豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

丹羽文雄「小説作法」

2024年12月31日 | 本と雑誌
 
 丹羽文雄「小説作法」(講談社文芸文庫、2017年)を読んだ。

 巻末の編集部の註釈を見ると、最初の単行本「小説作法」(文藝春秋社、1954年)「を基に」その後の角川文庫版や「私の小説作法」(潮出版社)、丹羽文雄全集などを参考にしたとある。
 ぼくは若いころに角川文庫版の「小説作法」を買って持っていたはずなのだが、読まずに放置しているうちに失くしてしまった。今回図書館で借りてきて眺めると、小説の書き方指南の模範例として示された実作が「女靴」という題名だった。この題名が昔のぼくの読む気を削いだ気がする。
 会社の部下の女性と社員旅行の旅先で関係を持ち愛人関係になった(妻子持ちの)男が、海外出張先から赤い女靴を愛人と妻各々に送るのだが、取り違えて妻のサイズの靴を愛人に、愛人の靴を妻に送ってしまう。その後愛人も妻も銀座だったかのホステスになり偶然両者が出会ってしまう、という筋の小説である。
 当時のぼくが書きたかったのは、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」というか、サリンジャー「ライ麦畑で捕まえて」のような青春小説である。ところが丹羽の「小説作法」には、若手の初心者が書く恋愛小説や青春小説の批判が何か所か出てくる。こんな(失礼!)「女靴」などという小説を例にとった「小説作法」など、読んだとこところで何の役にも立たないと決めつけて早々に見切りをつけてしまったのだろう。

 今読んでみると、「テーマ」「プロット」「人物描写」「描写と説明」「リアリティ」「時間の処理」「書き出しと結び」「題名のつけ方」など、興味深い見出しが続いていて、当時読んでいたらきっと役に立っただろうと思うが、「時すでに遅し」である。
 結局ぼくは、いくつか書き出してはみたものの何一つ形のある物を仕上げることはできなかった。「小説作法」など気にしないで、当時の思いのたけを自分流の文章で書きとめておけばよかったと残念に思うけれど・・・。
 丹羽の「小説作法」は、一定の修業を積んだ小説家志望者が、一定レベルの作品を継続的に書きつづけ「文壇」で生き延びるための方法を指南した書のように読めた。

 2024年は、川本三郎さんの講演会を機に、川本さんの(永井荷風に関する)評論から始まって、永井荷風の「断腸亭日乗」(抄録)や「濹東綺譚」、佐藤春夫の「小説永井荷風伝」や、半藤一利、吉野俊彦の荷風論を読んだが、だんだん荷風に対する好意的とは言えない評価に共感を感ずるようになっていった。ぼくが読んだ中では紀田順一郎「日記の虚実」が最も厳しく荷風「日乗」を批判していた。愛弟子であった佐藤の指摘する荷風の二面性(都会育ちの礼儀正しく律儀な人間 vs 厳父の桎梏から逃れようとする反抗的な人間)というのが妥当な評価か。

 さらに平野謙「昭和文学私論」、尾崎一雄「あの日この日」、高見順「昭和文学盛衰史」などで、昭和文壇の人間模様に興味を持った(これらには荷風は全く登場しない)。昭和文学史の登場人物である高見「故旧忘れ得べき」、石坂洋次郎「麦死なず」、丹羽文雄「鮎」、里見弴「十年」などの実作も読んでみることになった。そして丹羽「小説作法」で2024年を終えることになった。
 この間驚いたことは、これらの昭和の作家の作品が新刊書店の店頭からはすっかり消えてしまっていることであった。夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、堀辰雄、川端康成・・・などなどの作品は近所の書店の書棚(もちろん文庫本の棚)には一冊も置かれていないのである。いつからそんなことになっていたのか。
 わずかに岩波や偕成社などの少年文庫の棚に、漱石「坊っちゃん」、芥川「杜子春」、太宰治「走れメロス」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、壷井栄「二十四の瞳」、井上靖「しろばんば」などが散見されるだけである。
 雪は降らねど、昭和も遠くなりにけり、である。

 

 よもや2024年が丹羽文雄を読んで終わるとは、2024年の初頭には思ってもいなかった展開である。
 NHKテレビBS放送で「エディット・ピアフーー愛の讃歌」を見ながら今年最後の書き込みである。
 皆さん、良いお年をお迎えください。

 2024年12月31日 記

 追記 と書いておきながら、12月31日の地上波のテレビ番組があまりにもつまらないので、「エディット・ピアフ」に続けて、BSでやっていたクリント・イーストウッドの「夕陽のガンマン」を見てしまった。「夕陽のガンマン」が2024年最後の映画とは情けないとも思ったが、地上波のテレビがいかにつまらなくなったかを示す意味で2024年最後に見た映画が「夕陽のガンマン」(何年前の映画か?)だったといのも象徴的かもしれない。
 年末にテレビでやっていた羽鳥慎一と小倉智昭の対談で(これは地上波のテレビ番組だった)、「最近のテレビ、情報番組をどう思いますか」という羽鳥の問いに対して、小倉は一言「つまらないね」と答えていた。権力者の圧力に屈して「忖度」だらけの番組になってしまったという趣旨だった。(2025年1月4日 追記)
 

訃報、川田順造さん(2024年12月20日)

2024年12月27日 | あれこれ
 
 東京新聞2024年12月24日朝刊に川田順造氏の訃報が載っていた。文化人類学者で文化勲章受章者の川田氏が20日に誤嚥性肺炎のために90歳で亡くなったとある。
 川田順造編「近親性交とそのタブー 文化人類学と自然人類学のあらたな地平」(藤原書店、2001年。2018年に「新版」が出たが本文は初版と同じ内容)は、ぼくが民法の近親婚禁止規定(734条1項)を検討する際に、インセスト・タブーに関する基礎知識を得るうえできわめて有用な本だった(豆豆先生2022年10月28、29日)。
 まず特筆すべきは、インセスト(近親相姦)は、われわれが思っているよりも多く実際に行なわれていると本書の中で数名の共著者が指摘していることであった。
 この本の編者である川田氏も、「現代日本でも実際に多く行われている母と息子の相姦の多くが」、亡くなった夫の姿を、母が成長した息子に感じ取るところに動機をもっている」のに対して、兄妹、姉弟間の相姦は、孤立ないし雑居的居住環境の中である種の強要によって生じるようだと序文に書き(ⅲ頁)、近親者間の性交は実際には行われているにもかかわらずタブーとされている社会が多いことなどを指摘している(10頁)。わが国には「タブー」といえるほどの強いインセスト禁忌はなかったという指摘もあった。「目から鱗」の指摘にたくさん出会い、学ぶことの多い本だった。

 今年の文化の日を控えた頃の新聞で、詩人の高橋睦郎氏が文化勲章を受章することになったという記事を読んだ。高橋睦郎監修の「禁じられた性ーー近親相姦100人の証言」(潮出版社)も、わが国における近親相姦の実情を窺うことができる数少ない文献の一つとして論文を執筆する際に役立ったのだが、高橋氏の業績は必ずしも近親相姦を中心とするものではなかった。
 川田氏にとって近親相姦(彼は人類学者らしく「近親性交」と没主観的というかザハリッヒな表現をしている)は、まさに中心的なテーマの一つだっただろう。その川田氏も文化勲章受章者だったとは知らなかった。ぼくの論文は期せずして二人の文化勲章受章者の先行文献を参照していたのだ。

 牽強付会の感もあるが、近親相姦に関して文化勲章レベルの業績を持つお二方を今年の新聞紙面で見かけたので、今年の締めくくりとして書き込んでおこう。

 2024年12月27日 記

モーム「クリスマスの休暇」

2024年12月26日 | サマセット・モーム
 
 このところ「サマセット・モーム」のカテゴリーは開店休業の状態だったが、久しぶりに「モーム」の文字を東京新聞の紙面で発見した。
 12月25日夕刊の文化欄「下山静香のおんがく♫ × ブンガク🖊」というコーナーで、モーム「クリスマスの休暇」が取り上げられていた。クリスマス当夜ということで選ばれたのだろう。
 ぼくが持っているサマセット・モーム「クリスマスの休暇」(新潮社「サマセット・モーム全集10巻」、1954年、中村能三訳)は、西武百貨店軽井沢店の庭先でやっていた古本市で買った。裏扉のメモによると「1994・8・20 軽井沢千ヶ滝ショッピングプラザ(旧西武軽井沢店)の露店で、800円」とある。
 1994年、今から30年前に、西武百貨店軽井沢店(千ヶ滝店だったかも?)はすでに「千ヶ滝ショッピングプラザ」という名称に変わっていたのだった。1994年といえば、中山美穂「世界中の誰より」やZARD「揺れる想い」「負けないで」、森田童子「ぼくたちの失敗」、GAO「サヨナラ」などなどが流れていたころではないか(1992、3年頃かも)。その後千ヶ滝ショッピングプラザも閉店してしまい、今ではその建物も解体されて無くなってしまった。

 さて、モームの「クリスマスの休暇」だが、モームにしては期待したほど面白くはなかったという記憶がある。
 今回下山さん(ピアニスト、執筆家と肩書がある)のエッセイを読むと、第2次大戦勃発前夜のパリで、ピアノの上手なイギリス人青年チャーリーと、ロシアからの亡命2世で祖国にあこがれるロシア人女性リディアが出会い、チャーリーがリディアにロシアの曲を弾いてみせる。しかしリディアから「あなたにはロシアは弾けない」と断言されてしまう、といった風に紹介されている。ピアニストが読むとこういう風に読めるのだ。
 そんな場面もあったかと、本を探したけど該当場面は見つからなかった。ぼくの記憶にわずかに残っているのは、ロシア人やロシア革命、共産主義に対するイギリスの貴族階級(モーム?)の懐疑だった。今回パラパラとページをめくっていると、興味を惹かれる記述にいくつか出会った。若いころは読む気も起らなかった高見順や丹羽文雄を読んだりする今日この頃である。ひょっとしたら「クリスマスの休暇」も読み直したら面白いかもしれないと思った。

 2024年12月25日 記

きょうの軽井沢(2024年12月25日)

2024年12月25日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今朝のNHKテレビのニュース(天気予報?)を見ていたら、画面に浅間山が映っていた。
 今朝の軽井沢の気温はマイナス 4℃とのこと。
 若い頃には、定年になったら軽井沢でのんびり暮らそうかと考えたこともあったが、とても無理。朝方の気温が8℃、9℃の東京でも寒いのだから。
 冬の寒さがなかったとしても、あまりにも変わり果ててしまった最近の軽井沢には以前のような魅力を感じなくなってしまった。
 「変わらないのは浅間山だけである」(笠智衆が「カルメン故郷に帰る」で発した台詞ーーということは1951年の木下恵介の言葉)。

 2024年12月25日 記

クリスマスのランチ(12月23日)

2024年12月24日 | あれこれ
 
 12月23日(月)の昼下がり、池袋にクリスマスプレゼントを買いに行き、(旧)西武百貨店池袋店 8階のレストラン街にある銀座アスターでクリスマス・ランチを食べてきた。
 西武百貨店池袋店がヨドバシ・カメラに売却されてから初めて西武池袋店の店内に入った。1階から6階までは改装中でエレベーターも止まらず、降り立った8階もあちこちが改装工事を遮蔽するフェンスで遮られていて異様な雰囲気だったが、アスターも含めてレストラン街の一角は昔のまま店を開いていた。
 銀座アスターは亡母のお気に入りの中華で、吉祥寺の近鉄か東急百貨店に入っていた店に時おり食べに行っていたらしい。ぼくは相伴に預かったことがなかった。ぼくの記憶では、昭和30年代に渋谷の確か東急文化会館に入っていたアスターで炒飯を食べたことがあった。
 池袋の銀座アスターは2年ぶり。
 皿などは中華風ではなく、どちらかといえばフランス料理に近いか。料理はいずれも70歳代の夫婦にはちょうど良い分量で美味しかった。値段も年金生活者にとって程よい(しかも都民割とか何とかで10%還元されるらしい)。

 テーブルに置かれたメニュー表によると、料理内容は以下の通り。料理を運んできたウェイターの口頭の説明では覚えきれない。
 <前菜> 聖夜を彩る盛り合わせ
   

 <お料理>
  ふかひれとポルチーニのスープ、淡雪仕立て  
   

  海老と帆立貝のクリーム煮
   

  北京ダックと牛肉のやわらか煮衣揚げ、黒酢ソース
   

 <お食事>
  特製芽采(ヤーツァイ)炒飯
    

 <デザート>
  やわらか杏仁とライチシャーベットのミニパフェ(冒頭の写真)

 2024年12月24日 記

丹羽文雄「ひと我を非情の作家と呼ぶ」

2024年12月19日 | 本と雑誌
 
 丹羽文雄「ひと我を非情の作家と呼ぶーー親鸞への道」(光文社、1984年、昭和59年)を読んだ。初出は月刊「宝石」昭和58年8月号~59年10月号の連載で、単行本のあとがきは「1984年夏 軽井沢山荘にて」とある。
 昭和40、50年代の夏の軽井沢では、朝の中軽井沢駅改札口で遠藤周作、芥川也寸志を見かけ、夕暮れ時の中軽井沢駅ホームに停車するあさま号の車中で壷井栄、繁治夫妻を見かけたことは以前に書いた。ところが本書のあとがきを見て、旧軽井沢の中華料理 “栄林” で丹羽文雄を見かけたような記憶がよみがえってきた。「あれ丹羽文雄じゃない?」と小声で母が言ったことがあったような気がする。中学生か高校生だった当時のぼくにとって丹羽は無縁の作家だったので印象に残らなかったのだが。

 丹羽はデビュー作「鮎」以来、実母が旅芸人と出奔したことや、その原因となった実父(丹羽の祖父母の養子になった)と養母(丹羽の祖母)との不倫関係、丹羽の言葉では「生家の庫裡でくりかえされた愛欲地獄の絵巻」(241頁)を書きつづけた。このことを多くの人が批判したようだが、丹羽は小説を書くことは自分の「業」であり書かずにはいられなかったという。そして、自分が「煩悩具足の凡人」であり、「無慚無愧(むざんむぎ)の極悪人」であることを自覚した親鸞の「歎異抄」に救いの道を見出したのだった。
 ーーという要約に自信はない。丹羽は親鸞の教えを信じることができた人のようだが、信仰に無縁のぼくには理解できない心境である。もしぼくに何らかの信仰があるとするなら、それは祖先の霊に対する「信心」だけである。祖先だけはぼくたち子孫を見守ってくれるような気がする。穂積陳重「日本は祖先教の国なり」の祖先教である。

 とくに本書では、実母の出奔の原因が実父と祖母との関係にあったことを知らないまま、実母を恨みつづけてアメリカに逃避した姉に事実を知ってもらいたいと思って執筆した「菩提樹」という小説を読んだ姉の苦しみが記されている。晩年に来日した姉は(おそらく読んだと思われる)この小説について一言も触れることなく、丹羽との軽井沢での再会も一日で切り上げて四日市の生家に去って行ったという。
 ぼくは「鮎」を読んで「オイディプス」的雰囲気を感じたと書いたが、本書によれば、「鮎」の中で丹羽は、幼少期以来自分がまったく経験することができなかった家族の「団欒」を思い描いて実母との架空の会話を書いたのであって(20頁)、「近親相姦を思わせるようなことを書いたわけでもなかった」と書いている(27頁)。このような弁明が書かれたということは、おそらく発表当時そのように読んだ者もいたということだろう。令和になって読んだぼくも「オイディプス的」と婉曲に書いたが、そのような読後感をもった。

 丹羽は「生母もの」と「マダムもの」が二本柱の作家と言われたそうだ。
 その「マダムもの」の原体験になったのが、早稲田の学生時代の下宿屋の娘との関係だった。友人の下宿の窓から見染めた向かいの下宿の娘に手招きすると、その女性は丹羽の指示に従って路地に出てくる。二人で鬼子母神の縁日を歩き、そのまま丹羽の下宿に戻って関係を持つ。丹羽の男前の写真(本書の口絵ページに若き日の丹羽と老齢になった生母の写真が載っている)を見なければ俄かには信じがたい展開である。
 家族を支えるために会社勤めをしていた彼女と丹羽は丹羽の実家の寺で祝言まで上げるが、女は東京に戻り二人は別居生活を送る。大学を卒業した丹羽は四日市の実家に戻って僧侶の仕事を手伝うが、「鮎」の発表を契機に実家から家出して上京する。再上京した丹羽は彼女が借りた部屋で半同棲のような生活をするが、彼女は丹羽をも養うために銀座のバーのマダムになる。ある時丹羽は、彼女の机の中に47人の男の名前の書かれたノートを発見する。その中には丹羽のことを忌み嫌っていた武田麟太郎の名前まであった。売春もしていたのか、丹羽は性病を罹患する。

 結局 4年後に丹羽は別の女性と結婚してこの女と別れることになる。生母に対してはその行状を暴きながらも最後には愛情を示すのだが、この「糟糠の妻」ともいうべき女性に対する丹羽の筆は冷淡である。家族の醜聞を小説に書いたことよりも、この女性に対する態度のほうが、親鸞による救いが必要なようにぼくには思えた。丹羽はやはり「非情」の作家である。
 ただしこの女性には、小津安二郎の「東京の女」だったかに出てきた岡田嘉子のような、一人でも生きていく戦前昭和の女の毅然とした風格を感じた。本書で彼女との出会いを描いた章は「東京の女」と題されている(48頁)。

 2024年12月19日 記

石坂洋次郎「麦死なず」

2024年12月14日 | 本と雑誌
 
 石坂洋次郎「麦死なず」(新潮文庫、1956年、初出は昭和11年)を読んだ。
 これも、高見順「昭和文学盛衰史」で興味を持った本である。あの「青い山脈」や「若い人」の石坂洋次郎がかつてはプロレタリア作家だったということにまず驚いた。そんな彼のデビュー作である「麦死なず」というのはどんな内容だろうか。
 「麦死なず」は昭和11年(1936年)に改造社の編集者だった上林暁の英断によって「文藝」8月号に480枚一挙に掲載されたという(福田宏年解説279頁)。この頃石坂は同時に「若い人」を「三田文学」に連載執筆しており、秋田県横手で学校教師をしながら作家を目指していた石坂はこの2作の好評によって上京し、職業作家になった。
 「麦死なず」という題名から、火野葦平「麦と兵隊」のような従軍作家ものかと思ったら、題名の「麦」は兵隊の象徴ではなく、「一粒の麦もし死なずば・・・」という聖書が出典だった。横手の教師石坂自身が「麦」だったのだ。

 この小説も、高見順「故旧忘れ得べき」や丹羽文雄「鮎」などと同じく、石坂の身辺で実際に起きた事件を素材にしている。
 「麦死なず」の主人公は青森で学校教師をしながらプロレタリア小説を書いていたが、共産主義に共鳴する同志の女性と結婚する。妻は子を3人もうけるが、教師としての日常生活に埋没している夫に飽き足らず、夫を捨てて地域の左翼運動の指導者であり作家としても注目され始めていた男と駆け落ちしてしまう。夫は、左翼思想の深さでも作家としての能力でも相手の男よりも劣っていると自分を卑下して悩む。
 しかし結局妻は帰宅して主人公とよりを戻し、駆け落ちした相手の男もその後検挙されて転向したことを主人公は知ることになる。主人公は自信を回復するというか、コンプレックスから解放される。
 解説によると、「麦死なず」の内容がほとんど石坂の私生活で実際に起こった事実であったことを、妻の死後に石坂自身が随筆で告白しているという。高見順も丹羽文雄も石坂も、みんな身を切る思いで小説を書いていたのだ。この3人の中では石坂が一番「風俗小説」的な文体であった。なお福田解説によると、石坂が一貫して追求したテーマが「性」だったとある。「麦死なず」では、時代の制約か「性」ではなく「愛欲」と表現していた。
 戦後のぼくたちの世代では、学習雑誌「高校時代」(旺文社)や「高校コース」(学研)が時おり「若者の性」や「18歳の性」などを特集していた。小学館から出ていた「中学生の友」の終刊号はまさに「性」特集だった。あれらの雑誌に小説を載せていた富島健夫は石坂の弟子だったか・・・。
 ※ネットで調べると、何と富島は丹羽が全額を出資して創刊した「文学者」の同人だったというから、丹羽文雄の孫弟子だった。

 石坂の小説はこれまで一つも読んだことがなかった。読む気も起らなかった。ハーレクインか、最近のライトノベル程度かと思っていたが、その石坂にこんな修業時代の苦悩があったとは知らなかった。
 原節子主演の「青い山脈」は映画(DVD)で見たが、「若い人」は映画すら見たことがなかった。調べるてみると、「若い人」の三度目の映画化(1977年)のヒロインは何と桜田淳子だというではないか! 桜田淳子主演の「若い人」があったなどまったく記憶にないが、その後の彼女の人生を考えると江波恵子役は意外と適役だったかもしれない。残念ながらDVDはないようだ。
 いずれにしろ、石坂洋次郎は「麦死なず」で最後だろう。 

 2024年12月13日 記

里見弴「十年」

2024年12月12日 | 本と雑誌
 
 里見弴「十年」(「里見弴全集・第8巻」筑摩書房、昭和53年(1978年)所収)を読んだ。初出は東京新聞昭和20年の敗戦後から同21年にかけて計160回連載された。これも、尾崎一雄「あの日この日」か高見順「昭和文学盛衰史」で興味を持ったのだが、どちらがどのような文脈で紹介していたかは忘れてしまった。内容的に高見が取り上げるような小説ではなかったから、志賀直哉を師と仰ぐ尾崎の本に出ていたのだろう。

 いかにも新聞小説といった構成で、二・二六事件前夜から昭和20年の敗戦までの10年間の上流家庭の生活が描かれる。熟読する内容でもないので、新聞小説を読むように1時間に50頁くらいの猛スピードでざっと読んだ。挿絵でもついていればもっと端折って読むことができただろう。
 最近読んだ尾崎一雄「あの日この日」や高見順「昭和文学盛衰史」、「故旧忘れ得べき」などと同じ時代(の一部)を背景としているのに、まるで別世界のような話である。登場するのは著者自身と思われる人物、その作家仲間、有島生馬を思わせる画家などといった学習院出の自由人や、しかるべき企業の社員、大蔵省商工省の官僚などといった有閑階級の人々、および彼らの妻子、係累らで、その暮らしぶりが軽いタッチで描かれる。
 舞台は主に東京山の手、最初の疎開先鎌倉、二度目の疎開先長野の上田だが、ちらっと軽井沢も出てくる。戦時下の軽井沢でも、この小説の登場人物のような面々が安閑とした疎開生活を送っていたのだろう。
 アジア太平洋戦争が戦われていた戦時下の日本で、この小説で描かれたような日常生活を送っていた人たちがいたのだということを知る意味では参考になるか。時おり東条英機をはじめ軍部や将官(畑、松井、杉山など実名で書いてある)に対する批判の片言も出てくるが、(戦後の執筆にもかかわらず)その批判はあまりに微温的で、登場人物たちの間に漂っていた厭戦気分がうかがえる程度である。
 建物の普請、庭の造園、家具什器(茶器や掛軸絵画など)の描写が結構出てくるが、こういった物に縁のないぼくにはまったく理解不能。(こういった体言止めもこの小説には頻出する。)挿絵があればイメージできたのだが。都心の一番町や九段坂上などで平成初期頃までは見かけたような(それ以降は大部分がマンションになってしまって今日ではほとんど見かけないが)、高さ2メートルを超す堂々とした門柱、石垣に囲まれた広い庭には庭木が生い茂るような数百坪の豪邸の内部ではこんな生活が繰り広げられていたのだろうと想像しながら読んだ。この小説には郊外とはいえ吉祥寺の3000坪の邸宅も登場する!
 高見順「故旧忘れ得べき」や丹羽文雄「鮎」などとは全く違う世界であるが、本小説に付されたあとがきによると、そんな里見でさえも(だからこそか)戦時中は事実上発表禁止の状態にあったという(748頁)。理由は高見の発禁よりは丹羽の発禁に近いもの、要するに「時局に反する」ということだろう。

 里見と言えば、学生時代に里見弴「多情仏心」を読み始めたことがあった。父親の書斎にあった筑摩書房かどこかの文学全集の1冊で、小さな活字の3段組みで数百ページもあったように記憶する。「多情仏心」を手に取った理由はというとーー。
 ぼくの通った大学の前身は七年制旧制高校で、同じ敷地内に付属高校もあった。「付属」と言いながら、付属高校が本家で大学のほうが「付属」のような新制大学だった。運動場と学生食堂だけは共用で、昼食時の学食は大学生と高校生が入り交って利用した。
 そんな学食の付属高校生の中に、ちょっと目立つ女生徒がいた。今では珍しくないかもしれないが、1969年のキャンパスでは彼女一人だけ膝上まであるソックスをはいていた。その彼女をデートに誘ったことがあった。千鳥ヶ淵だったか市ヶ谷の外堀だったかでボートに乗った(「赤頭巾ちゃん気をつけて」で学んだか)。
 その彼女が、付き合っている高校の先輩から「多情仏心」と墨書した手紙をもらったという。「どんな意味?」と聞かれたので、「気は多いけれど心は優しい」くらいの意味じゃないと適当に答えたが、ぼく自身が気になって、里見の「多情仏心」を読もうと思ったのであった。しかし、数ページで読む気がしなくなった。読んだところで彼女との関係に何のご利益もなさそうだった。今から思えば彼女の「多情」など、他愛のないむしろ可愛いくらいのものだったが。
 ーーこんなことを書いていたら、彼女の誕生日が5月12日で、1969年の5月12日に渋谷の東急文化会館1階の花屋で買った勿忘草(5月の誕生花だった)を春の嵐(may storm!)のなかNHKセンター近くの彼女の家まで届けたことを思い出した。
 それから50年を経てわが人生で2度目の里見弴が今回の「十年」だった。19歳の時とは違って、時間も有り余っているし、年もとったので何とか最後まで読むことはできた。
 
 きょう12月12日は小津安二郎の命日である。1963年(昭和38年)の今日、小津は亡くなった。この日は小津の60歳の誕生日でもあった。今朝のNHKラジオ「今日は何の日?」というコーナーでも、「小津安二郎、逝く」と言っていた。
 小津安二郎の「彼岸花」(昭和33年)、「秋日和」(昭和35年)は里見弴の原作であり、「青春放課後」というNHKのテレビドラマも小津と里見との共作らしい(松竹編「小津安二郎新発見」講談社α(アルファ)文庫315頁)。なお同書134頁では、里見の息子で松竹プロデューサーの山内静夫が小津への追想を書いている。
 そういえば、この里見弴「十年」という小説には小津映画のような雰囲気があったと思い至った。登場人物のセリフの語り口などは笠智衆、中村伸郎、佐田啓二、原節子、杉村春子、飯田蝶子、吉川満子らを思い浮かべながら読めばよかったかもしれない。ただし、息子の山内によれば里見は「半分べらんめえ調」だったということであり(α文庫134頁)、「十年」の登場人物の中にもそれに近い話し方をする人物がいた。小津映画の俳優たちのセリフのほうが端正な日本語である。
 与那覇潤「帝国の残影」で提示された小津の戦争観からいえば、小津は里見の「十年」を映画にしようとは思わなかっただろう。昭和10年の帝国ホテルでの結婚披露宴の場面で始まり、昭和20年秋の上田の民家の座敷での結婚式(祝言)の場面で終わるあたりは小津調だが。
  
 蛇足を一本。里見の「五分の魂」という小説のことを志賀直哉は「ゴブダマ」と呼んだという(754頁)。今年の流行語大賞「ふてほど」のルーツは志賀にあったのか。

 2024年12月12日 記

 蛇足をもう一本。サリンジャーの短編の中に、ヨーロッパ戦線から帰還した兵士(サリンジャー自身?)が戦死した戦友の遺妻を訪ねた帰りに、夏のニューヨークの夕暮れ時の街かどで暢気に犬と散歩して歩く太った中年男とすれ違う場面があった。自分たちがドイツの森の中で塹壕戦を戦っていた時にもこの男は犬を連れてニューヨークの街中を歩いていたのか、と怒りを覚えたサリンジャーを思い出した。(12月13日追記)

丹羽文雄「鮎・母の日・妻」

2024年12月09日 | 本と雑誌
 
 丹羽文雄「鮎・母の日・妻ーー丹羽文雄短編集」(講談社文芸文庫、2006年)を読んだ。
 これも尾崎一雄「あの日この日」や高見順「唱和文学盛衰史」に出てきた丹羽の紹介で知って読んでみたくなった。早稲田高等学院以来の同門で、志賀直哉を読めと丹羽に助言したのだから、最初に興味を持ったのは尾崎の本を読んだときだろうが、高見の本にも丹羽を褒める新明正道の文芸評のことなどが出ていたので丹羽に対する興味が深まった。

 文壇デビュー作という「鮎」(初出は「文藝春秋」1932年4月)と、「贅肉」(中央公論、同年7月)から読み始めた。執筆は「贅肉」のほうが先ではなかったかと記憶するが、いずれも丹羽とその生母との関係を描いた小説である。
 丹羽の実家は四日市のお寺で、実父はお寺の婿養子だったが、養母である丹羽の祖母と関係を持っていたという。夫(丹羽の実父)が姑と同衾している事実を知った丹羽の実母は、当てつけで旅役者の男と出奔してしまう。その後旅役者に捨てられ、別の男の妾になった。そんな母が、十数年間生活を別にしてきて今は成人して作家を目ざす息子に甘えるのである。
 本書に収録された「悔いの色」や解説を読むと、丹羽は「鮎」の発表によって父の実家と絶縁されてしまったという。このような内情を暴露された家族としては耐えられなかっただろう。堀辰雄も文壇デビューによって、実生活における片山広子親子との交流が崩れたという話だったが、自分の身辺を描く作家にとって文壇デビューは苦いものである。
 ただし、丹羽は、自分を作品の中に投影させずにはいられないが、しかし自分が書くのは私小説ではなく自伝小説であり、現実に起こらなかった可能性を書くと語っているそうだ(中島国彦解説274頁)。げんに、「贅肉」では(妾である)母との復縁を拒まれた旦那は自殺しているが、「鮎」では息子の執り成しで復縁している。
 この 2作品の中心になるのは母(妾)と旦那の関係ではなく、息子と母との関係である。当時40歳すぎだった生母は美貌の人だったようで(丹羽文雄も整った顔立ちの美男子だったから、生母もさもありなんと思う)、男好きのするコケティッシュというか(今風に言えば)フェロモン横溢する女性だったようだ。性格は我が儘で、母が巻き起こすトラブルの数々には読んでいてうんざりさせられたが、若き日の丹羽は根気強くそんな母に対処する。
 ぼくは二人の間にオイディプス的な匂いを感じた。肉体関係が描かれているわけではないのだが、そのような雰囲気が漂っていた。題名の「鮎」も「贅肉」も母の肉体を表現している。

 「秋」「鮎」「贅肉」は大正15年から昭和7年にかけて発表されたもので、丹羽のまだデビュー間もない時期の作品である。これに対して「母の日」「悔いの色」は昭和30年代に書かれたようで(本書には各作品の初出年が書いてない)母の晩年から最期が描かれている(ほかにも数編収録されているが読まなかった)。美しかった母も晩年は認知症になったのか、着衣も着替えず臭気を放ち、部屋も散らかし放題になっているのを丹羽が引き取って、鴨川にある別荘に女中をつけて養った。小説としてはすっきり読みやすく仕上がっていたが、若い日の前 3作品のような筆の勢いは感じられなかった。
 「妻」は、病気がちになった丹羽の妻の闘病とそれを支える丹羽を描いていて、他の「生母もの」とは違って、丹羽自身に忍び寄る老いが描かれている。
 最後の「悔いの色」には、処女作以来全く触れることのなかった実父が「鮎」以来の丹羽の「生母」ものをどのように感じていたのだろうかと、それまでまったく関心が湧かなかった実父の心情に思いをいたしている。実父は小説家になるために四日市の実家を出ていった丹羽に対して帰郷を促すこともなく、丹羽を廃嫡(家構成員の資格と相続人の資格を奪う措置)し、僧籍(丹羽は僧籍を取得していた)も剥奪した。年譜では敗戦の年に亡くなっている。
 結局丹羽は実父をモデルにした自伝小説は書かなかったようだから、小説家的な感興を起こさせるほどの父子関係ではなかったのだろう。実父は念仏の会を主宰していて、とくに「歎異抄」を熱心に唱えていたと「悔いの色」にあるから、あるいは「親鸞」とか「蓮如」には、丹羽の父子関係を背景にした記述があるのかもしれないが、もうそこまで読む気力はない。

 尾崎、高見を読むまでは、丹羽文雄には何の関心もなく作品を読んだこともなかったが、ただ丹羽文雄「小説作法」は買った覚えがある。文庫本だったので、調べると角川文庫版「小説作法」(1965年)というのが古書目録に載っている。表紙がむき出しの写真だが、ぼくが持っていたのにはカバーがついていたように記憶する。小説家になりたいと思っていた頃に買ったのだろうが、丹羽には興味が湧かず、模範例として併載されていた丹羽自身の実作小説も(何だったか)興味が湧かず、放っているうちになくしてしまった。
 尾崎「あの日この日」に出てくる丹羽の修業時代を知った今こそ読んでみたいが、古本屋では文庫本が1000円くらい、単行本は3、4000円もする。これも図書館で済ませよう。
 30歳代の頃には、まさか70歳を過ぎてから丹羽文雄に関心が湧くなどとは思ってもいなかった。もし80歳過ぎまで生きたら何に関心が残っているのだろうか。そう考えると、いよいよ本の断捨離はむずかしい。

 2024年12月9日 記

五木寛之作品集1 蒼ざめた馬を見よ

2024年12月05日 | 本と雑誌
 
 シルビー・バルタン引退の話題からミッシェル・ポルナレフを思い出し、さらに「I Love You Because」をくれた編集者のことを思い出した。思い出話のついでに五木寛之のことを。
 その人に五木寛之の小説の愛読者であることを話したら、当時彼女が勤めていた文藝春秋から刊行中だった「五木寛之作品集」を2冊くれた。「五木寛之作品集1 蒼ざめた馬を見よ」(1972年10月)と「同9 モルダウの重き流れに」(1973年6月)である。「作品集1」のほうには、黒地の表紙扉ページに白インク(絵具?)で五木寛之のサインがあった。

   

 ぼくが最初に読んだ五木の作品が何だったかは忘れたが、四谷の予備校に通っていた1968年の秋に、雑誌に掲載された「聖者昇天」を一刻も早く読みたくて四谷の文藝春秋本社まで買いに行ったことがあった。「聖者昇天」(後に「ソフィアの秋」と改題)は、「ソフィアの秋」(講談社文庫、1972年)の年譜(坂本政子編)によれば1968年10月の「文藝春秋」に掲載されたようだ。ぼくの記憶では「オール読物」か「別冊文藝春秋」だったと思っていたが。
 掲載紙の記憶はあいまいだったが、1968年10月はまさにぼくが四谷の予備校生だった時期である。四ッ谷駅界隈には書店はなかったのか(ドン・ボスコ社というのが駅前にあったが、キリスト教関係の本しか置いてなかった)、文藝春秋の本社に直接買いに行った。ホテルニューオータニの裏手にあって、ビルの壁面に「文藝春秋」と縦書きのロゴがあった(と思う)。
 直木賞受賞作となった「蒼ざめた馬を見よ」や「ソフィアの秋」など、ロシアや東欧、北欧を舞台にした小説が好きだった。「さらばモスクワ愚連隊」というのは書名が嫌いで読まなかった。「青年は荒野をめざす」は書名が気に入って読んだが、ジャズ嫌いのぼくには合わなかった。
 彼のような小説家になりたいと思って、彼の小説や(彼が新人賞を受賞した)「小説現代」を時おり購読したり、早稲田の露文か上智のロシア語科を受験しようかとさえ考えた。しかし実際の受験の時には無難に法学部を選んでしまった。ただし入学したのは政治学科である(その後法律学科に転科したが)。

   

 学生時代だったか編集者時代に、五木寛之、久野収、斉藤孝の3人によるヨーロッパの政治、戦争に関する鼎談が「毎日グラフ」に連載された。これが五木を読んだ最後だったかもしれない。あるいは「デラシネの旗」が最後だったかもしれない。「内灘夫人」は読んだけれど面白いとは思えなかったし、「青春の門」「朱鷺の墓」など国内もの、恋愛ものは読まなかった。
 前記「年譜」によると、1972年5月以後「ジャーナリズムから遠ざかる」とあるが、その頃からぼくも五木から遠ざかったのだろう。
 数年前からNHKのラジオ深夜便で時おり五木寛之が登場して語っているのを聞くことがあったが、この1、2年は聞かなくなった。彼が出演しなくなったのか、ぼくが聞かなくなったのか。
 五木の本もそろそろ断捨離するか。著者サイン入り本は捨てられないし、「ソフィアの秋」と「蒼ざめた馬を見よ」には思いが残るけれど。

 2024年12月5日 記

 ※ 今日の夕方、孫娘の習い事に同行した待ち時間にジュンク堂を眺めたところ、文庫本の著者名「い」のコーナーには池井戸だの池波だの井坂だのがずらっと並び、五木寛之の本は「親鸞」というのしかなかった。「現代的」小説の寿命は短い。50年も経って五木も読者も変わってしまったのだ。

シルビー・バルタン、80歳!引退

2024年12月02日 | テレビ&ポップス
 
 2、3日前のNHKラジオ深夜便に(たぶん)奥田佳道さん(「音楽の泉」日曜朝の番組の司会者)が出ていて、クラシック音楽とポピュラー音楽の交流について語っていた。
 その中で、モーツァルトの音楽はポピュラーにもたくさん取り入れられているとして、その一例としてシルビー・バルタンの「哀しみのシンフォニー」という曲の原曲がモーツァルトだと紹介していた。シルビー・バルタンといえば、何といっても「アイドルを探せ」で、それ以外の曲はほとんど忘れてしまっていた。「哀しみのシンフォニー」も知らなかった。
 そのシルビー・バルタンが今年80歳になったのを機に引退するという。この秋に引退の予定だったが、大人気のため来春まで引退公演を延期したという。彼女が80歳とは! 奥田さんはシルビー・バルタンはブルガリア人だと紹介していたが、バルタンと言えばバルタン星人だろう。

 「アイドルを探せ」はドーナツ盤を持っているはずなのだが、見つからない。彼女のポスターも持っているはずだが、これももう数十年間見つからない。中学3年の時に(ぼくにとって花の1964年)彼女のファンだとクラスで言いふらしていたら、同級生の女の子が週刊誌についていた彼女のポスターを持ってきてくれたのだった。「小悪魔的で中年男性に人気」などとキャプションがついていた。中学3年生としてはムカッとした。シルビー・バルタンはジョニー・アリデーと結婚したのだったか・・・。
 フレンチ・ポップスでは、フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」なんてのも流行った。数年後には、ミッシェル・ポルナレフの「愛の願い」「シェリーに口づけ」などがヒットした。「ホリデー オン ホリデー ♬」なんて彼の高い声が今も耳に残っている。
 「アイドルを探せ」を探したけれど見つからないので、かわりにポルナレフ(Polnareff)「I Love You Bicause」(AZというのは会社名か)のジャケットを(冒頭の写真)。知り合いの編集者が夏休みにフランス旅行に行った時にお土産に買ってきてくれたもの。歌詞カードも解説のパンフレットもビニールカバーもない殺風景なレコードである。フランスのレコードはみんなこんな調子なのだろうか。どんな曲だったかの記憶もない。
 ついでにポルナレフのレコードをもう一枚、「哀しみの終わるとき」(CBSソニー、発売年記載なし。“EPIC”レーベルで“FRENCH POPS”というサブタイトルがついていた)。カトリーヌ・ドヌーブ、マルチェロ・マストロヤンニ主演の同名映画の主題歌らしい。
       
   
       
 クラシック音楽のつながりで、レーモン・ルフェーヴル「涙のカノン」(キング、1969年)のジャケットも並べておいた。映画「夫婦」の挿入曲でヨハン・パッヘルベルの作曲と解説にある。クラシックに縁のないぼくでもよく耳にするメロディである。バッハかと思っていた。ついでに見つかったアラン・ドロンとダリダの「あまい囁き」のジャケットも。ダリダってこんな顔をしていたのか。「パローレ、パローレ」とつぶやくリフレインが印象に残っている。
 アラン・ドロンも今年亡くなったのだった。「男と女」(「男性・女性」だったかも?)のジャン・ピエール・レオがいい男だと言ったら、「私はちょっと悪なアラン・ドロンのほうが好きだわ」とポルナレフのレコードをくれた編集者が言った。

 2024年12月2日 記