2時間ほど阿波踊りを身動きせず、見続けました。前日にみた、よさこい祭りとは、大分、印象の違うものでした。正反対といってよいかもしれません。よさこいの、驚ろかすような大音響の音楽は、ここにはなく、静かといってよいような、リズミカルなお囃子があるだけです。よさこいの多種多様なきらびやかな衣装に対し、こちらは、比較的おとなしい柄の浴衣が中心でした。また、飛んだりはねたりのまるでモダンダンスのような、よさこいに対し、こちらの女踊りと男踊りは、単調なリズムの下での単純動作の繰り返しです。まるで、我々の日常生活そのもののようです。なんだか落ち着いてみれるのです。これまで阿波踊りに対して抱いていたイメージとは異なる、意外な感覚でした。よさこいがベートーベンとすると、阿波踊りはモーツアルトかなとも思いました。
プロ級の腕前の有名連の踊りは、さすがに見事です。とくに、両手を挙げてしなやかに振りつつ、内股で蹴り出しながら拍子をとって進む女踊りは、ほのかなお色気さえ感じさせ、観客を魅了します。そして、うちわをくるくると回しながら、腰をかがめ、ひょうきん風に舞う男踊りも見応えがあります。ビール会社とか大学、外国人のグループは、有名連に比べれば、もうひとつでしたが、和気藹々と楽しみながら行進していました。「寝たきりになら連」という、車いすのグループの面々も元気に笑顔を振りまいていました。がんばってくださいと声をかけました。
踊りをみている間、私は、この徳島の地で、無念にも30代の若さで夭折した、小学校時代からの友人のことに思いをはせていました。偶然、大学でも同じ分野を専攻し、私は東京に、彼は徳島に就職しました。その2年目の夏の終わりに、私は、この地を訪れ、二人で酒を酌み交わしました。そのときは、すでに阿波踊りは終わっていましたので、今度は是非、一緒に自由参加の連に入って、踊ろうよと約束しました。結局、約束は果せませんでした。もし、彼が、生きていてくれたならば、きっと隣の席にいただろうなと、少し感傷的になりました。
モーツアルトの音楽の底に流れているのは、かなしさ、だと、言った人がいます。私が阿波踊りの中に、ある種のかなしさを感じたのは、こういう思い出が、あったからなのでしょう。
プロ級の腕前の有名連の踊りは、さすがに見事です。とくに、両手を挙げてしなやかに振りつつ、内股で蹴り出しながら拍子をとって進む女踊りは、ほのかなお色気さえ感じさせ、観客を魅了します。そして、うちわをくるくると回しながら、腰をかがめ、ひょうきん風に舞う男踊りも見応えがあります。ビール会社とか大学、外国人のグループは、有名連に比べれば、もうひとつでしたが、和気藹々と楽しみながら行進していました。「寝たきりになら連」という、車いすのグループの面々も元気に笑顔を振りまいていました。がんばってくださいと声をかけました。
踊りをみている間、私は、この徳島の地で、無念にも30代の若さで夭折した、小学校時代からの友人のことに思いをはせていました。偶然、大学でも同じ分野を専攻し、私は東京に、彼は徳島に就職しました。その2年目の夏の終わりに、私は、この地を訪れ、二人で酒を酌み交わしました。そのときは、すでに阿波踊りは終わっていましたので、今度は是非、一緒に自由参加の連に入って、踊ろうよと約束しました。結局、約束は果せませんでした。もし、彼が、生きていてくれたならば、きっと隣の席にいただろうなと、少し感傷的になりました。
モーツアルトの音楽の底に流れているのは、かなしさ、だと、言った人がいます。私が阿波踊りの中に、ある種のかなしさを感じたのは、こういう思い出が、あったからなのでしょう。