豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

まだまだ続く豪徳寺 -3 わが生家の跡

2010年07月18日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 ぼくの子どものころは、豪徳寺近辺は小さな民家が立ち並ぶ庶民的な住宅街だったが、今では、もちろん民家もあるけれど、基本的に学生用のアパート街になってしまった。

 かく言う私の生家の跡にもワンルームくらいの2階建てのアパートが軒を接するように2軒立っている。
 隣りの家も裏の家も同じような状況で、もはやどの辺がわが家の敷地の境界だったのかも分からない。

 わが家の近所の寿司屋で、同級生の子がいたFさんの寿司屋はなくなっていたが、Fという表札の家は残っていた。
 当時、このFさんが所有するアパートに、Mさんという今でいうなら「お水」系らしい女性が住んでいた。夕方になると、Mさんは派手な衣装と化粧でアパートの門口に現れ、ぼくたちが遊んでいるわきを抜けて豪徳寺駅の方へしなしなと歩いていった。
 その手の人が持つ四角い化粧バッグを腕に提げて、漫画の“ベティーちゃん”が大人になったような人だった。

 当時ぼくは巨人の宮本敏雄選手が好きで、自分のユニフォームの背番号にも40番をつけていた。そのせいもあって(?)、ぼくはMさんが通りかかるといつも緊張した。そして、その緊張を一緒に遊んでいる友達に気取られないように取り繕わなければならなかった。
 実は一緒に遊んでいた友達もみんな、彼女のことを相当意識していたのだった。

 ぼくがトリュフォーかフェリーニだったら、ぼくの自伝的な映画に絶対にMさんを登場させるだろう。
 演ずる女優さんは誰がいいだろうか。“ペーパー・ムーン”で、ライアン・オニールが引っかけた女を演じていた女優さんのような感じなのだが。

 いつの間にか50年が過ぎて、ぼくは当時のMさんよりも、おそらく2倍以上の年になった。

 2010/7/9 撮影

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まだまだ続く豪徳寺 -2 人形焼の明菓堂

2010年07月18日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 この店は、昭和30年代の人ならずとも知られた豪徳寺の有名店だろう。

 豪徳寺駅の(北口?)改札を出ると、真ん前にあって店先から玉子とメリケン粉(?)が混ざって焼ける匂いがプーンと漂っていた。
 人形の形は大福様とか恵比寿様とかいった古典的なものだった(と思う)。

 店内でも食べることができ、店にはいつもおばあさんがいたような気がする。
 店内の匂いが記憶に残っている店では、この人形焼の他にも、コロッケを揚げる匂いが漂っていた石川屋、“蔵王屋豆腐店”(この店も同級生の家だった)、名前は忘れてしまったが牛乳屋などが思い浮かぶ。
 牛乳屋は子どもの背丈くらいの高さまで壁に白いタイルが貼ってあり、大きな銀色の冷蔵庫が置かれていて、注文すると分厚くて重そうな扉を開けて、なかから牛乳を取り出した。アイスクリームも売っていた。「匂い」というより、ひんやりとした冷気が印象に残っている。

 小津安二郎の映画の中には、こんな昭和30年代の商店街の佇まいが描かれたシーンはないだろうか。彼の映画には、撮影当時は何でもないような風景だが、今となっては「よくぞ映像に残しておいてくれた!」といったシーンがたびたび登場する。 

 話は戻って、明菓堂だが、先日歩いた時はシャッターが閉っていて、並びのモス・バーガーで喋った豪徳寺在住の友人の話では、最近は営業をしていないらしい。
 マクドナルドやモス・バーガーなどにお客を食われてしまったのだろうか・・・。

 2010/7/9 撮影

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まだまだ続く豪徳寺 -1

2010年07月18日 | 玉電山下・豪徳寺

 せっかく雨の中で写真をたくさん撮ってきたので、豪徳寺ネタをもう少し。

 豪徳寺商店街そぞろ歩きのつづきは、おもちゃ屋の“とばり”。
 ここは、くだんの友人が店主に尋ねたところ、昭和33年だか34年だかに開店したという。

 ぼくが豪徳寺に住んでいたのが昭和35年までだから、時期はあっている。
 そして、ぼくの記憶でもあの辺りにおもちゃ屋がった。先日通りかかった時は、エポック社などのブランド物が店頭に置いてあった。

 当時(昭和30年代)は、正月にお年玉をもらうと、その店か通称「うえの市場」近くの玩具屋で小出信宏社や任天堂の玩具やゲームを買った。
 しかし、日常的に買ったのは、三角ベースをやるためのゴムまりくらいだった。いずれにしても、かつてはもっと駄菓子屋風のジャンクな(?)店だったように思う。
 
 前に書き込んだ西鉄ライオンズの稲尾和久投手がボタ山の前で投球練習しているブロマイドは、この店の籤であてたはずである。
 古新聞を20センチ角くらいに切って三方を(二方だったかも)糊で閉じた手製の袋の中に野球選手のブロマイドが1枚づつ入っているのが、数十枚束ねてビニール紐で柱の鉤からぶら下がっていた。
 店の人にお金を払ってから、目星をつけたやつをビリッと紐からちぎって取るのである。

 中味を覗こうと思えばまったく不可能ではなかったが、覗かないのがルールだった。お気に入りの選手が出てくれば喜び、しょうもないのが出た時はがっかりする。
 そのこと自体も楽しみだったのだろう。

 そんな店があったのだが、それが今も残る“とばり”さんなのだろうか。ちなみに、玉電の線路方向に少し歩いたところに「戸張」という表札の家もあったように思うが、記憶違いだろうか。

 2010/7/9 撮影

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久しぶりの豪徳寺-14 “室まち”

2010年07月12日 | 玉電山下・豪徳寺
 上保菓子店から豪徳寺駅の方へ戻る右手にある和菓子屋さん。

 そこの娘さん(といってもぼくより年上だと思う)が、NHKのアナウンサーになったと聞いた。ひところ室町アナウンサーという人が確かに画面に出ていた。

 そして軽井沢の食べ物ガイドブックを見ると、星野温泉近くにある“室町” という日本料理屋が、同名の元NHKアナウンサーの経営だと紹介されている。

 ぼくの記憶と風の噂が間違いでなければ、これらは同じ人物ではないかと思うのだが。

 2010/7/9 

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久しぶりの豪徳寺-13 “上保商店”

2010年07月12日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 お不動さんから東に向かうと、かつてはドブ川が流れていて、そこにかかる橋を渡ると、右手が“ウワボ菓子店”だった。

 紅梅キャラメルをせっせと買いに行った店である。お目当ては中に入っている野球カードで、キャラメルの方は裏のドブ川に捨ててしまうこともあった。
 その紅梅キャラメルの本社兼工場はウワボの前の道を東松原方面に10分弱歩いたところにあった。
 何度か景品の交換に行ったことがある。

 いまでは“豪徳寺煎餅 上保商店”という看板が掛っている。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-12 “お地蔵さん”

2010年07月12日 | 玉電山下・豪徳寺

 そのお不動さんの境内の東のはずれに立っているお地蔵さん。

 近所でも有名ないたずら坊主が、このお地蔵さんによじ登ったのはいいが、お地蔵さんもろとも倒れて下敷きになり、大怪我をするという事件があった。
 ぼくより2、3歳年上の子だった。いたずらっ子ではあったが、年下の子をいじめるような子ではなかった。

 美空ひばりの“花笠道中”や、三橋美智也の“夕焼け空が真っ赤っか ♪”なんて唄が町に流れていた頃である。(ぼくは映画“三丁目の夕日”の失敗の一つは、当時街に流れていた唄をBGMにかけなかったことだと思っている。)

 あの子と一緒にひっくり返った当時のままのお地蔵さんなのだろうか・・・。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-11 “お不動さん”

2010年07月12日 | 玉電山下・豪徳寺

 わが家のすぐ近くにあったお不動さんの参道(?)。
 昔はこんなに木が茂っていなかったように思う。

 奥の階段の下あたりで缶けりや長馬(ながうま)などをして遊んだ。

 長馬など結構危険な遊びだった。前の奴の股ぐらに頭を突っ込んで馬になり、敵が助走をつけてその馬に跳び乗るのである。特定の馬(もちろん人間)に集中的に跳び乗ったりもした。もちろんそいつはたまらずに潰れるのだが、「ブッ潰れ!!」などと騒いで、攻撃が続く。
 敵が全員飛び乗ってもつぶれなければ、先頭の一人だけ立っているやつが、敵の最後に飛び乗ったやつとじゃんけんをして、勝てば攻守交代となる。
 今だったら、PTAが禁止するだろう。

 お不動さんの東南の崖の下には戦争中の防空壕が残っていて、これもぼくたちの格好の遊び場になっていた。

 今でもこの辺の子どもたちはお不動さんで遊んでいるのだろうか。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-10 “石川屋”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺

 今回久しぶりに豪徳寺を訪ねた目的の一つは、石川屋の写真を撮ることだった。

 石川屋は肉屋だが、ぼくの昭和30年代の思い出の中では石川屋はコロッケ屋である。当時の土曜日の昼食は決まって石川屋のコロッケと食パンだった。
 勉強机のような机の引き出しから衣のついたコロッケを取り出して揚げていたのだが、勉強机と食べ物というのがミスマッチで印象に残っている。
 杉浦茂の“コロッケ五円の助”の時代である。

 石川屋が閉店したという情報は今も豪徳寺に住んでいる友人から聞いてはいたが、“ちい散歩”で石川屋の店頭で焼き鳥を売っている風景が写っていたので、まだ大丈夫かと思っていたが、おととい行ってみると靴屋になっていた。

 石川屋の右側の精肉売り場、柱にかかった大きな温度計、左手のコロッケ売り場の思い出は、ぼくの記憶の中だけのものになってしまった。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-9 “満来”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 玉電山下駅前路地商店街の、豪徳寺駅側の出口近くにあるラーメン店が、“満来”。

 今でも一番安いラーメンが驚くなかれ200円だという。

 この店は、店内に店主のボーリングの表彰状が飾ってあって、その点でも近所では有名らしい。古くから豪徳寺に住んでいる友人も、ボーリングには無縁の人だが、知っていた。

 その表彰状に書いてある名字から、ぼくの赤堤小学校の同級生の親戚が経営している店であることを、おととい一緒に飲んだ同僚が聞き出してくれた。
 おとといも飲んでから立ち寄ろうと思っていたのだが、ついつい話が弾み、10時半ころ飲み屋を出た時にはすでに店じまいしていた。

 * 玉電山下駅前路地商店街を豪徳寺駅側から眺めたところ。右側手前に“満来”がある。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-8 “大武工業”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺

 前に書いた玉電山下駅の真ん前にある大武工業。看板には「応接セット・喫茶椅子張り替え」と書いてある。

 昭和30年代には、山下駅前には、電動カンナの唸り音と一緒に、木工品の匂いが辺りに漂っていたことも思い出した。

 

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久しぶりの豪徳寺-7 “洋品店 フクヤ”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺

 玉電山下駅前路地商店街(ぼくの勝手な命名だけど)に並ぶ昔のままのお店、2軒目は洋品店“フクヤ”さん。

 こちらは屋号がしっかりと写真に写っている。洋品店が“フクヤ”(服屋)というのはきわめて分かりやすい。もっとも“福屋”さんかもしれないが。

 昭和30年代の豪徳寺商店街の洋品店といえば、最初に思い浮かぶのは、赤堤小学校の同級生の経営していた“トミヤ”だが、この山下駅前路地商店街の洋品店も忘れられない思い出がある。
 商店街の福引で、この洋品店の50円券が当たったことがあり、その商品券でハンカチをもらったというか、交換した。

 何十年も過ぎたある時、たんすの隅に眠っていたそのハンカチをみつけて、それ以来、今でもぼくの勉強机の引き出しにしまって保存してある。
 小学校時代は、ズボンのポケットに突っ込んではいたけれど、手なんか洗ったことがなかったらしく、新品同様とまではいかないが、50年以上昔のものとは思えないくらいのきれいな状態である。

 などと書いていたら、もうひとつ商店街の福引の景品で「鯨尺」(今時の人には分からないだろう)が当たったことを思い出した。今でいう30センチの竹製物差しを少し長くしたような物だった(50センチくらいか)。
 これも、この洋品店で交換したような記憶があるが、鯨尺などというものは洋品店で売られていたのかどうか、ちょっと自信がない。

 老夫婦が店番をしていたけれど、あの店が続いているのだとしたら次の次の世代になっているのではないだろうか。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-6 “山下駅前の帽子屋”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 ふたたび玉電山下駅前の路地に戻って、昭和30年代から残っているお店をいくつか・・・。

 1つめは帽子屋さん。
 
 山下の駅を松原寄りから出て豪徳寺駅方面に向かう昔ながらの細い路地には、当時から変わらない店がいくつも残っている。
 
 最初が改札を出てすぐ右手にある木工所。建物は変わったみたいだが、一昨日も健在だった。
 大武工業所というらしい。
 昔は電動カンナや電動ノコギリの音がぶんぶん唸って、ベッドか何かを作っていたが、今回はひっそりとしていた。

 同じく右手に、それこそ間口一軒の小さな店が3軒並んでいる。
 最初が帽子屋、つぎが洋品店、つぎが本屋である。

 まずはその帽子屋。屋号は確認し忘れた。
 赤堤小学校のころ、この店で野球帽を買った。前にも書いたが、最初からアルファベットの“A”のイニシャルが入った白の野球帽だった。
 赤堤の“A”だったのか、アルファベットの最初の“A”だったのかは分からない。

 あの野球帽子がどこからで見つかったら、ぼくの“Field of Dreams”になるのだけれど。

 おととい店頭を覗くと野球帽は見当たらず、中年向けの帽子が多かった。ぼくと一緒に店も年老いたのだろう。

 2010/7/9 

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久しぶりの豪徳寺-5 “河田保育園”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 豪徳寺ネタの5発目は河田保育園。

 玉電山下駅から松原方面に向かって最初の踏切の西側にある。

 ぼくが近所に住んでいた昭和30年代の初めには「河田母子寮」と呼ばれていた。

 河田母子寮にまつわる唯一の思い出は、その校庭で行われた映画の撮影を見に行ったことである。 夕暮れから夜にかけて行われた撮影では、フランキー堺が雨の中を傘をさして走りぬけるシーンが撮影されていた。
 雨など降っていなかったのだが、ADがシャワーのホースのようなもので雨を降らせていたのが印象的だった。

 一昨日飲んだ同僚は映画にも詳しく、昭和30年代初めのフランキー堺なら、昭和33年封切りの“私は貝になりたい”ではないか、と言う。
 いつか確認することにしよう。河田母子寮のシーンが写っているかどうか。

 ちなみに、この河田母子寮の北西の道路を挟んだ斜め裏に大毎オリオンズの山内和弘選手の家があった。

 * 河田保育園前の踏切を通過する玉電の車両。さっきのとは色違いの緑色だった。こちらのほうが玉電らしさがある。 

 2010/7/9 

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久しぶりの豪徳寺-4 “豆豆や”

2010年07月10日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 懐かしい店屋やその跡地についてはおいおい書くとして、今回一番びっくりしたのが、雨のそぼ降る山下商店街に、何と!“豆豆や”という店を発見したこと!!!

 豪徳寺駅を背中にして山下商店街を少し北に向かった右手、みずほ銀行の隣りにある。間口一軒ちょっとの小さな店である。
 看板には“たい焼きあん処 豆豆や”と記されている。
 いつ頃から営業ているのだろうか。看板の真新しさからすると、それほど時間は経っていないような感じだ。

 豪徳寺で“豆豆”と言えば、わが“豆豆先生の研究室”だけかと思っていたら、仲間がいたとは・・・。
 以前、京都の五条坂では“豆吉本舗”を“豆豆本舗”見間違えてしまったが、今度は間違いなく“豆豆や”であった。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-3 “玉電山下駅”

2010年07月10日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 さっそく玉電山下駅に向かう。

 ちょうどいい具合に、宮の坂方向から電車がやってきた。

 青色の2両連結で、ヨーロッパの路面電車のように洒落ている。
 今日ぼくを誘った同僚は、この玉電で通勤したくてわざわざ若林だか世田谷だかに居を構えたのだという。
 昭和35年に豪徳寺から引っ越してしまったぼくにとっては、黄緑とクリーム色のツートンカラーの2両連結の“いもむし”と言われていたらしい車両が最新型である。ただし、ぼくたち近所の小学生は「いもむし」などとは呼んでいなかった。
 小田急の箱根行きロマンスカーに“オルゴール電車”というのが走っていた頃である。オルゴールとは名ばかりで、ただ騒音をまき散らしながら玉電を跨ぐガードの上を通過して行った。

 ボディーの形状とカラーは変わってしまったが、昔とまったく変わらないゆったりとしたスピードで踏切を通過して行った。 

 2010/7/9

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