。
 この外見にぼくは期待していた。
 懐かしいホンダN360と表情が似ていたからである。

            

 ぼくは最後に乗るクルマは、ぼくにとっての「懐かしの」クルマにしたいと思ってきた。
 わが家の最初のマイカーはスバル360だったので、スバル車も考えたが、インプレッサの車幅が肥大化して1740mmを上回ったあたりで、候補から落ちた。

                   

 上は、スバル360のミニカー、下はスバル1000と学生時代のぼく。場所は旧軽井沢ロータリー近くの町営駐車場である(当時はこんな簡素な駐車場だった)。

                   

 
 その後長く乗ったカローラの後継車でもいいと思ったが、ランクスを最後にハッチバックはなくなってしまった。
 最近出たヤリスにはちょっと魅力を感じている。価格も手ごろで、サポート・システムも高齢ドライバーにはありがたい。

 そして、ホンダである。
 大学生時代に初めて友人たちとドライブで遠出した時に(といっても行先は軽井沢だったが)乗ったのが、友人の親父さんから借りたホンダN360だった。このコラムで何度か書き込んだ。

                   

 そのホンダN360に似た表情のホンダEも悪くはないと思っていた。
 しかし、今朝の新聞に載ったホンダのプレス・リリースを見て驚いた。
 価格が451万円というのだ!
 最近はエコカー減税も以前ほどではなく、せいぜい2~30万円程度らしい。300万円くらいでも迷うのに、400万円では断念するしかない。

 サポ・システムはありがたいが、クラウドAIによる情報提供だのスマホでドアの開閉ができる、その他は、CDをCDプレイヤーにつっ込んで聞いているぼくには無用の長物。こういうのをすべて削ぎ落とした廉価版を出してくれないだろうか。
 会社全体として販売車のCO2削減が要求されているなら、庶民にも手が届く価格設定の方が売上高は上がると思うのだが。しばらくはプレステージ・カーか。

            

 300万円でも、わが豆豆先生ことミスター・ビーンの愛車だったミニも買える。
 
 そもそも、現在載ってるマツダ・デミオに何の問題も生じていないので、デミオでわがクルマ生活は終わるかもしれない。

 
 2020年8月28日 記


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ブレイク・モリソン 『少年たちの迷宮――裁かれた十歳の殺人者たち』

2020年08月26日 | 本と雑誌
 
 ブレイク・モリソン『少年たちの迷宮――裁かれた十歳の殺人者たち』(文芸春秋、1998年) を読んだ。
 これも、『魂の叫び』と同じく、未成年者による幼児殺害事件を扱ったノンフィクションである。発売当時に買ったままで気になっていたのだが、今回読むことにした。

 1993年、英国リバプールのショッピング・センターで、2歳の男児(ジェームズ・バルガー)が行方不明になり、2日後その無残な遺体が近くの線路上で発見される。
 ショッピング・センターの防犯カメラには2人の少年がジェームズの手を引いて連れ去るシーンが写っており、容疑者として10歳の少年2人が逮捕さた。メアリーの場合と同様に2人は刑事裁判にかけられ、陪審から有罪の評決を受け、不定期刑に服することになる。

 この事件も、メアリー・ベル事件以来のセンセーションを巻き起こした。とくに2人が幼児を誘拐する防犯カメラの映像が繰り返しテレビで流れたため、タブロイド紙だけだったメアリー・ベル事件以上に社会的関心を引き起こした。
 この本の著者は詩人だという。
 したがって、バルガー事件の概略を知るには十分だが、誌的な叙述も散見され、法律側から未成年者、とくに年少者の犯罪に対する警察、訴追側(日本でいえば検察官)の捜査手続、それに続く刑事裁判手続など法的な対応に関心をもつ私には、残念ながら十分に満足のいく記述ではなかった。

 しかし、この本の帯に付された、「裁判官殿、もし十歳の子どもに善悪の区別が正しくできると言うなら、十歳の子どもに陪審員を任せますか?」という宣伝文句には共鳴した。
 著者は逆説のつもりで言ったのだろうが、「未成年者は未成年者が裁く」という意見は、私は検討に値する提案だと思う。そもそも成人の陪審員にしても、どこまで年少者による殺人事件を判断できるかは怪しいものである。大人の側の処罰感情が判断をゆがめる恐れがないとは断言できない。もし「12人の怒れる男」にヘンリー・フォンダがいなかったら、あの事件の評決はどうなっていたか。

 陪審制とは、「クラッパムの乗合馬車に偶然乗り合わせた12人の意見が一致した場合には、その結論(判断)は、その地域のコミュニティー・スタンダード(社会通念)にかなった結論と見なすことができる」というイギリス流の経験主義に基づいた制度だと説明される。
 クラッパム(Clapham。ロンドンの住宅街)の乗合馬車に乗り合わせた12人とは、今日的な法律用語でいえば「平均的通常人」だろう。乗合馬車(omnibus)は今日でいえば路線バスであり、当時の乗合馬車は12人乗りだったので、陪審員の数は12名になったという。

 10歳の被告人を謀殺ないし故殺で裁こうというのであれば、陪審員にも必ず10歳の者(少なくとも14歳未満の者)を含ませ、そのような年齢の陪審員にも理解できるような言葉と論理で審理を行い、評決を求めることは一つの興味ある提案だと思う。クラッパムの乗合馬車の12人の乗客の中には、10歳の子どもが乗り合わせたこともあっただろう。

          *     *     *

 ちなみに、細谷芳明「児童虐待の現状と刑事司法の関与(1~4)」(捜査研究2016年12月号~2017年7月号)は、現代日本の児童虐待事件への刑事的対応をテーマとした研究ではあるが、年少の被害者(被虐児)から聴取をする場合の手法(近時の日本の実務で採用されているカウンセラーなど福祉関係者も参加する協同面接など)や、幼児の証言能力やその供述の信用性(証明力)に関する最近のわが国の判例などを詳細に検討しており、被疑者・被告人が幼児である場合の捜査や裁判を考えるうえでも参考になるだろう。
 細谷氏は元栃木県警察学校長や警察署長などを歴任した警察OBの研究者である。


 2020年8月26日 記


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ジッタ・セレニー 『魂の叫び――11歳の殺人者、メアリー・ベルの告白』

2020年08月25日 | 本と雑誌
 
 ジッタ・セレニー『魂の叫び――11歳の殺人者、メアリー・ベルの告白』(清流出版、1999年。原書は“Cries Unheard”,1998)を読んだ。
 3日かけて読んだ。途中から「告白」を読むことに苦痛というか不快感を禁じえなくなったが、それでもやめることはできず、最後まで読んだ。

 この本は、1968年にイギリスのニューカッスルで起きたメアリー・ベル事件のドキュメントである。
 同地で4歳と3歳の男児が相次いで遺体となって発見された。最初の遺体は当初は事故かとも思われたが、第2のi遺体が発見されるに及んで、警察は事件性を疑い、やがて2名の容疑者が逮捕される。2人とも11歳の少女だった。
 イギリス法では犯人が10歳に達している場合には刑事責任を問うことができることになっている。10歳になれば、物事の善悪の判断はできる(刑事責任能力がある)という考え方に基づく(ちなみに日本では刑法41条によって14歳である)。そして有罪とされた場合には成人と同様に刑罰を科すことができる。

 裁判において陪審員たちは、一方の少女は2名の男児に対する謀殺についてともに無罪としたが、他方の少女メアリー・ベルについては、限定責任能力だったとして故殺による有罪を評決した。イギリス法では18歳未満の被告人の刑事責任能力については、訴追側で責任能力を証明できなかった場合には責任能力が限定的だったとして刑罰が減刑される。本件では、メアリーは限定責任能力者だったとして、謀殺(故意による殺人)から減軽した故殺(過失致死など故意によらない死亡)とされた。
 陪審員によるこの評決に基づいて、裁判官はメアリーに終身刑を宣告した。

 メアリーは、11歳だった1969年から1974年までは学校を併設した収容施設に収容され、1974年に16歳に達すると女子刑務所に移送された。そして、1980年、23歳の時に仮釈放となって刑務所を出所し、名前を変えて社会に復帰することになる。
 出所後、結婚し子をもうけるが、最初の結婚は破綻し、やがて理解ある新しい男性と結婚して、現在に至っている。
 センセーショナルな事件だったため、タブロイド紙や外国雑誌(シュテルンなど)の格好の餌食となり、しかもメアリーの母親が金目当てで情報を切り売りしたり、事情を知った警察官の妻が秘密を漏えいするなどしたため、メアリーは何度も住所を変えなければならなかった。

 この本の著者には、すでにこの事件の経緯と裁判過程をあつかった著書、『マリー・ベル事件』(邦訳は評論社、1978年)がある。
 しかし著者は、裁判では「何が」起きたのかしか論じられておらず、「なぜ」このような事件が起きたのかについて論じられなかったことを不満として、事件から30年を経て、すでに仮釈放されて社会生活を送っていたメアリー・ベルに接近する機会を得て、長時間に及ぶインタビューを敢行し、「なぜ」このような事件が起きたかを究明しようとした。これが本書執筆の動機であるという。
 本書は、メアリーが著者に語った告白を中心にして、その他にも裁判に提出された資料や公判の記録、メアリーが収容された矯正施設や刑務所などで彼女とかかわった施設長、看守、カウンセラー、精神科医、保護観察官ら関係者へのインタビューなども交えながら、事件の原因(「なぜ」)を探っていく。

 そして、この事件の遠い原因が、幼児期のメアリーと母親との関係にあったことを指摘する。
 メアリーの母親は売春を生業としており、17歳の時に父親不明(母親は知っていたらしい)のメアリーを生んだものの、生まれた直後から子どもに愛情を示すことはなく、養育は親戚らに任せきりだった。
 それどころか、母親は自分の客との行為時にメアリーを2人のベッドに同衾させ、客への性的供応をさせたと、メアリーは著者に告白する。著者はそれは事実であり、メアリー自身も封印した、この幼少期の性的虐待こそが事件の遠因であったと推察する。

 残念ながら、私には、メアリーの性的虐待を含めた「告白」のすべてが事実であるとは思えなかった。
 メアリーは、幼ない頃から大人の心を操作することに長けていたという。そして、しばしば怒りを爆発させ、悪態をついたりする。一貫してこの事件を追っており、メアリーに好意的な立場を表明し、事件の真の原因がメアリーの幼少期の体験にあったと考えていた著者の意図を見抜いてそれに迎合するような、しかも自分に有利な話を作り出すくらいのことはメアリーにとってそれほど困難ではなかったのではないかと私には思えた。
 本書は、本事件の核心をメアリーの告白に頼らざるを得ないという弱点を持っている。そのため、著者は情報提供者であるメアリーの機嫌を損ねることはできないし、メアリーの意に反することは書けなかっただろう、おそらく原稿やゲラ刷りはメアリーのチェックを受けたのではないだろうか。

 百歩譲って、もしそのような幼児期の性的虐待があったとしても、メアリーの体験は本件メアリーに特異な体験であって、年少の「殺人者」一般に該当するとはいえないだろう。そのような体験をした被虐児がすべて殺人者になるわけではないことは、メアリー自身が語っているところである(591~2頁)。
 最低でも、メアリーの母親、父親の来歴や性格、メアリーへの影響はもっと調査すべきだった。母親については行間からも多少はうかがうことができるが、なぜ母親がそのような性格で、娘を売るような行動をつづけたのかについては、説得的な説明は書いてない。

 もしメアリー・ベル事件のような悲惨な幼児殺害事件を抑止するためには、メアリーが行った行為の真の原因を探る必要があったとしても、そのためにこのような本を出版する必要があっただろうか。
 何といっても、被害者の遺族たちにとって、このような本が出版され、加害者であるメアリーが事件について弁明し、現在でも社会の中で日常生活を送っており、本書の出版によって金銭を得ていることは、耐え難い苦痛を与えるであろう。げんに被害者の一人の母親はこの本の出版に対する不快感を表明している(597頁)。

 著者は、本書中で何回か遺族への配慮を記しているが、メアリーへの共感ほどには遺族への配慮をしているとは私には感じられなかった。被害者への最大の配慮は、このような本を出版しないことだったのではないだろうか。巻末の訳者解説によると、オブザーバー紙は、この本によって被害者遺族だけでなく、メアリー自身も傷を負うことになるのではないかと危惧を表明したという。
 出版契約の内容や本書の成立の経緯について、本書の本文や解説には書かれていないので、メアリーが出版を承諾した動機や印税について知ることはできない。唯一、訳者による解説の中に、本書の出版によってメアリーは5万ポンドの報酬を得たという噂があったことが紹介されているだけである(596頁)。
 下司の勘繰りと言われるかもしれないが、メアリーを追い続けたタブロイド紙、その背後にいる興味本位の大衆が本書の読者だったのではないだろうか。私もその一人かも知れない。

 イギリスの年少犯罪者に対する裁判や処遇が不適切であったことを批判するという目的があったとしても、このような本の出版という手段によらないでも、イギリスの未成年者に対する刑事裁判の改善への提言は可能だったと思う。
 その後、イギリスでも年少犯罪者に対する処遇に関しては一定の改善が見られるようだが、現在でも、10歳に達すれば刑事責任能力者として扱い、刑罰を科すことができるという基本原則は維持されている。保守党、労働党支持層を問わず、この原則に対しては根強い社会的な支持があるらしい。(※高橋有紀「英国における刑事・少年司法の年齢設定」山口直也編『子どもの法定年齢の比較法研究』(成文堂、2017年)を参照したが、私の見解で書いている。)

 現在ではメアリーも60歳を超えているはずだが、本書出版後の彼女はどのように生きたのだろうか。


 2020年8月24日 記


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8月20日の夕焼け

2020年08月20日 | あれこれ
 
 母方の祖父が亡くなったのは、1984年8月20日、36年前のきょうだった。

 その日の午後8時に亡くなったのだが、危篤の知らせを受けて病院へ向かう電車の窓から眺めた夕焼けがやけにきれいだった。
 東武東上線の進行方向、東京の西方の夕空が赤く染まり、たなびく雲がむらさきに輝いていた。西方浄土とは、あの夕焼け空の向こうにあるのだろうと思った。

 今日の夕方、暑さが多少和らいだので、近所まで散歩に出かけた。
 大泉学園駅南口のピロティーから所沢方面を眺めると、まさに夕日がビルの向こうに沈まんとしていた。
 36年前のきょうの夕焼けを思い出した。

 あの時の夕焼けの方がもっと神々しかったけれど。


 2020年8月20日 記



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きょうの浅間山 (2020年8月20日)

2020年08月20日 | 軽井沢・千ヶ滝

 猛暑の東京から。

 今朝の8時前後だったか、NHKテレビを見ていたら、現在の軽井沢といって浅間山が写されていた。朝の夏空にうっすらと青みを帯びたきれいな山影だった。
 あわててスマホのカメラで撮影しようとしたが、画面は茨城県に切り替わってしまった。
 そういえば、この週末にも、軽井沢の72ゴルフ場で開催された女子のゴルフ大会を放映していて、時おり高く上がった打球の背景に浅間山がくっきりと見えていた。

 テレビの画面は取りそびれたので、例によって長野県道路事務所HPの長野県道路情報ライブカメラから浅間山のライブ映像を拝借した。
 下の写真は、地図からすると、国道18号の和美峠あたりから眺めた浅間山。高崎河川国道事務所(国交省)提供というキャプションがついている。

                 

 残念ながら、雲がかかっていたので、少し時間を置いて、今度は(同じ国交省だが)気象庁の監視カメラ画像(浅間山・鬼押)というのを拝借した。(冒頭の写真)
 長野県道路事務所のものよりくっきりと写っている。浅間山は裾野がゆったりと伸びる軽井沢側(それも町役場とか発地市場あたり)からの眺めがベストショットだとぼくは思う。
 鬼押出しからの眺めは、少し北東に寄りすぎているけれど、北軽井沢ほどには寄っていないので、許容範囲か。

                

 おまけに、鳥井原交差点の画像もアップしておく。これも長野県道路事務所HPから。

 
 2020年8月20日(祖父の36回目の命日) 記


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きょうの軽井沢 (2020年8月14日)

2020年08月18日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月14日(金)、朝7時45分ころにゴミを出しに行く。収集所にはすでに回収車が来ていて、間一髪間に合った。町の広報誌には朝8時までに出すように書いてあったのだが。

 戸締りを確認、プロパンガスの元栓を閉め、電気のブレーカーを落とし、水道元栓も閉めて、家を出発。
 土産物(といっても野菜やトウモロコシ)を買うために、発地(ほっち)市場に立ち寄る。
 9時開店なのに、8時半に到着すると、既に30人近い行列ができている。9時の開店時には100人近くになっていたのではないか。
 段ボール2箱分の野菜を買い込み、発地市場を出発。

              

 発地市場は、公式には「市庭」と書いて「いちば」と読ませたいらしいが、ぼくはこういう漢字の使い方は嫌いなので、「市場」と書く。ワープロの変換の必要もない。そもそもバザールのように「庭」で市場をやっているわけでもない。

 この発地市場から眺める浅間山は、個人的に「浅間百景」のトップクラスと思っている。以前メルシャン美術館があったころは、あそこの裏庭に「浅間八景」の一つという案内板が立っていた、ほかの七景はどこだったのか。
 浅間山は、裾野が悠然と伸びているところがいい。個人的には、石尊山、前掛山(?)、浅間山、小浅間山が全部並んで見えるのが一番よいが、石尊山、浅間山が並んで見えれば許すことができる。
 湯川あたりの国道18号、中軽井沢図書館2階、しなの鉄道の追分・御代田間、浅間テラス、発地市場あたりがぼくのベスト・ショット。小諸側、北軽井沢側からの眺めは私的にはNG。

 ところで、軽井沢の情報誌を見たら、発地市場前の道路を「浅間パノラマ街道」と命名したとか。これも珍妙なネーミングだが、「プリンス通り」や「日本ロマンチック街道」よりはましだろう。

             

 西方向の浅間山だけでなく、南側の山並み(八ヶ岳?荒船高原?)も悪くない。

             

 出口近くに一本松(?)が植えてある。

             

 
 レイクニュータウンや72ゴルフ場のわきを通って、碓氷軽井沢インターから上信自動車道に入る。
 下りの道路は車列が続いているが、午前中なので上りは空いている。とてもお盆の最中とは思えないくらいに空いている。やはり多くの日本人は真面目に自粛要請を守っているのだ。
 申し訳ない気持になった。

 12時前に帰宅。覚悟はしていたが、この日も東京は暑かった。


 2020年8月14日 記


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芥川龍之介 『魔術』

2020年08月17日 | 本と雑誌
 
 上の写真は、8月13日午後、ケーヨー・デーツー駐車場からバイパス越しに眺めた浅間山。消防署の火の見やぐらが見えている。
 軽井沢に行けないときに眺めている長野県道路事務所HPの、鳥井原東交差点の画像とほぼ同じ地点からの景色かと思う。

 
 さて、バルザック『あら皮』を読んだときに、中学校の国語教科書で読んだ芥川龍之介「魔術」と趣向が似ていると書きこんだ。

                               
 
 軽井沢に置いてある『芥川龍之介名作集』(少年少女現代日本文学全集12巻、偕成社、昭和38年[1964年]5月発行。上の写真)にも「魔術」は載っていた。
 同書の巻末の「解説」には、芥川のどの作品がどこの教科書に収録されているかの一覧表が載っていた。それによれば、「魔術」は、光村図書の「中等新国語 中学2年」に収載されている。しかも「魔術」を収録していた教科書は光村版だけだったようだ。
 ぼくの記憶とちゃんと符合している。ぼくたちの杉並区立神明中学校で採用された国語教科書は光村で、ぼくは中学2年生で芥川の「魔術」に出会い、さっそくその年のうちに、偕成社の子ども向け芥川名作集を買ったようだ。そして「魔術」の魔術によって、本というか読書にのめり込んでいくことになった。
 上の写真は、偕成社版「魔術」の挿絵だが、ぼくがこの小説から得た印象からすると、やや「不思議」感が弱いか。下の写真は、同書の巻頭にある芥川の年譜に沿った写真。こういうサイド・メニュー(?)的な付録も、ぼくの読書意欲を書き立てた。

                

 「魔術」を載せていたのは、光村1社だけだったようであるから、もしぼくたちの教科書が光村でなかったら、ぼくは読書や本が好きになり、大学卒業後に出版社に就職するようなことはあったのだろうか。1冊の本との出会いが人の人生を変えることはあるだろうが、教科書に載った1作品でぼくの人生は変わった。

 --と書いたが、よく考えると、教科書で「魔術」と出会い、偕成社の「芥川名作集」などで読書に開眼する以前から、「カッレ君」などを読んでいたし、それ以前にも、わが家の客間の本棚には、アルスの「日本児童文庫」が一式揃っていた。
 実は父が同文庫の1冊を執筆しており、全巻が版元から送られてきた。同社は倒産してしまい、印税はもらえなかったと父から聞いた。
 google でアルスの同文庫のラインナップを見ると、そうそうたる執筆陣による興味深いテーマの本がいくつも並んでいる。その中に飯島正編の「映画」という巻があり(googleで調べると正式には「劇の話・映画の話」だった)、スチール写真入りでヴィットリオ・デ・シーカ監督「自転車泥棒」のカットごとの解説が載っていた記憶がある。

 芥川の「魔術」によって本を好きになったというのは、後知恵なのかもしれないが、ぼくは「魔術」によって本を読む面白さを知ったことにしている。

 --もう一つ但し書きをしておくと、ぼくは何でも「本」を読むことによって自分の興味が拡大してきたように思いこむ傾向があるが、大学時代のゼミ論が読書よりも刑事訴訟法の授業からインスパイアーされていたことに70歳近くになって気づかされた経験がある(断捨離の途上で、偶然大学時代の刑訴法のノートが出てきて、授業から得た知識や問題意識が大きなウエイトを占めていたことを発見した)。 
 そして、「魔術」も、光村版を教科書に選定した神明中学校の国語の先生方の授業力もあったのだろうと思う。とくに中学2年、3年のときにぼくたちのクラスを担当した明田川先生という中年の女性の先生が、ぼくが万葉集の歌を暗記できたことを褒めてくれ、ぼくの作文を褒めてくれ、卒業文集にぼくの「東京オリンピック」観戦記を掲載してくれるなど、ぼくの「作文」を最初に認めてくれた。ぼくの「読書開眼」は明田川先生のおかげかもしれない。

 本を読むことも好きだが、でも本当は、ぼくは本を書く作家になりたかった。今からでも間に合うだろうか。


 2020年8月17日 記
 

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『あらしの前』、『名探偵カッレ君』 など(岩波少年文庫)

2020年08月16日 | 本と雑誌
 
 バルザック全集にも挿絵が欲しかった、角川文庫版の『ゴリオ爺さん』には挿絵があったのに、という書き込みをした際に、子どもの頃に読んだ岩波少年文庫の挿絵のことを書いた。

 思い出に残る岩波少年文庫の挿絵は、ドラ・ド・ヨング『あらしの前』、『あらしのあと』に挿入されていたものである。第二次大戦前後の、のどかかなオランダの田舎の風景と、そこで育ったオランダ少女のアメリカ兵への恋情が軽やかなペン画で描かれていた。
 これは、ひょっとするとバルザックではなく、ニコラス・フリーリング原作『雨の国の王者』が、テレビドラマ「ファンデル・ベルグ警部」としてBSミステリー・チャンネルで放映されることを書いた際の余談だったかもしれない。

          

 リンドグレーンの『名探偵カッレくん』シリーズも(シリーズと言っても3作だけだが)お気に入りだった。(上の写真)
 こちらはスウェーデンの子どもたちの生活が描かれていて、ぼくのスウェーデンへの憧れは、彼の地に「性革命」が起きたり、社会民主党政権が誕生するよりはるか前、この本を読んだときに生まれたと思う。
 1964年の東京オリンピックに出場したハグベリ選手へのあこがれも以前に書き込んだが、彼女もスウェーデン選手だった。そういえば、1969年、予備校時代のぼくが憧れていた五木寛之にも「北欧小説集」という副題のついた短編集があった(先日断捨離してしまったので、題名は分からない)。「ソフィアの秋」が舞台となったソフィアへの憧れを抱かせたほどには、北欧への思いは強まらなかったが、まだスウェーデンをはじめとする北ヨーロッパが憧れの対象だった最後の時代だった。

 その後のオランダ、スウェーデンの現実は、ぼくの憧れを粉砕してしまった。
 「ファン・デル・ファルク警部」や「マルティン・ベック警部」(マイ・シューバル、ペール・ヴァールー共作)シリーズ、その他のオランダ、北欧ミステリーに描かれた彼の国の現実は目を背けたくなるものだった。

 ただし、ぼくは以前にオランダの安楽死法制を調べたことがあるが、一定の要件のもと、医療者による安楽死を認めるオランダ法制を否定しない。立法化によるものだったか、検察の不起訴裁量権の行使だったか、安楽死の合法化が独特だったように記憶する。オランダの安楽死を紹介した新書で調べようと探したが、見つからない。ゼミで安楽死をテーマにしたゼミ生に貸したところ返ってこなかったのか、あげてしまったのかもしれない。
 

 2020年8月15日 記


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ロートレック その他 (落穂拾い)

2020年08月15日 | あれこれ
 
 これまでの記事の落穂ひろい的な写真を何枚か。

 最初は、アルダス・ハクスリー「辞書の落書き」への落穂ひろい。
 軽井沢に置いてあった『ドガ・ロートレック』(河出書房、世界の美術18巻、1964年)から。前にも書いたが「座右宝刊行会・編集」とある(冒頭の写真はそのカバー)。

 解説を書いている田近憲三氏によれば、ドガとロートレックは、どちらかが「デッサンの巨匠」、どちらかが「デッサンの天才」と呼ばれているそうだ。いずれにしろ、二人ともデッサン力が素晴らしいらしい。納得できる。必ずしも「踊り子」つながりという訳ではなかったようだ。
 巨匠と天才はどちらが偉いのか、分からないが、巨匠は努力して頂点に立った人、天才は才能を持って生まれた人という感じがする。そうだとすると、ロートレックが「天才」だろう。

 もっとも、ハクスリーによれば、ロートレックが描いたのは、精神ないし生命のリズムであって、人間の外形そのものではなかった。天才のデッサン力による外形の描写があればこその生命のリズムということか。
 美術学校時代のロートレックは、教師から「実写」できていないことを注意されたというが、天才の天分は、一介の美術教師(といっても芸術院会員だった)には理解できなかったのだろう。

               

 ロートレックは父親が鷹狩りを趣味としていたので、少年時代から鷹の絵を描いていたという話だった。上の写真は、成年になったロートレックの「鷹匠」。
 「辞書の落書き」には馬の絵が多かったようだが、鷹の落書きもあったようだ。ただし、ロートレックは鷹狩りをはじめ、外での遊びは好まなかったというから、鷹を描いたとしても記憶で描いたものだろう。
 
          
 
 ロートレックが、北斎はじめ日本の画家の影響を受けたことはハクスリーにも出ていたが、彼が日本のきものを羽織った写真が同書に載っていた。
 「赤い風車」のホセ・ファーラーのメイクがいかにロートレック本人に似ていたかを示すためにも、山高帽をかぶった自画像の方が適当だったかも。

 
 2020年8月14日 記
 

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きょうの軽井沢(2020年8月11日)

2020年08月14日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 軽井沢に行ってきた。「行ってきてしまった」というべきか・・・。

 4月下旬に行こうと思っていたが緊急事態宣言で自粛し、7月に入ってからも「県境を跨いだ旅行の自粛要請」で自粛して来たのだが、今年の長雨で、1年近く閉めたままにしてある家がどうなっているか、心配だった。

 天気予報ではこの数日間は天気が良さそうなので、8月11日朝に思いたって出かけることにした。「絶対必要」というほどではないが、「不要不急」でないともいえないだろうと自己弁護。ただの物見遊山ではない。

 8月11日(火)、関越道、上信自動車道はいずれも流れは順調、2時間で到着。
 感染防止のため、途中サービスステーションには立ち寄らない。

 * 冒頭の写真は8月11日(火)、ツルヤ前の軽井沢バイパスから眺めた浅間山。

 南軽井沢交差点の掲示板は<30℃>と表示あり。軽井沢で30℃など、10数年前には考えられないことだったが、最近ではそれほど意外ではない。
 わが家の裏の家などは南側のテラスの下にエアコンの室外機が置いてあり、来軽中は窓を閉め切っているところを見ると、1日中エアコンをつけているらしい。何のために軽井沢に来ているのだろうと思ってしまうのだが。

 ただし、30℃といっても、湿度が少ないせいか、ぼくは東京の30℃ほど暑くは感じない。

 軽井沢に到着してみると、わが家の近所はほとんどの家が来ており、自粛何するものぞ、の感がある。しかし、ツルヤなどはお盆というのに、例年ほどは混雑していなかった。ソーシャル・ディスタンスが取れていたかというと怪しいが、マスクはほとんどの人が着けていた。
 日本人というのはやっぱり真面目なのか、同調圧力に弱いのか。両方だろう。

           

 まずはすべての雨戸を開け、ガラス窓を全開にして風を通し、1年間の湿気を追い出し、続いて窓を閉めきって、ダニ退治のダニアースを焚いて家から退避する。2時間以上は燻蒸しなければならない。
 昼食をを済ませて、中軽井沢駅舎内の軽井沢図書館を訪ねてDVDを物色したが、見たいものはなかった。上の写真は、図書館2階の閲覧室から眺めた浅間山。

 2時間経ったところで一時帰宅。
 マスクで口元を覆って、再びすべての窓を全開にする。そして再び外出。ダニアースのにおいが収まったころを見計らって帰宅。
 つづいて、家じゅうの布団をテラスの手すりに引っぱり出して、虫干し。時おり布団叩きで叩く。
 近所に犬が一斉に吠えだして、閉口する。躾ののいい犬は吠えないという話だが・・・。
 小1時間ほどして、夕日の中、布団を取り込む。

 これでようやく、1年ぶりの軽井沢生活の準備が調う。
 70歳にもなると、力仕事ではないが、結構しんどい。

 
 2020年8月14日 記

  

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きょうの軽井沢 (2020年8月7日)

2020年08月07日 | 軽井沢・千ヶ滝
 久しぶりに、“ きょうの軽井沢 ”を。 
 といっても、いまだ軽井沢に行っていない。もちろんコロナ自粛で。

 いつもは長野県道路事務所のHPから、町役場前、南軽井沢交差点、鳥井原東交差点(消防署前)、追分の写真をアップしていたのだが、きょうは「浅間山 画像」で検索してみたらヒットした気象庁監視カメラ画像・浅間山(鬼押)というのから頂戴した。

 鬼押し出しへの有料道路あたりから見た浅間山だろうか。中軽井沢、千ヶ滝から見る浅間山とは少し姿が違う。ただし、同じHPの浅間山(追分)というのよりは千ヶ滝からの浅間山に近い。

          

 軽井沢に行くことができないので、不動産屋から送られてくる軽井沢の売地、売別荘、売マンション、賃貸別荘のパンフレットさえ、軽井沢を懐かしむ便として熟読(?)している。

 
 2020年8月7日 記


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アルダス・ハクスリー 「辞書の落書き」

2020年08月04日 | 本と雑誌
 
 トイレでの読書用に、朱牟田夏雄『英文をいかに読むか』(文建書房)を持ち込んで読み出したのだが、トイレの度に一節ずつ読むには勿体ないので、しかも最初の10ページを読んだら先が気になったので、トイレから救出し机に向かって一気に読んだ。
 こんな難しい単語(しかもモンマルトルあたりの特殊用語--娼婦、ポン引き、好色紳士etc.--も少なくない)が頻出するエッセイを「一気に」読むことができたのは、もちろん朱牟田氏の訳注があったからである。自分で辞書を引かなければならないときは、この手の単語は読み飛ばすことにしている。ストーリーを追う分には影響しないので。

 さて、「辞書の落書き」とは結局なんだったのかというと、「辞書」は、ハクスリーが行きつけの古本屋から「面白い本が入りましたよ」と連絡を受けて見ることになったフランスの高校生向けの「羅仏辞典」“ Dictionnaire Latin-Francais ” (298頁)だった。

 イートン校の生徒時代にラテン語で苦労させられたハクスリーは最初はがっかりというか、うんざりしたのだが、実は「落書き」の方がすごかったのである。
 表紙扉に描かれた三頭立ての馬車に始まって、あちこちのページの余白に、馬や犬や鷹、時には中世風の衣装の紳士やサーカス(だったか?)の少女などが生き生きと描かれているのである。そして驚くのはその辞書の所有者であり、その「落書き」の作者である。
 それは、なんと16歳のロートレックだったのである。  

 ロートレックも、ハクスリーと同様、リセでラテン語の勉強を強いられ、退屈しのぎに辞書の随所に「落書き」をしていたのであった。
 これをしも「落書き」--たとえ “doodle” が「考え事をしながらする落書き」だとしても、書いたのが若き日のロートレックとあれば、それは立派なデッサンというべきであろう。読み始める前に「便所の落書き」などと比較した自分が恥ずかしくなる。

 さてイートン校でのラテン語の勉強から、話は一転して、ロートレックのことになる。
 少年時代の相次いだ不幸な骨折事故、野外での鷹狩などを好む父親伯爵との確執、写実を重んじる美術教師(といっても芸術院会員!)との対立、そしてモンマルトルでの酒と女の日々が辿られる。
        

 ロートレックは見たものを写実するのではなく、記憶で描いたという。
 彼が描いたのは、少年期の(ラテン語辞典に落書きした)馬や鷹から、後の踊り子や娼婦などに至るまで、その外形ではなく、それら対象の動きの中に表れた精神のリズム “vitalizing spirit in the movement of life” だったという(例えば309頁)。
 中村真一郎によれば、バルザックは人間ではなくその情念を描き、ハクスリーによれば、ロートレックは馬や娼婦の外形ではなくその精神(ないし生命)のリズムを描いたという。以前知り合いの建築家から、建築物を批評するときはその構造物ではなく、構造物によって仕切られた空間の印象を語れと助言されたことがある。批評には型があるらしい。

 合間にチョコチョコと語られる現代文明(と行っても1950~60年代)ーー例えば前回書いた進歩的学校のほか、自動車などに対する揶揄的な言辞、あるいは当代の女性の胸(ぼくの辞書では “bosom” は「(女の)胸<breasts の婉曲語>」とあるのだが、朱牟田氏は婉曲もものかは、「乳房」と直截に訳している!)を強調する傾向(323頁、ピンナップ写真のことか)への皮肉など、女性の胸への(ハクスリーの)こだわりーー“ ・・・ hope springs eternal in the male breast in regard to the female breast” (324頁)ーーなどはご愛嬌というべきか。「・・・女性の胸に関して男の心にあふれる永遠の思い」といった意味だが、まさかハクスリーがこんなことを書くとは思わなかったので、上の英文の意味も朱牟田氏の訳注でつかむことができた。こんなことを書くハクスリーの深層心理(と言うほどではないが)にも興味がある。思春期にラテン語なんかやらされた反作用か。
 
 いずれにせよ、「辞書の落書き」とは、古書店に出回ったロートレックの少年時代のラテン語辞書の余白に描かれた彼の初期のデッサンのことであった。
 このラテン語辞典をハクスリー氏は購入したのだろうか。価格はいくらくらいだったのだろうか。そして現在では、それらロートレックの作品(辞書の落書き)は一般に見ることができるのだろうか。
 ぼくは、ぜひ見てみたい。

          

 ロートレックはぼくも好きな画家の一人である。
 生命が律動しているかどうかは考えたことがなかったが、何といっても分かりやすい。娼婦だか踊り子だかの疲れたような表情、スカートの裾をたくし上げたしどけない姿など、モンマルトルというのはあのような場所なのだろうと想像することができる。

 朱牟田氏の訳注にも出てくるが、ロートレックの生涯は映画化されている(「赤い風車」“Moulin Rouge”、1953年日本公開)。驚いたことに、イギリス映画だった(ジョン・ヒューストン監督)。“Classic Movies Collection” というシリーズに入っている(冒頭の写真はそのパンフレット、上の写真はそのケース)。
 ロートレック役のホセ・ファーラーのメイクが真に迫っていたので、ぼくは長いことホセ・ファーラーをロートレックだと思っていたくらいである。
 ロートレックの写真は、中学生時代に取っていた座右宝刊行会の「世界の美術」に載っているだろうが(ドガとロートレックで1冊になっている。踊り子つながりか・・・)、この本は軽井沢に置いてあり、この自粛のなか軽井沢に行くことははばかられるので、コロナが収まったらアップすることにする。

 ところで、朱牟田夏雄「英文をいかに読むか」であるが、久しぶりに英文読解、英文解釈の参考書を読んだのだが、楽しかった。知らない単語を辞書で引かなくてもこのエッセイの言いたいことは大体理解できたと思うが、訳注はずいぶん勉強になった。正確に読むとはこういうことかと知らされた。
 ハクスリーだけで終わろうかと思っていたが、最初の数十ページの「総論」と、第2部「演習」も、Maugham など関心のある著者のエッセイもいくつか読んでみようと思う。朱牟田氏の訳注を読むだけでも勉強になりそうである。

 受験生時代には、英語は嫌いではなかったが、今回のように楽しんで勉強することはなかった。駿台予備校時代の奥井潔先生の授業も楽しかったが、あの当時は、先生が英文読解の授業をしながら、本当にぼくたちに語りかけたかったことを理解できなかった。中年になってから、奥井先生の「英文読解ナビゲーター」(研究社)などを読んで、はじめて先生の伝えたかったことが分かるようになった気がした。
 奥井先生は、若さとか、友情とか、嫉妬心や猜疑心、成熟とか、大人になること、さらには老いについて、要するに生きるということの意味をぼくたちに問いかけていたのだと、今にして思う。残念ながら18歳のぼくは恋愛以外の感情にまったく興味がなく、老いることなど考えも及ばなかった。

 しかし、あの頃に比べると、最近の受験生は気の毒である。
 入試監督の休憩時間の雑談で、同僚だった英文学の先生に、「最近はモームなどは出ませんね」と話しかけたところ、「今では英語は情報処理科目ですから・・・」と寂しい返答が返ってきた。
 最近の日本の入試英語を見たら、ハクスリー氏もさぞかし嘆くことだろう。


 2020年8月4日 記

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