豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

家永真幸『パンダ外交』

2011年06月26日 | 本と雑誌

 6月も残すところあと数日。もう1年の半分が終わろうとしている。今年も月日の経つのが早く感じられる。

 6月に読んだ本は、家永真幸『パンダ外交』(メディアファクトリー新書)、服部龍二『日中国交正常化』(中公新書)、富永茂樹『トクヴィル』(岩波新書)、そして、吉田喜重『小津安二郎の反映画』(岩波現代文庫)。

 面白かったけれど難しかったのが吉田喜重の『小津安二郎の反映画』。逆に、面白くて分かりやすかったのが、家永真幸『パンダ外交』。

 “パンダ外交”は、先日のNHK BSプレミアム“BS歴史館――至宝の外交史シリーズ”でもやっていた。
 アグネス・チャンも出演していて、久しぶりに彼女を見た。1972年に17歳で来日したというから、ぼくらとたいして歳は違わないはずだが、若く見える。喋り方も昔とまったく違わない。
 1974、5年頃、ぼくは当時四谷にあった文化放送の前で偶然彼女を見かけたことがある。マネージャーに促されて恥ずかしそうにタクシーに乗り込むところだった。
 今回の番組で久しぶりに見かけてが、昔とあまり変わってなくて、けっこうユーモラスで、しかし的確なコメントを語っていた。頭のいい人なのだろう。

 さて、『パンダ外交』である。

 西洋人がパンダの価値を「発見」したことに気づいた蒋介石率いる国民党政府が、日中戦争においてアメリカの支援を得るために(当時アメリカで爆発的な人気のあった)パンダを贈呈したのが「パンダ外交」の起源だという。アメリカ生活の長かった宋美齢(蒋介石の妻)が対米宣伝工作の責任者だったらしい。
 戦後の冷戦期にはソ連(モスクワ動物園)、北朝鮮にだけ贈られ、やがて東西の雪解けとともに、ニクソン訪中の“お土産”としてアメリカ(ワシントン動物園)に贈られたのを皮切りに、西側諸国にも贈られることになる。ただし単なる友好の象徴というより、朝鮮戦争以来悪化していた一般アメリカ人の対中感情の融和を中国側は目ざしたらしい。
 そして、わが田中角栄による日中国交回復の際に日本(上野動物園)にもパンダはやって来る。ちなみに、日中国交回復をめぐる外交交渉の経緯は服部龍二『日中国交正常化』に詳しい。ただしパンダ贈呈の経緯についての記述は服部の本にはない。いずれ両国事務当局の交渉の経緯は明らかになるだろう。

 希少動物保護を目的としたワシントン条約の批准によって、パンダの国外持ち出しは制限を受けることになる。そのため、今度は東西融和の象徴ではなく、「国内」と「国外」の境界線をめぐってパンダは政治問題化する。中国に返還された香港、マカオは中国国内として問題なく贈られるのだが、台湾への贈呈をめぐっては両者間で厳しい交渉が行われた。最終的には台湾へのパンダ移動は実現するのだが、「国内」移動とも「国外」移動ともとれる文書が両者の間で取り交わされているそうだ。
 今後は、世界平和と地球環境保護の象徴としてのパンダの価値を、海外からの「眼差し」によってではなく、中国人自身が見出してほしいと思う。

 もう1冊、知り合いから、石原莞爾と新明正道の関係について問い合わせを受けたので、夕べ、久しぶりに山本鎮雄『時評家 新明正道』(時潮社、1998年)を読んだ。
 
 新明正道の戦時中の政治評論を論評した本。
 「植民地の小役人」を父として台北で生まれ、金沢で小学校に上がったが、父の転職に伴って満州の大連、撫順、遼陽小学校と転校をくり返し、中学校も金沢一中に進学したものの、今度もなぜか京城中学校に転校し、ふたたび内地に戻って旧制四高に進学するという彼の経歴が、戦時中の彼の東亜協同体論につながったであろうことは大いに理解できるところである。それは新明の「時論」というよりは血肉化した信念であっただろう。

 しかし、石原莞爾と新明の出会いの経緯、石原に対する新明の評価は山本の著書からはわからなかった。知人の質問の範囲外ではあるが、新明の東亜協同体論はなぜ戦後封印されてしまったのかも不明である。
 「羹に懲りて膾を吹く」だったのか。

 2011/6/26 記

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吉田喜重『小津安二郎の反映画』

2011年06月25日 | 本と雑誌

 「小津安二郎監督作品 サウンドトラックコレクション」に続いて、小津安二郎関係をもう1本。

 最近読んだ5、6冊の本のなかで一番難しかったのが、吉田喜重『小津安二郎の反映画』(岩波現代文庫)。
 「yosidakijuu」と入力すると、一発で「吉田喜重」と出た。さすが!
             
 若かったころの吉田喜重が小津の映画(“小早川家の秋”だったらしい)を映画雑誌で批判したところ、松竹の監督の新年会の席で小津が怒ったというエピソードは、確か高橋治『絢爛たる影絵』(文春文庫)で読んだ。
 吉田に向かって小津は、「映画監督は所詮橋の下で菰を被って客を引く女郎だ」といったという。それに対する吉田の反論の書らしいが、吉田の小津批判(“小早川家の秋”批判)を読んでないので、小津が何でそこまでの言葉を吐いたのかは分からない。

 ヌーベルバーグといわれた若手監督たちの売れない映画の穴埋めのために、商業映画を撮らなければならなかった小津の苛立ちが背景にあったのではないかと、誰かの本に書いてあった。
 ぼくもそんな気がする。とくに“小早川家の秋”は戦後の小津の映画のなかでも出来の悪い映画だと素人のぼくでさえ思うのだから、そんな映画を批判されたのでは小津も堪らなかっただろう。

 「客を引く女郎」とまでは言わないが、所詮映画は娯楽である。しばしスクリーンの中に夢を見、ときに自分を見ることができればぼくは十分である。
 小津の映画は、ぼくにとっては一種の“タイムマシーン”である。
 余った木切れで出入りの大工が拵えたような物干し、同じように作られた手製のゴミ箱、天井の電球の横の二股ソケットからコードを引いたアイロン、いかにも映画のセット然としているけれど、しかしそこかしこにあった横町の飲み屋、電信柱の看板、そして湘南電車や池上線や迎賓館前などなど、懐かしい昭和30年代の風景が画面に登場するだけでも、ぼくには十分なのである。

 最近になって気がついたのだが、BGMに流れる音楽もいい。とくに“秋日和”と“秋刀魚の味”の音楽がいい。そしてストーリーがいい。笠智衆、中村伸郎、北竜二、佐分利信たち中学校の同窓会仲間が、娘の結婚をめぐって動きまわる。
 ぼくには娘はいないし、行きつけのBARもないのだが、結婚が近づいた息子の嫁さん(候補)を豆腐料理に連れて行ったり、鰻を食べに行ったりするとき、ぼくは小津の映画のなかの笠や佐分利の気分になる。小津の映画によって、ぼくは現実社会での気分の持ちようを学んだのである。

 ちょっとしたストーリーがあり、懐かしい小道具や風景が出てきて、穏やかな音楽が流れる120分。今ではいなくなってしまった月丘夢路、岩下志麻、岡田茉莉子、文谷千代子らが登場する。
 演技を禁じられた役者の独白のような科白、宙をさまよう視線、不安を抱かせる構図など、まったく気にならないのである。

 批評の対象となった小津の作品は全部見ているので、吉田の指摘には、なるほどと思う記述もなくはない。
 例えば、小津の映画に頻出する記念撮影の場面。吉田によれば、葬式や結婚式の記念写真の撮影のときだけ家族は「家族」を演じることが許される、しかも記念写真はやがて訪れる「死」の予兆だという。確かに、“父ありき”の鎌倉の大仏の前で撮った修学旅行の記念写真は、翌日の芦ノ湖での生徒の事故死の予兆といえる。死んだ生徒の遺族にとっては、あの大仏前で並んで撮った記念写真が亡くなった子どもの生前最後の姿だろう。
 あるいは、“晩春”や“秋刀魚の味”で、娘を嫁がせた父親が、結婚式を終えて娘のいなくなった家に一人で帰って来るラストシーン。考えたこともなかったが、あれはいったい誰の視線だったのか。
 家の中には父親以外の誰もいない。さっきまで娘が座っていた椅子、誰もいない娘の部屋は父親の視線だろうが、その父親の姿は誰が見ているのか。娘といいたいところだが、おそらく「観客」なのだろう。

 それ以外の、吉田のいう「小津の反映画」は、ぼくには了解不能に近かった。
 映画評論という領域はどうも苦手だ。

* 吉田喜重『小津安二郎の反映画』(2011年、岩波現代文庫)。

2011/6/25

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小津安二郎監督作品サントラ盤

2011年06月15日 | 映画

 “小津安二郎監督作品 サウンドトラック・コレクション”(松竹映画サウンドメモリアル、1995年6月)という中古CDをアマゾンで買った。

 YOUTUBEで聴く小津映画音楽集の“秋刀魚の味”の音楽がよかったので。
 小津の映画のDVDをせっせと観ているときには、あまりバックに流れている音楽に注意が向かなかったのだが、ただ一つ、“一人息子”のオープニングとエンディングに流れていた“Old Black Joe”はなぜか印象に残った。映像とストーリーによく似あっていた。
 今回買ったCDの最初の曲が、これだった。 

 晩年の作品の音楽は、映画を見たときにはあまり印象に残らなかったのだが、買ったばかりのこのCDで音楽だけ聞いていても、映画のあれやこれやのシーンが思い浮かぶ。
 とくに“秋日和”や“秋刀魚の味”がいい。“晩春”“麦秋”“彼岸花”などもいいし、意外に“早春”もストーリーは好きになれなかったが、音楽はよかった。

 “秋刀魚の味”は、中村伸郎たちが中学校時代の教師(東野英治郎)に毒づくあたりが不愉快だったのだが、実は教え子たちにも老いが忍び寄っているのだという誰かの批評を読んでからは、あのシーンも許せるようになった。
 あの哀感を帯びたメインメロディーは、娘を嫁がせる父親(笠智衆)一人だけの気持ちではなく、笠智衆、中村伸郎、北竜二らに共通の哀感であり、それはまさに彼らの年代に達した(超えたかもしれない)ぼく自身の哀感でもある。

 小津の映画の中では、ぼくは笠智衆と同じで、“父ありき”が一番好きなのだが、最近は“秋刀魚の味”もよくなってきた。
 同じ言葉を繰り返したり、佐田啓二が、たびたび「~がネ」などと喋る台詞も鼻につくが、それでも“秋刀魚の味”とその音楽は悪くない。

 節電とやらで、東京の地下鉄の連絡路などの照明が薄暗くなって、その薄暗さが昭和30年代を思い起こさせてくれる。そんなせいかもしれないが、なぜか最近、妙に昭和30年代が懐かしい。

 そういえば、きょうは6月15日。樺美智子さんの命日だった。

 * “小津安二郎監督作品 サウンドトラック・コレクション”(松竹映画サウンドメモリアル、1995年6月)のジャケット。

 2011/6/15

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