豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

映画『汚れなき悪戯』

2022年04月29日 | 映画
 映画の子役シリーズ、その3は、スペイン映画『汚れなき悪戯』(原題 “Marcelino Pan y Vino”(マルセリーノ、パンとブドウ酒)、1955年製作、東和提供)のパブリート・カルボ。ハリウッド映画に限定しなければ、ぼくの子役ナンバー1である。
 『汚れなき悪戯』(けがれなき いたずら)は、小さい頃に見た思い出深い映画の1つである。主人公の子どもがサソリにかまれたシーンを覚えている。
 1955年といえば、戦後スペインがまだフランコ独裁政権の下にあった時代。この映画を親フランコ的な映画とする評価もあるようだが、ぼくにはそうは思えなかった。幼なかったからかもしれないが。

 いつの時代かは明らかでないが、舞台はスペインの片田舎の修道院。ある朝、その門の前に幼い男の子(パブリート・カルボ)が棄てられていた。12人の修道士たちは彼をマルセリーノと名づけて大事に育てる。マルセリーノは悪戯(いたずら)好きの可愛い少年に育つのだが、ある日ちょっとした悪戯から事件が起きてしまい、かねてから修道院を快く思っていなかった村長は修道院に対して立ち退きを要求する。
 立ち退きの日(だったか?)に、マルセリーノは修道士から絶対に開けてはいけないと言われていた修道院の塔の屋上の扉を開けてしまう。中にはキリストの像が立っていて、「こちらにおいで」と彼を招いているようにマルセリーノには思えた。光り輝くキリストのほうに歩み寄ったマルセリーノは、そのまま天に召される。
 気がついた修道士たちが駆け寄ったときには、マルセリーノの亡骸はキリスト像の足元で冷たくなっていた・・・。

 このラストシーンで流れる主題歌が「マルセリーノの歌」である。おそらくこの曲も、ラジオ番組「ユア・ヒットパレード」(東京田辺提供)でトップを続けたはずである。上の写真がそのレコードと、ジャケット(セブン・シーズ・レコード、HIT=1333、©表示は1966年、この年にリバイバル上映されたらしい。370円)。
 映っている少年がマルセリーノ役のパブリート・カルボである。ジャケットの解説によると、彼は5000人を超える応募者の中から選ばれたという。小森和子(小森のおばちゃま)がパブリート・カルボとジェームス・ディーンの大ファンであると公言していたことは以前に書き込んだ。
   

 ぼくは彼が主演した『広場の天使』という映画も見た記憶がある。もく拾い(禁煙社会の今日、意味が分かるだろうか?)のお爺さんと二人だけで生活する貧しい少年を演じていた。この話も泣けた。
 実際のパブリート・カルボは(マルセリーノほどではないが)わりと若くして亡くなった。調べると彼は1948年生まれで、2000年に亡くなっている。ぼくとほぼ同じ年齢だったのだ! 
 朝日新聞に彼の死亡記事が載ったので、ぼくだけの思い出かと思っていた『汚れなき悪戯』のパブリート・カルボが意外と有名だったことに驚いた。

 『汚れなき悪戯』はDVDも持っているのだが、ヨーロッパのカトリック国における捨て子の問題に関心をもっている研究仲間に貸してあって今は手元にない。
 彼女によれば、ヨーロッパの修道院は捨て子の受け皿になってきたが、捨て子は修道院で酷使され、その死亡率も高かったということである。
 映画『汚れなき悪戯』のラストシーンは、そのような歴史を象徴していたのかもしれない。

 2022年4月29日 記
 

映画『ペーパー・ムーン』

2022年04月26日 | 映画
 
 ハリウッド映画の子役といっても、「シェーン」の子役くらいしか思い浮かばないと書いたが、大変な子役を忘れていた。
 『ペーパー・ムーン』の子役、ティタム・オニールである。
 『オズの魔法使』のジュディ―・ガーランドは子役というにはやや成長しすぎの感があったが、『ペーパー・ムーン』のテイタム・オニールは当時9歳、まさに子役そのものである。

 『ペーパー・ムーン』は、ピーター・ボグダノヴィッチ監督、ディレクターズ・カンパニー製作なので(原題 “Paper Moon”,1973年)、「ハリウッド映画」の子役といえるか分からないが、パラマウント配給なので、一応はハリウッド映画ということにしておこう。
 詐欺師の父(ライアン・オニール)と娘(テイタム)が、ローカル新聞の死亡記事を見ては、遺族のお爺さん、お婆さんをだまして聖書を売りつけながら、車でアメリカの田舎を旅をするという単純なストーリー。
 舞台は偶然にも、『オズ・・・』と同じカンサス州だった。カンサス州の風景はモノクロが似合っている。

 聖書を売るお父さんに連れられた幼い少女として被害者の同情を買う共犯者なのだが、優しいところもあって、父親が騙した気の毒なお婆さんには父親に無断で代金をまけてしまったりもする。煙草までふかす生意気ぶりなのだが、子役にありがちな “こましゃくれ” 感がまったくなくて好感がもてた。「子ども」であることを要求されない役柄がよかったのだろう。
 いま思い浮かぶアメリカ映画の中で、ぼくの一番お気に入りの子役はテイタム・オニールということにしておこう。この映画以降も映画に出ていたようだが、ぼくは『ペーパー・ムーン』1作しか見ていない。もう60歳近くになっているはずである。

 主題歌も映画の内容にマッチしていた。というより、挿入曲の “It's Only a Paper Moon” というジャズのスタンダード・ナンバーから映画の題名が決まったそうだ。
 「ボール紙に書かれた紙の月でも、あなたが信じるならば、それは本当の月である、・・・あなたが愛を信じるように・・・」といった歌詞だった。
 ※ きょう『ペーパー・ムーン』のメイキング・ビデオを見ていたら、『ペーパー・ムーン』を作曲したハロルド・アレンという人は『虹の彼方に』の作曲者でもあるそうだ。舞台がカンサス州でモノクロ撮影というだけでなく、この点でも『オズの魔法使』と共通だった。なお、P・ボグダノヴィッチ監督は「カンザス」と発音していた。(2022年4月28日 追記)

 2022年4月26日 記

映画『オズの魔法使』

2022年04月24日 | 映画
 
 ディック・モーア『ハリウッドのピーターパンたち』を読んで、「子役」という視点から古い映画をもう一度見ることにした。

 モーアの本に出てくる映画のうち、手元にDVDがあったものの中から、ジュディ―・ガーランド主演の『オズの魔法使』(原題 “The Wizard of Oz”,1939年、MGM製作、ヴィクター・フレミング監督)を選んだ(水野晴郎のDVDで観る世界名作映画10、キープ社)。
 子どもの頃に連れて行ったと亡母が言っていたが、ぼくには覚えがない。主人公の女の子が竜巻で家ごと吹き飛ばされて、愛犬と一緒に夢の国を旅するというストーリーは、大人になってからテレビで放映されたときに見て知ったが、小さい頃に映画館で見た記憶はない。
 --「赤い風船」なら小さかったころに親に連れられて見に行った記憶がある。モノクロームだった画面から、子どもが握っていた風船が突如つややかに光る真っ赤に変わったシーンが鮮明な印象として残っている。見に行ったのは虎ノ門ホールだと、これまた亡母が言っていた。

 しかし、久しぶりに見た『オズの魔法使』は、70歳を超えたぼくには無理だった。
 モノクロで撮影された冒頭のカンサスの農家の情景と、最後にドロシーが夢から覚めるモノクロのシーンは懐かしかったが、カラーで撮られた夢の部分にはついて行けなかった。1939年当時にこれだけのカラー映画を製作したアメリカの経済力には驚かされるが、今から見れば「作り物」感は否めない。小人たちの場面も違和感を禁じえなかった。
 ジュディ―・ガーランドは、「子役」というには少し成長しすぎていた。身体の線を隠すために全身にガーゼを巻かれて撮影したなどというエピソードを知った後では、なおさらである。
 中間のカラーの部分はすっ飛ばして、最初と最後だけ見た。

 主題歌「虹の彼方に」“Over the Rainbow” は良かった。
 カンサスの竜巻で家が吹き飛ばされた際に頭を打って意識を失っている間に見た夢という、この映画のストーリーと整合しているかはやや疑問だが、映画とは独立した歌としてよかった。
 ドロシー(ジュディ―・ガーランド)が最後のセリフで、“There's no place like home.” と言っていた。ドロシーには父親も母親もなく、育ててくれているのは「叔父さん」と「叔母さん」で、雇われた3人の農夫たちとともに農家で生活しているという背景も、まったく覚えがなかった。
 ドロシーの飼い犬が近所の意地悪ばあさんを噛んだために、保安官に引き渡されて殺処分されかかるという場面もあった。当時のカンサス州法ではそうなっていたのか。

 「子役」から見た映画シリーズ(?)はやめることにした。
 子役というと、ぼくには『汚れなき悪戯』のパブリート・カルボや、『自転車泥棒』や『鉄道員』の男の子など、ヨーロッパ映画の中の子役のほうが印象に残っている。

 2022年4月24日 記

ディック・モーア『ハリウッドのピーターパンたち』

2022年04月21日 | 本と雑誌
 ディック・モーア/酒井洋子訳『ハリウッドのピーターパンたち--黄金時代の子役スター物語」(早川書房、1987年)を読んだ。

 著者のディック・モーア(子役時代はディッキー・モーアという芸名だった)は、1920年代に生後11か月!で子役としてハリウッド映画界にデビューし、数十作品に出演し、第2次大戦中の兵役を挟んで、浮き沈みをしながら(ジェームス・ディーンが登場する前夜ころの)50年代にかけて俳優として生きた子役スターである。彼は、従軍中も「スターズ&ストライプ」紙の編集に携わったりしたが、除隊後はGI法による奨学金(退役軍人に対する奨学金)を得てロサンジェルス州立大学でジャーナリズムを学んでジャーナリストに転じた。
 本書は、彼自身の体験談だけでなく、数十人の元子役へのインタビューも交えて、子役たちの現役時代の撮影現場、ハンフリー・ボガード、マレーネ・デートリッヒら共演した俳優たちのエピソード、自分の親や親戚、ライバルの子役やその親、映画会社との関係、撮影所内に設けられた「学校」での生活、その後のキャリア、家庭生活(ほとんどの元子役が離婚を経験している)などが語られる。
 元子役による、子役の眼で見た子役中心のハリウッド映画物語といえる。

 残念なことに、本書に登場する子役たちや、彼らが出演する1920年代から1945 年頃にいたるハリウッド映画をぼくはほとんど知らない。著者のディッキー・モーアという子役も知らなかった。ぼくの記憶にあるハリウッドの子役といえば、「シェーン」でアラン・ラッドの後ろ姿に向かって「シェーン!」と叫んだ男の子くらいしか思い浮かばない。
 本書に登場する子役でぼくが名前を知っていたのは、シャーリー・テンプル、ジュディー・ガーランド、ナタリー・ウッド、エリザベス・テイラーなど、大人になってからも活躍した俳優ばかりである。

 本書には、「子役残酷物語」の一面もある。
 子役の絶対条件は、いつでも泣くことができることだったという。何シーンも撮影して涙が出なくなると目に樟脳を吹きつけられ泣かされたという(100頁)。子役は永遠に子どもでなければならない、けっして成長してはならないという宿命があり、成長が始まったジュディ―・ガーランドは「オズの魔法使」(1939年)では身体の線を隠すために全身をガーゼで巻かれて演技したという(144頁)。
 子役は、監督に指示されたとおりに演技することを強いられてきたために、自分で考えて決定することができないまま成人になってしまった一方で、未成熟のままに契約更改やオーディションのたびに過度の責任を負わされることによって、みな成長に課題を抱えているという。精神の問題を抱えている者も多い。
 成長の適切な段階で経験すべきことを早期に経験させられたために、子役は大人になれなかったり、ほかの人のようにうまく成熟できなかったと著者は言う(360頁)。

 子役が受けた被害の中で、本書で最も多くのページが割かれているのは、親による子の経済的搾取である。
 当時のカリフォルニア州では、子どもが(当時の成人年齢である)21歳に達するまでは親は自由に子どもの財産を使用することができた。大不況の中で失業した親たちは、子役が稼いでくる巨額の収入を、豪邸建設だの牧場購入だの高級車購入だの事業経営だので費消した。
 著者自身も親による搾取の被害者の1人で、彼が映画を1本撮るたびに親からもらったのは、ピカピカの10セント玉1つだけだったという(240頁)。そして子役の仕事がない時は、親に職安に連れて行かれて失業手当まで巻き上げられたという。

 本書によれば、ハリウッドの子役の走りは、チャップリンの映画「キッド」(1921年)に出演したジャッキー・クーガンという子役である。
 彼が成人した時、子役として稼いだ1000万ドルを超える金銭は、母親とその再婚相手になった元マネージャーによって費消されていた。1938年に彼は母親に対して訴訟を起こしたが、かえって彼のほうがハリウッドのブラックリストに載せられてしまった(47頁)。
 訴訟費用を調達するために借金を申し込んだ彼に、チャップリンは1万ドルを用立ててくれたという(251頁)。ハリウッドの印象が悪くなることを恐れたR・メイヤーが示談をもちかけ、結局ジャッキーはわずか8万ドルで示談に応ずるしかなかったという(254頁)。
 ジャッキーの訴訟が契機となって、(収入と財産がある)子どもの保護のためにカリフォルニア民法が改正され、「子どもが労働で得た収入から、税金、生活費、教育費、弁護士費用(!)等を控除した金額の2分の1以内を未成年の子のために保持することを裁判所は命じることができる」旨の文言が挿入されたが(1939年改正民法33条。「ジャッキー・クーガン法」と呼ばれている)、同条項に基づいて親に対して裁判所命令を求めた子役は一人もいなかったという(257頁)。

 余談だが、実はわが国の民法にも、子役のような収入のある子どもにはきわめて不利な条文がある。民法828条但書である。
 同条の本文は、子が成人に達した時に親権者(親)は遅滞なくその管理の計算をしなければならないと規定する。子が成人=18歳になったときに、親は成人した子に対して子が成人するまでの収支報告をしなければならないのであるが、子が成人した時にこの報告をした親など、少なくとも私の周囲には1人もいない。私もしなかった。
 普通の親子であれば、それで構わないのである。なぜなら、同条には但書きがついていて、子の養育および財産の管理に要した費用は、子の財産から得た利益と相殺したものとみなすという規定があるからである。つまり、子どもを育てるためにかかった費用(親にとってはかなりの出費である)と子どもの財産から得た利益(ほとんどの場合そんなものはない)とは相殺したことにする。
 ほとんどの子どもは財産など持っていないから、親から養育の費用を全額出してもらったとしても、成人に達した時に親に養育費などを返還する必要はない。しかし、子役のように未成年時代に収入があり財産を持っていた場合には、親はその財産を子どもの養育のために要した出費と相殺したと主張することができるのである。労働基準法にも子ども労働者の保護規定があるが(同法58、59条)、子役の保護にはなっていないだろう。
 わが国でも子役の財産を食いつぶした親の話を聞くことがあるが、子役時代の収入を親に費消された子どもとしては、親権の濫用を理由に親権喪失を申し立てるか(民法834条)、ジャッキー・クーガンのように親を相手に返還訴訟を起こすしかない。わが国で民法828条但書によって親に対して金銭の返還請求をした裁判例は私の知る限りない(後見人に対する返還請求の裁判例は何件か見たことがある)。
 
 本書はハリウッド映画史を背景にしながら、第2次大戦中のハリウッド、赤狩りマッカーシー時代のハリウッド(その最中のエリア・カザン事件など)にはほとんど触れていない。テレビが出現してからのハリウッド映画についてもほとんど触れていない。
 時代背景として描かれていたのは、1920年代のハリウッドに子役時代が出現した原因が当時の大恐慌にあったことくらいである。大恐慌のために職を失った父親が生活費を稼ぐためにわが子を子役として働かせたのである。
 本書が執筆された1987年頃は、まだセクハラ、パワハラなどは、(当時からハリウッドでは起こっていただろうが、)語る言葉すらなかったか、語ることもできなかったのだろう。本書ではチラッと触れられるだけである。セクハラ、パワハラ事件も含めたハリウッドの暗黒面は、ほかの本によるしかない。

 本書の巻末には登場人物の詳細な人名索引がついているが、ぼくとしては、子役が登場する映画の索引がついていればなお良かったと思う。
 ぼくは本書を読んで、ジャッキー・クーガン出演の「キッド」だけでなく、「わが谷は緑なりき」(ロディー・マクドウォール)、「ミス・アニー・ルーニー」(著者とシャリー・マクレーンが出ている)、「三十四丁目の奇跡」(ナタリー・ウッドが出ている)、「ブルックリン横丁」(ペギー・アン・ガーナ―が子役で初めてアカデミー特別賞を受賞した)、「怒りの葡萄」「緑色の髪の少年」などを、子役に焦点を当ててもう一度見てみたいと思った。

 2022年4月21日 記

桜田淳子「眉月夜」ーーラジオ深夜便

2022年04月15日 | テレビ&ポップス
 
 「けさ」というか「ゆうべ」というか、4月15日午前3時40分すぎに目が覚めてしまい、ラジオをつけると、NHKラジオ深夜便から桜田淳子の曲が流れてきた。

 今朝のパーソナリティーは村上里和さんで、3時台は「桜田淳子特集」だった。2時から12曲かかったらしいが、ぼくが聴きはじめたのは終わりから3曲目だった。この曲と次にかかった曲は、桜田淳子らしいあまり上手いとはいえない歌だった。
 ところが最後にかかった「眉月夜」という曲は、ぼくは初めて聞いた曲だったが、すごくいい曲だった。朝起きてから調べると、小椋佳作曲、茅野遊作詞、1983年のリリースで、桜田淳子の歌手として最後の曲だという。1983年はぼくが脱サラした年、桜田淳子どころではなかったのだろう。
 曲も歌詞も、そして桜田淳子の歌い方もいい。歌も随分上手になっていた。
 ぼくは「眉月夜」なる月がどんなものなのか知らないが、おそらく眉のような形をした細い月がうっすらと夜空を照らしている夜なのだろう。

 山口百恵の「さよならの向うへ」に匹敵するとぼくは思ったが、そうはならなかった。何と言っても曲名が悪い。多くの人にとって「眉月夜」では何のイメージもわかないだろう。小椋佳が歌うのならともかく、桜田淳子の歌手生活最後の曲の題名としては可哀そうすぎないか。歌がいいだけにもったいない。
 桜田淳子が再デビューするということが話題になってからも既に10年以上経つけれど、再デビューは実現していない。村上里和さんが、あの穏やかな声で(この夜かかった桜田淳子の曲を)「子どものころに聴いた懐かしい歌」と語っていたが、そういう人々の思い出の中で生きるのもいいではないか。
 
 ※ 冒頭の写真は、数か月前に、偶然ノートの中から出てきた桜田淳子の下敷き。エスエス製薬の宣伝用と記憶していたが、グリコのコメッコの宣伝用だった。裏側は1977年4月から1978年3月までのカレンダーになっている。

 実は、田中茂範「文法がわかれば英語はわかる!」をノートを取りながら読もうと思って、下敷きを探していたら、この下敷きが出てきたのである。
 この本の中に、 “I' d ~” と “I used to ~” の違いについての説明で、“I' d listen to the radio.” と “I used to listen to the radio.” という例文が出てくる(72頁)。“I would ~” は過去を懐かしむ気持ちを表し、“I used to ~” は過去と現在で状況が異なることを表している、“I used to ~” の場合は現在では「~」をしていないのに対して、“I' d ~” の場合は現在でも「~」をしているかもしれないと説明がある。
 この例文は、カーペンターズ「イエスタデ―・ワンスモア」の “When I was young, I' d listen to the radio waiting for my favorite song. ” という1節が出典(?)ではないかと思う。
 知り合いの英語教師から聞いた話だが、生徒たちに英文を暗記させるには15ワードの文章がもっとも適切であるという英語教育学の知見があるそうだ。この知見を聞いた時にまっ先にカーペンターズのこの1節が思い浮かんだ。数えてみるとまさに15ワードだった。
 同時に思い浮かんだ、ピーター,ポール&マリーの「500マイルも離れて」の “If you miss the train I' m on, you will know that I have gone.” もぴったり15ワードだった。中学生だったぼくが50年以上経った今でも覚えているのだから、「暗記例文=15ワード」説はかなり信憑性が高いのではないかと思う。

 2022年4月15日 記

佐々木朗希投手、完全試合!(2022年4月10日)

2022年04月11日 | あれこれ
 
 佐々木朗希投手(ロッテ)が完全試合を達成した。歴代最年少、20歳5か月での快挙だそうだ。
 連続13打者からの奪三振は日米の新記録、奪三振数19というのも日本歴代タイ記録だそうだ。
 久しぶりに野球ネタで興奮した。ちょうど新聞休刊日だったので、コンビニでスポーツ新聞(スポニチ)を買ってきた(上の写真)。150円。
 佐々木投手のエピソードだけでなく、歴代の完全試合達成投手や奪三振記録のなかに、昭和の野球少年にとって懐かしい名前をたくさん見い出した。
 まさに “ぼくの nostalgic journey” となった。

 これまでに(日本の球界で)完全試合を達成した投手の名前が懐かしい。
 第1号が1950年6月20日の藤本英雄(巨人)、ぼくが生まれた年のことだった。
 第2号が武智文雄(近鉄)、3人目が宮地惟友(国鉄)、以下、金田正一(国鉄)、西村貞朗(西鉄)、島田源太郎(大洋)、森滝義巳(国鉄)、佐々木吉郎(大洋)、田中勉(西鉄)、外木場義郎(広島)、佐々木宏一郎(近鉄)、高橋善正(東映)、八木沢壮六(ロッテ)、今井雄太郎(阪急)、槙原寛己(巨人)、そして佐々木朗希が16人目である。
 バッテリーを組んだ女房役(女性蔑視?)の捕手の名前も懐かしい。
 和田博実(西鉄)、土井淳(大洋)、根来広光(国鉄)、種茂雅之(東映)など。
 ぼくが物心ついたころは、藤本はすでに現役を引退しており、解説者をしていたように思う。武智、宮地は微妙だが、コーチだったかもしれない。申し訳ないことに、田中勉だけは記憶にない。佐々木姓が3人もいるのも偶然か、それとも3人とも東北人の粘り強さを持っていたのか?ぼくが知っている佐々木姓の知人は全員東北出身である。

 完全試合を達成した投手は、意外とエース・クラスの大投手ではないという印象を持っている。巨人でいえば、別所、藤田、堀内、江川、桑田など、西鉄の稲尾、中日の権藤、星野、阪神の小山、村山、広島の津田、大野、最近では、野茂、黒田、ダルビッシュ、田中将大、大谷など、いずれも完全試合は達成していない。
 歴代の中で大投手といえば金田くらいか。そういえば、佐々木朗希のフォームは金田を思い起こさせる。金田のほうがゆったりとしたフォームで、佐々木のほうがダイナミックだが、長身から投げ下ろすしなやかさは金田を思い出させる。
 佐々木投手の投球の時の左足の上げ方は、大相撲の阿炎(あび)の四股の美しさと似ている。

 ちなみに、これまでの連続打者奪三振記録を持っていたのが、梶本隆夫(阪急)と土橋正幸(東映)(の9打者連続)というのも懐かしい。
 一時期の阪急は、梶本、米田、足立などの好投手がそろっており、親会社のカラーを反映した都会的なチームだった。球団旗も格好よかった。東映の土橋は駒沢球場で実際に見たことがある。日本橋高校だったかを卒業した江戸っ子で、キャッチャー山本八郎、張本、毒島、ラドラなどの時代である。

 佐々木投手が県立大船渡高校、松川虎生捕手も市立和歌山高校という公立高出身のバッテリーというのもいい。岩手県予選の決勝戦で、佐々木投手の登板を回避させた監督が批判されたことがあったが、あの時の監督の英断も素晴らしかった。
 高校時代の佐々木の肩を心配した大船渡の監督が、花巻東の監督に相談したところ、大谷の主治医を紹介してくれて、その医師が佐々木の疲労骨折を発見したというエピソードもあるらしい。
 佐々木投手の大成を期待しよう。もう大成しているのかもしれないが。
 
 2022年4月11日 記

仮定法現在(その4)

2022年04月09日 | あれこれ
「仮定法現在(その3)」の追記

 Quirk(R.Quirk et al., “A Comprehensive Grammar of the English Language”(Longman, 1985)pp.1012-3)や 、Biber(D.Biber et al., “Longman Grammar of Spoken and Written English”(Longman,1999)pp.180, 667 et seq.)を探したけれど、イギリス英語およびアメリカ英語における仮定法現在の歴史的変遷についての記述は見当たらなかった。
  
 ただし、Quirkの本には、「将来の必要、計画、意図を表す動詞等に続くthat 節において、・・・イギリス英語では(仮定法現在よりも)推量の(putative)“should”のほうがはるかに一般的である。アメリカ英語、イギリス英語ともに、この文脈では、時として(occasionally)直説法も使われる。/一般的に言えば、仮定法現在はイギリス英語よりもアメリカ英語においてより頻繁に見られる。イギリス英語において(仮定法現在が)見られるのは主として公的、儀礼的な(formal)場面である」と書いてあった.
 なお、同書には、イギリス英語においてもthat 節内の仮定法現在の使用が増えつつあるようである、That 節内の行為主語がある行為を行なうことを意図している場合には、直説法より仮定法が用いられることのほうがはるかに多いとも書いてあった(R.Quirk et al., ditto.)。

      
 なお、D.Crystal,“The Cambridge Encyclopedia of the English Language”(Cambridge University Press, 2nd ed., 2003)によれば、古英語(Old English)と中世英語(Middle English)とを隔てる画期となったのは、1066年のノルマン征服による社会の変化だが、ノルマン征服によってただちに古英語が中世英語に置き換わったわけではなく、(征服から)1世紀を経た文書も、アルフレッド王政時代(871-99)に始まったWest Saxon 語(方言?)で書かれていた、という。
 中世英語の時代は、12世紀の初頭から15世紀中葉までとされる(pp.30, 34)。この中世英語はその後の英語の発展に重要な影響を与えたが、その1つとして、同書は、will、shall、mightなどの法助動詞(modal verb)が新たな役割を帯びるようになったことを特記している。そして、これら(will、shallなど)の意味は、後期古英語の仮定法(subjunctive)の意味と(この頃には)すでにオーバーラップしつつあったと指摘している(p.45)。

 そうだとすると、suasive verb に続く that 節の中の動詞は、後期古英語においては「仮定法現在(原形)」だったが、12世紀以降の中世英語の時代には「should +原形」もオーバーラップして用いられるようにな(り、その後「should +原形」に置き換わ)ったということだろう。
 12世紀以降といえば、「マグナ・カルタ」(1215年)に当たってみたいところだが、ぼくは定年に際して、田中秀央『マグナ・カルタ』(東大出版会)を同僚にあげてしまった。よもや、定年後に「マグナ・カルタ」に興味がわくなどとは思ってもみなかったのである。コロナが収まったら図書館に借りに行くしかない。
 ・・・と書いたが、田中訳『マグナ・カルタ』はラテン語からの邦訳だったことを思い出した。12世紀の英語で書かれた「マグナ・カルタ」はあるのだろうか。

 
 ※上の写真は今日の散歩で見かけた公園の草花。

 なお、「仮定法現在(その3)」の末尾で、「イギリス英語では最近仮定法現在が使われることもあるというが(江川、安藤など)、晩年のモームも使ったことがあるのだろうか」と書いた。しかし、モームを渉猟して膨大な例文を収集した納谷ほか『モームの例文中心 英文法詳解』に、「仮定法現在(原形)」の例文としてモームの文章が掲載されていないのだから、モームは仮定法現在は使わなかったということだろう。

 2022年4月9日 記

石神井公園 お花見(2022年4月2日)

2022年04月02日 | 東京を歩く
 
 うららかな日ざしに誘われて、石神井公園まで花見に行ってきた。
 部屋の中にいるときに感じたほど暖かくはなかったが、肌寒いというほどでもなかった。

 東京の桜は昨日あたりが満開で、そろそろ散り始めていたが、日ざしがあったので今日のほうがきれいに春空に映えていた。
 残念なことに、人だかりが凄すぎてゆっくり歩いたり写真を撮ったりすることができなかった。でもぼく自身もその雑踏の一人だから文句は言えない。

   

 運動場(旧日銀グランド)では子どもたちが野球の練習をやっていた。小学校就学前後のような小さな女の子たちのチームもあった。
   

 池の畔に植えられた柳の枝が垂れ下がるすがたは、中国の蘇州を思わせる。実際の蘇州には行ったことはないが、「蘇州夜曲」から想像する蘇州である。
   

 帰り道、道沿いの都立大泉高校の校門から眺めた桜の並木道。以前は構内に自由に入れたのだが、今年は「コロナのため入構禁止」の立札が立って、門扉が閉まっていた。
       

 さらに何枚か撮ったのだが、どこで撮ったか分からなくなってしまった。

   

 朝のNHKラジオで、「ひこばえ」という言葉を知った。桜の木の太い幹から生えている小枝のことのように言っていたが、広辞苑では「ひこばえ(孫生)」とは、伐った草木の根株から出た芽とある。
 いずれにせよ、下の写真のような太い幹に生えた新しい細い枝に咲いた桜の花も元気を感じさせてくれる。
       

 桜以外の草木もいくつか。
 松は桜に負けない存在感をもって緑の葉が日ざしに輝いていたし、ハナミズキはようやく芽吹き始めていた。

      
      

 足元に目をやると、道路沿いの柵の内側につくし(ん坊)が3、4本芽(?)を出していた。見えるだろうか?
   

 約1万2000歩の散歩だった。

 2022年4月2日 記
 

きょうの軽井沢(2022年4月1日)

2022年04月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 今朝、NHKラジオ(R1)の天気予報を聞いていたら、「軽井沢は積雪が6センチ」と言っていた。
 東京もやや寒かったが、さすが軽井沢は雪まで積もっているのか。

 現在の軽井沢の雪景色を見たくなって、軽井沢町役場、長野国道事務所、気象庁などのHPに載っている定点カメラの映像を眺めた。
 冒頭の写真は、気象庁監視カメラの「浅間山(鬼押)」に見る浅間山の雪化粧。
 下の写真は、長野国道事務所のHPから、順に、長倉(南軽井沢交差点西)、鳥井原、追分の画像。

   

   

   

 そして最後は、軽井沢町役場前の国道18号の現在。
 道路の雪はとけているが、役場内の植え込みには雪が積もっている。

   

 どの写真も、曇り空で、寒々としている。やっぱりぼくには永住は無理だっただろう。

   *   *   *

 ところで、きょう8時少し前のNHKラジオで(番組の名前は忘れた)、山本コータロー “岬めぐり” が流れていた。“岬めぐり” はぼくの好きな曲の1つである。26歳のころ、同僚とドライブに行った伊豆西海岸の大瀬崎を思い出す。
 なんで “岬めぐり” かと思ったら、司会の三宅民夫さんのリクエストだという。
 今日の放送は彼の最終回だという。“岬めぐり” は、彼が大学を卒業した年に流行していた曲で、友と別れて一人旅をする気持を歌ったこの曲が心にしみたと語っていた。

 正直なところ、ぼくは彼の語り口が苦手だった。
 ぼくは教員になった最初の新任研修で、NHK元アナウンサー室長(?)の大沢さんという方から「口語によるコミニュケーション」の講義を受けた。話し言葉によるコミュニケーションがいかに難しいかということを実例から学ぶことができた。
 彼はわれわれ新米教員に向かって、「もし学生の答案の出来が悪かったときは、学生の頭が悪いと思う前に、皆さんの話し方が悪かったのではないか、講義がきちんと学生に届くように話していたかを反省して下さい」と言われた。出来の悪い答案に出会うたびに、あの大沢さんの言葉を思い出して「伝わらなかったのかな」と反省した。
 元NHKアナウンサーから語り方を学んだ一人として、ぼくは正統派NHKアナウンサー的なしゃべり方が耳に心地よい。 

 しかし別れと出会いの日である4月1日に、“岬めぐり” をリクエストする三宅さんには若干の共感を覚えた。少し歳は若いけれど、同時代の人だったのだ。
 
 ぼくのゼミの卒業生たちも、みんなそれぞれの思いを抱いて何年目かの4月1日を迎えていることだろう。

 2022年4月1日 記