豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

シルビー・バルタン、80歳!引退

2024年12月02日 | テレビ&ポップス
 
 2、3日前のNHKラジオ深夜便に(たぶん)奥田佳道さん(「音楽の泉」日曜朝の番組の司会者)が出ていて、クラシック音楽とポピュラー音楽の交流について語っていた。
 その中で、モーツァルトの音楽はポピュラーにもたくさん取り入れられているとして、その一例としてシルビー・バルタンの「哀しみのシンフォニー」という曲の原曲がモーツァルトだと紹介していた。シルビー・バルタンといえば、何といっても「アイドルを探せ」で、それ以外の曲はほとんど忘れてしまっていた。「哀しみのシンフォニー」も知らなかった。
 そのシルビー・バルタンが今年80歳になったのを機に引退するという。この秋に引退の予定だったが、大人気のため来春まで引退公演を延期したという。彼女が80歳とは! 奥田さんはシルビー・バルタンはブルガリア人だと紹介していたが、バルタンと言えばバルタン星人だろう。

 「アイドルを探せ」はドーナツ盤を持っているはずなのだが、見つからない。彼女のポスターも持っているはずだが、これももう数十年間見つからない。中学3年の時に(ぼくにとって花の1964年)彼女のファンだとクラスで言いふらしていたら、同級生の女の子が週刊誌についていた彼女のポスターを持ってきてくれたのだった。「小悪魔的で中年男性に人気」などとキャプションがついていた。中学3年生としてはムカッとした。シルビー・バルタンはジョニー・アリデーと結婚したのだったか・・・。
 フレンチ・ポップスでは、フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」なんてのも流行った。数年後には、ミッシェル・ポルナレフの「愛の願い」「シェリーに口づけ」などがヒットした。「ホリデー オン ホリデー ♬」なんて彼の高い声が今も耳に残っている。
 「アイドルを探せ」を探したけれど見つからないので、かわりにポルナレフ(Polnareff)「I Love You Bicause」(AZというのは会社名か)のジャケットを(冒頭の写真)。知り合いの編集者が夏休みにフランス旅行に行った時にお土産に買ってきてくれたもの。歌詞カードも解説のパンフレットもビニールカバーもない殺風景なレコードである。フランスのレコードはみんなこんな調子なのだろうか。どんな曲だったかの記憶もない。
 ついでにポルナレフのレコードをもう一枚、「哀しみの終わるとき」(CBSソニー、発売年記載なし。“EPIC”レーベルで“FRENCH POPS”というサブタイトルがついていた)。カトリーヌ・ドヌーブ、マルチェロ・マストロヤンニ主演の同名映画の主題歌らしい。
       
   
       
 クラシック音楽のつながりで、レーモン・ルフェーヴル「涙のカノン」(キング、1969年)のジャケットも並べておいた。映画「夫婦」の挿入曲でヨハン・パッヘルベルの作曲と解説にある。クラシックに縁のないぼくでもよく耳にするメロディである。バッハかと思っていた。ついでに見つかったアラン・ドロンとダリダの「あまい囁き」のジャケットも。ダリダってこんな顔をしていたのか。「パローレ、パローレ」とつぶやくリフレインが印象に残っている。
 アラン・ドロンも今年亡くなったのだった。「男と女」(「男性・女性」だったかも?)のジャン・ピエール・レオがいい男だと言ったら、「私はちょっと悪なアラン・ドロンのほうが好きだわ」とポルナレフのレコードをくれた編集者が言った。

 2024年12月2日 記

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「世界 “夢の本屋” 紀行」(NHK-Eテレ)

2024年11月02日 | テレビ&ポップス
 
 11月2日(土)、朝からの雨は、予報に反して夕方になっても止まない。
 テレビをつけると、誰だかイケメン男性が神田の古書店街を歩いて、店主にインタビューしている。
 新聞の番組欄を見ると「チャン・ドンゴンと行く 世界 “夢の本屋” 紀行」(NHK-Eテレ、午後2時~3時30分)という番組で、歩いていたのはチャン・ドンゴンだった。彼は本好きだったのか。

 神田神保町だけでなく、ヨーロッパや中国のユニークな古書店や新刊書店をめぐり歩く旅をしていた。そのなかで、イギリス(だったか)の古書店で、不要になった本を持ち込むと、他の誰かが持ち込んだ古本と交換してくれるという古書店を紹介していた。
 古本同士のマッチングである。東京のどこかで書店だかビルだかの一角を時間貸していて(確か2週間単位だった)、自分で古本を持ち込んで売ることができるスペースがあると聞いたが、毎日店番に出かける余裕もない。こんなイギリス古書店のようなシステムの古書店が日本にもできるといいのだが。

 2024年11月2日 記

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「小津安二郎は生きている」(NHK・ETV特集)

2024年09月22日 | テレビ&ポップス
 
 夕べ(9月21日、土曜)夜の11時ころからNHK、Eテレ(2ch)で、「生誕120年、没後60年ーー小津安二郎は生きている」という番組をやっていた。チャンネルをカチャカチャしていて気がついて、途中から見た。
 小津の没後60年は2023年だから、去年放送された番組の再放送なのだろうか。12月12日が誕生日にして亡くなった日だから、2024年に入ってからの放映かもしれない。

 平山周吉という大胆なペンネームの作家が、小津と山中貞雄の交流、小津映画にみられる小津の山中に対するオマージュというか追憶を指摘していた。
 「麦秋」の麦は小津の戦友たちの象徴で、この映画が戦死していった戦友たちの追憶であることは、小津が戦地で火野葦平「麦と兵隊」を読んでいたことも含めて誰かが指摘していたのを以前に読んだ。ひょっとすると、平山の指摘だったかもしれない。「麦と兵隊」のことは二本柳寛(ということは小津自身)が画面の中でも語っている。

 平山の創見と思われたのは、「晩春」における「壺」の解釈である。
 父親(笠智衆)と嫁ぐ直前の娘(原節子)が二人で京都旅行をする。そもそも京都を舞台にしたこと、そして龍安寺の石庭を前にして笠が三島雅夫(旧友だったか? その妻が坪内美子だったはず)と語るシーンも山中への追憶だという。駆け出しの頃に山中は龍安寺(xx院、聞き漏らした)で暮らしていた時期があったという。
 父娘が床を並べたその部屋の背景に置かれた壺が数秒間映されるシーンがある。この壺が山中貞雄「丹下左膳 百万両の壺」の壺だと平山は解釈する。デジタルリマスター版(?)の鮮明な画像だったが、この場面の原の寝顔がなまめかしすぎて、これまで安いDVDの粗い画像で見てきた「晩春」のイメージが崩れてしまった。笠の鼾の音もあんなに大きかったとは! 壺は女性器の象徴で、あの場面は近親愛を描いているという誰かの解釈を以前に読んだことがある。その時は、「そこまでの解釈は・・・」と思ったのだが、昨夜の原の表情を見ると、そのような解釈も可能かと思えた。

 「東京物語」のラストシーンで、尾道の笠の家の庭先に咲いていた赤い鶏頭の花が画面前面に置かれていたのも山中への追憶だと言っていたように思うが、その理由は忘れてしまった。※後で調べると、生前の山中が小津の家を訪問した際に、庭先に咲いていた鶏頭を褒めたことの記憶だった。しかも山中の命日は9月17日だというから、昨夜の再放送は山中の追悼番組だったのかもしれない。
 原節子が映画デビューしたのは、山中監督の「河内山宗俊」という映画だったというのも知らなかった。15歳だったという。ヴィム・ベンダース監督が、小津は原を愛していたと語っていたが、小津が原と結婚しなかったのも、原を見い出した山中との友情を優先したからだろうか。

 2024年9月22日 記

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虎に翼(その8)--戦後民法改正と内藤頼博

2024年06月07日 | テレビ&ポップス
 
 NHK朝の連ドラ「虎に翼」の舞台は戦後となり、未亡人となった主人公が司法省の事務官に採用され、民法家族法の改正作業に参加する展開となっている。
 このドラマの展開は、実際の戦後民法改正作業の史実をどのくらい反映しているのだろうか。

 戦後の民法(家族法)改正経過に関する最も一般的な解説書は、我妻栄編「戦後における民法改正の経過」(日本評論社、1956年、1988年復刊)だろう。実はこの本の復刊を提案したのはぼくである。最近では各出版社で復刊リクエストとかオンデマンド復刊が盛んだが、まだそのような機運がなかった1980年代に、ぼくは、日本評論社の本では、本書のほかにも我妻栄「事務管理・不当利得・不法行為」とアダム・スミス/水田洋訳「グラスゴウ大学講義」の復刊を提案した。古本屋では、我妻編「経過」が2、3万円、スミスなどは4万円以上の値がつけられていることを古書目録を示して提案したところ、採用されて復刊が実現した。復刊された本はいずれも完売したばかりか、復刊が重版になったこともあったはずである。他にも青林書院の中川善之助「新訂・親族法」の復刊も希望したが、こちらはいまだに実現しない。
 この我妻編「改正」によって、ドラマに登場する人物のモデルと思しき人物を探索してみよう。

 時代が戦後になってドラマに新たに登場した人物のうち、お殿様の末裔にしてアメリカ帰りのエリート裁判官(司法官僚)で、民法改正に参画した人物(沢村一樹演ずる久藤何某)といえば、モデルは内藤頼博さんだろう。内藤さんは、現在の新宿御苑を含む内藤新宿一帯を領有した内藤家の末裔だという話だった。
 ぼくは編集者時代にお目にかかったことがあるが、面長で中高の整った顔立ち、髪をきちんと分けて、穏やかな表情と物腰はいかにも家柄の良い老紳士という印象だった。沢村演ずる久藤某とは似ても似つかぬ方だったが、内藤さんにはあのような一面があったのだろうか。それとも、内藤さん以外に、あのようなアメリカ帰りでチャラくて気障な司法官僚のモデルが他に誰かいたのだろうか。

    

 我妻編「経過」を見ると、司法法制審議会(昭和21年)の幹事のなかに内藤頼博の名前が見える(209頁、上の写真)。肩書きは「司法事務官」となっている。和田嘉子(寅子のモデル)も同じ司法事務官だが、和田(後に三淵)は審議会メンバーの中に名前はない。それどころか、100名近い委員と幹事の中で、女性はわずかに衆議院議員3名(武田キヨ、村島喜代、榊原千代)と一般人2名(村岡花子、河崎なつ)の計5名が委員に名を連ねているだけで、その他の裁判官、司法官僚、検事、弁護士、学者はすべて男である。昭和21、2年頃というのはそんな時代だったのだ。

       

 審議会で、頑迷に家族制度の存続を主張する老人が登場するが、あれはおそらく牧野英一だろう。法制審議会の委員名簿を見ると、学者の欄には宮澤俊義、我妻栄、中川善之助、兼子一ら10名ほどが並んでいるが、牧野の名前はなく、貴族院・衆議院議員グループと弁護士グループの間に、唐突に牧野(東大名誉教授)と草野豹一郎(中大教授)の2人だけが挟まっている(「経過」208頁)。彼はどういう経緯から、どういう資格で法制審議会の委員になったのだろうか。
 彼は同じ主張を何度も蒸し返し、敗戦も新憲法の制定も彼にはまるで何の影響も与えなかったようである。我妻、中川らがよくぞ牧野の繰り言につきあったと、その忍耐に感心する。新しい家族法の制定という目的一点を目ざして自重したのだろう。ただし、そのような守旧派は牧野1人だけでなく、審議会委員の何人かも牧野と同趣旨の発言をしている(牧野らの発言は「経過」276頁以下や、「臨時法制調査会総会議事速記録」などを参照。上の写真)。
 ドラマでは、穂高教授(穂積重遠)が牧野らに対抗して改正案の原案を支持しているが、実際には穂積は民法改正作業に加わっていない。弟子の中川、我妻らが主導したのだが、ドラマに中川、我妻らしき人物は登場しなかった(と思う)。
       
   

 6月6日の放送では、民主団体の代表(全員女性だった)が司法省に対して家族法改正に対する要望書を提出し、受け取る側だった寅子も賛同者になるというシーンがあった。
 我妻編「経過」343頁以下にその記録が残っている。この団体は「家族法民主化期成同盟」といい、封建的家族制度を廃止し、民主的家族法の成立を目ざすことを目的とした団体で、進行中の民法改正案にはなお不十分な点が多いとして、具体的な修正案を提案している。
 神近市子、平林たい子、山川菊栄、大濱英子、村岡花子らの著名人、川島武宜、野村平爾、立石芳枝(明大教授!)、田辺繁子らの学者、弁護士とともに、「司法事務官」の肩書で和田嘉子(後の三淵嘉子)の名前が署名人の最末尾にみられる(上の写真)。和田が最末尾なのは、五十音順なのか(和田の前は渡辺である)、上記のような経緯の故かは分からない(おそらく後者だろう)。
 司法事務官として起草作業の裏方を務めながら、このような要望書に署名できたのは、さすが戦後初期の法曹界の開放的な雰囲気を反映しているのだろう。現在では考えられないことである。あるいは「寅子」の個性かも知れない。

 いずれにしても、朝の連ドラの数回分で戦後の民法(家族法)改正を扱うのは無理だろう。もしやるなら、かつてNHKテレビ「土曜ドラマ」で放映されたジェームズ・三木脚本の「憲法はまだか(第1部・象徴天皇)、第2部(戦争放棄)」(各90分)くらいの分量は必要だろう。

 2024年6月6日 記

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サリンジャーとノルマンディー上陸

2024年06月05日 | テレビ&ポップス
 
 6月6日は “D - Day”、1944年のこの日に、第2次大戦末期に連合国側のヨーロッパ戦線における勝利を決定づけたノルマンディー上陸作戦が開始された記念日である。

 1、2週間前の(もっと前かも)NHKテレビ「映像の世紀」で、ノルマンディー上陸作戦のドキュメントをやっていた。その番組では、この作戦にアメリカ兵として参加した作家サリンジャーのことが紹介されていたと思うが、数日前に放送されたNHKのテレビ番組の中でも、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」へのノルマンディー作戦参加体験の影響が話題になっていた。
 数日前に見た番組を「映像の世紀」と勘違いしたため、NHKのHPからなかなかこの番組を見つけることができなかったが、「映像の世紀バタフライエフェクト」のほうは「史上最大の作戦ノルマンディー上陸」(4月15日放送)で、数日前に見たのは、「完全なる問題作――善と悪の深遠なる世界」という別の番組で、第1回が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(初回は3月21日放送)の再放送だったことが判明した(下の写真)。
 ※ あの小説(“The Catcher in the Rye”)は、ぼくにとっては1969年に読んだ「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝訳、白水社)であって、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」などでは決してないので、以下では「ライ麦畑・・・」と略記する。

   

 「完全なる問題作」は、なぜ「ライ麦畑・・・」がアメリカで禁書の対象とされたかをテーマにしていて、ノルマンディー作戦参加体験はメインテーマではなかった。
 ぼくはまったく知らなかったが、この番組によると、アメリカでは、「ライ麦畑・・・」の性表現や卑語が青少年に悪影響を与えるとして、全米図書協会の禁書目録に載せられ(そんなリストがあったとは!)、閲覧が禁止されてきたという。テロップによると、2009年になってようやく禁書目録の上位から姿を消したということだったから、いまだに禁書目録の下位にリストアップされているのだろう。
 番組では、禁書の理由の背景としてソ連など共産圏諸国との冷戦の影響も指摘していたが、マッカーシーの赤狩り時代のアメリカでは、「ライ麦畑・・・」程度の「反体制」でも危険視されたのだ。アメリカはいまだに学校で進化論を教えることを禁止している地方があるくらいだから、「ライ麦畑・・・」の禁書も驚くに値しないのかもしれないが、それでも驚いた。今の中国と似たようなものではないか。

 しかしそれよりも、この番組では、戦後サリンジャーが隠遁生活を送ったニューハンプシャー州コーニッシュの風景や、サリンジャーの住居と思われる瀟洒な建物が開けた小高い丘の上に建っている映像を見ることができたのが大収穫であり、驚きだった。プライバシーに配慮してか、番組では彼の家だと明示していなかったが、前後関係からしておそらく彼の住居だろうと思った(息子らが建て替えた可能性はあるが)。
 サリンジャー作品や、娘が書いた「我が父サリンジャー」(新潮社)に登場するコーニッシュや彼らの住居を、ぼくは、もっと木々の生い茂った森林の奥地で、建物ももっと素朴で質素なものかと思っていたが、どうして、さすがはアメリカ有数のベストセラー作家の住居と思わせる立派な建物だった。
 あれが彼の旧居だとしたら、作家サリンジャーに言わせれば、まさに “phony” (インチキ)じゃないかと思うが、彼の私生活がけっこう “phony” だったことは娘が書いた伝記でも語られていたから(作品の中では毛嫌いしていた寄宿学校(プレップスクール)に自分の子どもたちを入学させたり、ニューヨークでの宿泊はいつもプラザホテルだったりなど)、今さら驚きはしない。

      

 もう一つの驚きは、映像の中に、アメリカで発売された “The Catcher in the Rye” の表紙が写っていたのだが、そこに、主人公ホールデンらしき人物を描いたイラストが入っていたことである。
 サリンジャーは、自分の本の表紙や本文中に登場人物のイラストを入れることを一切禁止し、エリア・カザンやスピルバーグによる映画化の申し出も拒否したと何かに書いてあったので、このイラストの入った表紙にも驚いた。フィリップ・マーロウものにでも出てきそうなトレンチコートを来て中折れ帽をかぶった男が横を向いて立っているイラストだった(ように思う)。
 ぼくの持っている「ライ麦・・・」(野崎孝訳)の表紙は、白水社「新しい世界の文学」シリーズの統一された装丁だし、“Catcher ・・・” (Penguin Modern Classics,1969!)の表紙の味気ないことといったら悲しくなるくらいである(上の写真)。

       

 ぼくにとって垂涎の本の1冊に、サリンガー/橋本福夫訳「危険な年齢」(ダヴィッド社、1952年)がある。この本は、橋本による「ライ麦・・・」の本邦初訳であるというだけでなく、表紙にホールデンのイラストが入っていることでも貴重である。
 橋本訳「危険な年齢」の表紙は、片岡義男「僕が出会った三人のホールデン」というエッセイの中に写真が入っているので見ることができる(講談社HP「現代ビジネス」2017年4月30日。上の写真)。片岡はこの本を持っているそうで(羨ましい!)、彼によると、橋本訳の他にも、ホールデンのイラストが入っているものとして、Signet Book のペーパーバックがあるという。先日の番組でぼくが一瞬見たイラストはこの本の表紙だろうか(その服装はぼくの記憶とは違っているが)。さらに彼によれば、イギリスで出版されたハードカバー版の表紙にもホールデンのイラストがあるという。
 ※ 橋本が “Catcher ・・・” に「危険な年齢」という邦題をつけたのは、戦後間もない時期(アプレ・ゲール)の日本の時流におもねったもののように考えていたが、赤狩り勢力によって「禁書」とされたことを考えると「危険」というのは本質をついた題名だったのかもしれない。同書の帯の宣伝文句も挑戦的だし、Signet 版の表紙もかなり扇情的なものだったようだ。

 サリンジャーの戦後の作品の背後に彼自身の戦争体験があることは、短編集(「サリンジャー短編集Ⅰ(若者たち)、Ⅱ(倒錯の森)」荒地出版社)を読めば明らかだが、「ライ麦畑・・・」にまで及んでいるとはぼくは思わなかった。
 「ライ麦畑・・・」のテーマは、あの時代(出版されたのは1951年だが、ぼくが読んだのは1969年だった)の若者たちの多くが、社会の既成勢力(政府、企業、大学などのエスタブリッシュメント)の胡散臭さ(“phony”)に対して抱いた反感と、それらに対するホールデン流の異議申立てへの共感だったと、ぼくは思う。 
 なお、「フランスの少年兵」などを読んだ限りでは、サリンジャーにとっては、ノルマンディー上陸作戦よりもその後の旧ドイツ占領地帯への反攻の際の困難な体験のほうが強く影響したように思う。

 ついでに、蛇足を。
 2週間ほど前のBSテレビ(たしか451chの wowow )で、「オペーレーション・ミンスミート」(挽き肉作戦!)という映画をやっていた(コリン・ファース主演)。
 シチリア島上陸作戦の際に、連合国側のスパイたちが、連合軍はギリシャから上陸する計画であるという偽情報をナチス側に流し、ヒトラーがまんまと罠にかかってギリシャに兵力を集めたため、連合軍側は大きな被害なくシチリア島上陸(1943年7月)に成功したという実話に基づいた映画だという。

 2024年6月6日 記

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ヨークシャー連続殺人事件(ミステリー・チャンネル)

2024年05月25日 | テレビ&ポップス
 
 BSテレビのミステリー・チャンネル(560ch)で、「ヨークシャーの切り裂き魔事件--刑事たちの終わらぬ苦悶」というのをやっている。
 1980年代に、イギリスのヨークシャー州(県?)で実際に起った連続女性殺害事件(このヨークシャー連続殺人事件の犯人はその手口が19世紀ロンドンで起きた「切裂きジャック」に似ていたことから「ヨークシャー・リッパ―」と呼ばれた)をモデルにしたドラマである。実際の事件では、初動捜査の失敗が犯人逮捕の遅れにつながり、捜査本部の首脳陣と現場の刑事たちの見解の対立が真犯人に接近することを妨げたのだが、ドラマでも警察内部における捜査方針をめぐる首脳陣と刑事の対立を軸に描かれていた。

 先日古い蔵書を眺めていたら、ドナルド・ランベロー「十人の切裂きジャック」(草思社)に、実際のヨークシャー・リッパ―の関連記事が挟んであった(上の写真)。
 当時の新聞記事のスクラップから、事件を追ってみると以下のようになる。
 1975年10月30日~ イギリス、ヨークシャー県リーズで第1例から第6例までの連続女性殺人事件が発生(1977年9月17日付毎日新聞による)。
 1977年 9月17日(土)毎日新聞 リーズでまた女性殺人事件が発生。
 1980年11月20日(木)朝日新聞 リーズで13人目の被害者発見。
 1981年 1月 5日(月) 朝日新聞(以下同) ヨークシャー県シェフィールドの所謂「赤線地帯」で容疑者(匿名)を逮捕。
 〃 年 1月 6日 容疑者は、ヨークシャー県ブラッドフォード在住のトラック運転手ピーター・サトクリフ(35歳)と報道。
 〃 年 1月 9日 1月5日の法廷(罪状認否か大陪審か?)は騒然とした、容疑者は3年前数回にわたって当局の事情聴取を受けていたと報道。
 〃 年 4月30日 ロンドン中央刑事裁判所(オールド・ベーリー)で、サトクリフ被告に対する初公判。裁判の中立を守るため、英国犯罪捜査法に基づいて事件はロンドン中央刑事裁判所(ボーラム裁判官)に移送。被告は13件の殺人と7件の殺人未遂を認めた。
 〃 年 5月23日 サトクリフ被告(この記事では34歳となっている)に終身刑(30年間仮出獄禁止の条件付き)の判決。
 
 スクラップはここまでである。
 2011年5月22日で判決から30年が経過しているが、仮出獄禁止の条件が解除された(であろう)サトクリフ被告(受刑者)はその後どうなったのだろうか。
 ※ ネットで調べたら、サトクリフは、2020年11月にコロナで死亡していた! 74歳だった。

   

 犯人逮捕の現場となったシェフィールドは、もともとは羊を放牧するような農村だったという。サマセット・モーム「大佐の奥方」の舞台である。その後は炭鉱業で栄え、やがて鉄鋼業の町になるが、石炭、鉄の衰退とともに町も寂れていった。この頃の歴史は、映画「フル・モンティ」の冒頭でユーモラスに描かれている。
 2014年に旅行した時は、シェフィールド駅近くにタタ・スティールの社屋が建っていたが、現在では鉄鋼の町というよりは大学町になっていた。たしか大学が3つか4つあったはずである。町はずれには巨大ショッピング・モールもあったが、市街地から向かうトラムの沿線はシベリア横断鉄道を思わせるような白樺の林だった。シベリア横断鉄道に乗ったことはないが。
 30年前にそんな事件の逮捕現場になっていたとは、旅行当時はまったく知らなかった。シェフィールドに「赤線地帯」があることも知らなかった。夕べの番組ではその現場のロケシーンもあったが、あれは実際のシェフィールドの現場で撮影したのだろうか(下の写真はシェフィールドの中心街の街並み。2014年3月撮影。事件現場とは関係ない)。

   

 昨夜はBSの番組の最終回だったが、職務質問したシェフィールドの警官が容疑者を偽装ナンバー・プレートの窃盗容疑で逮捕、勾留したにもかかわらず、連絡を受けたリーズの捜査本部は、容疑者にニューカッスル訛りがないことを理由に釈放を命じた。しかし疑念を持ったシェフィールドの警官が釈放せずに、再び現場に戻って逮捕現場の周辺を捜索したところ、容疑者が立小便をした付近で凶器のハンマーと肉切包丁を発見し、事件は一気に解決に向かう。
 捜査本部の首脳陣は、犯人と称する人物からの電話を真犯人からの電話と決めつけ、その電話の主にニューカッスル訛りがあったことに固執したために(後に偽電話の犯人は捕まっている)、捜査の方向を誤らせたばかりか、逮捕した真犯人まで危うく取り逃がすところだったのだ。
 容疑者のサトクリフは、(ニューカッスル訛りがなかったこともあり)逮捕までに9回も捜査線上に浮かびながら逮捕を免れていたという。
 驚いたことに、番組の最後に、当時の捜査本部長の実際の画像が出てきて、この男はその後捜査の回顧録を出版して4万ポンドだったかの印税を得たとキャプションが流れた。番組を見た者にとっては、ニューカッスル訛りにこだわって捜査を遅延させ、犯人逮捕の遅れによって救えたはずの被害者を出した張本人である男がよくもぬけぬけとそんな本を出版できたものだとあきれるしかない。
 番組のサブタイトルである「刑事たちの終わらぬ苦悶」というのは、そのような無能な上層部によって捜査を攪乱された現場の刑事たちの「苦悶」であり、その苦悶は犯人が逮捕されても終わることがなかったという意味なのだろう。

 2024年5月25日 記  
 

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虎に翼(その7)ーー河合栄治郎事件と海野普吉

2024年05月13日 | テレビ&ポップス
 
 そろそろやめようと思いつつ、ついつい今朝もNHK朝の連ドラ「虎に翼」を見てしまった。

 高等文官試験司法科に合格した三淵が、なぜか雲野(「うんの」?)法律事務所で修習をしていた。三淵が実際に海野普吉弁護士の事務所で修習したのかは知らないが、今朝の放送で雲野弁護士が受任した「落合信太郎」(だったか?)の出版法違反事件は、おそらく河合栄治郎事件と思われる。
 番組の中で、出版法違反事件の対象とされた著書として雲野の机の上に積まれていた本が「社会政策概論」とか「マルキシズム研究」などだったが(よく見ていなかったので書名は怪しい)、河合が東大経済学部の社会政策講座の教授であり、出版法違反の対象とされた著書が「社会政策原理」その他だったことに符合する。
 この河合の事件の弁護人となったのが海野普吉弁護士である(潮見俊隆編著「日本の弁護士」日本評論社、1972年、上と下の写真)。

     

 海野弁護士は、戦前の治安維持法違反事件や出版法違反事件で多くのマルキスト系の被告を弁護しているが(その多くは検察側がでっち上げた事件であった)、政府や検察の弾圧が自由主義者にも及ぶようになると、河合や津田左右吉の出版法違反事件も弁護している(潮見「海野普吉」同書から。上の写真)。なお、潮見は「普吉」に「ふきち」とルビを振っているが、「しんきち」が正しい呼び名ではないか。少なくとも命名した「普吉」の父親は「しんきち」のつもりだったようだが・・・。
 河合の事件は一審の東京地裁では無罪判決を勝ち取っている。無罪を言い渡した裁判官が石坂修一(裁判長)、兼平慶之助、三淵乾太郎だった。三淵乾太郎は戦後初代の最高裁長官になる三淵忠彦の息子で、のちに三淵嘉子の夫となる人物である。ドラマではどう描くのだろうか。

 なお、河合事件は第2審の東京高裁で逆転有罪となり、大審院で上告棄却となり有罪が確定した(昭和18年6月25日)。この事件の大審院の裁判長は三宅正太郎で、潮見によれば、三宅は進歩的司法官をもって任じながら立身出世の傾向が強かったので、敗訴するのではないかという海野の予想(不安)が的中したという(潮見「海野普吉」同書331頁)。
 三宅正太郎がそういう人物評を受ける裁判官であるとは知らなかった。上の写真の左下に表紙がちょっとだけ写っているのは、三宅正太郎「法律 女の一生」(中央公論社、昭和9年)である。三宅の同名のラジオ講座を活字化したものだそうで、穂積重遠が前書で推薦の文章を書いている。ここでも「虎に翼」の穂高教授(穂積)がかかわる。なお、三宅の肩書は東京地方裁判所長となっている。

 そろそろ「虎に翼」はやめようと思いつつ、こんな風に現実の事件が脚色されて登場するとなると、戦後の最高裁長官として「裁判の独立」を唱えながら、自身は砂川事件に際してアメリカ大使らと秘かに密談していたことが、最近になってアメリカ側の公文書公開によって暴露されてしまった田中耕太郎や(布川玲子・新原昭治編著「砂川事件と田中最高裁長官ーー米解禁文書が明らかにした日本の司法」日本評論社、2013年)、いわゆる「司法の危機」時代の石田和外などをどう描くのか、かれらと猪爪寅子はどうかかわるのかを見ておきたい気持ちもわいてくる。
 三淵長官の頃は「憲法の番人」と期待された最高裁判所が、やがて「政府の番犬」とまで蔑まれるようになっていく時代を、NHKはどこまで描くことができるのだろうか。

 2024年5月11日 記

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虎に翼(その6)ーー帝人事件と今村力三郎

2024年05月02日 | テレビ&ポップス
 
 NHK朝の連ドラ「虎に翼」のモデル探し記事はネット上にいくつもアップされていて、けっこう詳細な記事もあるので、ここではそれらに載っていないことを書いておく。ひょっとしたらどこかに書いてあるかもしれないけれど・・・。

 ここ数日の番組では、主人公寅子の父親(銀行員)が贈賄事件で逮捕、起訴された事件が進行中で、番組内では「共亜事件」とか言っているが、これは「帝人事件」だろう。ここまでは多くの記事に書いてある。
 帝人事件は、1934年(昭和9年)に起きた疑獄事件である。
 台湾銀行の保有する帝人(帝国人絹会社)株を、帝人社長、財界人、大蔵官僚、政治家らが共謀して不当な安価で取得したとして関係する16名が背任、贈収賄罪などに問われた。
 実際には、斎藤実内閣を打倒しようともくろんだ一部の検事らがでっち上げた冤罪事件だったことが後の裁判で判明するのだが、長期の拘留や拷問によって得た「自白」をほぼ唯一の証拠として16名が起訴された。
 背景には、鈴木商店(名前は「商店」だが、当時の大手総合商社だった)の倒産によって多額の負債を負った台湾銀行が、政府から多額の融資を受けていながら、保有する帝人株を政治家らに安価で売却するなどしたことは許し難いという一部の国民感情があったようだ(実際には株の売却はなく、帝人の株券は一貫して銀行の金庫に保管されていたことが後に判明する)。このような怪情報を流して煽ったのは(福沢諭吉が創刊した)時事新報だった。これを利用して、腐敗政治を糺すなどと思い上がった検察官僚がでっち上げたのが帝人事件だった。番組でもその趣旨が語られていた。

 帝人事件に三淵嘉子の父親は関わっていない。
 父親が帝人事件の被告とされたのを契機に弁護士になることを決意したことで有名なのは大野正男弁護士(後に最高裁判事)である。大蔵官僚だった彼の父(大野龍太)は帝人事件で逮捕、起訴された1人だった。大野はこの経験から人権を擁護する弁護士を志すことになったという。
 「虎に翼」は、おそらく大野のエピソードを借用したのだろう。ドラマの中で、三淵の父親らを弁護する弁護士の事務所が「雲野法律事務所」となっているが、これも実在の海野普吉(うんの・しんきち)弁護士をもじったものだろう。というのも、東大を卒業して弁護士になった大野さんが最初に所属した弁護士事務所が海野が主宰する弁護士事務所だったのである。

 なお、海野弁護士のことを「晋吉」と表記してあるのをしばしば目にするが、海野は「しんきち」と呼ばれているが、表記は「普吉」である。父親が「晋」と「普」を間違えて出生届をしたというエピソードを海野さんご自身から聞いたという人から又聞きしたことがある。
 ちなみに海野が弁護士として頭角をあらわした初期の事件に、大正9年の「岡本家相続事件」というのがあるそうだ。廃嫡された家督相続人の直系卑属には代襲相続権がないという当時の大審院判例を海野が弁護人となってひっくり返した(判例変更させた)のであるが、彼は旧判例に反対していた穂積重遠(穂高教授!)と中川善之助(穂積の一番弟子だが、大正9年といえば中川はまだ大学を出たばかりではないか!)に意見書を書いてもらうなどして勝訴したという。なお、この事件の相手側弁護人は仁井田益太郎だったという(潮見俊隆編著「日本の弁護士」日本評論社、1972年、315頁)。
 ここでも、ドラマに登場する穂積や仁井田(書名だけの登場だが)とのつながりがなくもない。

 政、財、官界の中枢に検察幹部が絡んだ帝人事件の性格からして、海野は帝人事件には関わらなかったと思うし、穂積も直接は関わっていないだろう。もちろん弁護人として法廷に立つことなどなかった。帝人事件の弁護人として有名なのは今村力三郎である。
 ※ 上記の帝人事件の紹介、および以下の記述は、今村力三郎『法廷五十年』(専修大学出版局、1993年)所収の今村「帝人事件弁論抄」などによる。
 今村は専修学校出身の代言人(後に弁護士)で、戦後には専修大学の総長として(後に司法大臣、法務府総裁となる)鈴木義男とともに専修大学の復興に尽力した弁護士だが、幸徳秋水の大逆事件をはじめ、戦前の多くの有名な刑事事件で被告人の弁護を担当しており、帝人事件でも弁護人として無罪判決を勝ち取ることに貢献した。
 
 帝人事件における今村の弁論は、思い上がった検事の「正義感」を糾弾するだけでなく、長期拘留や拷問などによって「自白」を強要するという人権蹂躙の捜査手法の批判、それによって得られた「自白」の信用性の批判、そして証拠に基づかない検察側主張の批判に向けられる。検察側の証拠を弾劾することによって検察側の主張を反駁するという、刑事弁護の王道をゆく弁論と立証である(「法廷五十年」185頁~)。
 彼の弁論もあって、1937年(昭和12年)東京地裁は、被告人16名全員を無罪とする判決を下し、検察側が控訴を断念したため、一審無罪判決が確定した。

 帝人事件に見られるような検察側の横暴は「検察ファッショ」と呼ばれ、その黒幕は平沼騏一郎とされている。きょう5月2日(木)の放送では、東京地裁の階段で担当判事とすれ違った際に、若い担当判事を威嚇する和服の老人が登場したが、担当検事を従えていたところを見ると平沼をモデルにした人物のようである。
 なお、この担当検事を演じる役者は、名前は忘れたがかつてはコメディアンだったように思う。居丈高で傲慢な検事の役をうまく演じている。判事役の俳優よりも上手だと思う。
 ※ ネットで調べると、かつてうっちゃんナンチャンの番組で「ドーバー海峡横断部」としてドーバー海峡を泳ぎ渡ったメンバーの一人、堀部圭亮という役者だった。お笑いタレントのように思っていたが、その後脇役俳優として活動していたようだ。

 実は、多磨霊園の今村の墓所の隣りに平沼の墓所がある。戦後戦犯として獄死した平沼は、獄中で幸徳秋水事件における検察の行為を懺悔したというが(「法廷五十年」315頁)、隣り合う2人の墓所の前に立つと不思議な感懐を覚える。どのような経緯で隣り合うことになったのだろうか。
 今村は昭和26年時点で、最近は「宣伝の時代に入り、弁護士は弁護商になった」と嘆いたというが(同313頁)、昨今のテレビに登場する「コメンテイター」と称する弁護士を見たら、さぞかし嘆かれることであろう。

 2024年5月2日 記

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虎に翼(その5)ーー名古屋控訴院庁舎

2024年04月25日 | テレビ&ポップス
 
 東京新聞2024年4月18日夕刊一面トップに上の写真のような記事が載っていた。
 名古屋控訴院の建物が現在も保存されていて、NHK朝の連ドラ「虎に翼」の中で、東京地裁の正面階段の場面のロケに使われているという。
 昨年このコラムにシリーズで書いた「建築でたどる日本近代法史」に加えたい建築物である。

 ぼくは「虎に翼」の撮影は明治村かCGの合成でやっていると思っていたが、このような建物が保存されていて、ロケに使われていたとは知らなかった。
 赤レンガの控訴院で思い出すのは、昭和30年代ぼくが子どもの頃に毎年夏休みを過ごした仙台の市電通りに面した旧仙台控訴院(当時は仙台高等裁判所)の建物である。戦後になっても、仙台の人々が「控訴院」と呼んでいた、あの赤レンガの建物はその後取り壊されてしまったのではないか。1985年に祖父の法事で仙台を訪れ、あの通りを東急ホテル前から大橋まで歩いたが、赤煉瓦の建物を見た記憶はない。
 戦前の仙台控訴院判決で何か有名な事件があったかは思い浮かばないが、戦後では、松川事件で被告人を全員無罪とした仙台高裁の門田(もんでん)判決が有名である。松川判決のころの仙台高裁は、まだ戦前の控訴院の建物だったように思うが、趣きのある歴史的建築物だったのに残念である。
 川前丁にあった東北大学法文学部の2階建て(3階建てか?)の建物なども今はないのだろう。

 その後、「虎に翼」はあまり熱心には見ていないが、きょう(4月25日)の放送では、明律大学の男子学生が帝大生にコンプレックスを持っていることが話題になっていた。
 実は、昭和19年に日本女子大(学校)を卒業した亡母が、(当時の)明大生はガラが悪く、帝大生にコンプレックスを持っていて、帽章の「明」と「治」の部分を(学帽の縁の)黒いリボンで隠していた(ここを隠すと帝大の帽章と同じに見えたらしい)と話していたことを思い出した。
 これまでの放送でも、明律大学の男子学生のガラの悪さは何度も登場したが、帝大コンプレックスの話題は今朝が初登場ではないか。誰もが明治大学と思って見ているだろうが、脚本で明治大学と明示しているわけではないから、これでいいのかもしれない。

 2024年4月25日 記

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虎に翼(その4)--毒饅頭事件と瀧川幸辰

2024年04月17日 | テレビ&ポップス
 
 NHK朝の連ドラ「虎に翼」の今週は、主人公たちが大学祭で模擬裁判を演じていた。
 取り上げた事件は、「毒饅頭殺人被告事件」とか銘うっていたが、実際に起きた女医による元婚約者毒殺未遂事件を下敷きにした事案である。
 この事件もどこかで読んだ記憶があったが、ネットで調べると、いくつか元ネタの事件を解説したページがあった。その記事のどれかで、この事件の弁護人が瀧川幸辰(たきがわ・こうしんと呼んでいるが、正しいのか)だったことを知った。
 ※小池新さんという人が書いた文春オンラインの記事だった。この記事を見るのは初めてだから、他のニュース源で知ったのだと思う。澤地久枝の書籍が参考文献に上がっているが、澤地の本を読んだことはない。佐木隆三の「殺人百科」にでも載っていたかもしれないが、手元にないので確認できない。
 この事件は、婚姻予約の不当破棄事件(実態は内縁関係の不当破棄事件)としての側面もあったようなので、そちらの関係で見たのかもしれない。

 ならば弁護人を務めた瀧川の著書の中でふれているかも知れないと思い、手元にある瀧川幸辰「刑法と社会」(河出書房、昭和14年)と、瀧川「刑法史の或る断層面」(政経書院、昭和8年)を見たが、毒饅頭事件(神戸チフス菌饅頭事件)に触れた記事は見当たらなかった。
 「刑法と社会」を斜め読みして、瀧川は大学卒業後に暫らく司法官試補を務めており、また(滝川事件で)大学教授を退職後は弁護士として「法服」を着ていたと書いてあるから、毒饅頭事件の弁護人もその頃に務めたのであろう。
   
   
 上の2枚の写真は、「刑法史の或る断層面」の扉の挿画で、ウィーンの美術館所蔵の「十字架刑への出発」と「山上の説教」だそうだ。穂積「判例百話」もそうだったが、昭和初期の法律書はどの本をとっても、革装ないし布クロース装で箱入りの立派な装丁で、昭和戦後期から平成、令和に至る現代の書籍よりも文化的な香りがある。手元にある本は、戦争をはさんで数十年を経ているため、かなり傷んではいるが。

 瀧川の「刑法と社会」の中から、「虎に翼」(というか女子学生)にまつわる随想を一つ。
 戦前から女性に聴講の機会を与えていたどこかの大学に瀧川が講師として出講した際に、毎朝授業開始時間に遅れて、しかも袴に革靴姿で靴音を鳴らしながら教室に入ってくる女学生を叱ったところ、その学生は「私は女ですもの」と口答えしたという。
 瀧川は、この大学が婦人に門戸を開いたのは婦人が優秀だからではなく、お慈悲からである、そこを勘違いしてはいけない、君たちの一挙手一投足は後から来る者たちに影響する、自省しなさいといった趣旨の小言を言った。そうしたところ、その聴講生はぷいと教室を出て行ったきり、それ以後は授業に出て来なくなったという(「婦人と希少性価値」237頁)。
 実は授業開始時間は午前8時からだったのだが、第1回目も2回目も瀧川が定時に教室に行っても学生は誰も来ていない、8時15分から開始することにしても出てこない、仕方なく最後には8時30分開始とするが、この時間には決して遅れないで出席するように指示したにもかかわらず、その次の回の授業開始時に起きた事件だった。
 瀧川は、婦人は教養を積まなければいけない、世間並みの読み物よりも低級な婦人雑誌しか理解できないようでは困るなど、けっこう当時の女性に対して辛辣な、今日では反感を買いそうな言葉も投げかけている。毒饅頭事件の被告人女医の弁護人を引き受けるほどには理解のある人物だったようだが、遅刻してきたこの女子学生の態度はよほど腹に据えかねたのだろう。
 1937年(昭和12年)に発表された随筆だが、その当時女性の聴講を認めていた関西の大学とは、いったいどこの大学だろう。

 ぼくも教師時代に、遅刻して教室に入ってくる学生には腹が立った。しかし教師だった父親から、「学生のやることにいちいち腹を立てていたら教師は務まらない」と言われていたので、心の平穏のために無視するように努めた。
 ただし、初回の授業の際のガイダンスで、「通学電車の中でおなかが痛くなって途中下車しなければならないこともあるだろう、絶対に遅刻するなとは言わないが、遅れて教室に入ってくるときは、ほかの受講生の迷惑にならないように静かに遠慮がちに入ってこい」と申し渡しておいた。
 どうせ遅刻する者の大部分は寝坊が原因だろうが、中にはやむを得ない遅刻もあるだろう。せっかく大学まで来ていながら遅刻したからといって教室に入れないのも気の毒だし、もったいない。一人でも多くの学生にぼくの話を聞いてもらいたいという気持ちもあった。
 今どきの学生はほぼ全員がスニーカーなので、瀧川さんのように遅刻学生の靴音が気になることはなかった。
 ある時、授業中に10人以上の学生が遅れてぞろぞろと入ってきたことがあった。これは電車の遅延でもあったのだろうと思い、遅れてきた学生の中にゼミ生がいたので、「電車が遅れたのか?」と聞くと、「デート!」と答えるではないか。唖然として、「デート?」と聞き返すと、「デ・ン・ト!」との返事。「デントってなんだ?」ともう一度聞き返すと、「田園都市線」のことだと言う。学生たちの間では田園都市線を「デント」と呼んでいることをこの時初めて知った。 

 2024年4月17日 記

 ※なお、「刑法と社会」には「人権擁護と予審制度」という随想があった(33頁)。
 予審制度というのは、本来は糺問的な刑事裁判を改めて、予審判事の関与によって被告人の人権を保障するために設けられた制度であり、公訴提起の可否を判断することを目的とする手続きだったのだが、戦前日本の予審手続は、捜査を行なう検察官が主導権を握って、予審判事は検察官の行為にお墨付きを与え、公判の準備をするだけの手続きに堕してしまった。証拠閲覧など被告人に認められた人権保障も実際にはまったく機能していなかったので、廃止すべきか改善して存続すべきかが議論されていたという。瀧川は予審制度廃止論をとり、検察官に捜査の全責任を負わす方が望ましいと書いている。

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NHKスペシャル「下山事件」(2024年4月某日)

2024年04月15日 | テレビ&ポップス
 
 数週間前に、NHKスペシャル「未解決事件File.10 下山事件」を見た(下の写真)。
 下山事件とは、昭和24年(1949年)に起きた、下山定則国鉄初代総裁の不審な鉄道死亡事件のことである。7月のある雨の夜中、常磐線北千住・綾瀬駅間の五反野ガード付近で、下山総裁の轢断死体が発見された。
 当時の国鉄は、復員兵を大量に雇用するなどしたために人員過剰状態にあり、占領軍の指示によって10万人規模の馘首(解雇)をめぐって会社側と労働組合との間で熾烈な闘争が繰り広げられていた。当日朝、車で出勤の際に下山は銀座三越前で止めるように運転手に指示し、下車してデパート内へと消えた。しかしそのまま会議の時間を過ぎても下山は出勤せず失踪し、その夜半になって轢死体となって発見された。
 渦中にあった下山総裁の死をめぐっては、警視庁捜査一課と慶応大学法医学教室は自殺説をとり、捜査二課と東京地検(布施健)および東大法医学教室(古畑種基)は他殺説をとって対立した。
 他殺の線が濃厚になって来たところで占領軍が介入しきて、結局捜査は強制的に終了となる。

   

 番組では、敗戦後に日本に進駐したアメリカ占領軍の諜報機関の一員だったキャノン大佐に生前に行なったインタビューや、制作当時は生存していたアメリカ軍の諜報機関員へのインタビューなどもあって、興味深かった。
 とくに布施健検事が他殺説の立場から捜査を指揮していたことは知らなかった。布施は後に検事総長となり、ロッキード事件の際に田中角栄首相を逮捕した人物である。ロッキード事件もアメリカの絡んだ謀略説が唱えられているが、戦後間もない時期の下山事件に布施が関わっていたのは奇妙な符合である。
 ドキュメント番組としては面白かった。ただし、事件から70年以上経過したとはいえ、轢断死体の一部が写っている現場写真が登場したのにはギョッとした。その夜、わが家の近くの駅で人身事故が起きた現場を目撃した夢を見てしまった。

 その後、下山事件が気になって、松本清張「日本の黒い霧(上)」(文春文庫)の「下山国鉄総裁謀殺論」を改めて読み直した。
 まだ大野達三のドキュメントくらいしか出ていない時期の執筆のようだが、ほぼNHKドキュメントに近い推理になっている。さすが松本清張である。NHKでは触れなかった(と思う)吉田茂(当時の首相)、加賀山之雄(当時国鉄副総裁)らの言動も興味深い。
 面白かったので、眼科の定期検診の待ち時間に持参して読んでいたのだが、検査結果は眼圧が前回より1上がってしまっていた。目と脳に負担がかかってしまったのだろうか。

 たまたま昨日の東京新聞に宮田毬栄さん(中公の編集者)のことが載っていた。彼女の姉の藤井康栄さん(文春の編集者)とは、40年以上昔に(知り合いの文春の編集者の紹介で)お会いしたことがあったような気がしたので、googleを眺めいて、藤井忠俊「黒い霧は晴れたかーー松本清張の歴史眼」という本があることを知った。
 渡米した岸田首相のアメリカに迎合する情けない姿をニュースで見るにつけ、黒い霧はいまだに晴れることなくわが国を覆っていると思わざるを得ない。

 2024年4月15日 記

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虎に翼(その3)--妻の無能力と穂積重遠

2024年04月11日 | テレビ&ポップス
 
 NHK朝の連ドラ「虎に翼」の、昨日から今朝にかけて(4月10日~11日)のテーマは、明治民法の下での「妻の無能力」の問題だった。

 民法では、民法上の権利(私権)をもつことができる法律上の地位のことを「権利能力」といい、すべての人(自然人)は出生の時から権利能力を有すると定めている(民法3条1項。明治民法1条も同じ)。
 権利能力を有する人が契約を結ぼうとする場合などには、その契約の法的意味を理解する能力が必要とされる。この能力を「意思能力」という。例えば酩酊状態で呑み代30万円の支払い契約を結んでしまったような場合には、あとから「あの時は意思能力がなかった」ということを証明して契約の無効を主張することができる(民法3条の2)。 
 ただし、個別の事案ごとに、契約当時その当事者に意思能力があったかなかったかをいちいち判断するのでは、契約当事者双方に不便である。そこで民法は、未成年者や成年被後見人(かつての禁治産者)などについては、類型的に「行為能力」を制限された者と定めて、未成年者が親権者や後見人の同意なしに行った行為や、成年被後見人が単独で行なった行為は、後から取り消すことができるとした(民法5条、9条)。

 昭和22年に現在の民法に改正されるまで効力をもっていた明治民法のもとでは、この未成年者や禁治産者のことを「無能力者」(行為能力が無い者の意味)と呼んでおり、未成年者や禁治産者だけでなく、妻(法律上の婚姻をした女性)も「無能力者」とされ、妻の財産については夫が管理すると規定されていた(明治民法14条~)。
 実は、明治民法にも「無能力」という言葉が書いてあったわけではない。民法には「能力」という見出しがあるだけで、「無能力者」という言葉は出てこない。民法は、未成年者や妻などが、保護機関(親権者、夫など)の同意を得ないで行なった契約等は取り消すことができると規定しただけなのだが、民法によって「行為能力」を制限された妻や未成年者のことを、明治民法のもとで(戦後もしばらくの間は)学者たちが「無能力者」と呼びならわしたのであった(穂積・読本52頁。下の写真はその該当ページ)。
 昭和22年の民法改正で、妻の無能力規定(明治民法14条~)は廃止され、妻は夫の同意なしに単独で契約等を結ぶことができるようになった。未成年者は現在でも単独で契約等を結ぶ権利を制限されているが、今日では「無能力者」ではなく、「制限行為能力者」と呼ぶのが一般的である。

 この「妻は無能力者」という教科書の記述に、主人公(寅子?)は猛反発したのである。劇中で主人公たちが見ていた教科書は穂積重遠(しげとお)の「民法読本」だった。
 劇中の「穂高教授」は、妻を無能力者とすることは、妻にとって必ずしも不利益なことではないと説明していたが、穂積「民法読本」にも、まさにそうような記述がある。ただし、結論的に穂積は、妻を無能力者としたことは不当かつ不要なことであった、夫婦とも自己の財産については各自に責任を負わせ、夫婦間の相談と協力は義理人情の問題にしておいたほうがかえって夫婦の円満に資するだろうと結んでいる(52~3頁)。
   

 なおこの日のテーマはもう1つあった。「妻の無能力」とも関連がある。
 不貞行為や暴力を繰り返す夫に対して、別居中の妻が離婚の訴えを起すとともに、夫に対して、(夫宅に残してきた)花嫁道具として持参した母の形見の着物の返還を求める訴えを起した。この訴えが認められるかどうか、という議論である。
 この裁判は1審、2審で妻が敗訴しており、大審院に上告中のようであった。主人公たちが穂高教授と一緒に裁判を傍聴に行く場面で今日は終わった。
 確か、こんな内容の実際の事件をどこかで読んだ記憶があった。そして妻が勝訴したように覚えていた。
 ぼくの考えでは、妻が持参した花嫁道具に含まれる着物は「妻が婚姻前から有する財産」だから、妻の「特有財産」であり、妻は所有権に基づいて返還を請求できると思ったのだが(明治民法807条1項、現行民法762条1項)、ドラマの中の第1、2審の裁判所の判決は、夫は「管理権」に基づいて返還を拒否できるとしたようだった。夫に「所有権がある」という台詞もあったような気がしたが、それは誤りだろう。
 このような夫の管理権行使を権利濫用ないし信義誠実の原則に反する権利行使として退けることも考えられるが(現在の民法1条2、3項)、当時としてはどうだったか。

 記憶をたどって、我妻栄「新しい家の倫理--改正民法余話」(学風書院、昭和24年)の「妻の無能力」の項目を見たが、この事案のことは出ていなかった。そこで、穂積重遠「判例百話--法学入門」(日本評論社、昭和7年。冒頭の写真)を探して見たら、ちゃんと載っていた。
 「第88話 妻の衣類調度と夫の権利」という表題で、大審院昭和6年7月24日判決を取り上げている。離婚成立までは夫に管理権があるとして返還を認めなかった原審(第2審)判決を破棄して、大審院は、原告(妻)の返還請求を認めた。穂積は「実に近来の名判決である」と評価している(343頁)。
 大審院判決は、民法が夫に妻の財産の管理権を認めたのは夫婦共同生活の平和を維持し、妻の財産を保護するためであり、本件夫婦のように婚姻生活が破綻した場合に、妻を苦しめるだけの目的で夫が管理権を主張することは権利の濫用であるとして、着物を妻に返還するよう夫に命じたのであった。
 現在の判例では、婚姻関係が破綻した以降は、民法が定める婚姻の効力の規定(夫婦間の契約取消権、夫婦間の貞操義務など)は破綻した夫婦には適用されないという判例理論が確立している。
 昭和6年にそのような判例ルールの先駆けが既に出ていたことに驚いた。 

 明日の朝、ドラマはどのような展開となるのかわからないが、こんな明治民法らしからぬ論法の判決を聞いた主人公は、いよいよ法律を勉強しようという向学心に燃えることだろう。
 
 2024年4月11日 記

 ※今朝(4月12日)の放送では、予想通り、ドラマの中でも大審院昭和6年7月24日判決とほぼ同趣旨の判決だった。「穂高教授」の評価まで「判例百話」の中の穂積の評価と同じだった。
 それはそれとして、ぼくはNHKの朝の連ドラの見方が分からない。出演者たちがドタバタを演じるシーンをどう見ればよいのか。法律の話ばかりでは一般の視聴者は飽きるだろうから、喜劇風のコントも入れておきましたということなのか。
 さらに、山田某という人物の役回りも分からない。外見は男装のモガだが、そうでもないらしい。穂積のような微温的な「フェミニズム」に敵意を持っているらしいことはわかるが、そうかといって無産者階級の人間が明治の女子部に入れる時代でもなかっただろう。「東京の宿」「東京の女」の岡田嘉子の時代である。しばしば大きな声で同級生を恫喝するシーンが出てくるが、宝塚宙組のパワハラ上級生を思い出させて朝から嫌な気分になる。どういう演出意図なのか。
 「判例百話」にはほかにも面白い判例がいくつもあるから、またエピソード的に出てくるのではないだろうか。今は穂積重遠と思しき人物が出てくるので見ているが、三淵判事が司法官僚として出世する時代の話になったらおそらく見なくなりそうな気がする。(2024年4月12日 追記)
 

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虎に翼(その2)--明治法律学校の教材

2024年04月09日 | テレビ&ポップス
 
 「虎に翼」(NHK朝の連ドラ)の補遺を。

 ドラマの中の法律書専門書店の書棚に貼られた宣伝ビラの中に、末弘厳太郎「民法講話」を見つけた。残念ながらぼくはこの本は持っていないが、戦後になって高弟の戒能通孝さんが改訂した3巻本(岩波書店、昭和29年)を持っている。
 同じく劇中で、法学生(三淵家の書生?)の本箱か机の上に、穂積重遠「民法読本」らしき本が置いてあるのを見た(ような気がした)。この本はぼくも持っている(日本評論社刊)。手元のあるのは昭和19年版だが、時代を反映してか、表紙も本文も粗末な紙質である。
 なお、書店の店内では、牧野菊之助「日本親族法論」を宣伝していたが、女性法律家の卵が学ぶ親族法の教科書といえば、当時なら穂積重遠「親族法」(岩波書店、1933年)だろう。あるいは、あの頃牧野は明治大学で教鞭をとっていて、彼の本が教科書に指定されていたのだろうか。 
  
       
       

 明治大学関係の家族法の出版物では、「司法省指定私立明治法律学校出版部講法会出版」刊の柿原武熊「民法親族編講義(完)」という本を持っている。本自体には出版年度の記載はないが、Google で調べると、明治民法が制定された明治31年の翌年に出版された講義録のようである。表紙扉の著者肩書きによると、柿原は「控訴院判事」だったようだ。
 「司法省指定」というのは仰々しいが、「私立」というところには自負が感じられる。日本の近代家族法学は私立法律学校の教師たちによって出発したという評価もあるくらいである(山畠正男・判例評論195号以下、1975年)。
 もう1冊、島田鉄吉著「親族法(完)」(明治大学出版部発行)というのも持っている。表紙の扉には「島田鉄吉君講述」とあり、島田の肩書は「行政裁判所評定官」となっている。これも明大での講義録だろう。この本も発行年度の記載はないが、大正4年に出た大審院「婚姻予約有効判決」への言及があるから、大正4年以降の刊行だろう。ネット上の古書店目録では、大正8年刊の同書が売りに出ている。

 柿原の本では、近親婚禁止規定について、近親婚禁止を正当化する事由をあれこれ述べていて印象的である。最近の家族法教科書では、理由ともいえないような簡単な理由しか述べられないことに比べて印象的である。おそらく本書が授業の口述を筆記したものだからだろう。戦後の本でも、中川善之助の「民法講話 夫婦・親子」(日本評論社)や、「家族法読本」(有信堂)など、講演で語ったものを書籍化した本では、近親婚禁止の理由についても饒舌に記されている。内容の当否はともかくとして。
 島田の本は、日本の妾制度を批判し、一夫一婦制を明治民法の基本原理の一つとして強調していて、印象的である。明治民法になってからも日本の現実社会では妾を囲うことが普通に行なわれていたことを考えると(黒岩涙香「畜妾の実例」萬朝報、後に社会思想社)、印象的である。島田の近辺にもそのような男がいたのかもしれない。
 それと、上記の婚姻予約有効判決のように大審院の判例が紹介されていることも印象的である。教科書の中に判例が登場するのは、大正末期の末弘厳太郎以降のことかと思っていたが、大正4年の判決が教科書に出てくるとは意外だった。著者が現場の裁判官だったことの影響もあるだろう。柿原や島田といった実務家が私立法律学校で講じていた授業では、たんなる理論だけでなく判例についても教えられていたのだろう。

 「虎に翼」では、入学早々に模擬裁判が行われ、主人公が実際の裁判を傍聴に行ったりしているところを見ると、戦前の法学教育のほうが、(法科大学院以前の)戦後の法学部教育よりも実務的な色彩が強かったのかもしれない。今後の番組で授業風景も紹介されるだろうから、しっかり見てみよう。

 2024年4月9日 記
 

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虎に翼(NHKテレビ朝の連ドラ)

2024年04月06日 | テレビ&ポップス
 
 NHKの朝の連続ドラマは、ぼくの大学時代の先生のお気に入りの番組だった。
 先生の先生である我妻栄さんは、毎朝5時に起きて勉強をはじめ、午前8時15分(確か当時は8時15分始まりだったと思う)に朝の勉強を中断してこの番組を見るのが習慣だったそうで、ぼくの先生も、我妻先生も今ごろ勉強しておられるかなと思いつつ早朝に勉強し、そしてこの番組を見るのを楽しみにしておられた。
 ぼくは、NHKの朝の連ドラをほとんど見たことがない。わずかに「おしん」を祖父母が見ていた頃に、傍から見るともなしに眺めていたくらいである。NHKのテレビ・ドラマでも、中井貴一主演の「歳月」や、岡崎由紀の「姉妹(あねいもうと)」、ジュディ・オングが出ていた正月の単発ドラマなどはかなりはっきりと記憶にあるのだが。

 現在やっている朝の連ドラ「虎に翼」は、法律を勉強するものには名を知られた三淵嘉子判事をモデルにした昭和の女性法律家の物語である。
 彼女は、穂積重遠のすすめで(実話だろうか)、女性を対象に法律学を講じていた当時としては唯一の学校である明治女子短期大学(明短と呼ばれていた)の前身に入学した。
 ドラマでは「明律大学」となっているが、黄緑色のドームが屋上にある駿河台の大学である。ぼくが勤務していた大学にも、毎年のように明短卒の女子学生が3年生に編入してきた。
 この学校(明短)は、明治大学を右折して山の上ホテルに向かう路地の奥にあった。編集者時代に山の上ホテルに泊まった際に、朝食をとっていると窓の外に明短の女子学生たちが坂道を登って登校する姿が見られた。

   

 昨日、この番組を見ていたら、法律を学ぶ決心をした三淵さんを母親が法律書専門店に連れて行って「六法全書」を買うシーンがあった。
 店は神保町の古本屋のような雰囲気で、書籍の宣伝の貼り紙が並んでいたが、その中に「日本親族法論 牧野菊之助」という文字と、「憲法提要」という書名が見てとれた(冒頭の写真)。
 牧野菊之助の同書は、大正から昭和戦前期の定番の家族法教科書だったようだ。ぼくも古本屋で購入して、今でも持っている。初版は明治41年で、手元にあるのは大正12年刊の17版である(上の写真)。牧野は裁判官で、大審院長も務めた人だったらしい。

 「憲法提要」は誰の著書かわからないが、ネットで調べると穂積八束と野村淳治に「憲法提要」という書名の著書があった。いくらなんでも女性法律家の卵が穂積八束はないだろうから、野村淳治の「憲法提要」だろう。
 「憲法提要」によく似た書名で、美濃部達吉「憲法撮要」という本があった。戦前の高文試験受験生に必携の憲法教科書として定評があったという。「撮要」(さつよう)というのは妙な書名だと思ったが、写真に撮るように憲法の要点を表現しているといった意味だろうか。
 番組の中の書店には、他にも、末弘厳太郎や穂積重遠の名前も並んでいたような気がした。ドラマの中では穂積は「穂高」教授となっているが。

 朝ドラにはあまり興味がなかったのだが、穂積重遠らしき人物が出てくるとあっては見ないわけにはいかない。すでに亡くなられたぼくの先生、我妻先生もご覧になったらなんと仰るだろう。

 2024年4月6日 記 

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古今亭志ん朝の「サンデー志ん朝」

2024年03月08日 | テレビ&ポップス
 
 「昭和落語名演CDコレクション vol.1 古今亭志ん朝」(アシェット、2024年)を買った。

 古今亭志ん朝は一時期ぼくの憧れだった。
 中学生の頃だろうか、日曜日の昼下がりのテレビ番組に「サンデー志ん朝」というのがあった。「サンデー毎日」と「週刊新潮」をもじったタイトル名だったのだろう。
 15分くらいの短い番組だったが、当時若手落語家だった志ん朝のトーク番組だった。具体的な話の内容はまったく覚えていないのだが、話題がお洒落でユーモアがあって、話し方のリズムもよいので、毎週欠かさず聞いていた。志ん朝には「落語家」につきまとう古くささがなく、現代的な印象だった。
 
 中学生の頃から聞きはじめたラジオのリクエスト番組の土井まさる、野沢那智、今仁哲夫その他のDJからも知らずに学んでいたのだとは思うが、ぼくの認識では、出発点はやはり「サンデー志ん朝」なのである。その古今亭志ん朝の音源を集めたシリーズが発売されたという広告を目にしたので、さっそく買ってきた。
 画像もついたDVDだと思っていたのだが、残念ながら収録されているのはすべて彼の落語の、しかも音声だけのCDだった。がっかりした。ぼくが聞いていた「サンデー志ん朝」の音声も、もちろん入っていない。
 彼の落語はまったく聞いたことがないので、ずっと抱き続けてきた志ん朝のイメージが崩れはしないかと心配で、実は買って来たまま未だに聞いていない。

 何度か書いたことだが、ぼくは「研究者は物書き、教師は咄し家」という信念(?)をもっている。研究者としては一流らしく立派なものを書いているらしいけれど、講義はまったく面白くないと学生たちの悪評紛々の教師というのは少なからず存在する。ぼくは研究者としては二流三流だったけれど、教師としては及第点だったと自負している。授業評価で学部教員70数人(非常勤講師も含めれば200人以上)の中で最高評価だった年度もあった。 
 ぼくは、意図して「話し方」を学んだ経験はないのだが、後に教師になって1回90分の授業を週に5~7コマ担当するようになってから、自分はどこで「話し方」を学んだのだろうとふり返ったとき、最初に思い当たったのが、この「サンデー志ん朝」である。

 実は初めて教師に採用してくれた大学の新任研修で、元NHKアナウンス室長だった大沢さんという講師から「話し言葉のコミュニケーション」という講義を聞いた。
 この講義も大にい役に立った。口語によるコミュニケーションは基本的に困難なものだと心得よ、そして学生の答案の出来が悪かったときには、学生がばかだと思う前にあなたの話し方、伝え方に問題がなかったかを反省しなさいと言われた。
 細かい点で一番役に立ったのは、話の合い間に「あー」とか「うー」とか「あの~」とか「この~」とか「やっぱり」とか言ってはいけない、言いそうになったらむしろ沈黙しなさいということだった。この手の口癖は聞いている者にとってきわめて耳障りなのだ。だから授業中、話に詰まった時にぼくは沈黙した。話の間合いとしても沈黙は有用だった。授業中90分間話し続けるぼくが沈黙すると、受講生たちは何があったのかと顔をあげた。

 受講生全員に向かって話しかけるのではなく、特定の受講生を想定して話しなさいというアドバイスもよかった。いつもぼくは、教壇の前から3、4列目で、正面からやや右か左寄りの席に必ず座るような程よく奥ゆかしい学生で、話の途中でうなずいてくれたり、納得できない様子でしかめ面をするような反応の良い学生を見定めて、彼(多くの場合は彼女)に語りかけるつもりで話をした。
 授業では、「話をする」というよりは、「語りかける」ように心がけた。ぼく自身が学生だったときに、語りかけるように話をする先生の話し方が心地よかったからである。先生の主張に共感して黙ってうなずくと、関西出身のその先生は「そやろ!」といって嬉しそうな顔をされた。

 ただし、教員生活の終わりころにはハラスメント関係の注意事項がやたらに増えて、その中に「授業中に特定の学生に一定時間以上視線をとどめることは視線によるハラスメントです」というのがあった。「一定時間」とは何秒くらいですかと質問したかったが、やめておいた。
 授業評価で「目を見て話せ!」と書かれたことがあったので、「視線によるセクハラ」といわれる恐れがあるので、君たちの目を見つめて話すわけにはいかないんだ、と答えておいた。そんなわけで、晩年の授業では、ぼくの視線はいつも宙を泳いでいたと思う。

 2024年3月8日 記

 でも「話し方」よりも大事なことは、学生に対する愛である。
 ぼくの大学では、毎年夏休みに教員が手分けして全国47都道府県を回って保護者会を開催してきた。地方から子どもを本学に通わせる親御さんと面談をして、相談やご意見を伺う機会をもつのである。穏やかで純朴なご父兄が多かった。彼らのお子さんをお預かりしているのだ、という気持ちをいつも思い起こさせてくれる行事だった。
 現役時代のぼくの生活は、彼らが支払う学納金によって成り立っていた。彼らの期待に応える授業をすることは、ぼくの法的というより道義的な義務である。ぼくは脱サラして無収入の期間も長かったから、有難みは骨身に沁みる。本心から彼らに対する感謝の念を抱くことができた。(2024年3月11日 追記)

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