豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

大石慎三郎『天明3年浅間山大噴火』

2023年03月27日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 大石慎三郎『天明3年浅間山大噴火』(角川選書、1986年)を読んだ。

 浅間山は天明3年(1783年)に大噴火して、広範囲に大きな被害を及ぼし、噴煙の滞留を原因とする気候不順がもたらした凶作から田沼意次が失脚しただけでなく、世界的にも気候不順をもたらし、農作物の不作からフランス革命の一因にもなったとされる(78~9頁)。
 この大噴火で、浅間山北麓の上州(群馬県)鎌原村は火砕流に村ごと埋もれたが、著者は昭和50年代に鎌原村の発掘作業を指揮した中心人物である。本来は近世経済史の専門家だが、この発掘作業は近世(江戸)考古学の先駆けとなったという。
 鎌原村の発掘では、火砕流から逃れるために、老女を背負って鎌原観音堂の石段を登る途中で火砕流に飲み込まれた女性の遺骨が見つかり、当時の新聞でも報道されて話題になった。ぼくは、岩波書店のPR誌「波」か何かに大石氏が書いた鎌原村発掘の記事を読んだ記憶があるが、先日、江戸時代の不義密通の本を図書館で借りる際に、ふと本書が目にとまり借りてきた。
 ところがこの本を借りてきた直後の23日に、NHKのニュースで浅間山の噴火警戒警報がレベル2に引き上げられたことが報じられた。すぐに噴火するわけではなさそうだが、妙な暗合を感じた。冒頭の写真は、気象庁監視カメラ(浅間・鬼押)から、噴煙(?)をあげる浅間山(2023年3月27日12時25分)。

       

 さて本書は、天明3年の浅間山大噴火の発生から、噴火による被害、その後に近隣で発生した大暴動(一揆)、そして鎌原村の被害と発掘作業が描かれる。
 浅間山の噴火は「日本書紀」685年の記載が最初とされるが、近世に入っても慶長元年(1596年)以降数十回の噴火が記録に残っている。その中でも天明3年(1783年)の噴火は「浅間山三大噴火」の一つとされている(39~41頁)。
 この年の4月8日(旧暦)に最初の噴火があり、その後も小噴火を繰り返し噴煙がたなびき鳴動がつづいたというが、最終的には7月6、7、8日の3日間にわたって大噴火が発生した。火砕流は1つは浅間山の東北、小浅間山裏手の吾妻方面(現在の北軽井沢別荘地付近)に流れ、1つは真北の鎌原方面に流れ出し、溶岩流は鬼押出し方面(現在の鬼押出し園だろう)を埋め尽くした(48~9頁)。
 軽井沢だけでも焼失家屋52軒、潰家82軒、破損家48軒、本陣大破3軒という被害が出ており、「群馬県史」では死者1624人、流失家屋約1151戸、田畑泥入被害5055石と記されている(56~66頁)。

 生き延びた人たちも飢えに苦しみ、餓死したり、餓死した人馬の肉を食して飢えを凌いだ。一部の被災者は、徒党を組んで東は安中、倉賀野、高崎あたりまで押し寄せて食糧や衣料を奪うなどの挙に出た。西は岩村田、塩名田、小諸から上田にまで向かったが、上田藩および幕府によって阻止され、「天明騒動」といわれた一揆はようやく収まったという(93~105頁)。
 天明の飢饉の惨状は凄まじく、菅江真澄の日記にもまさに屍累々の街道筋の状態や、その死肉を食する人たちのことが記録されている(107頁~)。その一方で草津温泉には、夜空を染める噴煙が売り物になって客数も多かったとされる(114頁)。
 幕府は浅間大噴火の復旧を熊本藩に命じた。熊本藩は最終的に15万両以上の資金を拠出させられ、経済的に窮することになった(122頁~)。なぜ熊本藩かというと、熊本には同じ火山である阿蘇山があることが口実にされたのではないかと著者は推測している。

 鎌原村の発掘作業については省略するが、鎌原村は、現在の浅間白根火山ルートの東側に広がっていたらしい。この道は何度か通ったことがあるが、「鎌原」の地名は道路標識などでも目にした記憶がない。鬼押出しばかりが有名だが、あそこの溶岩流では被災者は出なかったのだろうか。

 ぼくが実際に経験した浅間山の噴火で一番すごかったのは、昭和37年だったかの8月の昼下がりに発生した噴火である。最初に地鳴りがして、振動で窓ガラスが割れ、晴れていた空に真っ黒の噴煙が入道雲のようにゆっくりと湧きあがって天まで上ると、やがて黒雲が空一面に広がって掻き曇り、あたりは夜のように真っ暗になり、雷鳴が鳴り響いてしばらくすると雨が降り始めまたたく間に豪雨となり、小粒の火山岩と一緒に真っ黒の雨が1時間以上降り続いた。
 ぼくは、国道146号沿いの西武百貨店軽井沢店前のバス停で東京に帰る西武バスを待っていたのだが、爆発音の記憶はない。最初は何が起きたのかわからなかったが、近所の別荘の人が何人も出てきて、「家の窓ガラスが割れた」とか「浅間山が爆発したみたいだ」というので、浅間山を眺めると確かに山頂や山腹の噴火口から白い噴煙が湧いているのが見えて、浅間山が噴火したことに気づいたのだった。

 軽井沢町の防災マップを見ると、浅間山の南麓側の千ヶ滝方面にも火砕流の危険個所が何か所も赤く塗ってある。できれば次の大噴火には会わずに済ませたいものである。 

 2023年3月27日 記

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森山豊明『不義密通と近世の性民俗』

2023年03月25日 | 本と雑誌
 
 森山豊明『不義密通と近世の性民俗』(同成社、2012年)を読んだ。
 著者は元青森の高校の先生だったという。日本史の世界ではこういう経歴の研究者が多い。

 江戸期の不義密通に関しては、概要は氏家幹人の『不義密通』(講談社選書メチエ)でほぼ了解していたが、本書でも頻繁に氏家が引用されている。
 氏家と同じエピソードも含めて多くの事例が紹介される。法律畑の人間としては、まず「公事方御定書」や諸藩の「藩法」や「家法」には「不義密通」に関してどのような規定があり、その規定が具体的にどのような事例に適用されたのか、という順番で知りたいところである。
 近世においては、そもそも成文法があって、それを具体的な事件に適用するという運用では必ずしもなかったようである。不義の申立てに対して町奉行が内済で済ますように指示した例なども紹介されている。「裁判上の和解」のようなものか。

 著者によれば、不義密通が発覚した場合の夫が取りうる方法は3つあったという(48頁)。
 1つは「妻敵討」(めがたきうち)で、密夫・密妻を殺害するという「私刑」である。「公事方御定書」や「藩法」でも認められていた。密通現場でなくても、事後的でも許されたが、密通の証拠が要求された(殺人の口実とされる危険があった)。 
 妻敵討は明治になってからも「新律綱領」(明治3年)、「改定律例」(〃6年)、「旧刑法」(〃13年)において認められたが、旧刑法では姦通の現場に限定された(94~5頁)。その裁判例が「司法省日誌」に掲載されているという(95~6頁)。
 2つは、幕府や藩に訴え出て公刑によって処罰してもらう方法である。「公事方御定書」では密通は死罪が原則とされたが、相手が人妻でない場合には所払いで済まされることもあったという(17~8頁)。なお密通の当事者によって刑罰(死罪)の内容が異なるようだが、たんなる「死罪」と「引廻の上、磔」、「獄門」の違いは、私にはわからない(11頁)。
 不義密通のうち近親者間の密通である近親相姦に関しては、養母養娘娵との相姦は男女とも獄門、姉妹伯母姪との相姦は男女とも「遠国非人手下」とされている(11頁)。本書では「司法省日誌」に載った明治初期の処罰事例も紹介されている(151~2頁)。
 この第2の道が私の想像していた基本手続だったのだが、密通を申し出ることは恥であり、かえって本夫側も家内不行き届きとして処分される危険があったという。
 3つは、公的な内済(「うちすまし」と読むのだろうか)である。密通罪は親告罪であり提訴するかどうかは夫の意志にかかっており、圧倒的多数は第3の「内済」で処理されたという。私的な内済(「扱」というらしい)は禁止されていたが、庶民の間では慰謝料支払いや離縁によって私的に解決されることもあった(48頁)。
 最終的に妻敵討は、明治40年(1907年)の「新刑法」によって廃止されたが、江戸時代にあっても余り奨励はされず、内済で解決されることが多かったという(97頁)。

 著者が作成した統計によると、18世紀においては、武士の場合は公刑22件、内済2件、妻敵討35件、出奔14件、相対死(心中)5件、近親相姦2件などとなっている。庶民の場合は公刑29件、内済3件、妻敵討15件、出奔11件、相対死39件、近親相姦1件(17世紀、19世紀は各々10件)などとなっている。ただし史料に記録が残っているものだけの数字であり、実際には元禄頃の3年間だけで心中死は約900人あったという(6、7頁)。
 「内済」による解決が一番多かったというのだから、「内済」の実数はもっと多かったが公的な記録、史料には残らなかったのだろう。
 相対死(幕府は「心中」の流行を恐れて「心中」という言葉の使用を禁止したという)の中の少なからぬ数が実は不義密通関係にある者たちだったようだ。近代の有島武郎に至るまで(290頁)心中は、密通関係にある者たちが採る最終手段の1つだった。「出奔」(=駈落ち)も少なくなかった。

 本書の後半は、「淫婦伝」「よばい」「初夜権」「若者宿」「私生児」などなど、不義密通に関係するテーマがやや脈絡を欠く形で綴られている。
 密通相手に対する「艶書」(=恋文)が処罰の対象だったことが紹介されてる。主人の妻に対して艶書を渡しただけでも死罪になっていたのは驚く(165頁~)。 
 近親相姦に関しては、本書でも兄妹婚を推奨する安藤昌益が紹介されていること(259頁)、「元禄御方式」では兄嫁、舅姑、姪(=てつ、甥姪だろう)、養子娘との密通は死罪とされたが、「公事方御定書」とともに、母子・父娘相姦については明文の規定が置かれなかったこと(141~2頁)が印象に残った。
 氏家らは、父母との相姦は人倫に反すること甚だしいからあえて規定しなかったと推測していたが、本書では、中世では母子相姦は国津罪とされ、世間からも軽蔑されたが、江戸以降になると母子相姦に対する性的悪口が急速に見られなくなったことが紹介されている(141頁)。母子相姦がなぜ武家法では明文の規定が置かれなかったのかは、私にはやはり謎である。
 非近親者間の密通でも死罪とされていたのだから、近親者間の場合でも一般の密通罪で処断すれば足りると考えられていたという可能性はないのだろうか。あるいは、妻敵討、自害の強制、家督相続の廃除などといった私的制裁に委ねる意図だったという可能性はないのか。
 人倫に反すること甚だしいというのだったら、一般の(=非近親者間の)密通の場合よりも重く処罰する、たんなる死罪ではなく、例えば引廻し、斬首のうえで晒し、領地召上げ、お家断絶などといった処罰を明文で規定する方が自然ではないか。反倫理性が甚だしいのであえて規定しなかったという推論には、どうしても説得性が感じられない。

 2023年3月24日 記

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今年の桜

2023年03月24日 | 東京を歩く
 
 今年も桜の季節になった。
 
   

 わが家の近くにも桜並木はあるのだが、ここ十数年は、寿命が近づいているのか花の色に精彩がない。
 60年前、ぼくが小学校に通っていた頃はもっと鮮やかなピンク(桜色)だったように記憶しているのだが、年々白ちゃけてきた印象である。
 ぼくが年をとるのと一緒に、わが町の桜も年をとってしまったのだろう。

   
   
 いずれも一昨日、3月22日に撮った桜だが、翌23日に満開を迎えたようだ。あいにく雨模様だったので写真を撮る余裕はなかった。

   

 最後の一枚は、欅の枯れ木を背景にした近所の公園の桜。
 欅の枯れ枝も、ぼくの好きな東京の風景である。新学期の中学校の校庭に咲いた桜、連休が近づくと葉桜から毛虫が落ちてきた。校舎裏手の神社や、道を挟んだ大地主の敷地に植わっていた欅とともにあの頃を思い出す。

 2023年3月24日 記

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氏家幹人『不義密通』

2023年03月18日 | 本と雑誌
 
 氏家幹人『不義密通--禁じられた江戸の恋』(洋泉社MC新書、2007年。旧版は講談社選書メチエ、1996年)を読んだ。
 大きな加筆でもあるかと思って、講談社メチエの旧版と、洋泉社新書の新版の両方を図書館で借りてきたが、新版には井上章一の解説が付いている以外、本文の内容はまったく同じだった。
 借りてきたメチエ版は水濡れの跡など汚れがひどかったので、洋泉社新書で読んだ。

 昨年秋から、近親婚禁止規定(民法734条1項)の合憲性というか、同条の立法目的および手段の合理性を検討する作業の準備として近親婚関係の本を読んでいたのだが、正月に入ってからはやや食傷気味になって放置していた。ところがこんなテーマで書いていると話したところ、憲法専攻の知人が手紙をくれて懇切な助言をしてくれたので、再び腰を上げたところである。

 氏家の本書は題名通り「不義」「密通」がテーマなのだが、その中には江戸時代の近親相姦の事例も何例か紹介されている。
 氏家によれば、正当とされない男女の性関係を江戸時代には「不埒」「不義」「密通」などと呼んでいた。「密通」は「姦通」「私通」と同義だという(91頁)。
 ちなみに「不倫」という言葉は、もともとは「同類ではない」という意味で(「不倫不同」は「似ても似つかぬ」という意味だったそうだ)、今日のように婚姻外の性関係(姦通)を「不倫」と呼ぶようになったのは戦後のことで、それ以前はむしろ「破倫」というほうが普通だったらしい。
 そして氏家によれば、非公許の売春婦(飯盛女)の売春行為や男の側の買春行為や、近親相姦も「密通」に含まれるのである(133頁)。
 なお、氏家が紹介する高柳真三によれば、婚姻外のすべての性関係を「密通」と呼び、密通は姦通よりも広い概念で、「私通」(既婚未婚を問わず秘かに通じ合うこと)と同義だという。高柳の定義でも近親相姦は密通、私通に含まれるだろう。

 不義密通に対しては、各藩の藩法によって死罪(斬首、絞首、磔など)から、鞭、杖などの身体刑、徒刑や流刑が科されたほか(146頁~)、妻(女)敵討ち(めがたきうち)として姦通の現場において姦夫姦婦を殺害することが「公事方御定書」でも認められていた(186頁~)。
 近親相姦も「密通」の一つとして各藩法や「公事方御定書」によって処断されたが、姉妹伯母姪と密通した者に対する罰は「遠国非人手下」(遠国に流して非人身分とする)という他の密通に比べて軽いものであったという(144頁)。なお、「公事方御定書」には父子相姦、母子相姦の規定はないが、甚だしい破倫行為として論ずるまでもないという趣旨だろうと著者は推測している(同頁)。はたしてそうだろうか。
 実際に近親相姦が発覚した場合には、武家法の手続きを経ることなく自害を命じたり、家督を相続させなかったりなどの私的解決が行われることもあったようだ。なお、明治最初期の判例集である「太政類典」では、父娘相姦の事案に対して終身刑が科されている。

 このように建前上は、近親相姦も含めた密通に対して武家法は厳しい態度で臨んだが、現実には密通事件は少なからぬ件数で発生しており、山間部で通婚範囲が狭かったことや(142頁)、一家に布団一枚といった貧困が原因となって(133頁)、近親相姦も行われていた。荻生徂徠は、一部地域では近親結婚が民俗となっていることを書き遺しており、安藤昌益「自然真営道」も兄妹が夫婦になることは恥ではなく人道であると書いている。
 後の柳田国男は、叔父・姪、兄妹間の婚姻慣習があったことを報告している。波平恵美子も、古代の日本においては兄妹婚はタブー視されておらず、同父異母の兄妹婚はむしろ推奨されていたと指摘する(143~4頁)。ディドロ、フーリエ、ゲランらの西洋人だけでなく、わが国にも近親婚に許容的な論者を見い出すことができる。

 頼山陽の唱えた自由で平等の男女関係が、明治維新以降は薩長の「田舎漢」たちの遅れた男女観によって大幅に後退させられたと指摘して、著者は本書を結んでいる(322頁)。
 江戸期において近親相姦が「不義密通」の一亜種として処断されていたことは、今日の近親相姦事案に対しても婚姻禁止や相姦罪処罰によってではなく、非血縁者間の一般の民事事件と同等に扱うこと、すなわち不貞慰謝料請求ないし不貞を理由とする離婚請求によって対処するという法的対処に示唆を与えてくれよう。

 2023年3月19日 記

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こぶし咲く、東京の

2023年03月18日 | 東京を歩く
 
 散歩の途中で通りかかった公園に枝ぶりのきれいなこぶし(?)が咲いていた。
 一昨日(17日)の夕方通りかかった時のほうが西陽を浴びて美しかったのだが、幼稚園帰りの母子連れがまわりで遊んでいて、写真を撮りにくい雰囲気だったので遠慮した。
 昨日改めて通ったのだが、あいにくの曇り空で花びらの色もいま一つ、しかもすでに散り始めていた。誰もいなかったので一応写真には撮ってきたが、残念ながら一昨日の美しさは感じられなかった。

 「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半にあらしの 吹かぬものかは」である。誰の和歌だったか。

 2023年3月18日 記

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安岡章太郎『アメリカ感情旅行』

2023年03月03日 | 本と雑誌
 
 安岡章太郎『アメリカ感情旅行』(岩波新書、1962年)を読んだ。
 ロックフェラー財団の奨学生(!)として、1960年11月から半年間、アメリカのテネシー州ナッシュヴィルに滞在した著者のアメリカ滞在記。
 ノンフィクションではあるのだろうが、安岡が日々の雑事、交渉の際に感じたアメリカないしアメリカ人にたいする感情が愉快で、凡百のアメリカ滞在者とはちがって当然文章も安岡流で、私小説のようにも読める(「海辺の光景」ならぬ「ナッシュヴィルの光景」のような)。滞在時の日記に基いているのだが、帰国から出版までの1年間に、さらに推敲を重ねたのだろう。
 
 ロックフェラー財団は、60年安保条約改定をめぐって巻き起こった反米運動、反米感情を懐柔する目的で、有望な作家に留学の機会を与えたのだろうが、それを割り引いても、そして2020年の現代において読んでも面白かった。
 敗戦国民のアメリカに対するコンプレックス(まさに「複雑な気持ち」)が、今日とは違ってまだ差別が公然と行われていたアメリカ黒人に対する差別との対比で描かれている。安岡はナッシュヴィルに滞在したのだが、南部人(白人)の屈折した感情もよく観察されていると思う。
 法律の世界では、“separate but equal” の時代である。バスやレストランなど公共の場で黒人と白人の座席は「分離はするけれど、 平等に」乗車や着席の機会は提供しているから憲法が禁止する差別には当たらないという論理が連邦最高裁でまかり通っていた時代である。
 南部ではまだ黒人に投票権(選挙権)を認めていない州もあった。字も読めない黒人に投票権など与えてもろくなことにはならないと安岡にいう者もいた。私財を投じて黒人のための学校を設立し、教え子の黒人を校長に据えるような人物であってもそう語るのである。

 一番印象的だったのは、南部の田舎町のミドルクラス下層に属するごく普通の白人中年男が、「なぜ日本人はハガチーを追い返したのだ?」と安岡に問いただした場面である。
 ハガチー(本書ではハガティー)というのは、1960年安保改定の地ならし協議のため改定前に日本を訪れたアイゼンハワーか誰かの特使である。その来日を阻止しようとした安保反対の学生たちのデモの隊列が、羽田周辺でハガチーの一行を乗せた車列が通る道路をふさいだため、ハガチーは都心にたどり着くことができずに帰国せざるを得なくなった(はずである)という事件である。
 そんな事件を、アメリカ南部の片田舎の一般人が知っていて、初めて会った日本人に質問したことに驚いた。しかもその男の息子が、「親父はアイク(アイゼンハワー)が大嫌いだから、悪口を言っても平気だよ」と取りなして安岡を安心させる。

 ぼくの手元にある本書は、1977年発行の第20刷だが、その頃に読んだ記憶はない。なんで買ったのかも覚えていない。反ベトナム戦争、反アメリカだったはずのぼくは、何でこの本を買ったのか不思議である。1976年のアメリカ建国200年にあやかって出版各社が自社のアメリカ本を宣伝したのかもしれない。
 ただし、思い返してみると、ぼくはいわゆる「第三の新人」の中では安岡章太郎は好きなほうだった。朝日新聞の日曜版に「サルが木から下りるとき」という随筆が連載されていたが、毎週面白く読んだ記憶がある。最近の卵の値上げを機に、素人でニワトリを飼う人が出てきたというニュースを見たが、この話を聞いてぼくは「海辺の光景」に出てきた安岡のお父さんを思い出した。 
 アメリカ滞在もので、ぼくが好きだったのは庄野潤三の「ガンビア滞在記」(中公文庫)に始まる「ガンビアの春」「シェリー酒と楓の葉」など一連のガンビアものだったが、あれはもう少し後の時代だろう。ただし、庄野のガンビアものも「早春」以降の4、5作目になると、さすがにもういいという気持ちになった。

 亀井俊介の本と違って、団捨離しにくい読後感である。もう一度読むことはないだろうが。

 2023年3月3日 記

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