豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

“生きてはみたけれど 小津安二郎伝”

2010年12月31日 | 映画
 
 今年最後の書き込みは、小津安二郎で。

 数日前に、井上和男監督の「生きてはみたけれど 小津安二郎伝」(1983年作品、松竹ホームビデオ)のVHSビデオをみた。

 小津に愛された助監督による小津安二郎の伝記映画である。
 「小津作品の名作の中から忘れられない名場面の数々を拾い上げ」、小津ゆかりの俳優、監督、スタッフらの証言と60年の生涯とを継ぎ合わせて「作品の系譜と人間性を立体的に構築することで」小津の足跡を伝えようとしたと、ケースの裏面の解説にある。
 笠智衆の思い出話に始まり、(確か)今日出海の感想で終わる間に、様々な代表作の場面や出演者のインタビューが挟まっている。戦後の小津映画を彩った淡島千景、有馬稲子、岡田茉莉子、岩下志麻、山本富士子らが次々に登場するので、小津映画の総復習にはなった。

                                 

 『小津安二郎全集』の解説によって、井上の小津への尊敬と、井上の人柄を知っているだけに言いにくいのだが、あまり良い作品には思えなかった。
 「生きてはみたけれど」という題名からして、どこか「生きてはみたけれど・・・」といったニュアンスを感じてしまうし、小津の作品のコマ切れも、あんなことをしてよかったのだろうかと思う。
 浜野保樹『小津安二郎』(岩波新書)を読んでいるので、小津の長兄が小津を語ったりしているのを見ても“戸田家の兄妹”の斎藤達雄と佐分利信を思い出してしまう。

 活字による小津安二郎伝は、浜野も佐藤忠男も高橋治もその他もそれぞれに面白かったのだが、2時間程度の映像で小津を語ることには無理があった。
 最後に、今日出海が、「小津の映画(小津自身だったか?)には常に孤独が感じられる」と言っていたのには同感した。輪廻だとか無だとかではなく、現世での孤独が小津映画の通奏低音だったと、ぼくも思う。

 2010/12/31 記

 * NHKのニュースで、高峰秀子が12月28日に亡くなったと報じていた。彼女もぼくにとっては今年の「顔」だったのだが。遅ればせながら、ぼくが生まれた年に撮られた“カルメン 故郷に帰る”をこの夏休みに見たのだった。

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飯田橋 歴史のプロムナード(その2)

2010年12月17日 | 東京を歩く
 
 天気が良かったので、久しぶりにカメラをもって通勤。
 
 いつもながら、飯田橋から大学までの道端風景を何枚かアップする。
 飯田橋駅前(A2出口。モスバーガー前)を出発。すぐの右手に「飯田橋」の由来を記した石碑(?)がある。

               

  この石碑には、江戸時代のこの辺りの古地図もついている。
 この石碑が立っている辺りは、「中川御番 秋元右近 四千石」の敷地で、向かいは「御小姓組番頭 戸川伊豆守安(草冠に)存 三千石」の敷地、戸川の隣りが「寄合 鍋島内匠頭 五千石」となっている。
 そして現在のホテル・メトロポリタン エドモントの裏手あたりには、「讃岐高松藩 松平讃岐守頼胤 十二万石」の広大な屋敷があったらしい。仰々しく葵のご紋が地図にまで入っている。
 四国、高松の築港に面して玉藻城という、それほど大きくはない城があるが、あの城の城主だろう。
 その他、この地図には、「橋本数馬」「西尾寛一郎」「新見育太朗」などといった石高もない個人の名前が出てくるが、こういった人たちの明治以後の生活はどうなったのだろうか? 今でも子孫が住んでいる家はあるのだろうか。

               

 いつものように、飯田橋三丁目の交差点で新目白通りを左折して、ホテル・メトロポリタン エドモントに出る。
 東京都しごとセンター(旧飯田橋職安)を通り、例の(ぼくが命名した)ホッペマ通りに入る。冬の午前中は正面から低い日ざしが眩しい。(最初の写真)。
 いつも通り、飯田橋アイ・ガーデン エアー、最初のビル、大塚商会。ゼミの卒業生がここに就職したが、元気にやっているのだろうか。10年近く経つが一度も出くわさない。

                

 その隣りは、東京スカイツリーを設計した日建設計のビル。
 1階のショー・ルームのガラスにはスカイツリーの絵が描かれている。以前は同じところに東京タワーの絵が描かれていたが、東京タワーもこの会社の設計だったのだろうか。

                

 ふだんは写真を撮らないのだが、大塚商会の向かいの“シティータワー九段下”と、日建設計の隣りの日立マクセルのそのまた隣りの“東京レジデンス”の写真も撮ってきた。
 最初が、“シティータワー九段下”。

                

 次が“東京レジデンス”。かつては1階が“エディー”というパン屋兼喫茶店だったが(エドモント・ホテルの「エディー」だろう)、今年閉店し、その後は空き家状態のようだ。
 上の方の階は、千代田区のビルはみんなそうだが、都営住宅か何かになっている。

                

 2010/12/17 撮影

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Alfa Romeo MITO TCT

2010年12月12日 | クルマ&ミニカー
 
 Alfa RomeoのMITO TCT。

 これもいいなあ。とくにホワイトのボディーは。
 日帰りで軽井沢にドライブに出かけて、日暮れ時の上信自動車道を走る姿は、傍から見るとこんな風(↑)になっているのだろう。

 後姿も悪くない。さすがイタリア車だけあって、若かりし日のソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジータ、ロッサナ・ポデッサ(イタリア人だったっけ?)のグラマラスなボディを思わせる。

               

  もともと、丸いクルマが好きなんだけれど、最近はエッジをきかせた鋭角的なデザインが多い中、このクルマはそんな時流には見向きもしないで、丸く収まっているのがいい。
 そのうえ、アイドリング・ストップまで備えている。
 アルファ・ロメオにアイドリング・ストップなんて、時代も変わったものだ。

 横顔もいい。ちょっと上から見下ろした姿。↓

               

 VWのNew Beetleも好きだったけれど、2012年発売のNew“New Beetle”は、予想通りボディーを拡大させるらしい。
 今のところ、まだシルエットしか公開されていないが、もはや「プロムナード・カー」の面影はなさそうである。
 丸いクルマがいいけれど、もう新しいニュー・ビートルは、ぼくの選択肢にはない。

 今は、丸いクルマでは、このアルファ・ミトに一番魅かれている。

 一度だけ近所の修理工場にとめてある現車を、背後から見たことがある。旧型(1.4Tスポルト?)らしく、大径のタイヤを履いていて、けっこうボリューム感があった。見た瞬間は日産ムラーノかと思ったほどだったが、MITOのロゴがついていた。
 あれで本当に、4070×1720×1465なんだろうか。
 グラスエリアが狭くて、斜め後方の視野は悪そうだった。

 それでも欲しいけれど、大学の駐車場では目立ってしまいそうだ。ジャガーやベンツで来ている先生もいるけれど、やはり浮いている。
 ボディーをグレーにしたら少しは落ちついた感じになるだろうか。

 2010/12/12 今日は小津安二郎の誕生日にして命日だった。

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飯田橋 歴史のプロムナード

2010年12月07日 | 東京を歩く
 
 通勤の際は、飯田橋駅を降りてから、飯田橋“アイ・ガーデン・エアー”の並木道を歩くのだが、たまに新目白通りを靖国神社に向かって歩くこともある。

 その道端に商店街か教育委員会が建てた“飯田橋 歴史散歩道”という標識がいくつか立っている。
 今日は、それを全部写真に撮ってきた。

 まずは飯田橋駅を出てすぐの東京区政会館(会館の中では何をしているのか?)前の石碑。

 「発祥記念碑 明治15年 有栖川宮熾仁親王を総裁に この地に皇典講究所を創設
  同所を母体に山田顕義所長のもと
  明治22年 日本法律学校(現 日本大学)
  明治23年 國學院(現 國學院大學) を開設す」

 と記されている。

 この場所には、ぼくの若いころは日本医科大学病院の古い建物があった。投資の失敗か何かで内紛があって(とニュースでやっていたように記憶する)、病院はどこかに移転してしまった。
 日大、國學院大発祥記念碑の隣りには、その「日本医科大学付属第一病院記念碑」も建っている。

               

 この石碑には往時の同病院の正面玄関を描いたエッチングも飾ってある。そこには「日本医科大学付属第一医院」と書かれた看板が掲げてあるのが見て取れるのだが。↓

                                 

 しばらく歩くと、再び「日本大学 開校の地」の縦長の案内があり、さらに少し行ったところに「國學院大學開校の地」という同じ形の標識が立っている。

                   

                   

 実は、「日大開校の地」と「國學院開校の地」の間に、なぜか、「東京府立第四中学校開校の地」という石標も立っている。その昔この辺りには、ずいぶんごちゃごちゃと学校が乱立していたようだ。

                   

 近所には「飯田橋むかしむかし 日清、日露戦争の頃」という案内板があるが、細かくて肉眼でも読みにくい。写真では内容は分からないだろう。

               

 2010/12/7 撮影

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