西川祐子『住まいと家族をめぐる物語--男の家、女の家、性別のない家--』(集英社新書、2004年)を読んだ。
ゼミ生に大工さんの息子がいて、ゼミの時に「家族と住居」という報告をした。その時に彼が参考文献のひとつとして挙げた本である。
数日前の病院の待ち時間と、年賀状を書き終わった今日の午後に読み終えた。面白かった。
近代日本の家族の変遷を、家族の器としての住居との関係で論じた本である。
近代日本の住居は“囲炉裏端のある家”から“茶の間のある家”を経て、“リビングルームのある家”へと移り変わり、そして現在は“ワンルームの家”も増加している、という。各時代はオーバーラップしながら変遷しているのだが、著者はそれを「二重構造」という。
このような住居の変遷は、そこに住む家族の変容を反映している。
“囲炉裏端のある家”に住むのは封建的な家長中心の「家」的家族であり、都市化とともに夫婦中心の小家族が「家庭」生活を送る“茶の間のある家”へ、さらに、戦後の団地世代以降は「食寝分離」、「就寝分離」を伴う“リビングルームのある家”へと推移していくのである。
“リビングルームのある家”は(夫婦・子ども)部屋の個室化を伴い、家族の個人化が加速し、今日の“ワンルームの家”は家族の個人化の到達点である。
この過程に並行して、家は女性化することになる。言いかえれば、女性は家に取り込まれることになる(専業主婦化)。逆に残業で帰宅の遅い男には家での居場所はない。女が家を出るのは「家出」だが、男が家を出るのは「蒸発」しかないという。なるほど・・・。
著者が勤務する大学で開講した「ジェンダー文化論」というゼミの営みをもとに作られた本だという。
時々の家族や家族の住居が描かれた小説や映画が引用されている。小津安二郎も1か所だけ登場するが(89~90頁)、少なくとも昭和以降は、小津安二郎の映画だけで「家族と住居(家)」について論ずることができると思う。
本書に登場する木賃宿は岡田嘉子・坂本武の“東京の宿”(1935年)、当時の比較的裕福な大学生の下宿生活は“若き日”(1929年)、苦学生の貧しい下宿生活は“東京の女”(1933年)、貧しいサラリーマンの家は“大学は出たけれど”(1929年)、“東京の合唱”(1931年)などに登場し、当時のサラリーマンが東京の郊外に建てた一戸建ての家は“生れては見たけれど”(1932年)、などにそれぞれ描かれている。
戦争直後の長屋生活はそのものズバリ!“長屋紳士録”(1947年)に、夫の復員を待つ妻子の間借り生活は“風の中の雌鶏”(1948年)に出てくる。少し時代が落ち着くようになってからの家は“晩春”(1949年)や“東京物語”(1953年)、“東京暮色”(1957年)などで見ることができる。“東京物語”や“早春”には当時の(=高度成長以前の)戦争未亡人、独身サラリーマン、工員などのアパートの部屋もたくさん登場する。
そして、高度成長が始まった時期の東京に生活する上層サラリーマンの家庭と住居が描かれる“秋刀魚の味”(1962年)で小津の映画は幕を下ろすのだが、「家族とその器としての家」という本書の著者のテーマで小津安二郎の映画を語ることは十分に可能だろう。
先日、夜中に目が冴えてしまって、久しぶりに“秋刀魚の味”を見たのだが、あの家は「茶の間のある家」の典型だろう。
家事を切り盛りする岩下志麻がアイロンをかけ、同窓会から酔って帰宅した笠智衆がお茶を飲み、同じく夜遅くに帰宅した三上真一郎が岩下に夜食を催促するあの卓袱台が真ん中に置かれた畳敷きのあの部屋を一度は通って家族は各自の部屋に消える。
2階にはいちおう岩下の個室らしき部屋もあるが、廊下を隔てる障子は開いたままで、弟の三上が「姉さん、上で泣いていたぞ」と笠智衆、佐田啓二に告げるシーンもある。
茶の間から続く中廊下の突き当たりには、「台所」があって、質素な食卓と椅子は置いてあるが、まだ「リビングルーム」とは言えない。そう言えば、“お茶漬の味”(1952年)で佐分利信が一人お茶漬けをすするのもあんな台所の食卓だった。
娘を嫁がせた夜に一人で帰宅した笠智衆がその椅子にがっくりと腰を落とすシーンで小津の映画生活は終わっている。
その後にやってきた「リビングルームのある家」の家族生活を描いた映画監督はいるのだろうか。
* 西川祐子『住まいと家族をめぐる物語--男の家、女の家、性別のない家--』(集英社新書)。
2011年をクルマの話題で締めくくりたくはなかったので、こんな記事を書いた。クルマのことを書くとアクセス数が跳ね上がるが、それはぼくの本意ではない。来年は、できれば軽井沢と映画と本の書き込みでアクセス数を上げたいものである。
これで2011年はおそらく最後だろう。1年間、何度か読んで下さった皆さん、有難うございます。良いお年をお迎え下さい。
2011/12/29 記