豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

笠智衆 “小津安二郎先生の思い出”ほか

2010年08月30日 | 本と雑誌
 
 このところ、暇さえあれば小津安二郎の映画を観てきたので、小津という人のことをもっと知りたくなった。

 書店で探すと、笠智衆の『小津安二郎先生の思い出』と、貴田庄という人の『監督小津安二郎入門』(ともに朝日文庫)とがあったので買ってきた。
 どちらも簡単な本なので一気に読んだ。いろいろな知識というか情報を得ることができた。あらかじめ読んでいたらもっと深く観ることができたかもしれないが、かえって先入観に惑わされて素直に映画自体を観ることができなかったかもしれない。

 一番同感したのは、世の中では“東京物語”が小津安二郎の最高傑作とされているのだそうだが、笠智衆は“父ありき”を監督の代表作と考えていたらしいという件であった(笠・50頁~、同211頁)。ぼくは10本弱しか観ていないから偉そうなことは言えないが、“東京物語”と“父ありき”とどっちが良いかと言われれば、ぼくは迷うことなく“父ありき”を選ぶ。
 それは、ぼく自身が教師をしており息子も教師を目ざしていながら、ぼくと息子との関係は笠智衆と佐野周二のようではないからかもしれない。
 あの映画を観て、ぼくは子どもを寄宿舎のある地方の学校にでも入れておけばよかったかな、と思った。夏休みにだけ寮生活を送る息子に会いに行き、近所の料理屋に連れ出して自分は酒を飲みながら、息子に飯を食わせてやる(下の写真のシーン参照)。

               

 やがて就職した息子と温泉に浸かりに行って、酒を酌み交わし、川で釣りをし、帰りがけに息子から小遣いをもらう(下がそのシーン)。そういう父子も悪くないが、人生で数週間しか一緒に生活できないというのも辛いものではないか。

               

 読まなかったほうがよかったと思うのは、この2つのシーンが同時に撮影されたなどという舞台裏が書かれていること(笠52頁)。最初のシーンは少年時代で息子はまだ子役(津田時彦というらしい)、つぎの場面では息子はもう秋田の鉱山学校の先生になっており、役者も佐野周二に代わっている。この2つの場面が同時に撮影されたと知っていたら、とくに佐野とのシーンの感動はかなり減殺されていただろう。
 なお、このシーン(少年時代のほう)の撮影風景の写真が貴田233頁に載っている。

              
 小津は、自身が宇治山田中学の生徒だった時に寄宿舎で事件を起こし(稚児騒動!)、退寮、停学処分を受け、そのときの寮監を生涯恨んだという(貴田・30頁~)。その後、大学受験に2年続けて失敗した小津は、短期間小学校の代用教員をしたことがあったという(同・38頁)。
 そのせいか、小津の映画では確かに先生がよく出てくる。“父ありき”では父子ともに教師だし、“一人息子”でも笠智衆ももとは先生なら、日守新一もやがて代用教員になる。“晩春”の笠智衆も大学教授である。“晩春”の演技を「いつもにこにこしていて、まるで白痴である」と酷評した評論家がいたという(笠・68頁)。
 大学教授がいつもにこにこしていて何が悪いというのだろうか。

 読んでおいたほうがよかったこととしては、“一人息子”で、これまた教師である笠智衆(大久保先生)が田舎の小学校教師を辞めて上京する際に、駅に見送りに来た教え子たちが日の丸を振って万歳をするシーンがGHQの検閲でカットされたという事実を知ったことなど。
 東京に出たものの、志を遂げることができずに豚カツを揚げている大久保先生の失意は、そのような華々しい見送りのシーンがあればもっと痛く胸に響いただろう。
 ちなみに、笠37頁にスチールが載っている“一人息子”の信州での1シーンはぼくにはまったく記憶がない。このシーンもカットされたのか、ぼくがよそ見でもしていたのだろうか。

 戦後の復帰作である“長屋紳士録”や“風の中の牝雞”は映画界では評価されなかったという(貴田・145~6頁、170頁など)。しかし、いずれもぼくはそれほど悪い作品とは思わなかった。敗戦後に、戦災孤児や生活苦から売春に走る人妻を描いてどこがいけないのだろうか。昨日も書いたけれど、田中絹代が階段から突き落とされるシーンなど生涯ぼくの記憶に残りそうである。
 ただし、題名はぼくも好きではないし、他の小津作品との平仄も合わないように思った。「牝雞」などはつい最近まで「牝鶏」と思っていたのだが、今でもなんと読むのか分からない。
 “長屋・・・”で笠が演じた「覗きからくり」なども、観たときは何のことかまったく分からず、何が始まったのかと思ったが、本を読んで分かった(笠・82頁)。分からなくて当然である。

 小津の映画の中で流れる音楽では、ぼくは“一人息子”の最初と最後に流れる“Old Black Joe”が一番好きである。
 登場する男優ではもちろん笠智衆、女優では、前にも書いた“戸田家の兄妹”の長女(吉川満子)の家の女中役の女優が一番である。原節子よりも、田中絹代よりも、高峰三枝子よりもいい。その次が坪内美子、田中絹代かな・・・。
 今日は本を探しにお茶の水に出かけたのだが、清楚な白い半袖シャツに膝が隠れるくらいの丈のスカートを穿き、日傘をさして街を歩いている女性の後ろ姿がみんな田中絹代に見えたしまった。

 小津が生涯独身で、母親を愛したという話は、最初にぼくに小津という映画監督の存在を教えてくれた大学時代の恩師の境遇とよく似ている。ともにご自身は結婚しなかったのに(しなかったから?)、結婚、親子、そして死に生涯関心を抱きつづけた。ただし、小津のほうには井上雪子から原節子までさまざまな女優とのロマンスや芸者との関係があった点は、ぼくの先生と決定的に違うけれど。
 小津の戦争体験(毒ガス兵器を使用する部隊に所属したらしい)と映画への影響なども興味深く読んだ。

 いずれにしても、もっと小津に関わる本も読んでみたいし、映画も観たくなった。

 2010/8/30 

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小津安二郎 “風の中の牝鶏”

2010年08月29日 | 映画
 
 “風の中の牝雞”は、戦後、夫の復員を待つ妻(田中絹代)が主人公である。

 戦後の生活苦の中で、幼い子を抱えた妻は、着物などを切り売りしながら生活を支えてきたが、子どもが急病(赤痢か何か)にかかり、入院費用の支払いに窮する。
 同じく生活に苦しむ友人に頼むこともできず、以前から彼女に売春を勧めていた女の斡旋で、入院費用を工面するために一度だけ体を売ってしまう。

 やがて復員してきた夫(佐野周二)に、このことを打ち明けてしまう。
 夫は妻から聞き出したその売春宿に出かける。やって来た女も妻と同じく生活のためにこんな仕事をしていると語る。夫は金だけ払って、帰って行く。
 事情を聞いた友人の笠智衆は、「お前はその売春婦には同情的なのに、奥さんには厳しすぎるではないか」と意見する。

 夫は、頭では理解しているのだが、感情がついていかない。
 間借りする部屋に戻っても気持ちが高ぶり、すがりつく妻を思わず突き飛ばしてしまう。妻は階段を転げ落ち倒れる。やがて、びっこを引きながら2階に上がってきた妻を抱き寄せ、「もう忘れるんだ」と自らに言い聞かせる。
 この階段から転落するシーンが凄い。スタントマンを使ったのかどうか分からないが、コマ落としで観ると、少なくとも階段の2階から突き飛ばされるシーンと、階段の4、5段目から1階の廊下に転げ落ちるシーンは田中絹代のようである。
 めくれたスカートの中のズロースまで映っていた。

 ぼくはこんなことは夫に告白しなければよかったのにと思う。妻の友人もそう忠告したが、間に合わなかった。 
 
 ちなみに、この映画に描かれたような事件は戦後間もなくのわが国で実際に少なからず起こったようで、こんなケースで夫からの離婚請求を認容した最高裁判決もある(最高裁昭和38年6月4日判決)。
 最高裁判決の事案では、夫から遺棄され生活に困窮した妻が、子を養うために売春をした(判決文は婉曲に「街頭に立って生活費を補う等のことをしなければならなくなった」と書いている)にもかかわらず、「子供を抱えて生活苦にあえいでいる世の多くの女性が、生活費を得るためにそれまでのことをすることが通常のことであり、またやむをえないことであるとは到底考えられない」と述べて、妻の不貞行為を理由とする夫からの離婚請求を認めている(民法770条1項5号)。
 ただし、このケースの妻は父親不明の子を生んでいるという事情も不利に考慮されたのだろう。

 * 小津安二郎“風の中の牝雞”(1948年)(Cosmo Contents)のケース。

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小津安二郎 “父ありき”と “一人息子”

2010年08月27日 | 映画
 
 “父ありき”と“一人息子”は、いずれも片親家族が主人公だが、描かれているストーリーと結末は好対照である。
  
 “父ありき”の父親(笠智衆)は金沢で学校教師をしていたが、修学旅行の引率中に一人の生徒が無断でボートに乗り転覆死してしまう。責任を感じた父は学校を辞め、縁故を頼って信州、上田の寺で世話になったのち、東京に出て仕事に就く。最初は工場の現場監督のような仕事である。教師から工場労働者への転身である。「坊っちゃんはなぜ市街電車の車掌になったか」という本があったが、かつてはそういう転職もあったのだろう。 
 この父親は、母親を亡くした息子の弁当も作るような父親であるが、「これからの時代には学問がなければならない」といって、父親と一緒に生活したいという息子の希望を認めない。息子は親の期待通りに勉強して上田の中学校に合格するが、父は息子を寄宿舎に入れて、単身東京に出て行くのである。

 父の期待にこたえて勉強に励んだ息子(佐野周二)は、やがて旧制高校から帝大を出て、教授の推薦で秋田の鉱山学校(現在の秋田大学工学部だろう)の教師になる。父子二人で温泉旅行に出かけた折に、息子は秋田の学校を辞めて上京してお父さんと一緒に生活したいと申し出るが、父はこれも許さない。
 それから何年か経ち、徴兵検査のために上京して、数日間だけ父子水入らずの生活を過ごすが、父はあっけなく心筋梗塞で亡くなってしまう。息子は、父の金沢時代以来の友人教師の娘(水戸光子)と結婚して、父の遺骨を抱いて秋田に帰って行く。

 これに対して、“一人息子”のほうは父を亡くした母子家庭が舞台である。
 1923年だったかの信州から話は始まる。製糸工場の女工をしながら息子を育てる母親(飯田蝶子)のもとを息子の担任教師(笠智衆)が訪ねてくる。成績優秀だった息子が学校で、「母さんが中学校に進んでもいいと言った」と嘘をついたため、先生が激励に来たのである。母はそんな余裕はないとは言えず、結局進学を認める。
 母は身を粉にして働き、家屋敷や田畑まですべて処分して息子の学費を工面する。学校をおえた息子(日守新一)は上京して「市役所の役人になった」と母には伝えるが、実は夜学の代用教員をしながらその日暮らしの生活を送っている。母に内緒で結婚して息子も生まれていた。
 そんなある日、母がひょっこり上京して、息子を訪ねて来てしまうのである。息子は教員仲間から金を借り、妻(坪内美子)も着物を売って金をこしらえ、母をもてなそうとする。しかし、長屋の隣家の子どもが馬に蹴られて大怪我をしたため、息子は、入院費用に当てるようにと言ってその金を隣家の細君に恵んでしまう。息子の立身出世を夢見ていた母は、その優しさをうれしく思いながらも、やっぱり自分の努力の甲斐がなかったという思いを抱いて信州に帰っていくのである。
 息子の小学校の担任教師だった笠智衆も、田舎の学校教師を辞めて上京したのだが、夢を果たせず、割烹着を身にまとって豚カツを揚げるとんかつ屋になっている。

 時代はそれほど違わないと思われるこの2本の作品の結末を分けたものは何なのか。
 ぼくは、ブルデューの“遺産相続者たち--学生と文化”(藤原書店)を思い出した。彼によれば、親から子に相続されるものは、金や土地などの経済的資本に限られず、学校で要求される勉強や振舞いなどの文化的資本もあるという。
 “父ありき”の息子は、学校教師を務め、のちには都市のホワイトカラーになった父親からそのような文化的資本を相続していたのに対して、“一人息子”の母親は必死で働く女工ではあったが、もともと「中学校なんか行かなくていい」と言い放つ女である。相続させるべき文化資本は持ち合わせてはいない。
 2つの映画で息子を演じる子役も、“父ありき”の子はひ弱だが聡明そうな子役であるのに、“一人息子”のほうはガキ大将でもおかしくない容貌である。この子にとって、上の学校に進み、そして東京に出たことは本当に良かったのか。
 東京案内の途中で巨大なゴミ焼き場を指さして、息子は母に向かって「東京はゴミの量もすごいんだ」という。「東京では仕事にありつけない人もたくさんいるんだ」、「夜学の教師だってようやく見つけた仕事なんだ」と言い訳しながらも、息子は自分を東京のゴミのように感じてもいたのだろう。

 話はそれるが、“一人息子”で、主人公の妻を演じる坪内美子という女優がいい。ネット上で何でも分かってしまう。大正4年の東京白山生まれで、本名は山崎登美子。現在の豊島岡女子高を卒業し、銀座のカフェの女給をしているところをスカウトされたとある。1985年に亡くなっている。“戸田家の兄妹”二女役もこの人らしい。ずいぶん違った役柄である。
 “父ありき”の水戸光子なども晩年しか知らなかったが、若いころはなかなかいい。“晩春”の月丘夢路、“風の中の牝鶏”の田中絹代など、役の上とはいえ、みんな好感が持てる。“戸田家の兄妹”に出ていた戸田家の長女の家の女中さん役の女優もかわいかった。配役に「女中きぬ 河野文子、たけ 文谷千代子、かね 岡本エイ子、しげ 出雲八重子」とあるが、どれだろうか。
 シェリー・ウィンタース(ウィンチェスター'73)やジュリー・アダムス(怒りの河)などと言わなくても、日本の女優にもきれいな人はたくさんいたのだ。

 ところで、“一人息子”は、「原作 ゼームス・槇」とある。誰だろうと思ったら、小津安二郎の別名だそうだ。これもネットで分かってしまった。ジェームス・三木の由来はここだろう。

* 小津安二郎 “父ありき”(日本名作映画集18[Cosmo Contents])、同“一人息子”(同16)のケース。

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小津安二郎 “晩春”,“長屋紳士録”

2010年08月27日 | 映画
 
 閑話休題。
 最初に見たDVDは、“晩春”である。1949年製作だから、ぼくが大学生のころは製作からまだ20年しか経っていなかった。にもかかわらず、随分古い映画のように思っていた。現在はそれから40年が経っているが、この40年間のほうが短かったような気がする。
 “晩春”のテーマは妻と死別した父の再婚と、娘の晩婚である。父(笠智衆)に再婚話が出ると娘(原節子)は「不潔だ」と嫌悪感を示す。そして一人身の父を案じて自分の結婚話にも乗ってこない。父は一計を案じて再婚を決意したと娘に告げる。父の再婚相手に多少心を開き始めていた娘は結婚を決意する。そして娘の結婚披露宴を終えて父が家に帰って来るところで映画は終わる。このような場合、娘の「婚姻の意思」に瑕疵があるかなどとは問わないでおこう。

 もう1本の“長屋紳士録”は1947年の作品。“晩春”とはうって変わって東京の下町の貧しい長屋が舞台。長屋の住人、笠智衆が靖国神社で捨て子を拾ってくる、そして同じ長屋で独り暮らしをしている飯田蝶子にその子を押しつけるのである。
 最初は嫌っていた飯田蝶子も、やがてその子の父親が子どもを引き取りに来るころには情が移っていて、その子が去った後に号泣するところで話は終わる。
 
 小津の作品を見ていつも感ずるのだが、小津の基本的なテーマは家族だが、彼は裕福な家族も、貧しい家族も、どちらもうまく描くことができる。“晩春”は、鎌倉に住む大学教授が主人公である。その生活風景もさりげなく描かれる。娘はお茶会に通い、父の再婚相手とは能の鑑賞会で出会う。“長屋・・・”とは別世界である。
 笠智衆もすごい。変幻自在というか、彼を見ても小津映画の製作年度の前後関係はまったくわからない。学生時代に彼の台詞回しに違和感があると言ったら、先生にひどく叱られたことがある。いまではとても味のある演技だとわかる。彼が出てこない小津映画は面白くない。

 また小津作品には、今ではなくなってしまった戦後昭和の風物がふんだんに登場する。やがて「昭和考古学」、「昭和民俗学」が語られる時代になったら、小津映画は格好のフィールドになるだろう。頻繁に登場するのは物干しである。あの廃材のような柱に2、3か所、少し上向きかげんで竿を引っ掛ける木が打ちつけてある。あれに手製の三またで竿を乗せたのである。大工が手間賃仕事で作った木製のゴミ箱もよく出てくる。これも昭和30年代まで残っていた。
 “長屋・・・”の捨て子は最初から最後まで、いわゆる「正ちゃん帽」をかぶっている。小津の他の作品にも正ちゃん帽の子どもがしばしば登場するのだが、昭和25年に世田谷で生まれたぼくには、こんな帽子をかぶった子どもの記憶はまったくない。いつ頃、どのあたりで流行したのだろうか。

  “晩春”では二人が東京に出かけるときの鎌倉-新橋間の湘南電車がいい。木の床、木の手摺り、木のつり革(文字通り皮製である)など。こんな電車は昭和43年にぼくが四谷の予備校に通っていたころも総武線で使われていたので、匂いまでが懐かしい。
 
 * 小津安二郎“晩春”(日本名作映画集21[Cosmo Contents発売])、同“長屋紳士録”(同19)のケース。

 2010/8/27

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小津安二郎とぼくの先生

2010年08月27日 | 映画
 
 1学期の中ごろ、神保町を歩いていて、書泉ブックマートの店頭に小津安二郎の映画DVDが3枚セットになって999円で売られているのを見つけ、3セット(計9本)買ってきた。
 
 小津安二郎監督の名前は、大学時代に家族法の先生が授業中にしばしば口にすることで知った。
 その先生は、戦後の民法改正、つまり個人主義的な方向への家族法改正を推進した側の先生だったが、その後、故郷に残った母上を不慮の事故で亡くされ、自分の母親一人守ることができないで何の家族法改正だったのかという自責の念に駆られたというエピソードをもつ方である。
 個人主義家族と親族協同体的家族との間で揺れていた先生にとっては、戦前、戦後初期の家族を描き続けた小津安二郎は共感するところが多かったのだろう。

 ところが、ぼくが大学生だった昭和44、5年(1969~70年)頃は、小津安二郎はすでに過去の人になっており、しかも今ほど高く再評価されていなかったので(もちろんDVDはおろかVHSすらなかった時代である)、小津の映画を見る機会はほとんどなかった。
 先生がせっかく家族法を分かりやすく説明するために小津映画の例を持ち出すたびに、聞いている学生の側はかえって意味が分からなくなるのだった。

 因果応報というべく、今度はぼくが教師の立場でこの悲哀を味わっている。
 “卒業”(婚姻の成立時期の例)、“ひまわり”(失踪宣告の取消と重婚の事例)、“クレーマー・クレーマー”(離婚後の共同親権)などを持ち出すたびに、平成生まれの(もう平成生まれが大学3年生である!)の学生たちは、なんで先生はこんな古い映画の話をして、しかもヘンリー・マンシーニの“ひまわりのテーマ”を教室で口ずさんだりまでするのかと訝しそうな顔をするのである。

 長くなったので、本題は次回に・・・。

 * 小津安二郎“戸田家の兄妹”(日本名作映画集17[Cosmo Contents発売])のケース

 2010/8/27

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フォード・フォーカス

2010年08月26日 | クルマ&ミニカー
 
 フォード・フォーカスのWRCモデル。
 カバヤ食品のガムのおまけ(?)。スーパーでは「玩具菓子」というコーナーに置いてある。
 今でも“Majorette”製。

 久しぶりに、近所のスーパーで見かけたので買ってきた。
 ぼくのミニカー集めは、カローラ・ランクスのWRC仕様に始まる。2、3年前に、このミニカーがカバヤの“ラリーカー・シリーズ”(“Rally Car Series”)の1つとして売られているのをネット上で発見したのである。
 それ以来、WRCのプジョー206、307、シトロエンC2、C3、スバルなど、ほとんど集めた(趣味ではない三菱ランサーを除く)。

 フォード・フォーカスの初代モデル(もちろん市販車)はぼくの好きなクルマだったが、なぜかフォード・フォーカスだけはゲットできないでいるうちに、ミニカー集めも飽きてしまった。
 今回手に入れた“Ford Focus”は、かつての小振りなフォーカスではなく、肥大化してしまったフォーカスで、ペインティングもかつてとは違うデザインになってしまった。いちおう、紺色と黄緑を基調にしてはいるが。

 2010/9/20

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“ツルヤ”と“SAVE-ON”

2010年08月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今年の軽井沢で印象的だったのは、国道沿いなどでやたらとコンビニが増えたこと。しかも、ほとんどの場合、国道の上り沿いと下り沿いに、向かい合って競い合うように2軒建っている。

 セブン-イレブン、ローソンのような全国区のコンビニもあるが、目立って善戦しているのが“SAVE-ON”という看板。長野のご当地コンビニだろうか?
 昔ながらの軽井沢の商店が心配になるが、利用があるから繁盛するのだろう。むかし、星野温泉近くに“ちびき屋”という雑貨店(?)があって、かわいい高校生くらいの女の子が店番をしていることがあった。
 あの店、そしてあの子は今どうしているだろうか。

 ついでに、“ツルヤ”は(“マツヤ”とともに)軽井沢の「顔」になってしまった。
 前にも書いたが、国道18号沿いの低地に店を出していた当時、斜向かいに“ジャスコ”が出店したので、どうなるのか心配したが(正直言ってダメになってしまうのではないかと思ったが)、どうして“ジャスコ”のほうが閉店に追い込まれ、数年間建物が野ざらしになった後、今では跡地はマンションになってしまった。

 明治屋、小松ストア、西武百貨店軽井沢店、紀ノ国屋、そしてジャスコなどが次々と閉店に追い込まれていった中で、“ツルヤ”のほうは繁栄の一途をたどり、特に鳥井原に移ってからは、土曜・日曜などは駐車スペースを探すのに一苦労するほどである。
 これも前に書いたことだが、最近は客層がめだって爺むさくなってしまった。自分自身も他人からはそういう風に見えているんだろうな・・・と思うと辛いのだが。

 今回の美ヶ原へのドライブの車中からも、何カ所かで“SAVE-ON”の看板を見かけた。
 そして買い物は小諸のツルヤで済ませた。
 軽井沢のツルヤと御代田のメルシャン美術館前のツルヤは、店のレイアウトから置いてある商品までほとんど同じだが、小諸はちょっと違っていた。土産物はほとんど扱っていない。やはり客層が違うのだろう。

 興味がわいて、GOOGLEで「ツルヤ」を検索してみた。
 予想通り、長野県内で展開している地元のスーパーのようである。それも東信地方が多い。
 驚いたことに、創業は明治25年という。 紀ノ国屋、西武百貨店、ジャスコなどより、ツルヤのほうが歴史があったのだ! ただし、当時は海産肥料商だったらしい。

 株式会社化が、何とぼくの生まれた昭和25年という。親近感がわく年号である。

 * 国道142号(中山道)沿いで見かけた“SAVE-ON”の看板。塩名田で千曲川を渡る少し手前の風景。2010/8/24撮影。
 気になったので、明治屋、小松ストアー、西武百貨店、紀ノ国屋、ジャスコの創業年度を調べたら、明治屋は明治18年で、ツルヤよりも先輩だった。同社ホームページのフロントページには“MEIDI-YA since 1885”と誇らしげに書いてあった。

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塩名田 “竹廼家”

2010年08月25日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 美ヶ原(うつくしがはら)からの帰り道は、来た時と同じでは能がないので、和田峠方面を通って帰ることにした。

 ビーナス・ラインを扉峠か和田峠で左折する予定だったが、カーナビがもっと手前で左折を指示したので、それに従って道なき道(と言うほどではないけれど、センターラインはなかった)を下る。幸い登りの車とは2台しかすれ違わなかった。

 そんな山道を下ると、やがて集落が見えてきた。和田村か? 中山道(国道142号)に出る。
 立科、望月、佐久などを経て、小諸まで道なり。反対車線は結構トラックなどが走っていたが、こちらはガラガラでほとんど独り旅の状態。

 景色はのどかな田園風景、やがて彼方に浅間山が見えてくる。道沿いの名所らしきところは“笠取峠の松並木”くらい。むかし軽井沢に行くときに通った安中の松並木を思い出す。

 途中、千曲川にかかる橋を渡ったところで、塩名田の地名が目に飛び込んできた。そして“竹廼家”の看板も見えた。
 ここにも、何十年か前に佐久の鯉料理を食べに来たことがある。何から何まで鯉料理で、ぼくはあまり得意ではなかった。

 塩名田はもう1つ、遠藤周作の『さらば、夏の光よ』の舞台としても有名(それほど知られていないかも?)である。
 妊娠中絶するかどうかで悩む主人公の女が、確かこの塩名田の出身だったはずである。
 軽井沢に滞在中の遠藤周作もここに鯉料理を食べに来て、膳を出しに来た地元の女の子を見てモデルにしたのではないだろうか。

 この夜、帰宅後、小津安二郎の『父ありき』をDVDで観たのだが、偶然その舞台も上田の郊外であった。
 父子(笠智衆と佐野周二ただし子役)が渓流で川魚を釣るシーンがあったが、あの辺で撮影したのだろうか。

 * 塩名田の千曲川を渡ったあたり。2010/8/24撮影。

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美ヶ原

2010年08月25日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 美ケ原の山頂は残念ながら曇っていて、展望は絶景とは言いかねた。

 それでも、雲の切れ間からは山々に囲まれた小さな集落が何カ所かのぞいていた。

 美ケ原高原美術館(フジ・サンケイグループ)はパス。
 限定ランチのかき揚そばを食べて帰途につく。

 * 美ヶ原山頂から見下ろした下界の眺め。2010/8/24撮影。

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白樺平

2010年08月25日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 美ヶ原の頂上、美ヶ原美術館に至る少し手前に、白樺の林がある。

 40年前の記憶にも、美ヶ原には白樺の林のあったことが刻まれている。

 あの頃は軽井沢にもきれいな白樺の木立がそこかしこにあったが、今では軽井沢できれいな白い白樺の幹を見ることはほとんどなくなってしまった。

 わが家の庭にも白樺が5、6本植えられていたが、当時は子どもの手でも周囲を握れるくらいの細い幹だったのが、今では二階の屋根をこえる背丈に成長し、残念ながら幹は褐色になってしまった。
 ただし、頭上高いところで風に揺れている白樺の葉は、独特の緑色をしていて、夏の青空に映えている。

 * 美ヶ原、白樺平の白樺林。

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浅間サンライン

2010年08月25日 | 軽井沢・千ヶ滝

 きのう8月24日、美ヶ原までドライブに出かけた。

 昭和30~40年頃には、しばしば軽井沢から志賀高原や蓼科高原などにドライブに出かけたのだが、ひととおり走破しつくしてからは、足が遠ざかってしまった。

 美ヶ原も40年ぶりくらいである。

 カーナビの指示するままに、1000メートル林道から浅間サンラインに入り、上田の手前で左折して、丸子、武石などを通って、ビーナス・ラインの65だかのカーブを登って行った。

 昨日は少し靄がかっていたが、浅間山はきれいに裾野を見せていた。

 2010/8/24 撮影。
 

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“少年探偵手帳”

2010年08月25日 | 本と雑誌

 その“追分コロニー”で買った、串間努『完全復刻版・少年探偵手帳』(光文社知恵の森文庫、1999年)の表紙。

 本物の“少年探偵手帳”が出回っていた頃、夏の軽井沢で、ぼくは年下の従弟を従えて千ケ滝の裏山(獅子岩のある丘)を歩きまわった。
 北へ登るとグリーンホテルの下に出たし、南へ進むと星野温泉の従業員長屋に出た。

 いま考えると、子どもの背丈より高い草むらや、流れの急な用水路など結構危険な場所もあったが、BDバッジを撒いて歩かなくても生還し、今日まで生き永らえてることができた。
 それも『少年探偵手帳』から得たサバイバル術のおかげということにしておこう。

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古書 追分コロニー

2010年08月25日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 ようやく夏休みの諸行事が一段落したので、20日から軽井沢に行ってきた。

 いつもだと、軽井沢の夏は旧軽、諏訪神社のお祭りで打ち上げられる花火とともに終わるのだが、今年は例年になく暑い日が続いているため、8月の20日を過ぎたというのに、季節外れといった感じはしない。
 軽井沢でさえも、朝から25℃近くあり、昼間は30℃を超える。

 古本屋と画廊をやっている知人から、追分の旧中山道沿いに、喫茶店をかねた古本屋ができたという話を聞いていたので、今回出かけてみた。

 旧中山道の追分宿、油や旅館の東隣り、堀辰雄記念館の向かいに、入口に簾を立て掛けたその店はあった。
 “古書 追分コロニー”という名前である。
 神保町あたりの古本屋と違って、玄関で靴を脱いでスリッパに履き替えて上がる店だった。

 普通の家の8畳か10畳くらいの部屋、2部屋にゆったりと本箱が並べられていた。
 「これは!」という本には出会えなったが、せっかくなので串間努『完全復刻版・少年探偵手帳』(光文社知恵の森文庫、1999年)を買った。400円。文庫本は原則300円なので、ちょっと価値ありの本なのか?

 この本の巻末の当事者の懐古談によると、『少年探偵手帳』は、最初は雑誌「少年」に載った江戸川乱歩のクイズの景品として考案され、やがて「少年」の別冊付録として何種類か出たらしい。この本は付録版を再構成したもののようである。 
 子どものころぼくが持っていた『少年探偵手帳』は、クイズの景品でも付録でもなくて、切手を何十円分だか何百円分だか送って購入する、今でいえば通信販売のものだった。
 大人が持っているような革表紙風の手帳だったはずである。

 残念ながら、今回買った『完全復刻版』にその雰囲気はない。

 * 写真は、2010年8月24日の夕方に撮影した、追分の古書店兼喫茶店“追分コロニー”の正面。

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ランチア・アプリリア(その2)

2010年08月07日 | クルマ&ミニカー
 
 “Lancia Aprilia”(ランチア・アプリリア、1939年)も、当時としては新しいメカを備えた、由緒ある車だったらしい。

 前にアップしたのとは違う角度からのものを、もう一枚。

 “Editions Atlas”のために中国で製作されたと書いてある。
 
 これも前にも書いたが、ミニカー生産量は中国が世界一だろう。ほとんど独占状態ではないだろうか? 
 まさにご当地、吉利汽車の“熊猫”(Panda)のミニカーもぜひ手に入れたいものである。

 2010/8/7 

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シトロエン2CVの絵葉書-6

2010年08月06日 | クルマ&ミニカー
 
 シトロエン2CVの絵葉書。
 最後は、農家か別荘の庭先に放置されたような2CVの絵葉書を2種類並べてみた。

 かなり錆びついているけれど、屋根にはトランクが乗っけてある。現役なのかどうか・・・。

 “Ceci n'est pas voiture, c'est un art vivre”というキャプションが添えてある。「これはクルマではない。生きた芸術品である」ということは、オブジェなのだろうか。

 2010/8/3 記

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