豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

『橋本福夫著作集Ⅰ』(早川書房)

2021年10月30日 | 本と雑誌
 
 『橋本福夫著作集Ⅰーー創作・エッセイ・日記』(早川書房、1989年)を図書館から借りてきて、読んだ。

 昭和28年(1953年)に、追分の青年たちを中心に湧きあがった浅間山麓米軍演習場計画反対運動へのかかわりや、堀辰雄との交流を橋本の側から知ることができないかと思っての読書であった。
 結論から言うと、演習場反対運動への橋本のかかわりは、本書ではまったく触れられていなかった。日記やエッセイに登場しないだけでなく、編者(大橋健三郎、井上謙治)が作成した年譜の「昭和28年」の項にも一切記載はなかった。
 橋本の日記は、1950年代から60年代は空白になっているというから、演習場反対運動だけが触れられていないわけではなさそうである。反対運動をになった地元の青年たちから求められて、助言や知人の紹介はしたが、積極的にかかわったことはなかったのだろうか。

     

 堀とのかかわりは、予想通りエッセイや日記にの中にたくさん出てきた。
 口絵の写真にも、雪の追分の分去れで撮った二人の写真が載っている。1940年頃の写真とある。今でも追分ではこんなに雪が降るのだろうか(上の写真)。
 橋本は昭和18年6月に追分の分去れ近くに茅葺きの古家を買って、追分での生活を始めた。その家には電気が通っていなかったためランプ生活を強いられたのだが、物資不足の折からランプの油を堀夫人から分けてもらったこともあった(308頁)。

 翻訳で生計を立てていた橋本がチェスタトンの「木曜日だった男」を訳出したところ、堀から読みたいという連絡があったので本を恵贈した。しかし、当初予定していた訳者が自分には訳せないと下りてしまったための代役だったこともあり、チェスタトンを十分に理解しないままの翻訳だった。そのため橋本の翻訳に堀は納得しなかったようで、堀の死後に橋本が堀の書庫に入ったところ、チェスタトンの著書が並んだ棚に、橋本の訳した「木曜日だった男」は置かれていなかったという(196頁)。
 しかしその後も橋本はチェスタトンの専門家と誤解されて、江戸川乱歩が編集する推理全集のチェスタトンの巻の編集を乱歩から直々に依頼されることになる。橋本が専修大学の教員だった時代に(年譜によれば1954年から1960年まで)、専大近くの古い喫茶店で乱歩と面談したエピソードが語られている(197頁)。

 他方、堀の著作からは知ることができなかった往時の追分の物語もたくさん出てきた。
 神戸以来の旧友だった山室静に請われて小諸の高原学舎(浅間国民高等学校)の設立にかかわり1945年)、高原学舎の閉鎖後には追分で開講された「高原塾」で無償で講師を務めたこと(1947年)、堀辰雄、片山敏彦らと季刊誌「高原」を発刊したこと、しかし堀が推薦した中村真一郎、福永武彦の起用を片山、山室が嫌ったこと(320頁)、賀川豊彦の影響を受けて1945年に追分に消費協同組合を設立し、さらに軽井沢購買組合を設立し、沓掛、旧軽井沢テニスコート脇にも販売所を設けたが採算がとれず、結局橋本は追分の自宅を売却して債務の返済に充て、東京に引き上げたという(1947~50年)(313~8頁)。ヤギの乳でチーズを作って販売を試みたが、コストがかかりすぎて売れなかったというエピソードも語られるが、橋本という人の行動力に驚かされる。
 追分の購買所が「すみや」の軒先にあったと荒井さんの本には書いてあったが、橋本の本には「すみや」のことは出てこなかった。「すみや」の主人らしき土屋さんは登場したが。

 演習場反対運動については触れられていなかったが、戦後まもなくの頃に、追分に占領軍向けの慰安所を設置するという町長の計画に反対して断念させたこと(319頁)、借宿の人たちが追分の人は「ずくなし」だといって嫌ったこと(318頁)、農地解放に伴って(かつては地主が務めていた)追分区長(今日でいう自治会長)の役を押しつけられたこと、しかし解放された土地の多くは別荘地化してしまったこと(311頁)など。
 冬の追分の寒さは厳しくて、万年筆のインクが凍って破裂したこともあったという(251頁)。

 今回の読書で一番気になったのは、1981年8月21日の日記だった。
 この日、橋本は堀さん宅にもらい物の羊羹を届けに行ったが留守だったので、追分会の用意した飲み場に出かける。「意外に感じのいい場所になっていて、郷ちゃんが作ったものだ」と聞かされる(285頁)。さらに、高原塾の教え子のところにも(油屋の小川)貢君と並んで「水沢君」が出てくる(319頁)。
 この「郷ちゃん」とは、ひょっとして、荒井輝允『軽井沢を青年が守った』に出てくる「水沢郷一」さんではないだろうか。

 橋本福夫の名前は、ぼくのなかでは、「サリンジャー」と「荒地」出版社とともにあった。
 橋本は、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」の日本で最初の訳者であるが、版元はダヴィッド社だし(1952年11月刊、題名は「危険な年齢」)、橋本が本邦初訳者であることはずっと後になって知ったことである。荒地出版社から出た「サリンジャー選集」4巻本の訳者に橋本は入っていないようだし、同選集には「ライ麦・・・」は入っていない。
 荒地出版社が出した何かの本の巻末に、あのサリンジャーの顔写真つきの「サリンジャー選集」の表紙か箱があしらわれた広告が載っていた記憶はあるのだが、あの選集と橋本がなぜ結びついたのかは今となっては思い出せない。

 しかし、今回橋本の著作を読むことによって、むかしの追分にかかっていた霧の一部を晴らすことができただけでなく、橋本福夫という人物についてのぼくの「?」も溶けた。
 推理小説をハヤカワ・ミステリでたくさん訳したり、日本で最初に「ライ麦畑でつかまえて」を訳したりしながら、同時に「トロツキー」3部作も訳した橋本という人の生い立ちや生き方を知ることができた。橋本の同志社の卒論はドライザー「アメリカの悲劇」論だったという。
 そして、青山学院大学(第2文学部)に移籍する際に(1960年)、かつて高原塾で夜間に公民館だったか西部小学校だったかに集まった地元青年たちに講義した思い出から、夜間部の講義に意義を見い出したこと(ぼくたちの学生時代には青学にも夜間部があったのだ!)、夜間部の教師としての矜持を語ったところには、20年間夜間部の講義を担当したぼくも強い共感を覚えた(203頁)。
 橋本の猫好きはぼくには無理だが、追分で越冬生活を送るには犬か猫が必要なのだろうか。

 2021年10月30日 記 


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堀辰雄 ある秋の出来事

2021年10月26日 | 本と雑誌
 
 この秋、堀辰雄を読み始めたのは、昭和28年(1953年)に起きた浅間山麓米軍演習場設置反対運動を記録した荒井輝允『軽井沢を青年が守った』(ウインかもがわ)を読んだのがきっかけだった。
 病院しかも眼科の待ち時間に読むのに程よい大きさの活字で、しかも薄い本を物色して、この本を選んだ。
 その中で、追分、三石、大日向、借宿の青年を中心に起こった演習場反対運動を支えた一人が、藤村の小諸学舎を経て追分の高原学舎(高原塾)を指導した橋本福夫だったことを知った。
 反対運動の青年たちは、堀の追分での葬儀に参列するために追分を訪れた橋本に支援を要請し、協力を得ることになる。
   
 
 橋本は、後に堀の宅地の一部を未亡人から譲り受けて家を建て、そこで生涯を終えたというから、堀との因縁は浅からぬものだったろう。
 堀と橋本の関係は、ぼくが読んだ堀に関する解説の類には出てこなかったが、興味が持たれるところである。橋本の側から堀との関係を知ることはできないだろうか。
 ※ 橋本の名前の記憶は、『サリンジャー選集』荒地出版社とともにあるが、彼の著作集(早川書房)には追分時代の随筆なども収録されているらしい。
 浅間山麓演習場計画が報道されたのが1953年4月3日、堀が亡くなったのが同年5月28日だから、堀が反対運動に直接関係をもつことはなかっただろう。しかし、堀にとって「信濃追分」はけっして「ペン1本で創り出した」文学空間(池内紀解説、『堀辰雄』ちくま文庫463頁)にとどまるものではなく、油屋を定宿とし、その火災による消失に遭遇したり、村に1、2軒しかない雑貨屋で購入した雑記帳の表紙を小品の題材にしたり、「O村の匂」いの漂うおようさんと出会った生身の場所である。

 幼年時代を過ごした向島さえ「他郷」と思っていた堀が最後に定住の地としたのが追分であり、堀が亡くなったときに、塩沢の火葬場に向かう棺をのせた荷車をひいたのは、高原塾の教え子でもあり、反対運動を担った油屋の息子ら地元の人たちだった(荒井書88頁)。
 その追分が米軍の演習場になるようなことを、堀がもし知ったとしたら無視できたとは思えない。

 ぼくのこの秋の軽井沢郷愁の旅はこれで終わりにする。
 堀辰雄の代表作を何冊か読んだぼくの感想を一言で言うと、堀は強じんな精神力(今でいえば鉄のメンタル)を持ったナルシストであった。
 作品全体は虚構だとしても、ヒロインが喀血する場面などのディテールは現実のものだろう。それを観察する著者のまなざしの背後に強い精神力を感じた。また、一度か二度会っただけの女性に思いを寄せながら、その彼女が自分に対して抱いているだろう気持ちを想像して細密に描写する著者に、強いナルシズムを感じた。
 しかも「菜穂子」を除けば、堀は、作家というよりは詩人であった。
 池内紀の解説は、「堀辰雄は、すこぶる強靭な作家であった」と言い(『堀辰雄 ちくま日本文学』ちくま文庫、460頁)、堀を「東洋の島国の幼いナルチス」と評する(同459頁)。

 この秋に読んだ堀の諸作品とともに、懐かしい、あるいはぼくの知らなかった戦争前の軽井沢について、様々の情報を与えてくれたのは、川端康成の『高原』(中公文庫)だった。何によって川端のこの本の存在を知ったのかは忘れてしまったが、小川和佑『“ 美しい村 ”を求めて』だったか・・・。
           

 2021年10月25日、東京の気温は10℃ちょっとまでしか上がらず、寒い一日だった。
 今年もあっという間に秋は去ってしまい、冬が近づいたようだ。散歩に出ようと決めている午後4時30分には、すでに日が落ち始めるようになった。
 今年の秋も、坂上弘『ある秋の出来事』は、読むことができなかった。
 50年近く前に、大泉学園駅前にあった大進書店の本棚に並べられた中公文庫の背表紙に書かれたこの題名の映像が今でもよみがえってくるのだが、「ある秋の出来事」という題名には強く惹かれながら、期待を裏切られる怖さからいまだに読むことができないのである。
 その代わりに、堀辰雄で今年の秋の時間を楽しむことにしたのだった。

   *    *    *

 堀辰雄の主要作品(ぼくが今回読んだものだけ)と略歴をまとめておいた。ぼく自身の備忘のためなので以下は無視して下さい。

 1904年(明治37年) 麹町区平河町で出生。父堀浜之助、母西村志気。浜之助の嫡男として届出。
 1908年(明治41年) ※母が上条松吉(彫金師)と結婚。堀は継父松吉を実父と思って育つ。
 1917年(大正 6年) 東京府立第三中学校入学
 1921年(  12年) 第一高等学校入学
  ※関東大震災に被災して母死去。
 1922年(  13年) ※室生犀星から芥川龍之介を紹介され、軽井沢で芥川、片山広子と交流。
 1925年(  14年) 東京帝国大学入学。
  ※犀星宅で中野重治らと知り合う。夏の軽井沢で犀星、芥川、萩原朔太郎、片山らと交流。
 1926年(  15年) ※犀星の招きで軽井沢に滞在
 1927年(昭和 2年) ルウベンスの偽画(岩波文庫『菜穂子ー他5篇』(以下「岩波」)         
  ※芥川死去。遺品の整理や『芥川龍之介全集』の編集に従事。
 1929 年(  4年) 不器用な天使(講談社文芸文庫『ルウベンスの偽画 風立ちぬ』)
  ※東京帝大卒業。卒論は「芥川龍之介論」(全集第5巻、「青空文庫」)。
 1930年(   5年) 聖家族(岩波) 
 1931年(   6年) 恢復期(岩波) 
  〃        燃ゆる頬(ちくま文庫『堀辰雄』。以下「ちくま」)
 1932年(  7年) 麦藁帽子(角川文庫『風立ちぬ・麦藁帽子・美しい村』。以下「角川」)
 1933年(  8年) 旅の絵、鳥料理(角川) ※軽井沢で矢野綾子と出会い、翌年婚約。
 1934年(  9年) 美しい村(角川)。※綾子と富士見のサナトリウムで療養。
 1935年(  10年) ※矢野綾子死去
 1936年(  11年) 狐の手套(新潮文庫『大和路・信濃路』。以下「新潮『信濃路』」)
 1937年(  12年) 風立ちぬ(新潮文庫『風立ちぬ』小学館文庫『風立ちぬ/菜穂子』)
           雉子日記(新潮『信濃路』)
 1938年(  13年) ※養父松吉死去。加藤多恵と結婚。
 1939年(  14年) 木の十字架(新潮『信濃路』)
 1941年(  16年) 菜穂子(岩波)、<晩夏(新潮文庫)>
 1942年(  17年) 花を持てる女(ちくま、講談社文芸文庫)、
           幼年時代(ちくま)
 1943年(  18年) ふるさとびと(岩波)
 1953年(昭和28年) ※5月28日、追分で死去(49歳)。

 2021年10月26日 記


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堀辰雄「幼年時代」

2021年10月24日 | 本と雑誌
 
 堀辰雄「幼年時代」を読んだ。
 図書館から借りてきた『堀辰雄 ちくま日本の文学039』(筑摩書房、ちくま文庫?、2009年)で。
 
 堀が母親の思い出を語った「花を持てる女」のなかに、養父がかつて同棲した女性のことが出てきた。彼女の名前が「およう」だったことに驚いて、「菜穂子」などに出てくる追分の旅籠「牡丹屋」の「おようさん」との関係を知りたくなった。
 ひょっとしたら、同じく幼少期の思い出を語った「幼年時代」にも、「およう」が出て来はしないかと期待して読んだが、出てこなかった。

 ただ一つ、母方の叔母である「およんちゃん」という人が出てきた。名前は少し似ている。
 「およんちゃん」は侘しい借家住まいをしている、さびしげな女性である。近所で「お妾さんの家だ」と言われていることを、幼い堀は耳にする。
 「菜穂子」で「おようさん」に向けられた「その美しい器量」とか「もう四十に近いのだろうに台所などでまめまめしく立ち働いている彼女の姿には、まだいかにも娘々した動作がそのままに残っていた」とか(岩波文庫『菜穂子ーー他5篇』164~5頁)、「この四十過ぎの女に今までとは全く違った親しさのわくのを覚えた。おようが・・・そばに座っていてくれたりすると、彼のほとんど記憶にない母の優しい面ざしが、・・・ありありと浮いて来そうな気持になったりした」(234頁)といった親密な感情は、およんちゃんに対してはなかった。

 おようさんは「幼年時代」を読んでも、謎のままに終わってしまった。よもや、片山広子ではあるまい。おようさんは「O村の匂が」漂う女性なのだから、違うはずだ。
 追分に、堀を魅了した地元の中年女性がいたということで満足するしかない。
 「幼年時代」に出てくる幼なじみのお竜ちゃんの「きつい目つき」は、堀が「風立ちぬ」でも「菜穂子」でも感じた女性の冷たい視線であろう。片山総子の眼ざしなのか。おとなしいたかちゃんに対する幼い堀の冷淡な対応も、成人後の堀(と思しき主人公)のおとなしい娘、たとえば「風立ちぬ」で、堀の夕飯を作りに「足袋跣し」(たびはだし)でやってくる村娘に対する冷たさの端緒を感じた。

 「幼年時代」の中で一番の印象深かったことは、「赤ままの花」という1章があって、そこに中野重治に対する温かい言葉が記されていたことである。
 ぼくは「詩」というのが苦手で、教科書に出てきた詩もほとんど記憶にない。しかし、二つだけ忘れられないフレーズがある。一つは(確か)西脇順三郎の詩の中の「四月の雨が燕の羽を濡らした」という一節で、もう1つがここに出てきた中野重治の「お前は赤ままの花を歌うな」という一節である。
 ぼくの高校の現代国語の教科書は筑摩書房のものだったが、そこに出ていた。何故かわからないが、いまだに心に残っているのはこの2か所だけである。4月に雨が降ると、ぼくはつばめの濡れた羽を思い出す。一方「赤ままの花」がどんな花なのかさえ知らないのだが、子どもの頃うちの庭にあった南天だか八つ手だかの赤い実を思い出させた。
 命令形だけど、決してプロレタリア作家に向かって非政治的な詩を歌うなと命じたのではなく、みずから心に封印したのだ。「お前」は中野自身だろう。誰かの解説に、中野重治に対する堀の友情は生涯変わらなかったと書いてあったが、「幼年時代」のこの部分だけでもそのことは伝わってきた。

   *    *    *
       

 あとは義務的な、残務整理的な読書である。
 『風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』(角川文庫)から「麦藁帽子」「旅の絵」「鳥料理」を読んだ。「『美しい村』ノオト」も読んだ。
 「麦藁帽子」には、軽井沢の万平ホテルかどこかで、室生犀星とすれ違う少女たちが室生にお時宜をして通り過ぎるのをみて、そういった少女が自分の恋人になることを夢見た堀が、「その夢を実現させるためには、私も早く有名な詩人になるより他はないと思ったりした」とあって、この詩人がけっこう俗な野心家であることがわかって安心した(角川文庫94頁)。
 「旅の絵」は、私の亡母の生地である須磨や戦前の神戸の町が出てくるところにだけ興味を持った。「鳥料理」は何のことか。
 ※ 下の写真は、中軽井沢の私学共済 “すずかる荘” の庭に餌をついばみにやってきた雉。ぼくの今回の堀との出会いが『大和路・信濃路』の「雉子日記」から始まったので。
    

 同じく、『堀辰雄 ちくま日本文学』から「燃ゆる頬」も読んだ。堀の一高時代の寄宿舎生活。同性愛がテーマなのだろうか。暦年体でいえば大学時代の怠惰な日々を描いた「不器用な天使」の少し前の時代である。
 追分、軽井沢が舞台でないと、堀の作品は精彩がないようにぼくには思えた。「燃ゆる頬」も「麦藁帽子」も海岸での避暑や旅行の場面が出てくるが、ぼくにはしっくり来なかった。
 「大和もの」というジャンルらしい「姥捨」「曠野」「樹下」はスルーした。そこまで付き合わなくてもよいだろう。

 これで、しばらく(永遠に、かも)堀辰雄とはさよならである。もし読むことがあるなら「晩夏」くらいか。題名に魅かれるが、ぼくが持っている本からも、図書館で借りてきたどの本からも漏れ落ちてしまっていた。

 2021年10月24日 記

 ※ もう1つ、堀の卒業論文の「芥川龍之介論」は必読であると丸岡明の解説に書いてあった。これは読んでみたい。全集に入っているのだろうか。(2021年10月25日 追記)
 --もちろん全集にも入っていたが、驚くなかれ、ネット上(青空文庫)で読むことができた! しかし期待したほど面白くはなかった。作品論で、人物論は意図的に避けていた。「菜穂子」の森於兎彦や「聖家族」の九鬼で満足しておこう。(追記2)

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堀辰雄『美しい村』(角川文庫)

2021年10月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 堀辰雄『風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』(角川文庫、2021年改版50版)から「美しい村」を読んだ。

 「美しい村」と「風立ちぬ」は手元にある新潮文庫に収録されているのだが、新字体(新漢字)、新かな遣いであることと、柴田翔、矢内原伊作、堀多恵子らの解説がついていたので、角川文庫を買ってしまった。断捨離しなければならないのに。

 「美しい村」(昭和9年、1934年)と「風立ちぬ」(同12年)は、「新潮文庫の100冊」(1988年)によれば、「著者中期の傑作2編」ということになる。
 処女作「ルウベンスの偽画」(昭和2年、1927年)から、「聖家族」(同5年)、「恢復期」「燃ゆる頬」(同6年)、「麦藁帽子」(同7年)、「旅の絵」(同8年)あたりまでが前期の作品、「晩夏」、「菜穂子」(昭和16年)、「花を持てる女」「幼年時代」(同17年)、「ふるさとびと」(同18年)などが後期の作品にあたる。「かげろうの日記」(同14年)も後期か。
 河上徹太郎の解説によれば、堀自身が「美しい村」によって「ルウベンスの偽画」以来の自分の青春文学には区切りをつけ、これから自分の本当の文学が始まると宣言しているそうだ(269頁)。
 ※ 下の写真は、人影もほとんどない梅雨時の軽井沢旧道(本通り。2017年7月)。あまり「美しい村」にふさわしい軽井沢の写真がなかったので・・・。
    

 もともとは、軽井沢ないし追分の「ある秋の出来事」を求めて、この9月末から堀辰雄を読み始めたのだが、最後のつもりの「美しい村」は、舞台は軽井沢だが、6月から梅雨を経て夏の始まり頃で終わってしまている。
 軽井沢の秋を訪ねるだけなら「菜穂子」でやめておけばよかったかもしれないが、堀自身とその周辺の人物に興味が湧いてしまったので、もうしばらく付き合うことにした。 

 丸岡明の解説によれば、「ルウベンスの偽画」「聖家族」のモデルは片山広子母娘であり、「聖家族」によって堀は文壇に確固たる地位を得たが、同時に現実社会では娘片山総子との間に軋轢を生むことになてしまったという(259~60頁)。堀は芥川の遺品を整理する作業の中で、片山から芥川にあてた手紙を発見したのではないかと丸岡は推測している。
 「美しい村」で、主人公がその近辺を徘徊しながら近づくことを避ける別荘の主、細木夫人は、庭に羊歯を植えさせたりしているから、「聖家族」の細木夫人で(「ルウベンスの偽画」でグリーン・ホテルにドライブした母娘には名前があったか?)、「恢復期」の「叔母」もその別荘を「羊歯山荘」と称していたことから、「美しい村」の細木夫人すなわち片山広子なのだろう。
 そして、つるや旅館に滞在しながら、毎日大きなキャンバスを抱えて写生に出かける少女は「風立ちぬ」のモデル矢野綾子である。こうして、「美しい村」の堀作品全体のなかでの位置が明らかになる。

 しかし、ぼくはそれらの人物よりも、細木夫人の別荘の庭に羊歯を植える宿屋(つるや)の爺や、スイス風のバンガロウに昨夏まで住んでいた2人の外国人の老婆、水車の道に面して2軒並んだ花屋の主人同士の兄弟げんか、サナトリウム院長の不機嫌なスイス人老医師レイノルズ博士、足の不自由な花売り、力餅を出す峠の茶屋の子どもたちのほうに興味が湧いた。
 ちなみに、水車の道を「本通りの南側」と書いているが(56頁。新潮文庫『美しい村・風立ちぬ』59頁でも「南側」)、堀の手書きの軽井沢地図をみても明らかなように、水車の道(聖パウロ教会前の道)は本通りの「北側」である(丸岡明解説262頁、下の写真)。
 この地図によって「軽井沢ホテル」の位置も知ることができる。郵便局(現在は観光会館)から本通りを挟んだ北西方向斜め向かい、聖パウロ教会の水車の道を挟んだ北東方向斜め向かいにあったらしい。現在は何になっていただろう。
 誰にあてたのか分からないが、この葉書には「神宮寺の枝垂桜がいま満開です」と書き添えてある。神宮寺には今でも枝垂桜があるのだろうか。あるとしたら、何時ごろ満開になるのだろうか。

   

 ぼくが若い頃に読んだ「美しい村」は昭和39年11月発行の新潮文庫40刷である(定価は90円!)。ぼくが中学3年、東京オリンピックの終了直後の出版である。受験を控えたこの時期にこんな本を読んでいたとは思えないから、高校に入ってから読んだと思う。
 あんな面倒くさい主人公の心の動きを当時の(今でも)ぼくが理解できたとは思えない。戦前の旧軽井沢を舞台とした風俗小説くらいに読んだのだろう。
 今回は、小川和佑『“美しい村”を求めて』や丸岡明の解説などを読んで、堀にまつわるあれこれの知識を得ているので、モデル小説として読んだ。 
 主人公は、まだ主人が来軽しない別荘の敷地内に勝手に入りこんでベランダで煙草をふかしたりしている。今だったら警備会社が飛んでくるだろう。のどかな時代だったのだ。

 「美しい村」で、秋の軽井沢を訪ねる心の旅は終わりにしようと思っていた。
 ところが、ぼくは、「菜穂子」に出てくる追分の老舗旅館牡丹屋の「おようさん」の曰くありげな書かれ方が気になっていたところ、「花を持てる女」ではもう一人の「おようさん」が向島に実在したことを知った。この二人の「おようさん」について、もう少し知りたくて「幼年時代」も読んでみることにした。
 堀が目ざした「ロマン」(=虚構)ではなく、現実の「おようさん」を知りたいのだが、「おようさん」は結局は「お杳さん」で終わるかもしれない・・・。                                                                                                                                                                                                                                     

 2021年10月22日 記


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堀辰雄『風立ちぬ』(角川文庫版)

2021年10月21日 | 本と雑誌
 
 用事があって池袋に出かけた。電車に乗って都心(池袋は都心か?)に出かけるのは、ほぼ半年ぶりのことである。

 堀辰雄の本を買って帰ろうと思って、ジュンク堂と西武の三省堂(かつてのリブロ)に立ち寄った。 
 堀辰雄ならどの書店でも文庫本の2、3冊は置いてあると思ってこの2軒を回ったのだが、わずかにジュンク堂に角川文庫の『風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』が1冊、三省堂に小学館文庫の『風立ちぬ/菜穂子』が1冊あるだけだった。ただし、この2冊とも2021年に重版されていた。
 『風立ちぬ 美しい村』は新潮文庫の旧版(昭和26年)を持っているのだが、旧字体、旧かな遣い、振りがな(ルビ)はほぼ皆無のため、ぼくには厳しかったので、『美しい村・風立ちぬ・麦藁帽子』(角川文庫、2021年改版50版)を買って帰った。
 新字体、新かな遣い、ルビもたくさんあり、しかも改版されて誌面がすっきりしている。表紙のカバーが白樺というのもいいが、少し明るすぎるか。
 
   
 毎年夏休みが近づくと、書店の店頭に「新潮文庫の100冊」とか「岩波文庫の100冊」、「角川文庫の名作100」といった冊子が置かれる(上の写真)。
 無料なので毎年持ち帰って取ってあったのだが、退職時の断捨離でほとんど捨ててしまった。手元に残っている冊子の中で、堀辰雄の本が入っているのは、1993年版の「新潮文庫の100冊」が最後だった。
 1988年版と1993年版では『風立ちぬ 美しい村』(もちろん新潮文庫)が入っていたのだが、2021年夏の「新潮文庫の100冊」では、堀の作品は一つも入っていなかった。いつから堀の作品は「新潮文庫の100冊」から消えてしまったのだろうか。

     
 ※ その後、この手の冊子が何冊か見つかった。「“ナツイチ” 集英社文庫 夏の1冊」の1993年、1995年、1996年、1998年[目録]の4冊と、角川文庫創刊50周年記念「’98 角川文庫の名作150」である(上の写真)。この中で、集英社文庫目録の1993年版から1996年版までは、「ヤング・スタンダード」というコーナーに堀辰雄「風立ちぬ」が入っていた。
 1996年版などは、巻頭の集英社文庫の特徴を示す見本として「風立ちぬ」が取り上げられているではないか! そこには、新かな、ルビ、巻末注のほかに、評論家・作家による解説、著名人による鑑賞、著者の年譜が付いていることに加えて、作品にゆかりのある写真が添えられている。その写真の中には、著者や当時の聖パウロ教会のほかに、何と「風立ちぬ」の節子のモデル矢野綾子の肖像写真まで載っている(下の写真)。
     

 「集英社文庫 夏の1冊」も「角川文庫の名作150」も、かつては旺文社や学習研究社の学年別雑誌の夏休み号の付録についていた「読書案内」のような趣向が凝らされていて、何とか若い読者層に読んでほしいという思いが伝わってくる。しかし「集英社文庫」目録の1998年版では「風立ちぬ」は落ちてしまっている。1996年版の努力にもかかわらず売り上げは伸びなかったのだろうか。
 「新潮文庫の100冊」の1994年版も見つかったが、この年もまだ「風立ちぬ・美しい村」が紹介されている。「集英社文庫」目録からも推測すると、どうも1998年頃を境にして堀辰雄はわが国の読書界からは消えていってしまったようだ(宮崎駿のアニメ映画に便乗して一時「風立ちぬ」だけが復活したようだが)。

    
 ぼくたちの中学生、高校生の頃は、夏休みの読書案内などには必ず堀の「風立ちぬ」「美しい村」「幼年時代」あたりが推薦図書になっていた。
 高1コース(1965年)8月号夏季特別号第2付録「*読書感想文に役立つ*世界日本名作への招待」には「風立ちぬ」が、高2コース(1966年)4月進級お祝い号第3付録「高2生の必読書100選」には「幼年時代」が入っている(後者には瀬沼茂樹らによる選定座談会もある。※上と下の写真)。
   

 時代は変わってしまったようだ。
 結核はもはや死に至る病ではなくなったし、そもそも感染する人もほとんどいない(ただし最近は微増傾向にある)。ぼくみたいに、高校時代に「陳旧性結核痕あり」などという診断を食らう若者も、今ではほとんどいないのだろう。
 ※ 下の写真(右側)は何年か前の堀辰雄文学記念館のポスター。左側に貼ってあったのは追分資料館の「村岡花子と軽井沢」のポスター。村岡と軽井沢はどんな関係だったのだろう。
   

 軽井沢は堀が描いたような「美しい村」でなくなって久しい。追分はまだ少しはましかもしれないが、それでも旧中山道も1000メートル林道も、さらには旧中山道と林道とを南北につなぐ小道さえもが舗装されて車が行きかうようになってしまった。
 どこに堀のよすがを偲べばよいのだろうか。「昭和も遠くなりにけり」である。昭和28年で時が止まってしまった堀はその点では幸せだったかもしれない。

 2021年10月21日 記
 ーー10月21日は「国際反戦デー」である。50年前のこの日(と4月21日)は多くの学生にとってデモに参加する日だった。「スケジュール闘争」とか揶揄されても。
 ※ 2021年10月30日 追記

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堀辰雄「聖家族」「恢復期」

2021年10月20日 | 本と雑誌
 
 堀辰雄『菜穂子ーー他5篇』(岩波文庫)から、「聖家族」(1930年)と「恢復期」(1931年)を読んだ。「ルウベンスの偽画」(1927年)は講談社文芸文庫『風立ちぬ ルウベンスの偽画』で読んだ。岩波文庫は「ルーベンスの偽画」と表記するが、小説の題名なども現代表記化してしまってよいのか。
 岩波文庫では、「ルウベンスの偽画」は本文も目次も解説もすべて「ルーベンス」に改められているのに、「楡の家・菜穂子・・・のノオト」も本文中では「ノート」と改められているが、目次や解説のなかでは「ノオト」のままになっている。直し忘れたのか、意図的なのか・・・。
 ※ 下は、現代表記化についての岩波文庫編集部の説明(290頁)。「残念ながら」の一言に無念さがにじんでいる。でも、漢字が苦手のぼくには助かる。読みやすく、かつ堀辰雄らしさが辛うじて残っている。
       

 昨日の「不器用な天使」(1930年)、「花を持てる女」(1932年)と同様、きょうの読書も、岩波文庫の『菜穂子』に収録されたものはとにかく読んでしまおうという残務処理的な動機からの読書だった。

 「聖家族」は、九鬼(芥川だろう)の告別式会場に向かう車の渋滞に巻き込まれた細木夫人(未亡人)母娘と、河野扁理(妙な名前だが、堀か)の物語。1930年の発表だから、堀は芥川の死から3年後には芥川の死をモチーフにした作品を書いていたのだった。「楡の家」(1934年)が最初ではなかった。

 細木の娘絹子が本郷の古本屋で、九鬼の蔵書印の押されたラファエロの画集を目にしたことを話題にする。その画集は、河野が九鬼から譲られたものだが、金に困った河野が古本屋に売ってしまったのだった。
 夢の中に出てきたラファエロの聖家族の女性のような人物が、細木夫人なのか絹子なのか、河野には分からない。
 「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。」で始まる「聖家族」には、芥川の死を受け止めようとする堀の心情が描かれているのだろう。

 「恢復期」は結核(肋膜炎?)からの恢復期にある主人公が、叔母から軽井沢の別荘に招待されて、Y岳のふもとの療養所から晩夏の軽井沢に移動し、そこでしばしの時間を過ごす。
 叔母の別荘は、前年まではスコットランドから来た老宣教師夫婦が住んでいた建物で、彼らの質素な生活が偲ばれる家具が置かれている。
 庭の小道の両脇に羊歯(シダ)が生えていることから、叔母はその別荘を「羊歯山荘」と呼んでいる。羊歯と熊笹と苔は軽井沢を象徴する植物だとぼくは思っているので、「羊歯山荘」という命名はいい。最近はやたらと西洋アジサイを植える家が増えているが、あの花が軽井沢に似合っているとは思えない。ブッドレアはいい。

 2021年10月20日 記


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堀辰雄「花を持てる女」「不器用な天使」

2021年10月19日 | 本と雑誌
 
 堀辰雄「不器用な天使」と「花を持てる女」を読んだ。
 図書館から借りてきた堀辰雄『風立ちぬ ルウベンスの偽画』(講談社文芸文庫)に収録された小品。返却期限が迫っているので、病院の待ち時間用に持参して読み終えた。

 「不器用な天使」は、堀らしき大学生が、槇という悪友たちとたむろす上野の「カフェ・シャノアル」の清楚な感じの女給(?)を好きになるが、悪友の槇が先に声をかけてしまう。その後、堀らしき男もデート(逢引?)に誘うが、槇の影がちらつく。やがてもっと猥褻な感じのバァで怪しい女給と知り合うが、彼女の中にシャノアルの女の幻影を感じるという話(まとめ方に自信はない)。島崎敏樹のいう「処女性」と「娼婦性」をかね備えた女ということか。
 小津安二郎の映画に脇役で出てくる坪内美子をイメージしながら読んだ。彼女は豊島岡女学校を出て、銀座でカフェの女給をしているところを誰だかに見出されて女優になたっという。
 しかし、この小説はあまり面白くなかった。

 「花を持てる女」は、予想もしなかったことに、なんと「およう」が登場する。それも追分の牡丹屋などではなく、向島の堀の養父との関係で出てくる。

 「花を持てる女」は、大震災で亡くなった堀の実母の思い出話である。
 震災で焼けてしまい、堀は実母の写真を1枚も持っていない。しかし、彼の記憶にはうら若い女の写真が焼き付いている。芸者のような着物をまとい、一輪の花を持った美しい女である。それが堀の記憶に残る唯一の母の写真である。実際の記憶にある母はもっと老けているが、堀はその写真の母を思い出す。

 堀の実父(堀浜之助)は裁判所の書記の監督を務めていて妻もあったが、どういう経緯からか堀の実母と知り合い(婚外子として)堀辰雄をもうけた。正妻は病弱だったため、堀辰雄は堀家の跡取りとして実父の平河町の屋敷で生まれ、育てられる。実母も同居した。妻妾同居である。
 ーーと読んだが、年譜によると、浜之助の正妻は国元に残っていたのだが、やがて上京したため、実母は同居をきらって平河町の家を出たというのが事実らしい。ーー

 堀が3、4歳の頃に、実母は堀を連れて平河町の家を出て親類を頼って向島に蟄居する。ほどなく実父は亡くなり、やがて実母は向島の彫金師上条松吉と子連れで結婚する。
 その松吉が堀の実母と知り合う前に同棲していたのが、なんと「およう」だった。おようは松吉が稽古に通った小唄の若い師匠で、松吉と2、3年同棲するが、松吉の留守中に松吉の弟子と関係をもってしまう。松吉はおようがその弟子と暮らすことを認めたばかりか、家財道具、仕事道具まで与えてしまった。
 --この小説では堀の父親は実名で登場するが、もし「およう」も実名だとすると、いよいよもって「ふるさとびと」の「おようさん」の行く末が読みたかったという思いが強まる。

 そんな経緯で「およう」と別れた後の松吉が出会ったのが堀の実母だった。二人は結婚して、賢婦だった堀の実母に支えられて松吉は仕事に精を出し、辰雄のことも可愛がる。辰雄は松吉を実父と信じて成長する。
 辰雄の実母は関東大震災で被災して亡くなり、それから10年ほど後に独り暮らしを通した松吉も辰雄にみとられて亡くなる。

 そんな松吉や実母が眠る圓通寺(講談社文庫では「円通寺」となっているが、google map を見ると「圓通寺」)を、成人した堀が妻を伴って墓参し、後日改めて一人で訪れる。
 圓通寺は堀の養家(松吉の家)に近く、請地駅から曳舟通りを歩いて行くとあるが、ぼくはこの辺の地理は不案内である。調べると、請地(うけじ)駅は東武伊勢崎線にあった廃駅で、現在の東京スカイツリー駅と曳舟駅の中間くらいにあったという。この近くには現在でも圓通寺が2つある。
 苔むした墓標には、辛うじて「微笑院」という実母の戒名の一部と、「大正12年9月1日」という没年(大震災の日付)が読み取れる。
 堀は圓通寺から請地駅に向かう途中、向島を歩きながら「他郷のものらしい気もちになって」歩いたとある(98頁)。堀にとって、向島も「故郷」ではなかったようだ。 

 堀は、実母が亡くなった後に、叔母から実父と継父(松吉)のことを知らされるが、そうと知っていればもっと父母に孝行しておけばよかったと悔やむ。実母が亡くなった後も、松吉は、病弱で転地生活が多かった辰雄を助けてくれた。
 ただし、巻末の「堀辰雄を語る座談会」で、佐多稲子は、堀はもっと以前からこの事実を知っていたはずだと語っている。ちなみに「カフェ・シャノアル」も上野ではなく銀座にあったはずだという。「現実よりも現実のもの」が語られているのだろう。

 堀は、今のところ『幼年時代』の続きを書く気はないと言っているが、『幼年時代』も読んでみたい。堀は、幼ない頃に一度だけ青山か千駄ヶ谷にあった実父の墓参りをし、その帰りに、堀が幼少期を過ごした平河町の家の近くを電車で通りかかった際に、母が「あそこにおまえが生まれた家があったんだよ」と話しかけたことや、お寺に黒い門があったことをおぼろげに覚えているという。

 今日の病院は、先生の人気があるうえに予約なしだったので2時間以上待たされたが、「花を持てる女」におようが出てきたあたりから、時間はまったく忘れてしまった。

 2021年10月19日 記


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堀辰雄『菜穂子ーー他5篇』(岩波文庫)

2021年10月18日 | 本と雑誌
 
 堀辰雄『菜穂子ーー他5編』(岩波文庫、1973年)を買った。新刊は品切れだったので、Amazon で一番安いのを買った。本体100円(税込)で送料が257円だった。
 最近の岩波文庫のような白地に緑色の模様のアート紙のカバーがかかったやつではなかったが、かえって岩波文庫らしい。新字体、新かな遣いに改められていて、ルビも結構ふってあった。
 「楡の家」「菜穂子」「ふるさとびと」の菜穂子3部作(というらしい)に、「菜穂子・覚書1,2」と「楡の家・菜穂子・ふるさとびと・のノオト」が収録されていてる。
 先に読んだ(図書館から借りてきた)小学館文庫の『風立ちぬ・菜穂子』には最初の2作しか入ってなかったので、この岩波文庫で「菜穂子」関連はそろった。巻末の解説(源高根)も役に立った。

 いちばんの収穫は「ふるさとびと」が、追分の牡丹屋旅館の出戻り、「おようさん」が主人公だったこと。
 ぼくは「菜穂子」を、幼くして母を失った男の「母」を求める小説と読んだが、それをもっとも強く感じさせたのが「おようさん」に対する都築明の思いだった。
 堀辰雄自身は19歳の時に関東大震災で母を亡くしており、必ずしも「幼くして」母を失ったわけではない。しかし本書の源高根解説によれば、堀は「ロマン」を書くことを目標にした作家であり、「小説家としての体験<フィクションを組み立てること>と、堀辰雄の人間としての体験<私の体験>」とは同じでないという(293頁)。
 堀にとっては、明が幼くして母を失い孤児になっていることの方が、自身の母に対する気持ちを「現実よりもっと現実なもの」(堀「詩人も計算する」源解説292頁より孫引き)として表現できたのだろう。

 「菜穂子」に出てきた「おようさん」と(牡丹屋に泊まっていた)法科の学生との「噂」など、もっと展開してほしかったが、「ふるさとびと」は、堀自身が「素描のようなものしかできなかった」と書いているように(「ノオト」289頁)、未完成の作品にとどまっている。
 登場人物のうちのだれが堀なのかも定かでない。「噂」のあった法科の学生なのか、レンブラント画集を眺めている美術史専攻の学生なのか、幼少時に「おようさん」と出会っている(都築)明なのか、後半に登場する森(芥川?)の紹介状をもって牡丹屋を訪れる男女連れのうちの男なのか。
 ぼくは、噂の立った法科の学生でも、美術史専攻の学生でも、成人した明でもいいから、「おようさん」と彼との物語を読んでみたかった。「三村夫人」や「菜穂子」との対比で、どのような「ふるさとびと」おようさんが描かれるのか、今ではかってに想像するしかない。

 追分に定住し、追分を故郷とした堀にとって、「楡の家」と「菜穂子」は序章で、「おようさん」こそ最後の作品になるべきだったのではないか。あるいは実生活で生涯の伴侶を得て、もはや「おようさん」との「ロマン」(虚構)を築く必要はなくなったのか。

 岩波文庫版『菜穂子ーー他5篇』に収録されている、初期の「ルーベンスの偽画」「聖家族」「恢復期」については、そのうち『美しい村』を書く機会に改めて・・・。

 2021年10月18日 記


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川端康成『高原』

2021年10月16日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 川端康成『高原』(中公文庫、1982年)を読んだ。
 この本は、軽井沢に題材をとった川端の昭和11年から13年頃の短編と随筆を収めた短編集であるという、小川和佑『“美しい村”を求めて』(読売新聞社、1982年)の紹介で読んでみたくなった。
 「軽井沢だより」(昭和11年)という随筆を最初に読んで、その後、短編小説「父母」「百日堂先生」「高原」ほかを読んだ。

 「軽井沢だより」は「文學界」を支援する明治製菓に対して、小説を書くことができないでいた川端が穴埋めとして執筆した、神津牧場(明治製菓が経営する牧場だそうだ!)から軽井沢までハイキングした折の旅行記である。
 旅姿(の汚さ?)からつるや旅館で宿泊を断られ、おなじ通り沿いの藤屋旅館に投宿することになる。
 藤屋がどの辺にあったのかをぼくは知らないが、その宿の窓から神宮寺の庭が見え、その庭を通りかかった河上徹太郎の奥さんに声をかけて、河上に会いに行くエピソードが語られている。

 軽井沢における風紀のやかましさなど、河上と軽井沢談義をする。軽井沢に到着した当初は、「かねて想像する、夏の軽井沢は虫が好かぬところ」だと言っていた川端だが、やがてこの地を気に入って別荘まで建てて、仕事をすることになる。
 堀の小説には(ぼくが読んだ限りでは)登場しない旧軽井沢の神宮寺が出てきたり、千ヶ滝の観翠楼や塩壺温泉が出てきたり、戦前昭和の千ヶ滝が出てくるだけでも興味深く読むことができた。
 ※ 下の写真は、本通りに面した神宮寺の入り口。右側にはかつて三陽商会のバーバリー売店がありその裏は同商会の夏季寮だったが、この辺りに藤屋旅館があったのだろうか。
      
      
 短編集全体の表題にもなった「高原」は昭和14年(1939年)に発表された作品である。
 この小説は、日本と中国との間の戦争がはげしくなりつつあった昭和14年当時の軽井沢の風俗を知ることができる点で、興味深く読んだ。ちょうど小津安二郎の映画によって昭和35年(1960年)までの東京の風俗や雰囲気を知ることができるのと同じである。

 懐かしい風物がたくさん登場する。
 「軽井沢たより」にも登場した藤屋旅館(この本(中公文庫版)が刊行された昭和57年当時は現存していたと水上勉の解説に書いてある)、藤屋旅館の窓越しに眺める神宮寺の庭が出てくる。カトリック教会(聖パウロ教会)が出てきて、キリスト教書店が2軒もあったことが出てくる。
 ※ 下の写真は神宮寺の本堂。新しそうに見えるから、川端が河上徹太郎夫人を見かけたころの建物とは違うだろう。この本に収められた「信濃の話」という講演録によれば、当時の神宮寺は「萱の屋根」で「黒ずんだ本堂の板壁」だったようだ(207頁)。
        

 軽井沢駅から白樺電車(草軽電鉄のあのカブト虫だろう)に乗って旧軽井沢に向かう外国人家族、旧ゴルフ場や、雲場の池の近くにあったというプール(軽井沢で泳ぐ人がいたとは!)が出てくる。貸馬屋が出てきて、貸自転車屋も出てくる。
 たしかに昭和30年代(40年代も?)までは貸馬屋というのが何軒かあり、貸し馬が町中を歩き、あちこちに馬糞が転がっていた。当時の軽井沢はほとんどが土道だったから、誰が片づけるでもなく放置されたままになっていたが、やがて土に還っていたのだろう。

 外国人の別荘に雇われた日本人の「アマ」の軽井沢での生活も描かれている(61頁)。「アマ」(阿媽)というのは、広辞苑によれば「東アジア諸国に住む外国人の家庭に雇われた現地の女中または乳母の総称」だそうだ。
 この人たちの中には、いかにも日本女性的な献身で主人の気に入られ、養女となったり遺産を贈与された者もあったが、中にはたちが悪いのもいたらしい。
 彼女らの給料は月30~40円だが、中には一夏70円で請け負って、月20円で下請け女を雇って働かせる強かなアマもいた。女中としての一日の仕事を終えた夜になると、三人五人と集まって軽井沢の町中にくり出し、中華料理屋などで騒ぐ者などもあったという。
 この手のアマや、コック、別荘管理人らの小ずるさをなじる言葉が須田の姉の口によって語られている(121頁)。
 昭和14年頃の旧道は、外国人宣教師やキリスト教信者、富裕な外国人や、堀、川端のような文士だけでなく、そのような連中も歩きまわっていたようだ。来夏、旧道を歩いたら彼女らの亡霊も感じられるかも知れない。
 
 昭和14年は日中間の戦争が激化しつつある時代であった。以前の書き込みで(『“美しい村”を求めて』を読んで)、戦争に対する川端の「傍観者的態度」と書いた。同書の引用からそのように感じたのだが適切ではなかった。
 「高原」のなかには、暢気な軽井沢での避暑生活を送る人たちの背後に、戦争の激しくなる気配がひたひたと忍び寄っていることを感じる川端の姿が透けて見える。
 「高原」は、その冒頭から、軽井沢に向かう主人公(須田)が、軍事路線であった信越線に乗り合わせた陸軍中佐の態度を、スパイでも探っているのではないかと気にかける描写があり、途中停車した駅の車窓から見かけた出征軍人を見送る妻や、その妻に対する須田の感懐が記されていたりする。
 話の終わりのほうでも、上海爆撃で亡くなったライシャワアさんの慰霊祭が36か国の参列のもとに開かれ、軽井沢滞在を切り上げる直前の須田もそこに出席する場面が出てくる。

 軽井沢の道端にまで上海での戦況を知らせるニュースが貼り出され、本通り(旧道)に千人針の娘たちが立つ姿が描かれる。中国人が軽井沢を訪れることを禁止したり、中国人の洋裁屋が鋏を使うことを禁止する(その一方で中国人コックが包丁を使うのは自由だという)珍妙な布告と、主人公らがそれを揶揄する場面などもある(61頁)。
 貸馬屋の馬まで徴発されて、駄馬しか残っていないなどといった会話も出てくる。
 
 しかしこの小説のメインテーマは、軽井沢という外国人と日本人が混住する特殊な地域における外国人と日本人、外国文化と日本文化の接触と、それに対する須田(川端自身)の見方であろう。
 当時の軽井沢は、宣教師ら外国人によって厳しく風紀が守られていた。娯楽施設やバーなどは一切禁止されていただけでなく、当初は日曜日には店が閉められ、飲食店では15歳から35歳までの女性の就業が禁止されていたという。
 
          
 ※ 上の写真は、旧軽井沢の観光会館前の旧道(長野県道路管理事務所のHPから)。観光会館はかつては郵便局だった。

 旧道の郵便局前の路上で、外国人の飼い犬が車に轢かれると、たちまち警官がやって来て検分が始まり、犬は獣医のもとに運ばれる。当時の軽井沢には獣医が3軒も出張していたという。
 面白いのは、犬の話から、川端が日本の雑種文化論を展開していることである。
 須田は、日本の犬のほとんどが雑種であることから話をはじめて、日本の文化も中国、朝鮮、西洋文化を摂取した雑種文化であると断ずる(120~1頁)。 

 当時の軽井沢には外国人が2、3千人、日本人が1万人滞在していたらしい。
 外国人が山小屋を建てて滞在していた軽井沢に、日本人がわんさと押し寄せて来たために外国人が野尻湖に避難するという状況は、外国人から見れば「うるさい蠅の繁殖力を見るようかもしれない」とも書いている(78~9頁)。
 軽井沢に実現しているような諸国民の雑居が国際的に広がれば、世界も平和になるのではないかといった川端の希望も語られている(79頁)。
 外国人が集まる教会で腋臭の匂いを感じたり、まじかに見た外国人の美少女の肌のそばかすに幻滅したり、川端らしい観察もある。美しいフランス人の少女を見たとたんに、それまで結婚を考えながら軽井沢でデートを重ねてきた日本人の「令嬢」が「急にみすぼらしく見えた」というのも正直な感想である(130頁)。 

 ほとんどの別荘が引きあげてしまい人気がなくなった初秋の寂しい別荘地で、ひとりで平然と遊ぶ外国人の子どもを見て、「初秋など白人種の身にはしみぬらしかった」(104頁)という述懐は川端自身の思いだろう。 
 川端康成という作家はあまり得意な作家ではなかったのだが、「軽井沢へ来て不意に強く自分の青春を感じた」という32歳の川端には共感を覚えた(80頁)。
 「高原」は、戦前の昭和の軽井沢を描いた風俗小説として面白く読んだ。

 2021年10月16日 記


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堀辰雄『菜穂子』

2021年10月13日 | 本と雑誌
 
 堀辰雄『菜穂子』を読んだ。
 前半部分の「楡の家」は講談社文芸文庫の『風立ちぬ/ルウベンスの偽画』で、「菜穂子」は小学館文庫の『風立ちぬ/菜穂子』で読んだ。

 理由は『風立ちぬ』と同じで、講談社文芸文庫は振り仮名(ルビ)が少なくて読めない漢字が多いのに対し、小学館文庫は振り仮名がたくさんついていたからである。
 懶そう(ものうそう)、牢(ひとや)、廃す(よす)、稺い(おさない)、衣囊(かくし)、雪袴(たつつけ。※「たっつけ」と読むらしい。ルビでは促音はわからない)など、ルビのおかげで助かった。雪袴などは読むことができなくても、「ゆきばかま」でもどんな物かは漠然と理解できた。
 為合せ(しあわせ)、佯って(いつわって)、赫かしい(かがやかしい)、縺れる(もつれる)、過ぎる(よぎる)などは、何度も出てくるので次第に覚えた。

 講談社文芸文庫では『楡の家』は独立の作品として収録されているが、小学館文庫では『菜穂子』の一部(一つの章)とされている。
 発表されたのは別々で、「楡の家」の第1部(旧題「物語の女」)が昭和9年10月、第2部(旧題「目覚め」)は昭和16年9月の発表である。「菜穂子」は昭和16年3月の発表で、単行本化は同年11月となっている(小学館文庫の年譜(谷田昌平編)、講談社文芸文庫の年譜(大橋千明作成)による)。 

 小学館文庫には、「風立ちぬ」と「楡の家」と「菜穂子」が収録されている。何でこの組み合わせなのか?と思ったが、「菜穂子」には、『風立ちぬ』の節子につき添う主人公(私=堀?)と『菜穂子』の菜穂子とが、八ヶ岳の高原のサナトリウムの廊下ですれ違う場面が出てくるから、多少のつながりがあった。
 「楡の家」は、後に菜穂子が読むことになる母の日記であるから、「菜穂子」につながっているが、内容や叙述の形式は大きく異なっている。
 これらの小説が、堀および芥川龍之介と、片山広子母娘との交流をモデルにしていることは、小川和佑『“美しい村”を求めてーー新・軽井沢文学散歩』(読売新聞社)などで知ることができる。年譜によると、堀、芥川と片山母娘が交流をもったのは大正13年、14年のことであり、堀に大きなショックを与えた芥川の自殺がその2年後の昭和2年のことである。
 
 「楡の家」は、菜穂子の母親(三村夫人)が残した日記の形式をとっている。未亡人となった彼女が追分の別荘で夏を過ごした際に、森於菟彦という有名な作家から好意を寄せられ困惑する、そのことがただでさえ気難しい娘の菜穂子とのわだかまりの遠因になっているのではないかと悩む。
 彼女の追分の別荘の庭に植わっているのが楡の木で、その根元に彼女は丸太のベンチをこしらえさせて、しばしば一人でその椅子に腰を下ろして物思いにふけっている。
 芥川は昭和2年に自殺したが、「楡の家」の森於菟彦は自殺ではなく、旅先の北京で客死したことになっている。森の死が語られる「楡の家」(第2部)は昭和16年の作品だから、堀が芥川の死を小説に書くまでには10年以上の年月が必要で、それでも自殺と書くことはできなかった。

 「菜穂子」は、その表題からも女性が主人公の物語のようであり、菜穂子の描き方も読みごたえがあるのだが(男性の作家がここまで女性を描くのか!)、それでもぼくは、この小説を「母」を求めたが、しかし結局「母」を得ることのできなかった男の切ない物語として読んだ。
 冬枯れた樺の枝が冬空を背景につくった網目模様のなかに、「自分の稺い(おさない)頃死んだ母のなんとなく老けたような顔をぼんやり思い浮かべた」といった直接の表現もあるが(小学館文庫250、252頁)、明に向けられた菜穂子の空虚なまなざしに出会うたびに、菜穂子に思いを寄せる明は拒絶を感じたことだろう。
 堀は、大正12年に関東大震災で母を失っている。その直後に、軽井沢で室生犀星から芥川を紹介される。片山母子と知り合うのが翌年の大正13年である。
 明は菜穂子やその母だけでなく、追分の老舗旅館牡丹屋で世話になる旧知の年上女性おようさんや、雨宿りで偶然知り合った村娘の早苗にも好意を寄せるが、結局だれからも受け入れられることはない。自ら飛び込んでいこうともしない。
 菜穂子は不本意で結婚した夫だけでなく、幼なじみの明に対しても屡々(しばしば)空虚な眼差しを向ける。

 「菜穂子」は、人物の描写や、風景、気候などの自然描写、ストーリーの展開がいかにも小説らしく、菜穂子母子を片山母子、森於菟彦を芥川、都築明を堀と見立てて、一気に読んだ。 
 しかも、追分の人々がたんなる背景ではなく、生きとし生ける人間として描かれている。
 吹雪の舞う冬の八ヶ岳のサナトリウムから雪の東京に逃げ帰った菜穂子で話は結ばれるのだが、戦前の昭和の追分の「ある秋の日の物語」のような読後感が残った。
 そう言えば、どこかに「或る秋の日の小さな出来事」という文章があった(探すと小学館文庫164頁にあった)。

 「菜穂子」は、「母」をむなしく求める物語であると同時に、堀が持つことのなかった「故郷」、「家郷」を追分に求める物語でもあった。
 追分にやってきた明は、そこで「O村の特有な匂」いを感じ(218頁)、「自分の村だとか家だとか、・・・そんなものは何んにもない此のおれは一体どうすれば好いのか?」と嘆息している(228頁)。堀はそれを追分に見出したのだろう。
 「菜穂子」は、“軽井沢もの”ではなく、“サナトリウムもの”でもなく、“追分”小説として読んだ。「楡の家」は追分の落葉松の林の中にあり、三村夫人と森が虹を見たのも追分のはずれだった。
  
       
 ※ 上の写真は、追分に建てられた堀辰雄の最後の家。旧油屋の跡地にあり、現在は堀辰雄記念館になっている。現在の油屋や古書<追分コロニー>の向かい側にある。
 堀は昭和28年にこの家で亡くなり、『軽井沢を青年が守った』に登場する地元の人たち、油屋の息子や堀の書庫を建築途中だった大工らによって塩沢の火葬場に運ばれ、追分で仮葬儀が行われたという(88頁)。

 2021年10月13日 記

 ※ ぼくは中学2年生のときの国語教科書(光村図書)に載っていた芥川龍之介の「魔術」を読んで、読書の世界に迷い込んだ(今風に言えば「はまった」)。そして、偕成社の「少年少女現代日本文学全集」で芥川、夏目漱石、菊池寛、そして堀辰雄らを読むことになった。
 中学生にもなって「少年少女・・・」でもあるまいと内心でずっと恥じていたのだが、この秋、堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』を昭和26年初版の新潮文庫で読もうとして、その漢字の難しさに音を上げた。これでは中学2年のぼくが読めないとしても当然である。新字体、新かな遣いに改められ、難読語にはルビがふられた偕成社版を選んだのは正解だった。巻頭の口絵には著者の幼少期の写真などが載っており、巻末には解説、読書指導、感想文コンクールの優秀作なども載っていた。
 もし、中学校の教科書からいきなり(昭和38年当時の)岩波文庫で芥川に挑戦したり、新潮文庫の堀辰雄を読み始めたら、きっとぼくは読書嫌いになっていたと思う。
 『風立ちぬ』は小学館文庫で、『菜穂子』は改版された岩波文庫で、『美しい村』は角川文庫で読んできて、つまり、新字体、新かな遣い、ルビがたくさん振ってある文庫本で読みながら、つくづくそう思った。

 2021年11月2日 追記

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堀辰雄『ルウベンスの偽画』

2021年10月12日 | 本と雑誌
 
 堀辰雄『ルウベンスの偽画』(講談社文芸文庫、2011年)を読んだ。同書に併録された「昭和の文学/堀辰雄」(佐多稲子、佐々木基一、小久保実)も読んだ。

 「ルウベンスの偽画」は、片山広子母子をモデルにしたような母娘に思いを寄せる堀辰雄を思わせる青年が主人公。
 母と娘は軽井沢の別荘に暮らしており、青年は本町通り(旧軽銀座通り)に面した軽井沢ホテルに逗留しているようだ。
 青年は、その娘のことを「ルウベンスの偽画」と呼んでいる。ルーベンスがどんな絵を描いていたか、どんな特徴のある女性の絵を描いていたか、ぼくには覚えがない。

   

 ぼくがこの小説を読んだお目当てである、千ヶ滝のグリーン・ホテルも登場した。堀は「グリイン・ホテル」と表記するが「グリーン・ホテル」だろう。
 ※ 旧字体、旧かなづかいでは不便を感ずる若い読者が圧倒的多数になったため、「残念ながら」現代表記に改めることにしたという岩波文庫版『菜穂子(他5篇)』(1973年)では「グリーン・ホテル」に改められていた(13頁)。題名までもが「ルーベンスの偽画」に改まっている(2021年10月17日追記)。

 母娘と青年の3人で浅間山のふもとまでドライブに出かけるのである。秋が深まっているらしく、ホテルは空っぽで、ボーイが「今日あたり閉じようと思っていた」と言う。今シーズンの営業終了の意味らしい。
 主人公の若い二人が2階の窓からルーフ・バルコニーに出る場面があるが、そのような屋根があった記憶はない。
 ※ 上の写真は1970年代のグリーン・ホテル。ものの本によると、屋根は「ペール・ブルー」(緑青色?)とあったが、この時の屋根はえんじ色のようだ。しかも、2階から玄関の上の屋根に出られなくもないようにも見える。

 ひたすら秋の軽井沢を思いながら読んだ。
 秋になって人気も絶えたあの旧道(通称「旧軽銀座」)。この小説では「本町通り」と呼んでいるが、80年以上前にあの道を堀辰雄が一人ぽつねんと彷徨したのだと知っていたら、先だっての人気の少なくなった旧道も違う目で眺めることができただろう。
 ただし、堀辰雄の時代には旧道は土道で、舗装もされていなかった。
     

 冒頭で、青年が軽井沢駅に到着すると、ちょうど駅前に停車したタクシーから美しいドイツ人の少女が降り立った。入れ違いに青年が乗車して、「町のほうへ行ってくれ」と指示するが、ふと気づくと、座席の下のマットに花弁のような形をした唾を吐いた跡があった。
 この小説のなかでは、ここだけが結核を思わせる。

 こういう小品を論評する能力はぼくにはない。大作を論ずる能力もないのだが。

 2021年10月12日 記


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堀辰雄『風立ちぬ』

2021年10月11日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 堀辰雄『風立ちぬ』(新潮文庫、1964年。講談社文芸文庫、2011年。小学館文庫、2013年)を読んだ。

 最初は、家にあった新潮文庫で読み始めた。手元にある新潮文庫は、丸岡明の解説が付いた昭和26年初版のもので、原文に最も忠実なのはこの新潮文庫版だが、その後改版されたらしい。
 この新潮文庫の旧版は、旧字体、旧かな遣いはまだ良いとして、活字が小さいため老眼には厳しいうえに、時おりぼくには読めない漢字が出てくる。最近では「漢和辞典」も使いこなせなくなったので、ワード文書にIMEパッドで手書き入力して読み方を調べながら読み進めることになる。

 新潮文庫旧版の『風立ちぬ』で、ぼくが調べなければならなかった漢字は以下のようなものである(もう少しあったかもしれない)。
 莟(つぼみ)、生墻(いけがき)、顫え(ふるえ)、徐かに(しずかに)、竝み立つ(なみたつ)など。
 前後の文脈や送り仮名から意味や読み方が推測できるので読み飛ばしてもよかったものもあったけれど、ボケ防止、脳活?のために逐一調べながら読んだ。
 しかし主人公である「私」の婚約者が、八ヶ岳高原にあるサナトリウムに入ったところで出てきた「病竈」(「びょうそう」と読むらしいが、病巣ではいけないのか)で、このまま新潮文庫で読んでいて大丈夫か、心配になった。
 読めない漢字に出会うたびに調べる煩わしさと、活字の小ささ(古い本なので印刷も薄くなっている)に耐えながら読むのも限界に近づいた。最近のルビの多い文庫本に悪態をついた手前、ルビ付き文庫本の軍門に下るのは男が?廃るーーというやせ我慢にも限界が来た。※

 そこで、図書館から借りてきた『風立ちぬ/ルウベンスの偽画』(講談社文芸文庫、2011年)と『風立ちぬ/菜穂子』(小学館文庫、2013年)を見比べてみた。
 両方とも、新字体(新漢字)、新かな遣いに改められており、手持ちの新潮文庫に比べてかなり読みやすそうである。
 誌面(字づら)が一番すっきりしていたのは、講談社文芸文庫だったが、ルビは少ない。それでいて、「睡眠剤」にわざわざ「くすり」などと振ってあったりもする(190頁)。「すいみんざい」では不可なのか、原文で堀自身がそう振り仮名を振ったのだろうか。「作用」に「はたらき」、「禍害」に「わざはひ」と振ってあるのもあった。
 小学館文庫は、新字体で新仮名遣い、活字も大きく、ルビもたくさん振ってあるが、のど一杯にまで印刷があって誌面が立て込んだ感じがする。

 「序曲」「春」「風立ちぬ」までは新潮文庫で読んできたが、残りの「冬」と「死のかげの谷」は、小学館文庫で読むことにした。
 読みやすいし、読めない漢字を調べる手間は省けるが、何故か、あまり堀辰雄を読んでいるという感じはしなくなってしまった。そもそもこの文庫が、宮崎アニメの「風立ちぬ」に便乗した出版だったらしく、表紙の挿絵も堀の世界ではない。
 しかし、ぼくの国語力では読めなかった次のような漢字にルビがふってある便利さにはかなわない。

 IMEパッドのお世話にならずにすんだ漢字は以下のごとし(ただし、マウスでなぞる手間を除けば、IMEパッドはきわめて有能である。IMEで分からない漢字、読み方は今のところ皆無である)。
 微睡んで(まどろんで。当て字か? 小学館文庫版、以下同じ)55頁、橅(ぶな)61頁、言い畢える(いいおえる)64頁ほか、歇んだ(やんだ)90頁ほか、「瞠り」(みはり)95頁、隙々(すきすき)93頁、屡々(しばしば)106頁などなど。
 「歇んだ」の「歇」は、間歇泉の「歇」だから、断続的に降ったりやんだりする雪がやんだ時を表現するにはふさわしい。「止んだ」では永久に雪がやんだようにも思えてしまう。
 「橅」などは、木であれば名まえなど読めなくてもぼくはかまわない。「瞠り」や「屡々」などは、文脈や送り仮名から読み方も意味も想像できるが、ルビがあればなおよい。堀は「屡々」と書いているが、広辞苑では「屡」一文字で「しばしば」となっていた。

 足袋跣し(たびはだし)92頁には、ルビは振ってあるが意味は分からない。広辞苑で引いてみると、「(足袋跣足) 足袋をはいたままで、下駄や草履をはかずに地面を歩くこと」とある。
 12月の軽井沢で、山の中腹に小屋を借りて一人で生活することになった主人公の「私」を、ふもとの町から雪のなかを道案内し、毎日夕刻になると彼のために夕食の支度をしにやって来る地元の娘の足元が「足袋跣し」なのである。
 当然草履くらいは履いているものと勝手に思い込んでいただけに、草履もはかずに足袋だけで雪道を歩いて通ってきたとなると、この無口な村の娘がいっそういじらしく思えてくる。そしてその娘に対する主人公「私」のぞんざいな人あしらいに腹立たしさすら覚えた。少しくらい津村信夫を見ならえ!
 ※ 下の写真は冬の旧軽井沢の古い別荘(旧菊池山荘という表札が立っていた)。
       

 1934年の夏、主人公の「私」とヒロイン節子は追分で出会う。草むらに画架を立てて絵を描く節子を、私は白樺の木陰に身を横たえて眺めている。
 肺結核の病状が悪化した節子のサナトリウムでの療養生活は、「私」の1935年10月20日からの日記の形式で綴られる。日記は11月28日で終わっているが、堀の年譜(講談社文芸文庫所収、大橋千明作成)を見ると、節子のモデルとなった矢野綾子はその年の12月6日に亡くなっている。
 つづく「死のかげの谷」の章は、翌「1936年12月1日 K・・村にて」で始まる。年譜では、堀はこの年の冬は軽井沢に滞在していないが、1937年はほぼ1年間を追分で過ごしたと年譜にある。『風立ちぬ』の発表は1938年だから、1937年に経験した軽井沢の冬景色を1936年の日記として描いたのだろう。
 「死のかげの谷」は、節子の死から1年以上にわたって書き継いできたものだった。

 堀辰雄『風立ちぬ』の感想文としては、あまりに散文的なものになってしまった。

 罪滅ぼしに、2、3年前の初秋に碓氷峠の見晴台で撮った写真を。
     
 
 散文ついでに、ぼくの結核物語を。
 1968年の冬、大学受験のための健康診断のX線検査で引っかかり、「要精密検査」となってしまった。水道橋にあった結核予防会付属の診療所で再検査を受けたところ、現在は治癒しているが、左鎖骨のあたりにかつて肺結核に罹った痕跡があると言われた。診断書には「左鎖骨下陳旧性肺結核痕」とか書いてあった。
 昭和31年、ぼくが小学1年生の時に母親の肺結核がわかった。閉鎖性だったので、自宅の一室にベッドを入れてそこで療養生活を送っていた。感染しないはずの閉鎖性だったが、安静のため外を出歩くことはできず、子どもとの接触も制限されていたので、PTAなどは叔母が代わりに来てくれた。母が専用で使った部屋の本箱には壷井栄の小説などと並んで、松田道雄の『療養の設計』(岩波新書)が置いてあった。
 おそらくその頃に、ぼくも母親からか、母に感染させた誰かから感染したのだろう。
 それから10年以上たって、高校生も終わろうというときになって要精密検査を言い渡されたぼくは、「もし結核だったら、作家にでもなるしかない」と思った。堀辰雄の小説の影響だったのではないか。結局ぼくは結核にもならなかったかわりに、作家にもなれなかった。
 その時の医師からは「毎年検査のたびに引っかかりますよ」と宣告されたが、その後50年の間、レントゲン検査で結核痕の所見を指摘されたのは、せいぜい5~6年に1回程度である。一昨年の検査でも指摘されたから、痕跡が消えたわけではない。わが国の健康診断、読影の精度はその程度のものである。

 2021年10月11日 記  
 --2021年10月11日の東京は『風立ちぬ』を読むにはいささか暑すぎた。風は多少あったけれど、風立ちぬという感じではなかった。

 ※ 何年か前に、モームの『英国秘密諜報員 アシェンデン』(新潮文庫)の新版を見て、誌面がスカスカ(隙々?)で、ルビの多いことに唖然としたと書きこんだが、悲しいことに、数年を経ずしてぼく自身が大きな活字とルビのご厄介にならなければならない状態に陥ってしまった。
 

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加藤周一『ある晴れた日に』

2021年10月10日 | 本と雑誌
 
 加藤周一『ある晴れた日に』(岩波現代文庫、2009年)。発表されたのは1950年。

 “ 軽井沢もの ” つながりで読んだのだが、本当は山本周五郎『小説の効用』(新潮社、1984年)に収められた書評で山本が褒めていたので、以前から読んでみたいと思っていた。
 ちなみに、山本周五郎『小説の効用』は、あの閉店してしまった大泉学園の<ポラン書房>でぼくが買った最後の本となった。

 山本は、『或る晴れた日に(長編)』を、「戦中戦後にかけて、都会の病院に勤める若い医者、高原の疎開地における文化人と土地人。両者を書いたもので、戦後第一の作といってよかろう。作品ずれのしていない新鮮なタッチがなにより「新しい」感覚を表している。佳作。」と評している。

 加藤周一の作品を、山本が「戦後第一の作といってよかろう」と評したのが、ぼくには意外だった。
 山本は、「大衆小説」を蔑視する論者に対して、自身を「娯楽作家」と称して開き直っているが、山本がただの「大衆作家」や「娯楽作家」でないことは彼の作品を一つでも読んでみれば明らかである。彼が大変な読書家であり、実証家でもあったことはこの本からもうかがうことができる。
 誰かが山本のことを「日本のドーデ」と呼んでいたが、プロヴァンスを浦安に置きかえれば確かにドーデかもしれない。かつて一時期彼の作品を愛読したのも、そんなところに魅かれたからだろう。
 その山本周五郎が高く評価した加藤周一の小説とはどんなものなのか、ずっと気になっていた。そして、最近 “ 軽井沢もの ” をいくつか読むことにしたので、この機にと思って読み始めた。

     

 『ある晴れた日に』の舞台は、K町、O村、M町となっている。
 信越線が高崎、横川を過ぎ、妙義山を見ながら碓氷峠をアプト式で登って行くK町、O村、M町といったら、軽井沢、追分、御代田しかありえないが、著者はイニシャルで表記する。
 横川、碓氷峠が実名なのに、どうして軽井沢、追分がK町、O村なのか。最初はその理由が分からなかったが、読みすすめるうちに、軽井沢、追分がイニシャルになっていることが、この小説の要点というか、著者のこれらの地域に対する立ち位置を象徴しているように思えてきた。

 この小説には、K町やO村やそこの住人に対する主人公たちの嫌悪や憎悪の感情が書かれている。
 とくに、K町の疎開娘やO村の農家の娘たちが、この地に滞在する憲兵に対して媚びる姿を描いた個所や(200頁)、終戦直後の食糧難の折に主人公の周辺の人たちに鶏を譲ってくれたO村の農家の人に対して、「どうせ自分たちの中国でやってきたことを想い出して怯えているんだから、そのくらいのことは辛抱してもよかろう」と主人公側の人物に語らせている個所で(228頁)、著者の地元民に対する反感を強く感じた。ここで「そのくらいのこと」というのは、占領してくるアメリカ軍に鶏を供出させられるのではないかという恐れである。
 憲兵というのは、田舎の地主の息子で、東京の大学予科、大学を出て憲兵になり、軽井沢周辺を嗅ぎ回っている男だが、その憲兵に対する憎悪(「犬」「低能」とまで書いている)に比べれば、地元民に対する嫌悪感は抑えられている。それでも、戦時中に軽井沢、追分に滞在した都会人と地元民の間には、おそらく著者をして「K町」「O村」と表記させるような軋轢、わだかまりがあったのだろうと思わせる。御代田にも「M町」にしなければならなかった事情があったのかどうか・・・。

 山本は「疎開地における文化人と土地人。」と体言止めで、その後を濁していて、「文化人」と「土地人」との対立とも共存とも言っていない。疎開先における都会人(ましてや文化人)に対する地元民の感情は実体験がないのでよくは理解できないが、もしぼくが地元民だったら、東京から疎開してきた文化人に好感情を抱くことはないだろう。
 この小説のストーリーは、あくまで同地に滞在する都会人を中心に展開しており、地元民とその生活は背景にとどまっている。しかも、同じ都会からの疎開者でも、「徴用」を逃れて親の別荘に「疎開」している連中と(91頁)、医者である主人公の周辺に集った大学教授、画家、海軍中将の嫁たちとは別世界の人間のように描かれている。

 加藤周一は、戦後も毎夏追分で避暑生活を送ったようだ。
 彼の『高原好日』(ちくま文庫、2009年)には、その追分で出会った人々との交流や思い出が語られるが、登場する人物はすべて「都会人」ないし「文化人」であり、地元追分の人間は「油屋」の主人たった一人だけである。
 加藤にとって、追分はそのような人たちとの交流の場所にすぎなかったのだろうか。

 著者の分身と思われる主人公の恋愛も描かれているが、主人公の恋愛に感情移入することはできなかった。
 防空壕の中で主人公と対峙したときのユキ子の「悲しい」目が想像される。ユキ子との別れについて主人公は饒舌に弁明しているが、それほどに罪悪感を感じていたのだろう。
 防空壕から焼夷弾の雨の中に飛び出していったユキ子が、振り向くこともなく主人公から去って行ったのは正しい選択だったと思う。
 ユキ子は戦後の日本をどのように生きたのだろう。主人公よりもあき子よりも五十嵐教授よりも、生きていたとすればユキ子の戦後が気になった。

 ひたすら、ぼくが生まれた昭和25年に発表され、その年にわが敬愛する山本周五郎もこの小説を読んでいたのだと思いながら読み進め、読み終えた。
 硬質の文章で、「美しい村」ではない追分、軽井沢が描かれたいた。翻訳物までが柔らかくなってしまった最近の小説とは異質な文章は、山本が「新しい」感覚と評したのとは違った意味で新鮮な感じがした。
 昭和25年の山本を追体験しながらの読書だった。

 この小説は、戦争が終わって5年目に発表された。もし、まだ戦争が終結していない昭和20年以前に書かれたものだったら、その緊迫感はもっと強かっただろう。日本が戦争に負けたこと、そろそろ負ける時期であることを知っているので、「青酸カリが欲しい」という登場人物の手紙にも悲壮感は感じられなかった。
 「ある晴れた日」とは、太平洋戦争が始まった昭和16年12月8日と、敗戦の20年8月15日のことである。この日がともに「晴れた日」だったという。若かった加藤にとって、それ以前の中国との間の戦争が「戦争」の始まりではなかったことも印象的である。
 あの年の東京は寒い夏だったけれど、8月15日だけは「暑い日」だったと、亡母がよく言っていた。軽井沢の昭和20年8月15日は暑さではなく「晴れた日」として記憶に残る気候だったようだ。

 2021年10月10日 記 


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堀辰雄『大和路・信濃路』

2021年10月05日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 6月以来、ホッブズの翻訳書を難渋しながら読んできたが、先月の『リヴァイアサン』第3部、第4部でいちおう主要な著作を読み終えた。さすがに疲れ気味なので、ここ数日は軽い “軽井沢もの” を読んでいる。
 軽井沢町編『軽井沢文学散歩』、小川和佑『“美しい村” を求めて』を読んでいるうちに、その中に登場する作家たちの小説かエッセイを読んでみたくなった。

 堀辰雄は何冊か家にあるはずだが、物置を探すのは暑いし億劫である。そこで書店に行って探したが、なんと堀の作品は1冊もなかった。つづいて古書店に行ってみたが、ここにもない。文庫本の棚の著者名<ほ>を探すと、ぼくの知らない「ほ」で始まる作家(?)の次は「堀江貴文」の刑務所体験ものだった!
 何という時代になったのか。

 仕方なく家に戻って、物置をあさって『大和路・信濃路』(新潮文庫、昭和52年10月33刷、160円)と『風立ちぬ・美しい村』(新潮文庫、昭和39年11月40刷、90円)の2冊を探し出した。
 堀はもう少し読んだ記憶があるが、どうやら軽井沢においてある「少年少女現代日本文学全集」(偕成社)の「堀辰雄名作集」で読んだようだ。ぼくは中学生時代まで、この「少年少女全集」のお世話になっていた。
 印刷年月からみて、『風立ちぬ』は中学3年の頃、『信濃路』は20歳代後半のサラリーマン時代に読んだようだ。

 きょうは『信濃路』から、「雪の上の足跡」「雉子日記」「信濃路」「木の十字架」を読んだ。
 この本の最終ページには、青インクの万年筆で「1978.8.2.(水)am 3:05 FM 東京/法セミ8月号の出張校正から帰宅/2階の座敷、クーラアで涼しい。“雑記帳の表紙の絵” はいい!」と書き込みがしてあった。
 “雑記帳の表紙の絵” は、「雪の上の足跡」の最後の方に出てくる。
 村(追分)の雑貨屋で10銭くらいで買ってきた雑記帳の表紙の絵のことである。雪の中に半ば埋もれている1軒の山小屋と、向うの夕焼けした森と、家路につく主人と犬という絵はがきのような紋切り型の絵を、堀は「スウィスあたりの冬景色」だと思っていたが、のぞき込んだ宿の主人が「それは軽井沢の絵ですね」と言う。
 そう言われると、堀も、冬になって雪に埋もれると、軽井沢にもこんな風景ができるのかもしれない、そして「絵はがきのような山小屋で、一冬、犬でも飼って、暮らしたくなった」というのである。
 水道管も凍る冬の軽井沢での越冬など、今では真っ平だが、20歳代の頃のぼくは、こんな軽井沢での冬の生活に憧れていたのだろうか。そんな状況になれば、苦手な犬でも好きになれるかもしれない。

 当時のぼくは、今よりはるかに<赤ままの花を歌うな>派だったようで、「木の十字架」のなかで「その夏(1939年と朱で書きこんである)、軽井沢では、急に切迫しだしたように見える欧羅巴の危機のために、こんな山中に避暑に来ている外人たちの上にも何かただならぬ気配が感ぜられ出していた」、津村信夫に誘われて、旧軽井沢の聖パウロ教会のミサに出かけた折も、「その(教会の)柵のそとには伊太利大使館や、諾威(ノルウェイ)公使館の立派な自動車などが横づけになり」、その日は丁度「ドイツがポオランドに対して宣戦を布告した、その翌日だった」という個所に朱線が引いてあった。
 ※ 下の写真は、旧軽井沢三笠にある旧スイス公使館の建物。
     

 ぼくは第2次大戦中の軽井沢に興味を持ち続けてきたが、堀が時局についてこのように書いていたことが印象的だったのだろう。ただし堀は教会内で、彼らを追い越して教会に入って行ったポーランド少女の姿を目で探したりもしている。
 最近読んだ「軽井沢文学」ものは、いずれも戦争中の軽井沢文人のことをあまり語っていない。小川の本に、日中戦争に対する川端の傍観者的な発言と、戦時中ナチス礼賛者になった芳賀檀のエピソードが出てきたくらいである(『“美しい村” を求めて』168~170頁)。

 ※ 「木の十字架」のなかの、ぼくが朱線を引いた個所は、戦争中の作品で「戦争」ということばを一言も発しなかった堀の数少ない戦争への言及だったようだ。
 堀をめぐる座談会で、佐多稲子は「戦争が始まった初期の時分に、軽井沢の教会で各国の外国人が集まって、たいへん緊迫した微妙な雰囲気だったということを書いてますでしょう。あのくらいで、あとは書いてないのですよ」と発言している(「昭和の文学 堀辰雄」堀辰雄『風立ちぬ/ルウベンスの偽画』講談社文芸文庫(2011年)298頁)。
 佐多が言っているのは「木の十字架」のぼくが朱線を引いた個所だろう。佐多は、戦争にふれないことが堀さんの強いところだと言うが、そうだとしたら、「木の十字架」のあの部分はなんだったのだろう。いずれにせよ、1978年、28歳だったぼくはそこに朱線を引いた。

   *     *     *

       
  
 そういえば、数日前に、安西二郎『軽井沢心理学散歩ーー別荘族からアンノン族までーーこの不思議な町を知的に解読する』(PHP研究所、1985年)という本も読んだのだった。
 ぼくには苦手な “軽井沢もの” だった。
 あえて収穫といえば、あの懐かしい「ペールグリーンの屋根の」<グリーン・ホテル>が、堀の「ルウベンスの偽画」に出てくること、本書が出た1985年当時はまだこのホテルが現存していたこと(194頁)、千ヶ滝には戦前には音楽堂があり、それが1985年当時は<西武ショッピング・センター>になっていたらしいこと(234頁。千ヶ滝にある<西武ショッピング・センター>はおそらく西武百貨店軽井沢店>のことだろう)、ぼくが中学生だった頃に、祖父と一緒に買い物に出かけた旧軽通りの、看板の店名がドイツ語で書いてあったドイツ食材屋<デリカテッセン>が、茜屋珈琲店の隣りにあったことを確認できたこと(77頁)くらいか。
 
 2021年10月5日 記 (2021年10月10日 ※部分を追記)


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『美しい村を求めてーー新・軽井沢文学散歩』

2021年10月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 小川和佑『美しい村を求めてーー新・軽井沢文学散歩』(読売新聞社、1978年)を読んだ。

 著者の「あとがき」によれば、「軽井沢という特異な風土を枠組みに、その(軽井沢の?)文学と文人を書こうとした」のであって、「文学散歩」と副題がついているが、「文学散歩・・・といった案内書としては書こうと思わなかった」という。
 ぼくにとっては「失われた時を求める」nostalgic journey の良い道案内になった。
 著者は「軽井沢にまだ昔日の自然とそこに生きた文人たちの面影の残っているうちにこれを書いておきたかった」と書いているが、この本が書かれた1978年(昭和53年)の夏はぎりぎりのところだったかも知れない。

 著者は、主軸を置いたのは、有島武郎、芥川龍之介、室生犀星、川端康成、堀辰雄、中村真一郎だというが、ぼくには、有島の心中(大正12年)を起点にして、犀星の周辺に集った芥川、堀、立原道造、津村信夫、川端らの軽井沢における女性との出会い、恋と別れの物語として読めた。犀星だけは、娘朝子がテニスをすることを不愉快に思うなど、妙に家庭的でわきまえた「お父さん」だったが。
 東京下町育ちの芥川、堀は、「万平ホテルに集約される軽井沢を克服して、同化することで、この特異な風土を文学化したが」、犀星は軽井沢を愛しながらも強烈に自己を持続させたと著者は書いている(96頁)。

 有島が軽井沢の別荘で情死した大正12年の事件が、世間の人たちが軽井沢と文士を結びつける端緒となったが、有島が情死したのは資産家だった父親が所有する別荘であり、文士と軽井沢の結びつきとしては例外的だった。
 著者は、大正10年頃から避暑のために軽井沢に滞在するようになった犀星から、軽井沢と文士の結びつきが始まったとみている。犀星は当初はつるや旅館に滞在し、その後は別荘を何度か移転しているが、細部は忘れてしまった。 
 その犀星のもとを学生だった堀が訪ね、犀星を介して堀と芥川の交流が始まる。

 芥川は、大正13年7月に軽井沢を訪れた。
 「古い宿場の風趣にいきなり西洋を継木したこの軽井沢の風景」に、芥川は日本文明そのものの姿を暗示しているように思ったという(47頁)。
 この地で芥川は、資産家の未亡人だった片山広子と出会い、彼女に恋をする(51頁)。この年、芥川は「美しい村」の未定稿を書いており、芥川の死後に、堀は師の作品名を冠した小説を書いている。
 当時の万平ホテルは室料だけで1日12円だったので文士には手が届かず、彼らは2食ついて1日7円だったつるや旅館に滞在し、万平ホテルには散歩で立ち寄ってお茶だけを飲んだという。犬嫌いだった芥川は(!)、西洋人が連れ歩く犬が多いことに辟易したという(48頁)。
 芥川は、大正14年には軽井沢ホテルに滞在した。
 軽井沢ホテルは西洋式ホテルとしては安価なホテルだった。本通り(旧軽銀座)から水車の道(北裏通り)まで敷地があったようだが、昭和19年に取り壊されてしまい、その跡地には小松ストアが建っているとある。本書が出版された1978年には、まだ小松ストアが残っていたのだ(62~3頁)。
 
 同じ夏、萩原朔太郎が美人の妹幸子(既婚である)を伴って軽井沢の犀星を訪れた。彼女を気に入った芥川は、堀を伴って幸子とドライブに出かけたりする。初対面の芥川が幸子と親しげに交際することに犀星は嫉妬した(66頁)。
 同じ夏、芥川は片山広子とも追分にドライブに出かける。この時も堀が同乗している。雨上がりの追分に虹が出たが、虹は西洋では不吉の前兆だという。芥川は昭和2年に自殺する。
 芥川の死から15年後に書かれた、堀の「菜穂子」はこの時の芥川と広子がモデルだという(74頁)。
      
 ※ 上の写真は、本書『美しい村を求めて』にかかっていたブック・カバー。旧道の軽井沢物産館で買ったものだと思う。白樺も最近はあまり見かけなくなってしまった。

 犀星の「信濃」という作品には、立原道造、堀、津村信夫たちが登場する(書かれたのは、立原が夭折した翌年の昭和15年である)。
 堀は、万平ホテルのテラスで犀星にお時宜をして通り過ぎる少女たちを見て、自分もそのような少女を恋人にするという「夢を実現させるためには、私も早く有名な詩人になるより他はない」と思ったりする(86頁)。堀は、片山広子の娘総子に恋をし、その思いを「聖家族」に描くが、母広子は、堀を娘の結婚相手(候補)とは見ていなかった(90頁)。
 昭和8年、「美しい村」を執筆した堀は、追分油屋に滞在していたが、療養に来た矢野綾子と出会い、翌年に婚約する。しかし、綾子は翌10年に亡くなってしまう。「風立ちぬ」はその翌年に発表されている(99頁、111頁)。

 立原は昭和9年に、追分で、本陣永楽屋の孫娘、関鮎子と出会い、最初の14行詩に彼女への思いをうたう(102頁、144頁)。松竹歌劇団の北麗子との出会いと別れもあった(~148頁)。
 恋多き人たちである。
 立原の散歩道は、追分油屋から1000メートル林道を歩き、泉洞寺の墓地裏に至る落葉松の林の中のコースだったという(149頁~)。
 昭和12年に油屋は火災によって焼失してしまうが、この時、立原は同旅館に滞在中で、地元の消防団員に辛うじて救出された。堀は原稿を送るために軽井沢郵便局に出かけていて難を免れた(173頁)。

 東京の中産階級ないし上流階級の出である丸岡明、津村信夫の軽井沢体験は、堀らとは違っていた。親が別荘を持っていたり、家族で万平ホテルに滞在したのが最初の軽井沢だった(114頁~)。堀や川端らと交流のあった中里恒子もこの階級に属する一人で、昭和13年に芥川賞を受賞した彼女の初期の作品の舞台も軽井沢らしい(162頁)。
 彼らのなかでぼくの心に残ったのは、津村の結婚である。
 昭和10年、津村は、千ヶ滝の観翠楼で卒業論文を執筆中に、同旅館のお手伝いだった小山昌子に魅かれる。家柄の違いを慮った恩師は、ひとまず昌子を自分の養女としたうえで、翌年、犀星夫妻の媒酌で東京会館で結婚式を挙げた(157頁)。しかし昭和19年に津村は難病のため亡くなってしまう。
 ぼくは、小津の「父ありき」に出てくる女中役の文谷千代子のような女性を想像した。結婚に際して家格をそろえるための仮親養子という慣行があったことは家族法で学んだが、その一事例を見い出した。

 川端康成も軽井沢文人の1人だったと知って意外の感を受けた。幾夏かを過ごした軽井沢での(西洋)体験が彼の後半期の伝統との関わり合いをいっそう強めることなったと著者はいう(166頁)。
 昭和11年に旅行の途中で軽井沢を訪れた川端は、つるや旅館に宿を求めたが、その風体から番頭が断ってしまう。藤屋では彼を知っていた主人から手厚い接待を受けたため、後に桜沢に別荘を構えるまで、彼は藤屋に好意を寄せ続けたという(165頁)。
 川端には、軽井沢体験を活写した「高原」という短編集があるという。川端は、その主人公に、「軽井沢へ来て不意に強く自分の青春を感じた」と語らせている。ショート・パンツに白いソックスを素足に履いて自転車に乗る女性やフランス人の少女も登場する(167~8頁)。川端らしい。
 中年の男が軽井沢で「青春」を感じたという「感じ」は、ぼくにも分かる気がした。
 ちなみに、この本には少女の肢体やショートパンツへの言及が何か所か見られる(123、145頁、そして167頁)。
        
 ※ 上の写真には旧軽通りを闊歩するショート・パンツ姿の若い女性の後ろ姿が映っている。左側の写真には軽井沢ホテル跡地に建ったという小松ストアの看板が映っている(『軽井沢 その周辺 1964年版』三笠書房より)。
 
 中村真一郎は著者の(明治大学の)恩師らしい。
 中村の軽井沢でのエピソードは、旧軽銀座の<カフェ水野>のオープン・テラスに座る彼から始まる。その昔、ぼくも<水野>に所在なさ気に座る中村を見かけたことがあった。
 彼は、ぼくが生まれた豪徳寺に住んでいたことがあったらしい(184頁。「渋谷の」豪徳寺とあるが世田谷だろう)。戦時中は岩村田に疎開していたというが、ぼくは高校時代の夏休みに岩村田の学生村で過ごしたことがある。わずかな接点(?)である。

 本書を読むことで、ありし日の軽井沢をタイムマシンで旅行することができた。著者が嫌った「文学散歩」以上の旅だった。
 この本で紹介された堀、川端、中里らの本も読んでみたくなった。
 つぎに軽井沢を散歩するときは、彼らの恋と別れの遺跡を感じながら歩いてみよう。

 2021年10月4日 記


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