三浦展『郊外はこれからどうなる?』(中公新書クラレ、2011年12月)と、島田裕巳『映画は父を殺すためにある』(ちくま文庫、2012年5月)を読んだ。
両書とも、「どうせ何かの焼き直しだろう、まあ時間つぶしになれば・・・」くらいの気持ちで買ったのだが、どちらも意外に(失礼)面白くて、通勤の電車の中で2日間で一気に読んだ。
先日読んだ川本三郎の『郊外の文学誌』は小説に現れた東京郊外の話、しかも中央線沿線が中心だったが、今回の三浦の本はもっと構造的に東京郊外を論じている。
三浦は、もともとはパルコの所沢進出準備として郊外研究を始めたということで、消費生活が中心だが、居住形態を意識している点でぼくの問題意識にも一部答えてくれている。
彼によれば、東京の「郊外」(三浦にあっては「郊外」=「山の手」だが)は4段階の発展を示したという。
第1段階は漱石の時代の本郷など山手線内の東半分、第2段階は新宿、大久保など山手線内の西半分、第3段階が荻窪、吉祥寺など、そして第4段階は多摩センターから所沢に至る地帯である。
ぼくは、第5段階の「郊外」は軽井沢にあると思う。
ツルヤに買い物に行くたびに思うのだが、ここ数年高齢者(夫婦)の姿がめっきり増えたのである。会社を定年後、東京では手に入らなかった住環境(とブランド価値)を求めた人たちが“第5の山の手”を軽井沢に見出したのではないだろうか。
まだ現役だが、東京に居住する必要がない職種の人たちもいるかもしれない。
島田裕巳の本は、副題にもある通り、「通過儀礼」という見方から映画を分析したもの。
「通過儀礼」というのが分かってないので、説得的な映画評論になっているのかどうかは僕には判断できないが、ぼくにとってまさに「通過儀礼」だったのであろう、中学3年生の時にみた“エデンの東”や、この数年の間にすきになった小津安二郎の映画の解釈は納得できた。
ただし、取り上げる映画には多々異論がある。
映画における「父殺し」がテーマなら“エデンの東”が最初に来るべきだろう。“フィールド・オブ・ドリームス”や“スター・ウォーズ”では鼻白むし、“桜の園”などは格が違いすぎる。
「通過儀礼」という見方はともかくとして、島田がこの本で指摘したいくつかの点に、まったく同感したり、合点がいったりした。
たとえば、小津安二郎のロー・アングルは、女の尻に対する小津のフェティシズムを表現しているのではないかという指摘(187頁)や、菅原通済の下品なセリフなどにみられる小津の児戯的な性意識(183頁)などはまったく同感。
ただし、小津映画を扱うならなら、“父ありき”の息子(佐野周二)がまったく精神的には「父」を「殺す」ことをしないでおいて、最後に父子がわずかな日々を一緒に過ごしたとたんに父が脳溢血でまさに「死んで」しまったことの解釈や、島田の文脈にピッタリのはずの“一人息子”が何ゆえ母子物語だったのかの解釈を示してほしかった。
“東京物語”で母(東山千栄子)が死ぬことも同様。東山の死によって、父(笠智衆)も「殺された」のだろうか。
木下恵介の“野菊の如き君なりき”の政夫役だった笠智衆が、民さんを弔うために出家して、“男はつらいよ”シリーズで、題経寺の住職になったというのも、納得してしまう(211頁)。
その他にも、“寅さん”シリーズと小津安二郎や夏目漱石との関連性がいくつも指摘してあって、僕はこれまでまったく興味のなかった山田洋次の“寅さん”シリーズを観てみたくなった。
寅さんは、シリーズが進むにつれて次第にその性格が変わっているという。寅さん自身が、「徐々に変わるんだよ。いっぺんに変わったら体に悪いじゃないか」というセリフを吐いているらしい(203頁ほか)。
このセリフも気にいった。最近はやりの「彼はブレない」という評価がぼくは大嫌いである。
全然知らなかったのだが、昨年から「男はつらいよ 寅さんDVDブック」という月刊本(DVD)が講談社から出ていたらしい。慌ててネットで検索して、島田が言及していた数冊を一気に注文してしまった。
2012/6/15 記