豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

「民法(家族法)改正のポイントⅠ」

2025年01月31日 | 本と雑誌
 
 大村敦志・窪田充見編「「民法(家族法)改正のポイントⅠーー2018~2022年民法改正編」(有斐閣、2024年)を読んだ。 
 今年最初にして、しかも久しぶりの法律の専門書である。専門領域だからきちんと応対しなければならないのだが、ひとまず読んだことだけ書き込んでおく。

 本書は、近年の家族法領域における民法改正について解説する本であり、分担執筆の各論稿は基本的に今次の立法の経過と、改正内容の客観的な紹介が中心である。
 近時の改正のうちとくに関心のある実親子法および生殖医療関連法の箇所を中心に読んだ。ぼくは今次の実親子法改正の基本方向や改正の具体的な内容に賛同できない部分が少なくないので、本書の記述にも納得できない部分がある。
 ーーと書き始めてはみたものの、やはり論文を書くべきだろうと思いとどまった。
 
 以下では誤植(ではないかと思われる)箇所を指摘しておく。
 はしがきⅸページ、9行目 「法性」⇒「法制」(これは誤植)
 本文119ページ、6行目 「子C」⇒「C」(だろう)
  〃149ページ、下から9行目 「子と認知した者」⇒「子を認知した者」(ではないか)
  〃188ページ、6行目 「出産した子により生まれた子」⇒「出産した子」または「出産により生まれた子」(だろう。そうでないと意味不明だが)
 ※なぜか9行目と6行目が多い。96(苦労)が多い?

 2025年1月22日 記

ぼくの探偵小説遍歴・その8ーー余滴

2025年01月28日 | 本と雑誌
 
 (承前)ぼくが探偵小説や小説一般に飽きた原因の一つははっきりしている。

 勉強で家族法の判例を読むうちに、実際に起きた事件を扱った判例を読むほうが、下手な小説などよりはるかに面白いことを発見してしまったのだ。
 そもそもぼくは、大学時代の家族法の講義で先生が紹介した、田村五郎「家庭の裁判--親子」(日本評論社)を読んだのがきっかけで家族法に興味を持つようになった。しかも最初に読んだのが「水商売の女の貞操」という認知の訴えに関する章だった。

       

 その後、ぼくは平成5年頃から令和に至るまで、毎年家族法関係の判例のうち、公刊された判例集に登載されたものを全件読んで、判決の要旨を執筆して、関係条文の該当項目に配列し、検索の便宜のためのキーワードを抽出するという仕事をしてきた。毎年20件から60件程度の判例を2人で分担して執筆するのである。中には読み物としてはあまり面白くない事例もあるが、時には事実関係がきわめて興味深い事案に出会うことがある。
 事件の当事者には申し訳ないが、第三者として読むと(不謹慎と言われそうだが)やはり「面白い」事案が結構ある。あまり文才があるとは言えない裁判官の手によるものであっても、事実自体が大変に興味深く、下手な小説よりもよほど読ませるのである。
 おそらく、ぼくが小説をほとんど読まなくなってしまったのは、これが原因だと思う。

 ぼくは教師になって、1コマあたり90分の授業を年に25回するようになった際に、講義の一番役に立ったのは、中川善之助先生の講義や講演を活字化した本だった。中川さんは大正時代に東大を出て、戦後の民法家族法改正にも寄与された家族法の大家だが、座談の名手でもあった。学問のことだけでなく、家族に関する各地の風習・習俗から、日本各地の民謡や民話などについても造詣が深い方で、「民法風土記」(日本評論社、後に講談社学術文庫)という著書もある。
 私は一度だけ中川先生と酒席をご一緒させていただいたことがあった。九段坂上の「あや」という料亭だった。先生は仲居さんを捕まえて、「あなたはどこの出身か」「あの辺りでは今でも末っ子が相続しているのかね」などと、話の相手にああわせてご当地の話題を語って、座を和ませるのである。民謡を歌われたこともあったと聞いた。
 その中川先生の「家族法判例講義(上・下)」(日本評論社)や、「民法 活きている判例」(同)、「民法講話 夫婦・親子」(同)、「家族法読本」(有信堂)、などは、講義のテーマにまつわる様々な話題を提供してくれる。ある年の授業評価で、受講生が「先生の講義はどこまでが本論で、どこからが余談か分からない」とコメントを書いたことがあった。これはぼくにとって、ある意味で褒め言葉であった。ぼくは「余談」はするけれど、授業とまったく関係のない無駄話は(まったくしないわけではないが)あまりしない。講義のテーマを理解するうえで、学生たちの印象に残るような「サイド・ストーリー」を語ってきたつもりである。中川先生や田村先生の種本が面白かったこともあって、サイド・ストーリーのほうばかりが記憶に残ってしまったかもしれない。
 
 2024年5月25日 記

 ※ 書くことがないので、ほったらかしてあった古い草稿をそのまま載せた。

志賀直哉「小僧の神様 ほか」(集英社文庫)

2025年01月23日 | 本と雑誌
 
 志賀直哉は「小僧の神様」なども含めて、偕成社版「少年少女現代日本文学全集」の「志賀直哉名作集」(1963年)で読んだはずだが、冒頭の写真は、息子が子どもだった頃に買い与えた志賀直哉「清兵衛と瓢箪 小僧の神様」(集英社文庫、1992年)の表紙カバーである。
 2000年頃までは新潮、角川、小学館、集英社など各社が、毎年夏休み前になるとこぞって若者をターゲットに自社の文庫本から古典的な名作をピックアップした小冊子を配布するなど販売促進活動をしていたものだった。本書の表紙カバー見返しにも、「青春必読の1冊 集英社文庫ヤング・スタンダード」と称して、芥川「河童」「地獄変」から、漱石、鴎外、鏡花、宮沢賢治、川端、太宰、堀辰雄、梶井基次郎、中島敦らを経て、山川方夫「夏の葬列」、吉行淳之介「子供の領分」に至る40冊近い目録が載っている。しかし、いつの間にか若者は文庫本の販売対象ではなくなってしまったようだ。「笛吹けど踊らず」だったのだろう。
 この集英社文庫も、表紙カバーのイラストが若者向けなだけでなく、本文も活字が大きく行間も広くとってあり読みやすい印象を与えている。もちろん新仮名遣い、新字体で、ルビ、語注までついている。巻頭には著者の若いころの写真などを納めた口絵ページがあり、巻末には解説の他にも著者の経歴や作品を網羅した年譜などをつけて若い読者に配慮しているのだが。
 
 「小僧の神様」は、短編小説の名手として「小説の神様」といわれた志賀直哉中期の代表作だと解説はいう。
 話の最後に作者(志賀)自身が登場して、小僧が立て替えてもらった握り寿司の代金を払いに行ったら、そこにはお稲荷さんの祠があったとかいう結末にしようと思ったが、小僧が気の毒なのでやめたと書いていたことが、中学生の頃に偕成社版で読んだときには強く印象に残った。こんな風に作者自身が小説の中に顔を出す小説を読んだのは初めての経験だったのだろう。その後柴田錬三郎「うろつき夜太」や、最近になって読んだ永井荷風「濹東綺譚」、高見順「故旧忘れ得べき」などにも作者自身が登場する場面があったから、小説作法として特別なことではなかったのだ。
 集英社文庫版のもう一つの表題作である「清兵衛と瓢箪」は、かつて読んだときはあまり好い印象を残す小説ではなかった。幼い少年が骨董屋の店頭に置かれた一見何でもない瓢箪(ひょうたん)を気に入って購入するのだが、周囲の大人たちからは馬鹿にされる、しかしのちにその瓢箪に高値がつくといった内容だったと思う。そもそも瓢箪に価値があるなどという世界がぼくには当時も今も理解不能なので、そんな瓢箪に目利きかどうかなど主人公の少年の価値に何の関係もないではないか、という思いをぬぐえなかった。少年の審美眼を信じるというのも白樺派作家の「善意」なのだろうか。

      

 今回、「網走まで」「母の死と新しい母」「正義派」「范の犯罪」「城の崎にて」などを読んだ。ついでに旺文社文庫版「網走まで 他16編」(昭和43年、手元にあったのは昭和52年13刷。上の写真)で「沓掛にて」を読んだ。
 「沓掛」は現在の中軽井沢駅周辺の昭和30年ころまでの呼称である(沓掛時次郎!)。あのあたりの何が書いてあるのだろうと期待して読んだが、中身は芥川龍之介との思い出話で、彼の自殺を篠ノ井から沓掛に向かう信越線の車中で知ったという以外に「沓掛」はまったく登場しなかった。ぼくは志賀が「沓掛」で芥川と出会ったことがあり、そのときの思い出を回想するのだろうと期待したのだったが、期待外れだった。ただ、志賀の芥川に対する突き放したような見方が印象的だった。志賀が芥川を都会人、自分を田舎者と見ていたことも意外だった。
 「城の崎にて」も城の崎のことはほとんど描かれていないし、「網走まで」も青森行きの列車で同席した母子が(どんな理由があってか)網走に向かっているというだけだった。小説の題名に地名をつけた志賀の真意が分からないが、「沓掛」「城の崎」「網走」に何か含意があったのだろうか。「沓掛にて」のテーマは芥川の死だが、彼の死に「沓掛」が係わりがあったと志賀は考えたのか。「城の崎にて」もテーマは「死」それ自体だが、誰かの死が城の崎に係わりでもあったのだろうか。「網走まで」は、ひょっとすると母親の夫は受刑者で母子は刑務所に面会にでも行く途中だったのだろうか。
 
 今回読んだ志賀の小説の中で一番ぼくの印象に残ったのは「范の犯罪」である。偕成社版に入っていたかは覚えていないが、旺文社文庫には入っていた。編集者時代に、誰だったか法律家の随筆で「范の犯罪」に触れたものを読んだことがあった。
 主人公は中国人の奇術師夫婦である。夫(范)が戸板の前に直立させた妻に向かってナイフを投げるという芸当を見せるのだが(ウィリアム・テル!)、ある時夫の投げたナイフが妻の喉にあたって妻は死んでしまう。裁判になり、夫に殺意があったか否かが争点になる。実は結婚直後に、妻が結婚前に交際のあった男との間の子を産んだため(死産だったが)、夫婦は結婚直後から不仲となり、夫はその事実を受け入れようとキリスト教の洗礼まで受けるが、心の安らぎを得られないでいたということを夫自身が告白する。殺意があったのかどうか、夫は自分自身でも分からないと告白する。
 最後に裁判官が「無罪」と心証を得るところで話は終わるが、たとえ殺人で無罪だとしても、(重)過失致死罪の責任は免れないだろう。
 その結論の当否よりも、「范の犯罪」では妻の不貞(この小説では結婚前のことだが)に対する主人公(=志賀)のこだわりが印象的である。「暗夜行路」はもっと直截に妻の不貞による出産という自分の出生の秘密(への疑惑)がテーマになっていた。
 小津安二郎の映画に対する志賀直哉「暗夜行路」の影響は何人も指摘しているが(浜野保樹「小津安二郎」岩波新書ほか)、小津「風の中の牝鶏」の夫(佐野周二)の煩悶などは、「暗夜行路」というよりむしろ「范の犯罪」の影響の方が強いのではないか。最近読んだ佐古純一郎「家からの解放」(春秋社)では、そもそも「暗夜行路」の主人公時任健作が抱いた父子関係への疑念の脆弱さが厳しく批判されていたが。

 集英社文庫版の最後のページには、「2002年8月27日(火)」という日付と下の息子のサインがあった。日付からして、夏休みの宿題の読書感想文を書かせるために読ませたのかもしれないが、小学校6年、12歳の息子には「范の犯罪」や「正義派」は無理だろう。「『小僧の神様』を読んでごらん」とちゃんと読書指導をしたうえで読ませただろうか。太宰治「新樹の言葉」のような感想は書いてなかった。

 2025年1月23日 記
 

幽冥録(2025年1月22日)

2025年01月22日 | あれこれ
 
 今朝の東京新聞スポーツ面の下段に、スポーツ関係者の死亡記事が 2件ならんでいた(上の写真)。
 亡くなられたお二人とも面識のある方だった。

 お一人は金子明友さん。1952年のヘルシンキ五輪の体操日本代表と紹介されているが、ぼくの高校の体育の先生だった。本業は東京教育大学体育学部の(当時は)助教授だったが、当時上級生にメキシコ五輪の体操代表候補がいて、彼の指導のために非常勤講師としてぼくたちの高校に教えに来ていて、ついでに一般生徒の体育の授業も担当されたのだと思う。元体操選手らしく小柄だが精悍そうな先生だった。体操が苦手なぼくなどはまったくの「縁なき衆生」だった。97歳とあるから大変なご長寿である。

 もうお一人は鈴木恵一さん。82歳。スピードスケート 500mの世界記録保持者(1970年38秒71)だったが、オリンピックでは1964年インスブルック五輪の5位が最高だったと紹介されている。あの「白い恋人たち」が流れた記録映画が作られたのがインスブルック五輪だったか(※1968年のグルノーブル五輪だった)。鈴木さんは直接お話しなどしたことはないのだが、1969年夏に軽井沢スケートセンターでアイスホッケー部の夏合宿をした際に、国土計画所属だった鈴木さんの練習風景をしばしばお見かけした。軽井沢スケートセンターのスピードスケート用リンク(1周333メートルだったか、インドアリンクの南側にあった)は夏の間は氷を張ってなかったので、もっぱら陸上練習をしていた。後にボーリング場になったあたりのコンクリ(アスファルト?)の地面でローラーブレードをやっていたような記憶があるが。鈴木さんの世界記録は1969年と1970年に樹立したというから、まさに絶頂期の彼の練習を眺めたのだった。

 ご冥福をお祈りしたい。

 2025年1月25日 記

国立(くにたち)を歩く

2025年01月20日 | 東京を歩く
 
 1月16日(木曜)の昼前、知り合いの彫刻家が個展を開いていると高校以来の友人に誘われたので、国立駅に近いギャラリーに出かけてきた。
 国立は高校時代の3年間通った懐かしい場所だが、久しぶりに訪れた国立駅の変わりように驚いた。最後に訪れたのは下の息子が桐朋高校野球部と練習試合をするのを見るために桐朋高校のグランドに行った時だから、もう20年近く前のことである。そのころすでに国立駅前の風景はぼくの高校生時代とは様変わりしていたが、駅舎は昔のままの雰囲気のある三角屋根の木造建築のままだったように記憶する。
 
      
      

 それが今回降り立ってみると、どこにでもあるようなモダンだけれど平凡な駅舎になってしまっていた。ただし、新しい駅舎の手前には旧駅舎の一部が移築して保存されていて多少は救われた気持ちになった(上の写真)。この駅舎の前で、中学時代の同級生で国立音高に進んだ旧友とたまに出会うのが楽しみだった。同窓会で、J・K・ケネディの横顔を彫ったぼくのネクタイピンを欲しいというのであげてしまった彼女である。
 ただしぼくの高校は8時30分始業で、彼女の方はたしか9時始まりだったので、会うことができるのはぼくが大遅刻をした時だけだった。1965~7年のあの頃は「8時ちょうどのあずさ2号」(狩人)が8時に新宿を発車して、これが8時15分前後に吉祥寺駅を通過するため、8時5分だったかに吉祥寺を出る立川行きに乗り遅れると、次は8時20分すぎまで待たなければならず、吉祥寺で遅刻が決まってしまった。遅刻しても国立駅で彼女に会えればまだいいけれど、たいていは遅刻常習犯の常連が5人ごとに乗り合いタクシーで学校に行くしかなかった。割り勘にすると一人当たりバス代と同じ運賃だった。

       
       
 
 展覧会を見終わってから、大学通りを一橋大学の方に歩いた。
 駅前の「増田書店」が健在だった。新しいビルの1階に陣取っていて、昔は薄暗かった店内も明るかった(上の写真)。この「増田書店」がフランス革命時のマラーか誰かの著作集を出版したという記事を読んだような記憶がある。
 新装開店の胡蝶蘭が飾ってある「白十字」があったけれど、あれは1960年代の「白十字」と同じ店だろうか。あそこのウェイトレスを好きになって、「ラーメン1つ」などと注文して、 「ラーメンはありません」と言われるのを喜んでいるやつがいた。どうしているのだろう。
 ついでなので、一橋大学の構内を散歩してきた。まだ冬休みなのか、構内は学生の姿もなく閑散としていた。

       

 放課後にたまに立ち寄ってはラーメンや焼きそばを食べた富士見通りの「マルハチ」も、もうなくなっただろう。世界史の授業で、モンゴルの皇帝か誰だったかの「ヌルハチ」という名前を先生が口にしたとき、教室中に笑いが起きた。先生はなんで笑われたのか分からなかっただろう。
 ガストで日替わりランチを食べて帰宅する。
 国立駅ホームに上ると、北口側の風景も大きく変わっていて、昔がどんな風景だったか今ではもう思い出せない(上の写真)。
 吉祥寺に向かう中央線の車窓から見える風景も変わった。東京経済大学か東京農工大学のグランドにはアメフトのゴールポストが見えていたり、獣医大学の馬場(厩舎)なども見えていたが、どれも見えなかった。何とか生命科学大学と校名は変更になったが、黄色のペンキで塗られたクラシックで雰囲気のある木造ホールの塔が高架を走る車窓から見えた。
 東小金井駅では法政大学生らしい男女が降り立ち、武蔵境駅では亜細亜大学生らしい学生が下りていった。ほとんど全員が一人でずっとスマホをいじっていた。

 2025年1月20日 記
     

丹羽文雄「小説作法」(角川文庫版)

2025年01月11日 | 本と雑誌
 
 持っているはずなのに見つからなかった丹羽文雄「小説作法」(角川文庫、昭和40年、手元にあるのは昭和52年第12版)を本棚で見つけた。
 志賀直哉の「小僧の神様」なら小学生が読んでも面白いかもしれないと思って、志賀「網走まで 他16編」(旺文社文庫、昭和52年)を本棚から取り出そうとしたら、その数冊隣りに、何と!探していた時には見つからなかった丹羽「小説作法」が並んでいるではないか。
 ぼくの記憶通りにカバーのかかった角川文庫版であった(上の写真)。しかも、図書館で借りてきた講談社文芸文庫版には入っていなかった「小説作法・実践編」という続編も合本となって収められていた。

 さらに驚いたことに、途中で投げ出したと思っていたのだが、「正編」だけでなく「続編」=「実践編」までちゃんと読み通したようで、青インクのペンで傍線まで随所に引いてある。読まなかったのは「正編」の実作例として掲載された「女靴」と「媒体」という小説だけだった。しかも、読んだ時期と動機も記憶違いだった。
 ぼくは、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」やサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」のような青春小説を書きたいと思って、20歳前後の頃にこの本を読んだように記憶していたが、「1977年11月9日に読了」とメモがある。27歳の時に読んだのだった。さらに、最終ページには「日経・経済小説懸賞募集」の広告が切り抜いて挟んであった。「経済・ビジネスに題材を求めた長編で、400字詰め原稿用紙350枚~500枚、選考委員は江藤淳、尾崎秀樹、城山三郎、新田次郎、山田智彦の各氏、当選賞金300万円、佳作2作各50万円」とある。
 27歳といえば社会人3年目で、サラリーマン生活最初の危機の渦中にあったころである。世間知らずだったぼくが大学を出て初めて経験した「サラリーマン生活」の日々を書こうと思ったのだった。自分を松山中学校の「坊っちゃん」に見立てて、悪戦苦闘の末に最後は赤シャツ連合に敗北して会社を辞めて故郷に帰るというストーリーを考えていたのだった。当時のぼくは笹川巌「怠け者の思想」(PHP)に表れたサラリーマン像に共感していて、それが主人公の造形にも影響したように思っていたが、調べると笹川の本は1980年発行だったからここでも記憶の捏造があったようだ。あるいは1980年代に入ってからも未完の小説を書きつづけていたのかもしれない。
 丹羽「小説作法」(角川文庫版)で、傍線を引いてあったのは以下のような箇所である(要約して引用した個所もある)。

 「私は説明という形式を極端なくらいに避ける。説明の部分が多いととかく低調になりやすい」(25頁)、「作者はつねに、どんな人間に対しても貪婪なくらいの好奇心と愛情をもっていなければならない」(28頁、嫌な奴でも愛情をもって観察するなどということは当時の(今でも)ぼくには無理だった)、「誰からもどこからも非難されないような立派な主人公は嘘である。そんな主人公に出会えば、読者は退屈をしてしまう」(35頁)、「作中人物が正義感にあふれて言動するのはいいのだが、作者までがそれと一緒になって正義感をふりまわすのは間違いであ(る)、たとえ主人公が作者であろうと、小説である以上は、別の存在でなければならない」(86頁)などの助言は、出版社で正義漢のつもりで暴れる主人公を想定していた当時のぼくにはきわめて適切な助言だっただろう。小説は書けなかったけれど、当時の現実社会(会社)で自分の行動を客観視する指針として役に立ったはずである。
 「作者には自ずと限界がある、大切なことは、作者は己のよく知っている範囲内で小説を書くということである」(42頁)、「テーマはしっかりしたもの、自分の身についたものを探したほうがよい」(54頁)、「小説を書きはじめる人が、筋をどの程度に決めてかかるかと迷うのは当然である。いくつかの章に大別してかかれば安心出来る。この章には何枚ぐらい、という風に計画を立てる。書出し、発展の過程、結びと大別してかかれば、便利であろう」(67頁)、「事件または行為、人物、背景の三つが小説の三要素である。人物(には)自分のよく知っている人間をモデルに借りる」(88~9頁)、自然描写も自分の知っている場所を選ぶべきであり、丹羽は三鷹(武蔵野市西窪?)に住んでいたので熟知している三鷹駅周辺や(国木田独歩のではない)昭和戦後期の武蔵野の風景をよく登場させたという。
 小説における「時間の経過」についての助言や(131頁)、小説の中の「会話」は日常生活の会話とは異なることの注意もあった。「正編」の最後では、「自分のことを書き給え、自伝を書き給え、この素材はどんな素材よりも秀れている、先ず自分のことから書くべきである。自分のことが書けないような作家は、一人まえの小説家とは言えない」と助言し、しかし「自分のことを書くのには勇気がいる」と忠告する(180頁)。

 当時のぼくが自分のサラリーマン生活を書こうとしたのは、丹羽の指南に従えばテーマ設定として正解だったけれど、主人公と作者自身を分離して、正義感を振りかざす主人公を客観的に観察して叙述するといった芸当は当時のぼくにはできなかった。
 結局ぼくは構想した小説を書きあげることはできず、その後転職の決断もできないまま 9年間も編集者稼業をつづけた挙句に、在職10年目の4月末に出版社を退職し、紆余曲折を経た後に教師になった。今では、教師こそぼくにとっての天職だったと思っている。もし本気で小説家などを目ざしていたら、その後の自分はどうなっていただろうと考えただけでも恐ろしい(昔の人なら「くわばら、くわばら」と胸をなでおろすだろう)。
 ちなみに、丹羽「小説作法」の中には、「井伏鱒二の初期の自然描写は心にくいほど巧みであった。自然描写の名手は、その後あらわれていない」(90頁)という指摘もあった。初期の井伏とは「ジョン万次郎」あたりだろうか、今度読む時にはその自然描写にも気をつけて読んでみよう。「作者は読者の参加という問題に敏感でなくてはならない、読者は小説を補充してくれるものである」という忠告もあった。モームの小説でさえ、もっと読者を信じて、こんな描写や説明は省略すればよかったのにと思ったことがある(「凧」や「魔術師」などだったか)。

 2025年1月10日 記

シートン「シートン動物記・1」

2025年01月10日 | 本と雑誌
 
 今年になって一番最初に読んだ本は、実は井伏鱒二「本日休診」ではなく、「シートン動物記」だった。アーネスト=トムソン・シートン/阿部知二訳「シートン動物記・1」(講談社青い鳥文庫、1985年)を散歩の道すがら通りかかった駅前踏切脇の古本屋で見かけて買ってきた。店頭の100~200円コーナーに置いてあったが、天地、小口の磨き処理は完璧で、本文ページに読み癖もなく、表紙カバーの汚れや皺も一つもなく新品同様だった。Amazon なら「非常に良い」だろう。
 別出版社から出た3種類の「シートン動物記」が並んでいたが、若いころから阿部知二や中野好夫の翻訳で英米の小説に馴染んできたので、阿部訳のものを選んだ。挿し絵も子供っぽくなくてよかった。※シートンの名前 “Thompson” の日本語表記は「トムソン」だろうが、講談社青い鳥文庫版以外のほとんどが「トンプソン」と表記している。

 小学校高学年になった孫に読んでもらいたいと思って買ったのだが、ぼくは「シートン動物記」には苦い思い出がある。
 小学生だったぼくが本を読まないことを心配した父親が、読んでみなさいと言って「シートン動物記」をぼくに渡したのである。自分が子供の頃に読んで面白かったと言うのだが、渡された本は父親が子どもだった大正時代に刊行されたかび臭い「動物記」だった。ーーと記憶していたが、調べてみると「シートン動物記」の本邦初訳は1937年だから刊行から20年くらいしかたっていなかったことが判明した。父親の子供時代の本ではなかったようだが、ネット上の写真を見ると表紙や函の装幀はいかにも古めかしい。もともと本嫌いだったぼくは、読む以前にその古色蒼然とした本自体に拒否反応を起こしてしまい、結局「シートン動物記」は読まなかった。それ以来「シートン動物記」と聞いただけでかび臭さの記憶が蘇ってくるようになってしまった。
 しかし、一般には「シートン動物記」は小学生向けの推薦図書に必ず入っているし、この本を自身の思い出の本として紹介する人は少なくない。しかも、ここ数年クマやイノシシが人里に出没して農作物や人身の被害が発生する事件が頻発しており、人間と野生動物の関係は現代的なテーマでもある。1860年代の北アメリアが舞台だとしても動物文学の古典として読んでおいて損はないだろう。
 ただ、孫が小学2年生の時に、夏休みの推薦図書にあがっていた「山の頂上の木のてっぺん」(書名は不詳)だったかという本をプレゼントしたところ、主人公の少年が可愛がってきた飼い犬が死んでしまうというストーリーだったため、心優しい孫の心にトラウマを残してしまったらしい。「シートン動物記」の代表作である「オオカミ王ロボ」も、ラストはオオカミ王が死んでしまう話である。心配だったので、まずぼくが読んでみてから渡すことにした。そして読んだところ、「山の頂上~」ほど感傷的ではなかったので大丈夫だろうと判断した。

 先日の新聞で、1年間に1冊も本を読まない子が60%を超えたという記事を見た。元出版社員で、元教師であるぼくには信じがたい話だが、そういう現実なのだろう。せめて子どもや孫には本を読んでもらいたい。しかし、子どもを本好きにするのは難しい。
 子ども時代のぼく自身が漫画は大いに読んだ(?)が、活字(だけ)の本にはなかなかなじめなかった。親に渡されたのが古い「シートン動物記」だったり、いまだに忘れられないのだが、「シートン」に前後して母親から「ながいながいペンギンのお話」というのと「スケートをはいた馬」というのを与えられた。しかしこの2冊も、当時のぼくの琴線にふれることはなかった。毎月購読していた雑誌「少年」や、創刊間もない「週刊少年サンデー」、貸本屋の漫画読み物「褐色の弾丸 房錦物語」などに熱中する「子ども」だったのだから。
 子ども時代の読書ということでは、親から毎年「少年朝日年鑑」という子供用の年鑑を買ってもらっていたのだが、これはちょこちょこと読んでいた。記憶にあるのは、「クロード・岡本」という当時天才少年画家と騒がれた子供のことを紹介した記事と(その後どうなったのだろうか)、(埼玉県)行田市(当時は町か村だったかも)皿尾部落の4H運動の記事である。4Hクラブ運動というのは戦後になっても因習的な農村地域を青年たちの手で民主化する運動だが、4H運動のことが小学校の教科書に出てきた際に、自慢げに「少年朝日年鑑」で知っていた知識をひけらかしたため教室内で浮いてしまった苦い思い出がある。小説の面白さを発見することはできなかったけれど、年鑑の2、3頁の記事を70歳を過ぎた今でも覚えているくらいだから、「少年朝日年鑑」は何らかのインパクトを当時のぼくに与えたのだろう。

 ぼくが小説を好きになったのは、遅まきながら中学2年の国語教科書(光村図書)に載っていた芥川の「魔術」を読んだことがきっかけだった。それ以前にも岩波少年文庫でリンドグレーン「カッレ君の冒険」、ケストナー「名探偵エミール」、ドラ・ド・ヨング「あらしの前」「あらしの後」などは読んでいたが、「魔術」のインパクトは今も鮮明に記憶にある。
 当時国語の担当だった明田川先生という女の先生が、ぼくの作文をいつも褒めてくれて、卒業の時には「東京オリンピックの思い出」という作文を卒業文集に載せてくれたりもした(ぼくの活字印刷デビュー作である)。ぼくが国語を好きになり小説を読むようになったのは、おそらくその先生の指導のおかげだったのだと思う。植物の成長と同じで、人もしかるべき時期が到来して、しかるべき本と出会うことがなければ、本を好きになることはできないのである。少なくとも、ぼくにとっての「ながいながい~」や「スケートを~」のように、子どもを本嫌いにさせるくらいなら、無理に本など読ませないほうがよい。
 「シートン動物記・1」は、孫に渡す時期を見はからうためにぼくの机の上に置いておいたところ、遊びに来た下の孫娘が見つけて「読む」と言って持って行ってしまった。テレビの医療ドラマや、動物ドクターの番組などを熱心に見る子だから興味をもって読んでくれるかもしれない。

 2025年1月9日 記

 息子たちが子どもだった時に買ってやった読み物は、息子たちの独立後もわが家に置いたままになっているが、下の息子はぼくが与えた芥川龍之介や太宰治を読んだようで、読み終わった日付だけでなく、太宰「走れメロス」(これも講談社青い鳥文庫)の裏扉には「“新樹の言葉” が良かった」と書き込みがしてあった。ぼくも読んでみたが、甲府時代の太宰の穏やかな心境が感じられるよい話だった。「井伏先生」も登場したのではなかったか。井伏文学の雰囲気も漂っていた。
 子どもだった頃の息子が「新樹の言葉」に出会ったように、孫たちも何かに出会ってくれるといいのだが、時機を待つしかない。

井伏鱒二「本日休診」

2025年01月08日 | 本と雑誌
 
 井伏鱒二「本日休診」を読んだ。井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記・本日休診」(角川文庫、1979年)に収録された中編。昭和29年の「別冊文藝春秋」に連載されたという。
 手元にある本は平成9年(1997年)第20版とあるから、買った目的は息子たちの中学受験のためではなく、自分で読むためだったのだろう。「ジョン万次郎漂流記」は子どもの頃に講談社の絵本で読んだ記憶がある。
 実は昨年末に、亡父がお世話になったことがある近所の開業医の診療所のドアに「本年末をもって閉院する」旨の掲示が貼ってあるのを目にしたのがきっかけで、ふと井伏の「本日休診」を思い出して読んでみたのだが、面白かった。

 「本日休診」の主人公は、実質的な医業は甥に任せて名義だけ病院「顧問」となっている老産科医である。名義だけのつもりだったのが、実際には頻繁に急患対応や往診をせざるを得ないことになる老開業医の日常が井伏一流のゆったりとした筆致で描かれる。いまだ敗戦の傷跡が色濃く残る当時の大阪の開業医の生活と診療の実態を委細にわたって知ることができる。いわゆる「ビル診」(ビルの1室を診療所として時間外の診療や往診は一切行わないような診療形態)が一般化した昨今の日本の開業医からは信じられないであろう多忙な日常生活である。
 深夜の急患に対応してウィスキーを4、5杯あおって眠りについた途端にまた呼び鈴を鳴らす者があってふたたび出産介助にでかけるなど、今日では危ない場面もある。登場する患者たちはみな貧しい庶民であり、医療保険の国民皆保険化が実現する数年前のこともあって、医療費の未払いや踏み倒しが日常的だった様子も描かれる。 

 井伏には、産科医療の実情を教えてくれるインフォーマントの産科医師がいたのだろう。梅毒の治療(内診)から、自宅出産、帝王切開、用手剥離(後産の胎盤を剥離する方法の一つで、福島県立大野病院事件でも議論になった手技である)、穿顱術(「せんろじゅつ」とルビがあり、文脈からすると胎児を堕胎ないし分娩死させる方法の一つのようである。知合いの産科医が「穿頭術」といっていた方法だろうか。135~7頁)、はては刺青の消去手術まで、それぞれの手法から用いる薬品名などが細かく記述される。

 医学部の教師だった頃は、新入生にクローニンなどを紹介したが(学生たちが読んでくれた気配はなかったが)、井伏「本日休診」は、大阪が舞台で、しかも産科医療の詳細な記述がある医療小説であり、医師を目ざす医学部生や医事法研究者にとってもおすすめの小説だと思う。ちなみに、わが日本の医事法学の出発点となったのは、同じ大阪の開業医の往診、診療、転院措置が適切だったかどうかという問題だったが(唄孝一「死ひとつ」信山社)、この小説は当時の大阪の開業医の日々の多忙さを窺うことができる点で、医療者側にとって有力な援軍(不可抗力という抗弁)となりうる内容であった。
 そんなことは措くとしても、主人公である老医師の言動の中に井伏の庶民に対する温かいまなざしが感じられる好読物であった。

 2024年1月8日 記

ラジオ放送開始100周年・その4

2025年01月06日 | あれこれ
 
 今年の3月で日本のラジオ放送が開始から100年を迎えるというので、2023年からNHKラジオで、「放送開始100周年記念 100人へのインタビュー」という連続番組をやっている(正式な番組名は少し違うようだ)。
 ラジオ放送に関わった100人に、自身のラジオ放送の思い出やラジオの役割、今後のラジオのあり方などを語ってもらうオムニバス形式の番組である。不定期のようだが、ぼくが不定期で聞いているだけかもしれない。一昨年(2023年)の年末に大沢悠里(TBS)、亀淵昭信(ニッポン放送)、斉藤安弘(同)が喋っているのを偶然聞いた(2023年12月29日)。民放のアナウンサーも起用するとは寛大な人選であると思った。“オールナイト・ニッポン” はよく聞いた深夜放送だったが、どちらかと言えばカメ&アンコーよりは今仁哲夫 のキャラとお喋りが好きだった。
 その後、みのもんた(御法川英文、文化放送)、吉田照美(TBS?)、荒川強啓(文化放送?)なども出ていた。みのもんたの「セイ・ヤング」は聞いていたが、吉田、荒川の思い出はあまりない(荒川は夕方のラジオ番組を覚えているが)。一昨年の年末には中村メイコが出ていたし(その放送当日に亡くなったのではなかったか)、落合恵子や、最近では湯川れい子も出ていた。

 その「100人インタビュー」の昨日1月5日(日曜)朝の放送に吉永小百合が出演して、ラジオの思い出を語っていた。
 4歳の時に親戚が応募してNHKのラジオに初出演し、「からす」(なぜ鳴くの ♫)を合唱したのだが、吉永だけソロを歌ったと言っていた。その後7歳の時に再び応募して、2万人の応募者の中から選ばれたという。選ばれたのは男女各2人で、吉永の他に選ばれたもう一人の女子が藤田弓子だったという! 番組では初見の詩に自分でメロディーをつけて即興で歌うという内容で、吉永は審査員の高木東六に褒められたという。
 その後「赤胴鈴之助」(これは当時の東京放送だったか)に主演したという。吉永が赤胴鈴之助だったことは有名な話だが、ぼくにはまったく記憶がない。子供のころからチャンバラは嫌いだった。今でも池波正太郎、忠臣蔵、大岡越前守、NHK大河ドラマなどの時代劇は一切見ない。
 子役時代の吉永で覚えているのは、テレビの「まぼろし探偵」が最初で最後、その次は「キューポラのある街」だった。昭和時代を回顧する年末のテレビ番組でも吉永の映像が流れていたが、隣りにすわっていた川端康成にはキャプションが入ったのに、共演の浜田光夫の名前はなぜか入らなかった。
 この日は吉永に続いて小林克也も登場したが、ぼくは彼のラジオ番組にはまったく記憶がない。テレビに出るようになってから何度か見ただけである。

 ぼくの思い出に一番強く残っているラジオ番組は(前にも書いたが)昭和30年代の前半ごろ、夕方の民放(東京放送か?)でやっていた竹脇昌作がDJを務める番組である。日本信販の提供で、番組の合間に「ニッポン しんぱんの クーポン ♬」というCMソングがかかった。「クーポン」というものの意味が分からず、謎めいていて美味しそうだった。竹脇の番組の中でかかった曲では美空ひばり「花笠道中」(「鼻が作動中」と出た!)、三橋美智也「夕焼けトンビ」(?)、ベルト・ケンプフェルト「真夜中のブルース」が懐かしい。世田谷の玉電山下商店街のスピーカーから流れていたのを聞いていたので、これらの曲を聴くとぼくは昭和30年頃の世田谷にワープすることができる。広瀬正によると、昭和30年ごろの梅が丘にはタイムマシンがあった!
 NHKの「放送開始100周年」では、ラジオ放送にまつわるエピソードや資料の提供を呼びかけているが、だれか竹脇昌作のあの番組を録音していた人はいないだろうか。音源が残っているなら聞いてみたいものである。
 なお、この「放送開始100年」では、番組開始前と終了後に入る女性アナウンサーの声と語り方の調子がノスタルジックで好い。そのナレーションのバックに流れるスタンダードの曲も好い。何という曲なのか。

 2025年1月6日 記

 追記 
 土井まさる、野沢那智なども懐かしいが、音源だけでも残っていないものか。久米宏(「土曜ワイドラジオ東京」)も懐かしいが、久米は「100人インタビュー」に登場していないのでは。「桂三枝の深夜営業」なんて深夜放送も聞いていたか・・・。「エデンの東」が1年以上ベスト1に君臨したという伝説の「ユア・ヒットパレード」(同種の洋盤紹介番組「9500万人のリクエストコーナー」「S盤アワー」なども)、深夜放送第1部が終わった午前3時から始まる「走れ(走る?)歌謡曲」なども個人的には懐かしいラジオ番組だった。

謹賀新年(2025年 元旦)ver.2

2025年01月04日 | あれこれ
 
 1月4日になって、ようやくこのGoo Blog を開くことができるようになったので、改めて新年のご挨拶を申し上げます。

 冒頭の見出し画像を例年通り「東急ニューイヤー・コンサート」(テレビ東京)の新年の幕開け、2025年1月1日午前0時00分の画像に改めたいというだけの理由で “ver.2” を書き込んでいる。

 もう年なので、新年を起きて迎えなくてもよいだろうと思い、テレ東「ニューイヤー・コンサート」を見るのをやめて、午後11時半すぎに床に就いたのだが、毎日夜12時すぎに寝るのが習慣になっているため体内時計が睡眠モードにならない。結局11時50分すぎに再び起き出して、「ニューイヤー・コンサート」を見ながら新年を迎え、あらためて眠りについた。

   

 2024年最後の写真も上にアップしておく。同番組の一場面である。

 2025年1月4日 記

謹賀新年 2025年元旦

2025年01月03日 | あれこれ
 
 2025年(令和7年) 明けましておめでとうございます。

 本年も宜しくお願い致します。
 今年は新年早々からパソコンでこのブログを開くことができなくなっているので、スマホから書き込んでいます。
 写真をアップすることもできません。適当なものですが、あしからず。散歩の折に近所の公園で見上げた松の緑の葉と青く澄みわたった冬空のコントラストが新年にふさわしいと思ったので。

 2025年1月3日 記