大石慎三郎『天明3年浅間山大噴火』(角川選書、1986年)を読んだ。
浅間山は天明3年(1783年)に大噴火して、広範囲に大きな被害を及ぼし、噴煙の滞留を原因とする気候不順がもたらした凶作から田沼意次が失脚しただけでなく、世界的にも気候不順をもたらし、農作物の不作からフランス革命の一因にもなったとされる(78~9頁)。
この大噴火で、浅間山北麓の上州(群馬県)鎌原村は火砕流に村ごと埋もれたが、著者は昭和50年代に鎌原村の発掘作業を指揮した中心人物である。本来は近世経済史の専門家だが、この発掘作業は近世(江戸)考古学の先駆けとなったという。
鎌原村の発掘では、火砕流から逃れるために、老女を背負って鎌原観音堂の石段を登る途中で火砕流に飲み込まれた女性の遺骨が見つかり、当時の新聞でも報道されて話題になった。ぼくは、岩波書店のPR誌「波」か何かに大石氏が書いた鎌原村発掘の記事を読んだ記憶があるが、先日、江戸時代の不義密通の本を図書館で借りる際に、ふと本書が目にとまり借りてきた。
ところがこの本を借りてきた直後の23日に、NHKのニュースで浅間山の噴火警戒警報がレベル2に引き上げられたことが報じられた。すぐに噴火するわけではなさそうだが、妙な暗合を感じた。冒頭の写真は、気象庁監視カメラ(浅間・鬼押)から、噴煙(?)をあげる浅間山(2023年3月27日12時25分)。
さて本書は、天明3年の浅間山大噴火の発生から、噴火による被害、その後に近隣で発生した大暴動(一揆)、そして鎌原村の被害と発掘作業が描かれる。
浅間山の噴火は「日本書紀」685年の記載が最初とされるが、近世に入っても慶長元年(1596年)以降数十回の噴火が記録に残っている。その中でも天明3年(1783年)の噴火は「浅間山三大噴火」の一つとされている(39~41頁)。
この年の4月8日(旧暦)に最初の噴火があり、その後も小噴火を繰り返し噴煙がたなびき鳴動がつづいたというが、最終的には7月6、7、8日の3日間にわたって大噴火が発生した。火砕流は1つは浅間山の東北、小浅間山裏手の吾妻方面(現在の北軽井沢別荘地付近)に流れ、1つは真北の鎌原方面に流れ出し、溶岩流は鬼押出し方面(現在の鬼押出し園だろう)を埋め尽くした(48~9頁)。
軽井沢だけでも焼失家屋52軒、潰家82軒、破損家48軒、本陣大破3軒という被害が出ており、「群馬県史」では死者1624人、流失家屋約1151戸、田畑泥入被害5055石と記されている(56~66頁)。
生き延びた人たちも飢えに苦しみ、餓死したり、餓死した人馬の肉を食して飢えを凌いだ。一部の被災者は、徒党を組んで東は安中、倉賀野、高崎あたりまで押し寄せて食糧や衣料を奪うなどの挙に出た。西は岩村田、塩名田、小諸から上田にまで向かったが、上田藩および幕府によって阻止され、「天明騒動」といわれた一揆はようやく収まったという(93~105頁)。
天明の飢饉の惨状は凄まじく、菅江真澄の日記にもまさに屍累々の街道筋の状態や、その死肉を食する人たちのことが記録されている(107頁~)。その一方で草津温泉には、夜空を染める噴煙が売り物になって客数も多かったとされる(114頁)。
幕府は浅間大噴火の復旧を熊本藩に命じた。熊本藩は最終的に15万両以上の資金を拠出させられ、経済的に窮することになった(122頁~)。なぜ熊本藩かというと、熊本には同じ火山である阿蘇山があることが口実にされたのではないかと著者は推測している。
鎌原村の発掘作業については省略するが、鎌原村は、現在の浅間白根火山ルートの東側に広がっていたらしい。この道は何度か通ったことがあるが、「鎌原」の地名は道路標識などでも目にした記憶がない。鬼押出しばかりが有名だが、あそこの溶岩流では被災者は出なかったのだろうか。
ぼくが実際に経験した浅間山の噴火で一番すごかったのは、昭和37年だったかの8月の昼下がりに発生した噴火である。最初に地鳴りがして、振動で窓ガラスが割れ、晴れていた空に真っ黒の噴煙が入道雲のようにゆっくりと湧きあがって天まで上ると、やがて黒雲が空一面に広がって掻き曇り、あたりは夜のように真っ暗になり、雷鳴が鳴り響いてしばらくすると雨が降り始めまたたく間に豪雨となり、小粒の火山岩と一緒に真っ黒の雨が1時間以上降り続いた。
ぼくは、国道146号沿いの西武百貨店軽井沢店前のバス停で東京に帰る西武バスを待っていたのだが、爆発音の記憶はない。最初は何が起きたのかわからなかったが、近所の別荘の人が何人も出てきて、「家の窓ガラスが割れた」とか「浅間山が爆発したみたいだ」というので、浅間山を眺めると確かに山頂や山腹の噴火口から白い噴煙が湧いているのが見えて、浅間山が噴火したことに気づいたのだった。
軽井沢町の防災マップを見ると、浅間山の南麓側の千ヶ滝方面にも火砕流の危険個所が何か所も赤く塗ってある。できれば次の大噴火には会わずに済ませたいものである。
2023年3月27日 記