豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

家永真幸『台湾のアイデンティティ』

2023年11月24日 | 本と雑誌
 
 家永真幸『台湾のアイデンティティ--「中国」との相克の戦後史』(文春新書、2023年)を読んだ。

 台湾で生まれたぼくの祖父は、幼少時に台風で増水した川を見物に行って溺れたところを現地人の大工に救われて一命を取りとめた。下手をしたら子孫のぼくらもこの世に存在しなかったのだから、この台湾人大工さんにはいくら感謝しても足りない。
 もう一つ、ぼくは学生だった1960年代末から1970年代前半にかけて(本書の著者の言葉によれば)「左翼的な」台湾観を抱いていた一人だった。あの頃台湾を支配していた蔣介石・蔣経国親子の国民党政権と、その後の台湾の変遷に対する認識を整理して、現在の台湾を見る視角を得たいという思いがある。
 ※下の写真は総督府が発行した台湾総督府庁舎の絵葉書。
  

 本書は、「はじめに」から第1章「多様性を尊重する社会」までの数十ページで、古代から同性婚も認める多様性社会となった現在の台湾に至るまでの歴史の概略が語られる。そして第2章「一党支配下の政治的抑圧」、第3章「人権問題の争点化」、第4章「大陸中国との交流拡大と民主化」、第5章「アイデンティティをめぐる摩擦」においては、多くの先行研究の成果を要領よく紹介しながら、著者の視点から再構成することによって、人物に焦点を当てた戦後台湾の発展が語られる。本書によって戦後日本における台湾研究の到達点を知ることができる。 

 蔣介石の国民党政権のもとでは、反体制派を逮捕、拷問、銃殺する恐怖政治(「白色テロ」)が行われていた(64頁以下)。その蔣介石政権をアメリカ帝国主義と日本政府が支援する。日本政府は、反体制派の在日台湾人を蔣政権下の台湾に次々と強制送還する。こうして米国、蔣政権(および韓国の軍事政権)、日本が反共の防波堤として「人民中国」と敵対するというのが、当時のぼくが描いていた図式だった。
 そんな台湾が、どうして今日のような多様性を尊重する自由で、選挙によって政権交代が起きる民主的な国家になったのか。蔣介石、蔣経国亡き後の台湾の動向をきちんとフォローしていなかったので、蔣政権下の恐怖政治国家と、現在は蔡英文率いる民主国家との間の missing link に居心地の悪い思いを抱いてきた。

 特に気になっていたのは、日本にいた反体制派活動家たちの台湾への強制送還をめぐる一連の事件である。日本政府は、政治犯1人を台湾に強制送還するごとに麻薬密輸犯30人を台湾に引き取らせる密約まで結んでいたという(113頁)。
 本書で紹介される陳智雄、陳玉璽、柳文卿その他、1960年代以降に蔣政権下の台湾に強制送還された活動家の名前の多くは(70頁、109頁以下)ぼくの記憶から消えていたのだが、1970年前後に起った林景明さん強制送還事件だけは、はっきりと記憶にある。ただし林さんは強制送還されたと思っていたが実はそうではなかったから(126頁~)、柳さんの報道と混同していたのかもしれない。

 ぼくは江青ら「四人組」が失脚する頃までは、「人民中国」に淡い希望を抱いていた。蔣政権の恐怖政治に抵抗する反体制派の人たちに同情はしていたが、最終的に台湾は「人民中国」と一体になるべきだとも考えていたと思う。だから国民党政権の敵ではあるが、「人民中国」の敵でもある「台湾独立」派の人たちに強い共感がもてなかったのだと思う。
 その意味で、ぼくは代田智明さんがいう「滑稽な親中派教条主義者」の側の1人だっただろう(134頁)。本書で、べ平連から出発してその後は在日外国人の人権を守る活動をつづけた谷たみさんという方の存在を知ったが(136頁)、彼女のような生き方こそべ平連シンパだったぼくが選択しなければいけないその後の道だった。
 ※ 下の写真はぼくが予備校、大学生の頃にいつも胸につけていたべ平連の「殺すな」のバッジ。誰だったか有名なデザイナーのデザインだった。先日別件で物置を探していたら出てきた。
     

 若干の弁明をするならば、ぼくは林さんらの台湾独立運動家に対する人権弾圧にまったく無関心だったわけではない。林景明さんは「知られざる台湾」という著書を出版しているが(三省堂、1970年)、本書によれば同書は「三省堂新書編集部の『任侠的支援』を得て」出版されたという。
 三省堂新書はユニークなラインアップを誇った、装丁もお洒落な新書だったが、むのたけじ「たいまつ」、羽仁五郎「ヨオロッパの大学を行く」、井上幸治=江口朴郎「危機としての現代」、堀越智「アイルランドの反乱」、宮崎繁樹「出入国管理」などとともに、林景明「知られざる台湾」もぼくの記憶に残っている。
 林景明は、楊伝広(東京オリンピック十種競技の「台湾」代表で、当時の世界記録保持者)、翁倩玉(ジュディ・オング)とともに、当時のぼくにとって台湾を代表する名前だった。さらに、大陸側に帰還した劉彩品という名前にも確たる記憶はなかったのだが、学生時代にキャンパスで渡されたビラ類を保存してある段ボール箱の中に、なぜか劉さんを支援するガリ版刷のビラも残されていた。
 いずれにしても、本書を読んだ目的の一つは台湾戦後史における林景明さんの位置づけを確認することだったのだが、ぼんやりとした記憶の彼方にあった林景明さんの像が鮮明に結ばれた。
 林さんを支援した宮崎繁樹さんにも編集者時代に原稿をお願いしたことがあったが、当時の彼の立ち位置にも合点がいった。

 台湾の人びとの「日本人」観について。
 日本統治期に、一方では「日本人になれ」といわれながら(皇民化政策)、学校では日本人から蔑称で呼ばれたという台湾人の経験が語られている(39頁)。台湾旅行の際に、ぼくは明らかに日本人に反感をもつタクシー運転手に乗り合わせたことがあった。彼の反日感情が、日本統治時代の日本人への反感に由来するのか、抗日戦争を戦った国民党兵士の子孫が抱く反日感情だったのか、あるいは近年の日本人観光客への反感によるものだったのかは分からないが、今日でもすべての台湾人が「親日」派というわけではないことを体感した。
 八田與一に対する台湾の人たちの敬意と、日本人の八田評価の齟齬などもなるほどと思った(216~7頁)。八田の技術者的な真面目さ、勤勉さ、正直な人柄こそが台湾の人たちの尊敬を得たのであって、日本統治や日本人全般が尊敬されているわけでは決してない。

 本書の縦糸になっているのは「恐怖」だろう、とぼくは読んだ。本書の帯には「スリリングな台湾現代史!」という惹句があるが、その意味ではまさに「スリリング」といえよう。
 台湾で数年前に大ヒットした「返校」という(ゲームを原作とする)ホラー映画にみられる恐怖、蔣政権による「白色テロ」時代の恐怖(とくに強制送還の危機にさらされた在日台湾人の恐怖)、そして大陸中国による軍事的併合に対する台湾の人びとの恐怖である。
 映画「返校」は見ていないが(89頁~)、蔣介石の恐怖政治が支配した1960年代台湾の高校が舞台で、密告者を恐れる反体制派高校生が主人公らしい。独裁政権の下で、周囲の人間がすべて権力側の共犯者である可能性のある密告社会ほど恐ろしい、ホラーな社会はないだろう。
 蔣政権の白色テロの記憶が今日の台湾アイデンティティの根幹にあり、さらに政権に批判的な言論を弾圧する強権的政治を行なう習近平政権に台湾が組み込まれ、第二の香港になることへの恐怖と反発が今日の台湾の人たちの中国観の根っ子にあるのだろう。 

 「台湾有事は日本の有事」などといった声高な発言を蔡英文は歓迎したようだが(240頁)、台湾市民の多数は「現状維持」を願っている(144頁)。ぼくも、さし当りは「現状維持」、最終的には大陸中国と台湾の平和的統一、それも現在の台湾における自由と民主主義の水準での統一を願うものであるが(200頁で紹介される劉暁波の意見に賛同する)、そのようなことは “impossible dream” なのだろうか。
 いずれにせよ、台湾の帰趨は台湾の人びとが自ら決定することである。
 
 2023年11月23日 記

 ※「週刊ポスト」2024年1月1・5日号の「2024年を占う1冊」というコーナーで、川本三郎さんが本書の書評を書いていた。
 川本さんは本書で紹介された1960年代に起きた台湾人留学生の強制送還事件を「恥しいことに知らなかった」と書いている。これは驚きであった。彼はぼくより少し年長だが、東大法学部の卒業で、朝日新聞の記者を務めた人物である。東大法学部の芦部信喜ゼミに所属した留学生が強制送還されたり、(ぼくの記憶では)朝日ジャーナルにも強制送還に抗議する側の論稿が掲載されたのに、知らなかったとは。
 ぼくは彼の「同時代を生きる気分」を読んだ頃から、「同時代」を生きていないなという感懐をもった。ただし、その当時は「左翼知識人のあいだで親中派が多かったため、台湾に関心を持つだけで疎んじられた」という本書の記述に対して、「私などの世代にはこの空気はよく分かる」と川本さんが書いているのにはまったく同感で、ぼくもあの当時の「空気」がよく分かる。ということは彼と「同時代」を生きた部分もあるのだろう。
(2024年1月23日 追記)

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きょうの浅間山(2023年11月22日)

2023年11月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 気象庁監視カメラ画像から、現在の浅間山の光景を。

 2023年11月22日12時00分(ややフライング気味か?)の浅間山。
 山頂付近はうっすらと雪化粧をしていて、太陽の光が雲に反射しているのか筋状に輝いている。
 「初雪」も「初冠雪」も「初積雪」も、その違いは分からないが、浅間山は冬景色になりつつある。

 2023年11月22日 記

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斬馬剣禅『東西両京の大学』

2023年11月17日 | 本と雑誌
 
 斬馬剣禅『東西両京の大学--東京帝大と京都帝大』(講談社学術文庫、1988年、原著は明治36年刊)を読んだ。
 著者は「ざんば けんぜん」と読むらしい。明治36年の読売新聞に連載されたもので、筆者が同紙の記者であることは当時から明示されていたが、解説によると、斬馬とは五来(ごらい)欣造(ペンネームは五来素川)の別名であると末川博、大内兵衛らが語っているとのことである。五来は、東京帝国大学法科大学を卒業し、欧米遊学の後に読売新聞に入社し(後に同紙主幹)、さらに後に早稲田大学教授になって政治学を講じている。

 執筆当時の東京帝大および京都帝大の法律学の教授を対比して論じつつ、京都帝大法科大学の進取性を称賛し、東京帝大法科大学の改革を阻害する教授たちを論難するのだが、その人物紹介と非難がとにかく面白い。まさに「巻置くこと能わず」で、一気に読んだ。
 真偽のほどが疑わしい噂話に類するエピソードもあるが、登場人物の人柄や学問上の業績に関する記述はかなり具体的で信憑性は高い印象である。斬馬自身が東京帝大法科の卒業生で、法律学に関する知識をもっており、講義に出席して教授たちの人柄を直接観察する機会もあっただろう。
 しかし、そのような学生や新聞記者としての見聞だけでなく、教授会の内部事情にも詳しい情報提供者(内通者)がいなければ知りえないような情報も多数記されている。東京帝大法科大学内部で改革を推進しようとする側からのリークもあったと思われる。

 登場するのは、穂積陳重・梅謙次郎vs岡松参太郎、穂積八束・一木喜徳郎vs織田萬、岡野敬次郎・松波仁一郎vs高根義人、岡田朝太郎vs勝本勘三郎、・・・寺尾亨・戸水寛人、高橋vs岡村司、山田三郎vs仁井田益太郎その他で、法律学者が多いが、経済学者(田尻稲次郎ら)、政治学者、社会学者(建部遯吾など)も登場する。
 斬馬によって最初に批判される(斬られる)のは、穂積陳重である。
 穂積は従四位勲二等法学博士にして、東京大学教頭、法科大学長、貴族院議員、法典調査会主査委員の盛名を誇り、富豪の恩沢に衣食するは(陳重の妻は渋沢の娘だった)、法科大学教授中「もっとも俗の俗なるもの」であるとする(~69頁)。
 斬馬による穂積批判の要点は、彼が試験至上主義者である点に向けられる。陳重は自らがケンブリッジ大学を一番で卒業した例をあげ、得点1点の重要さを学生に説いたという(~74頁)。これが帝国大学改革を支持する斬馬の反感を買ったのであろう。
 なお本書には陳重が寄せた弁明書が掲載されている。それによれば、陳重はすでに法科大学教授以外の官職をすべて辞し、教授会でもなるべく発言を慎んで研究室で研究に励んでいる、梅、富井らはかつて自分の学生だったので謙譲を表することはあったが、自分の学内における勢力などというものは誤解である、試験制度についても改革に反対するのではなく漸進的に行なうべきであると主張するだけであるときわめて穏やかである(81頁~)。

 斬馬の批評の的確なことは、梅謙次郎の評価にも顕著である。
 斬馬は梅の「脳中やや深奥なる法理の薀蓄に欠くる所あるの憾み]はあり、法理的学殖では岡松参太郎に劣るものの、その(民)法典編纂の折に示した立法的手腕は空前絶後であると評する(~61頁)。彼は『民法要義』のような実際的、活用的な著書を出版し、人はこれを浅薄、取るに足らずという者もあるが(そんな評価があったとは!)、この著書が一般法律学的知識の普及に如何に貢献したかを知るべきである、梅は法律の解釈応用に至っては空前の天才であるという(62~3頁)。
 
 一番愉快だったエピソードは、穂積八束の結婚である。かれは浅野総一郎の娘でその操行に非難ある女と結婚したのだそうだが、そのような女と結婚したのでは学者としての体面を保てないと友人から讒言されたのに対して、八束は「余は妻を娶ったのではない、財産を娶ったのだ」と嘯いたという(94頁)。八束は、常々日本の学者が貧しいことを嘆いていたというから、さもありなんと思わせる。
 八束は人力車の車夫とは直接口を利かなかったという。車夫が行き先を聞いても返事をしないので、車夫は仕方なく人力車を引いて八束が行きそうな場所を走り回ったという。その一方で、さる東大助教授(加藤正治)の結婚式に出席した折、貴賓席に伊藤博文を見つけた八束は跪坐一礼のうえ膝行して面前に進み出て挨拶したという。こっちの行状こそ学者としての体面を汚す所為ではないか。
 早稲田の講師だった副島義一は高等文官試験に8回落第したが、その理由は八束の神主的憲法学説に従った答案を拒絶したためだという(98頁)。斬馬は、八束のような人物は「愛国心を振り廻して却って国害を来さんとす」るものであると的確に批判している(88頁)。

 その他の教授連に対する批評もどれも面白い。 
 岡松参太郎の学問的評価も極めて高いが、岡松が示した台湾総督府の委嘱を受けての台湾旧慣取調、法典編纂の事業、京大図書館新設時に彼が陣頭に立って行った整理作業の精勤ぶりなどの行政官的手腕をも斬馬は評価する(63~4頁)。
 土方寧は「名利に淡く、学問道楽なる点において」法科大学教授中でも異色であり、「仙人に近い」ものがあるという(194頁)。英法に対する学識の深さも他の英法専攻者を圧倒すると評する。
 岡村司は「もっとも学者として正直なる学者」である(212頁)。斬馬は岡村と所説を同じくするものではないが、彼の心術の公明正大さ、所信を貫く果敢なる勇気を称賛して、岡村を「学界の壮士」と呼んでいる(~234頁)。その姿勢は、後の『民法と社会主義』(弘文堂、大正11年)にまでつながるものであろう。
 寺尾亨は「教師は乞食と同じで三日やるとやめられない」と語って、大学教授の言説の自由を誇称したという。寺尾は試験が易しかったために学生の人望が厚かった。「国際法とは何ぞや」式の問題だったという(~216頁)。最近のロシア、イスラエル、国連の関係などを見ると、これは難問ではないか。

 しかし全般的に、批判の論法のほうが面白い。
 例えば、穂積の幇間として(74頁ほか)、また洋行帰りの典型としての山田三郎への批判(~238頁)など。一木喜徳郎の棒読みの口述をノートにとらせるだけの講義(101頁)、学生たちにもっとも不評だったという商法の松波仁一郎は、岡野敬次郎に追及されて商法から海商法に鞍替えされたという(120頁~)。岡田朝太郎のことを、リストが「彼の頭脳は博物館的なり、常に材料の蒐集学説の併列を主とす」と評したとあるが(57頁)、これも後進国日本に典型的な学者への批判だろう。

 明治中盤の、わが国法学界の黎明期に現われた高名な法学者たちの人物像や人間関係を窺うことができ、資料などで名前のみの存在だった人物の生きた姿--それこそ「活き活きとした」だけではなく「生々しい」という意味での “vivid” な姿--を窺うことができる。凡百の人物事典や学説史からは知ることができない法学者像である。
 この本を事前に読んでいたら、とくに、法典調査会議事速記録などはもっと面白く読めただろうと、残念に思う。
 ただし、各学者を当時の相撲取りに喩え、陳重を大砲(おおずつ)、梅を太刀山、梅ケ谷、岡松を常陸山などと比べて論ずるのだが、それらの力士がどんな相撲取りだったのかが分からない。人物評が時おり前後に飛ぶのも難点か。

 2023年11月17日 記

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ヴェルコール『星への歩み』、アロン『自由の論理』

2023年11月16日 | 本と雑誌
 
 祖父の蔵書の整理作業のつづき。フランス・レジスタンス関連の本を2冊。
 ★ヴェルコール/河野与一・加藤周一訳『海の沈黙・星への歩み』(岩波現代叢書、1951年)
 大学1年の時に卒論のテーマにしようと思ったのがフランスのレジスタンス運動だった。反ドイツ、反ナチでは団結していたレジスタンスが、大戦後のアルジェリア戦争までには分裂してしまう経緯をやろうと思った。しかし第2外国語で選択したフランス語がほとんど身につかなかったので政治学専攻は断念して、法律学科に転科した。
 それでも祖父が亡くなった1984年頃は、まだその頃(1969~70年)の自分は何を考えていたのかを顧みるよすがを手元に残しておきたいと思ったのだろう。

 ★レイモン・アロン/曽村保信訳『自由の論理--トクヴィルとマルクス』(荒地出版社、1970年)
 アロンは「反動的」思想家ということで読まず嫌いしていた。本書の解説を書いているのが村松剛だったことも関係していたかもしれない。しかし今回読んでみると、村松の解説はきわめて穏当な記述に終始していて、テレビなどで見かけた彼の言動からは想像もできない。
 この本の裏表紙に、アロンを論じた杉山光信『モラリストの政治参加』(中公新書)の書評が2つ挟んであった(朝日、読売1987年4月20日付)。朝日の評者は西部邁だった。彼のような人間に担がれたのもアロンにとって不幸だった。「贔屓の引き倒し」で、「贔屓」筋への反感からぼくはアロンの真価を理解できなかった(理解しようともしなかった)のかもしれない。
 アロンこそ、戦後になって、かつてのレジスタンスの盟友たちと決別して別の道を歩んだ人物の代表的存在(の1人)ではないか。レジスタンスを卒論のテーマにしようと思いつつ、戦後の一時期日本を風靡したレジスタンス礼賛論にも違和感を感じていたあの頃のぼくが読むべき本だったかも知れない。今さら手遅れだろうけど、この本はもうしばらく手元に置いておきたい。
 ちなみに、このアロンの本の版元は荒地出版社(「あれち」と読むのか「こうち」と読むのか)だった! 荒地出版社といえば、「サリンジャー選集」の版元ではないか。サリンジャーもアロンも「反共」という点では共通していると言えるけれど。

 2023年10月30日 記

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きょうの浅間山(2023年11月13日)

2023年11月14日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 NHKテレビの天気予報によると、きょう浅間山は初冠雪を記録したとか。浅間山の映像が出てきたので慌ててシャッターを押したが、ちょっとピンぼけ(上の写真)。

 「初冠雪」という言葉の定義は分からないが、「初雪」というのではないだろう。いくら地球灼熱化の異常気象とはいえ、11月13日は初雪にしては遅すぎる。頂上の雪が根雪になったということだろうか。それにしては画像で見る雪の量は少ないようだが。
 いずれにしろ、軽井沢は寒い季節になったのだ。

 今日は東京も結構寒かった。木枯らし1号が吹いたそうである。「木枯らし1号」というは気温何度以下で、風速8メートル以上の北風が最初に吹いた日だそうだ。
 明日の東京新聞の一面には東京の木枯らし1号の風景が載っているかもしれない。

     

 ※今朝の東京新聞一面には「東京に木枯らし1号」のことは載っていなかった。地域版(山手版)も含め、1面から最終面までしっかり見たが、木枯らしの木の字も出ていなかった。残念。
 最近の東京新聞ではこんなことは記事に値しないのだろうか。前の週までは東京も夏日を記録していたのが一転して木枯らしが吹いたのだから、ニュースだと思うけど。
 数日前のNHKラジオ深夜便3時台の「風」をテーマにした歌特集では「木枯らし紋次郎」のテーマソング(曲名は忘れたが上条恒彦が歌っていた)が流れていたが。
 もう一つ、昼のNHKテレビ列島ニュース、長野局発で、今朝の軽井沢の最低気温がマイナス4・4℃だったと報じていた。
 そのニュースの背景に現在の浅間山が映っていた(上の写真)。スマホをカメラに切り替えようと焦っているうちに、画面は山頂から石尊山の方に移動してしまった。
 画面からは、浅間山の頂上は雪をかぶっていないように見えた。昨日の「初冠雪」がもう溶けてしまったのなら、「初冠雪」というのは頂上に降った雪が根雪になったことではないらしい。(2023年11月14日追記)

 2023年11月13日 記

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イェリネク『法の社会倫理的意義』

2023年11月07日 | 本と雑誌
 
 祖父の蔵書を整理するする作業の途上で、イェリネク/大森英太郎訳『法の社会倫理的意義』(大畑書店、昭和9年=1943年)を読んだ。
 本書は、「序論 社会科学」「第1章 社会倫理学」「第2章 法」「第3章 不法」「第4章 刑罰」の5章からなる。
 「第1章」には、「全体は個のために、個は全体のために」(“Alle für einen,einer für alle”)という最近スポーツ番組でよく耳にする標語が出てくる(41頁)。この標語はイェリネックの造語なのだろうか。
 イェリネックによれば、社会倫理的立場から一切の倫理的命令を取り入れ得る形式は「汝の行状が社会を維持し進展せしむる如く振舞うべし」ということである(33頁)。

 本書の中核になるのは「第2章 法」である。
 「法は倫理の最低限に他ならない」(“Das Recht ist nichts anders,als das ethische Minimum”)は、彼の有名な言葉であり、本書「法の社会倫理的意義」の論旨を集約した標語である。
 この言葉につづけて、「法は、客観的には、人間の意志に依拠する限りでの社会維持諸条件、従って倫理的諸規範の最低限の存在であり、主観的には、法は社会構成員が要求せられる道徳的な生活行動及び意向の最低限である」と敷衍される(67頁)。訳文に頻出する「意向」が分からないのだが。

 イェリネックによれば、歴史的に法と道徳は分離の道をたどってきたが、近年ふたたび合一の傾向もみられる(75頁)。しかし法は、道徳的諸概念のもっとも外的な領域においてのみ道徳を防御するにすぎない(77頁)。彼は、法概念における道徳の過剰を批判する一方で、道徳を個人に帰し、法を共同倫理と見る見解も批判する(78頁)。
 著者によれば、法と道徳はともに習俗すなわち倫理的慣習から発生する。習俗の内的態度が道徳(の若い概念)であり、外的態度が法(ないし共同倫理、生活態様)であり(79頁)、法は原則として外部的態度(人間の行動)を要求する(79頁)。

 法は人間の行動によって発生すべき社会状態の保持を目的とするから、緊急の場合には(社会保持のための)強制力を備えていなければならないが、法の強制力は法的生活の病的諸現象に対処するものであり、法が何らの抵抗もなく行われる場合は無数にある。むしろ強制を用いなければならないような法秩序は、粘土細工の足で立つ人形のようなものである(80頁)。
 このように、イェリネックは強制力によって担保されることを法の特質に掲げる論者を批判する。その一例として、イェーリングの「法は社会の存立諸条件を強制の形式において確保するものである」という主張があげられている(81頁注7)。

 それでは、「倫理の最低限」(である法)の「最低限」はどのように設定されるか。
 社会は構成員に対して秩序の外部的維持を要求するだけでなく、秩序の内部的意欲をも要求する。社会全体の法的意向が増大すればそれだけ法的秩序は堅固になるが、法的意向が減少すれば規範が無力となり強制がますます必要になる。「倫理の最低限」もこの内部的意欲の程度に応じて増大することになる(84~5頁)。
 法と道徳の無関係を示すものとして、道徳上禁ぜられることが法律上許されることがある(85頁)。極貧の債務者から最後の生活資産を奪うことは不道徳ではあるが、不法ではない。これも「法は道徳の最低限」の内容である(らしい)。

 「第3章 不法」および「第4章 刑罰」では、規範に背く行為(=不法)の性質と、これに対する社会的な制裁(イェリネックはこの言葉を使っていないが)たる刑罰が論じられる。意志の自由論と決定論(言い換えれば責任論)をめぐる法哲学ないし刑法理論を検討し、刑罰の性質をめぐる応報主義と目的主義の対立が論じられる。イェリネックは、刑罰の報復的性質も認めるが、その本質は予防と犯罪者の改善にあるという立場を表明する(199~202頁)。犯罪は社会の所産であるとも言う(126頁)。

 以上、イェリネックの要約を試みたが、自分が十分に理解できていないことを自白する結果になってしまった。ただ読んだだけで、要約や感想を書かなければ「読んだ」ことにはならない。しかし、この程度のことしか書けないのでは、「書いた」としても「読んだ」と言えるのか。
 イェリネック「法の社会倫理的意義」が言う、道徳的に望ましくない行為のすべてが法規制の対象になるのではなく、法による規制は「最小限」の倫理的命令の違反に限られるということには賛成である。問題は、それでは倫理の「最小限」はどこに設定されるのか、倫理的規制と法的規制の境界線をどこに引くべきか、という点にある。
 残念ながら、その境界線はイェリネックの本書では明示されていなかった(と思う)。人は内心(心の中で思った)だけでは刑罰を受けることはないこと、ただし外部的行動を起こした場合には、その行動が内心で意欲したものか否かは問われることはどこかに書いてあった。

 法と倫理の境界線ないし法的な強制力行使の限界について、ぼくは、J・S・ミル『自由論』が唱えた、社会が強制力をもって個人の行動を規制できるのは、その行為が他人の生命・身体・自由・財産等を侵害するか、侵害される危険がある場合に限られるという原則(侵害原則)を支持する。
 他人の身体等を侵害する危険がない場合は、たとえその行為によって本人自身が傷ついたり(パターナリズム)、社会の道徳が損なわれたとしても(モラリズム)、それは法規制の対象にはならない。これらは、外部からの強制力によって規制されるのではなく、各人の倫理的判断に委ねたり、あるいは道徳的な批判にとどめるべきであるという考えに共感する。
 このようなミルの考え方を、ぼくは、加藤尚武「子育ての倫理学」(丸善ライブラリ、2000年)その他一連の加藤氏の著書から学んだ。

 家族法の世界でも「社会倫理」が関係する場面は、離婚理由としての「不貞行為」、相続廃除理由としての「著しい非行」などいくつかあるが、近親婚禁止の根拠としての「社会倫理的」理由がもっとも直接的である。
 わが家族法学者は、近親婚は「優生学的」および「社会倫理的」理由から禁止されるといいながら、2、3の学者を除いてほとんどの学者は、彼らがいう「社会倫理」の具体的内容を一言も説明していない。彼らの「社会倫理」は、内容のないレッテル貼りにしか思えない。もし現在の社会で共有されるべき「社会倫理」があるとしたら、それは婚姻の自由(=配偶者選択の自由)など個人の幸福追求権の尊重だと思うのだが。
 イェリネックの本書は「法の社会倫理的意義」と題しながら、後半部分は刑罰論に集中してしまい、法と倫理の関係が問題になるはずの「公序良俗」論など民事法の分野は残念ながらまったく取り上げられない。
 
 ちなみに、この本の巻末には大畑書店の既刊書目録がついているが、瀧川幸辰『刑法読本』と、スタリゲヴィッチ著/山之内一郎訳『サヴェート法思想の発展過程』の2書の定価欄には「禁止」とある。発禁本についても既刊書目録欄に掲載することで抵抗の意志を示したのだろう。

 2023年11月7日 記

 ※この連休は孫の相手などでバタバタしていたら、気がつかないうちに「豆豆先生の研究室」の閲覧数が210万件を超えていた。17年弱の間にどなたかが210万回以上も立ち寄って下さったとは有り難いことで、信じ難いことである。

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お茶の水を歩く(2023年10月30日)

2023年11月06日 | 東京を歩く
 
 10月30日(月)、午後2時から御茶ノ水駅前の眼科病院で定期検診。
 かつての同僚と正午に大学で待ち合わせて、久しぶりにランチ。コロナ前の退職時には1000円だった定食が1230円になっていた。上限を980円に抑えていた新書の値段がこの秋から一斉に1100円になったという話だから、25%のアップは想定の範囲内。
 秋晴れで気持ちがよかったので、徒歩で御茶ノ水駅に向かうことにした。神保町の露店古本市を右手に眺めながら(以前のような人だかりは見られなかった)、靖国通りの神保町交差点を水道橋方面に左折。

     

 途中適当なところで右折したら、知らない道に迷い込んでしまった。
 昭和風のレトロな二階建ての建物があり、何だろうと近づいてみると、「神田猿楽町会」の看板。マンションに挟まれてよくぞ残っている(上の写真)。バブル前までこの界隈には、こんな建物がいくつもあったのだが。
 そのうち、見覚えのある急な階段のある坂道に行き当たる。かつての明治高校校庭横の「男坂」だか「女坂」である。きつそうだけど、これを登れば御茶ノ水駅前に出ることができるので、登ることにする(冒頭の写真)。
 登りきると、懐かしいマロニエだかプラタナスの街路樹の通りに出る。学生時代アテネ・フランセに通った道である。
 左手にかつての文化学院のアーチ形の門が残っていて、「東京BS放送」だったかという表札がかかっていた。覗いてみると、門だけでなく建物も文化学院当時のものが残っているようだ(外観だけかも)。門の脇には、かつてここにあった「文化学院」の歴史を紹介する小さな立札も立っていた(下の写真)。
 アテネに通っていた頃、御茶ノ水駅前交番のすぐ近くに「与謝野」の表札のかかった家があった。文化学院の創設者(?)の1人である与謝野晶子の家だったのではないかと思った。

   
   

 道路の右手には駿台予備校の立派な建物がそびえている。かつて西校舎が建っていたところだろうか。その駿台ビルのワンフロアだけが「弘文堂」となっていた。
 弘文堂は、前に取り上げた J・ギースラー「ハリウッドの弁護士」の版元である。昭和38年当時の弘文堂の住所は「千代田区神田駿河台4の4」となっている。今と同じ場所だろうか。上巻の訳者前書きに、編集者である田村勝夫さんへの謝辞がある。田村さんは出版業界で有名な編集者の1人で、のちにサイマル出版会を起した人である。
 ちなみに「ハリウッドの弁護士(上)」は「フロンティア・ブックス」という弘文堂の新書だが、本文がちょうど200頁で、定価280円だった。

 2時少し前に病院に到着したが、待ち時間は1時間30分以上。「ハリウッドの弁護士」を読んで待とうとしたのだが、睡魔に襲われて、断念。

 2023年11月6日 記

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J・ギースラー『ハリウッドの弁護士(上・下)』

2023年11月02日 | 本と雑誌
 
 ジェリー・ギースラー/竹内澄夫訳『ハリウッドの弁護士--ギースラーの法廷生活(上)』(弘文堂、1963年)を読んだ。
 病院の待ち時間用に持って行ったのだが、活字が小さいのと(印刷も薄い)、前夜が寝不足だったために眠くなってしまい、数ページで断念して瞑目。帰宅してから読んだ。

 ギースラーはハリウッドの有名俳優たちの犯罪やスキャンダルを弁護したことで名をはせた弁護士で、「ハリウッドの無罪請負い人」とも称される弁護士だった。ただし、ハリウッド俳優の離婚事件なども引き受けているから、生粋の刑事弁護士というわけでもない。まさに原書のタイトルである「ハリウッドの弁護士」(“Hollywood Lawyer”)だったのだろう。
 本人によれば、彼はその風貌から「ハリウッドの田舎弁護士」と呼ばれたそうだが、ご本人はそのように呼ばれた方が仕事には有利だったという。バリッとした都会育ちのインテリ風の弁護士のほうが陪審には嫌われるらしい(上の表紙カバー写真の左側がギースラー弁護士)。

 ベテランになってからも、彼は公判前夜には眠ることができず、公判廷に立つと足が震えたと述懐している。弁護人席で背後から彼を見ていた後輩弁護士によると、弁論するギースラーのズボンが揺れていて、彼が震えているのが分かったという。それは緊張からというよりも、獲物を仕留める前の武者震いだったかもしれない。
 今日の社会状況や意識の変化からみると、刑事事件(中でも強姦事件)における彼の弁護活動には、疑問を呈する向きもあるかもしれない。
 強姦事件の被害を訴える「被害者」に被害当時の服装で出廷することを裁判官に求めたりするのは、あたかもそんな恰好をしていた被害者のほうが悪いと言わんばかりである。そのような弁護活動に幻惑されて無罪評決をしてしまうとしたら陪審員のほうが悪いのだが、紹介された事件で陪審が無罪を評決したのは、検察側が、被告人が有罪であることを立証できなかったから、無罪(“not guilty”)と評決したのである。
 ガードナー「最後の法廷」では強調されていなかったが、本書では、被告人には「無罪の推定」が及ぶこと、そして、検察側が「合理的な疑いを差し挟まないまでに」(“beyond a reasonable doubt”)被告人が有罪であることを立証する責任を負っていることが明記されている。陪審制のアメリカでは常識なのかもしれない。映画「十二人の怒れる男」では、登場する陪審員たちの口から自然に “beyond a reasonable doubt” という言葉が出ていた。

 昔から、興行主やスターの地位を利用して女性を籠絡させようとする御仁もいれば、そのような連中との性的スキャンダルを脅しのネタに芸能界へのデビューをもくろんだり、金銭を要求する御仁もいたのだ。
 強姦事件で起訴された第6話「エロール・フリンの強姦事件」と、第3話「大興行主のスキャンダル」は似たような展開である。エロール・フリンというのは往年のスターらしいが、ぼくは名前を聞いたことはあるが映画を見たことはない。共演した女優やファンの女性などと浮名を流したが、その中の2人の女性から準強姦で告発され、起訴された。訴えた「被害者」がいずれも未成年者だったため、「合意」があったとしても準強姦罪に擬せられたのである。
 ギースラーは、彼女たちが証言する「強姦」被害の具体的な態様についての矛盾を次々にあばいていく。例えば、隣りの部屋には職員がいる事務所の一室で助けも求めずに襲われたとか、襲われたという翌日にもパーティーで彼と談笑していたとか、「月を見よう」と誘われて窓際で見ていたら襲われたというが、その日その時刻にその場所から月は見えなかったことを調べたり・・・など、探偵や配下の若手弁護士を使って相当入念な調査を行なうのである。
 彼の活躍は公判廷での尋問や弁論が有名だったらしいが、実際には公判前の入念な調査にこそ彼の弁護活動の本領があった。

 さらに、被害を訴えた女性たちが未成年者とはいえ(そもそも彼女らが未成年であること自体も争点になっている。アメリカの出生証明書には推定力しかないらしい)、あまり品行方正と言えなかったことが調査で判明する。
 1人は(性犯罪に関与した)他の事件で少年院への収容を恐れて検察官に迎合した可能性があることを、もう1人は(当時のカリフォルニア州では犯罪とされていた)堕胎をしたことがばれたため処罰を免れるために、これまた検察官に迎合した可能性があったことを指摘することで(こういった事実を法廷=陪審員の面前に提出するにも法廷技術が駆使される)、公判開始当初は被害女性に同情的だった陪審員(12名中9名が女性だった)の心証を決定的に無罪評決に向けさせることに成功する。
 さらに、彼女らの背後で、彼女らとの性関係をネタにフリンをひっかけてやろうとけしかけていた男の存在を突き止め、その男を法廷に召喚して証言させることで、合意による性関係の存在すら疑わしいものとして、結局無罪評決を勝ち取るのである。
 強姦事件の公判におけるこのような審理は、いわゆる二次被害の恐れもあるが、フリンが被告となった2件の事案では、逆に、わが国の痴漢冤罪事件のような、女性側の虚偽告発の可能性が濃厚だったという印象を受ける。

 事件の紹介の中でギースラーは、検察官(と被害者)の尋問、これに対する弁護人(ギースラー)の反対尋問を公判調書からそのまま問答形式で引用しているので、アメリカ・カリフォルニア州法における反対尋問の許容範囲を知ることができる。例えば、検察側証人である警察官が現場写真を見ながら「✕印の所に被告人が立っていた」と証言したことで、ギースラーは、被告人を証言台に立たせるリスクを負うことなしに、被告人がその場で何を語ったかを警察官への反対尋問で証言させることができた(第5話「勝ち取った正当防衛」)。他にも、伝聞証拠を法廷に顕出させる方法や、許される誘導尋問の限界なども具体的に知ることができる。
 ご本人は、自分の尋問技術は、ストライカー「弁護の技術」(古賀正義訳の邦訳が青甲社から出版されている)などを参考にして修得したことの成果であると書いているが、本書で紹介されているようなギースラーの尋問は、検察官が異議を申し立てなかったり、申し立てても裁判官に却下されているところを見ると、当時としては(現在でも?)適法だったのだろう。

 ぼくは1970年代に、青学近くの青山通りに面した古本屋で “Law and Tactics” という全5巻の Case Book を見つけたことがあった。各巻1000頁近く、1冊の厚さが10センチ近くあったのだが、面白そうな目次が並んでいて、値段も5巻で2000円くらいだったので買って、自宅まで担いで(というのは嘘で、紐で縛って手提げをつけてもらって)帰ったことがあった。
 結局目次を眺めただけで、本文を読むことはなく捨ててしまった。古い革装だったのだがその革が湿気っていて黴臭かったので置いておけなくなった。陪審制を採用する英米では、陪審員相手に弁論を行う際には、たんなる法律論だけでなく、素人陪審員に対して訴求力をもつための戦術を修得しておくことも必要なのだ。ギースラーはその面でも「有能」な弁護士だったのだろう。
 ちなみに、検察側も、被害者をうぶで純情な少女に見せるために、女子高生のような衣装を着せて、おさげ髪で傍聴席の最前列に座らせたりしている。

          

 上巻で驚いたのは、わがシェリー・ウィンタースがギースラーの依頼人として登場したことであった。
 あの「ウィンチェスター銃 ' 73」(1950年)や「陽の当たる場所」(1951年)でぼくを魅了した女優さんである(上の写真は「ウィンチェスター銃 ' 73」KEEP社から)。ただし幸いにも刑事事件の被告ではなく、彼女は離婚訴訟の原告としての登場だった。
 その他にも、チャールズ・チャップリン、ザザ・ガボール、マリリン・モンロー、ロバート・ミッチャムなどが、ギースラーの依頼人として登場するらしいが(上巻には未登場)、残念ながらそれ以外の登場人物のことをぼくはまったく知らない。第3話のA・パンテージスなる被告は、ハリウッドだけでなくアメリカ西部一帯を牛耳っていた興行主だというが、彼がどの程度の「大物」だったのかは分からない。
 本書は、ある意味で、ディック・モーア 「ハリウッドのピーターパンたち」(早川書房、1987年)や、ローナン・ファロー「キャッチ・アンド・キル」(文芸春秋、2022年)などの対極にある、しかも一時代も二時代も前の1920~50年代の、ハリウッドの裏面史である。しかし、ファローらの本が告発したハリウッドの裏側の原点ともいえる情景を、彼らとは異なる視点から暴きだした本である。

 なお、ギースラーも、 E・S・ガードナーと同様に、正式なロー・スクール教育を受けていない。
 ギースラーは、アイオワ大学や南カリフォルニア大学のロー・スクールに入学したものの、いずれも中退して、アール・ロジャースという当時の大物弁護士の事務所で書生をしながら勉強して弁護士になっている。ロー・スクールでの勉強より実地の訓練のほうが重要であると考えたからであった。
 確かリンカーンも大学教育は受けておらず、弁護士事務所で書生をしながら弁護士資格を取得したはずである。そのようなバイパスが用意されているところも、アメリカの法曹養成の伝統である。1970年代になっても、アメリカ各地に無認可ロー・スクールがあったが、今でもあるのだろうか。

 2023年11月1日 記

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