気ままに

大船での気ままな生活日誌

松ヶ岡文庫

2006-08-19 22:08:57 | Weblog
東慶寺は私の好きなお寺のひとつです。梅、白もくれん、菖蒲、いわたばこ等、季節季節の美しい花々や、多くの著名な文化人が眠られる暮苑の静かな、しっとりした雰囲気にひかれ、ついつい、小さな山門をくぐってしまいます。

何度も来ているお寺ですが、境内にあるという、松ヶ岡文庫については、今まで、ほとんど注意を払っていませんでしたので、どこにあるかも知りませんでした。今日、初めてわかりました。今まで気づかないはずでした。いわたばこの岩壁の手前に、ひっそり隠れるように、小さな石碑がぽつんとありましたが、そこに、松ヶ岡文庫の文字が刻み込まれていました。石碑の横の小さな門は、閉ざされていて、入ることができません。目を移すと、門から先は、かなりの数の石段が竹林の横を昇り、その到達点に古い家が垣間見えました。どうもそこが、松ヶ岡文庫のようです。

先月、円覚寺の夏季講座に参加しました。そのときの岡村美穂子さんの講演、「歩くーー鈴木大拙先生と朝比奈宗源老師」に感銘をうけました。岡村さんは、日系二世の方ですが、15才のときに、ニューヨークで、初めて先生と出会い、その後、日本に移られ、先生の晩年(81才から96才まで)の15年間、秘書をなされてきた方です。その先生と岡村さんのお仕事の場が、ここ松ヶ岡文庫なのです。

当時つっぱり気味の高校生であった岡村さんは、講演のため、コロンビア大学の教室に入ってこられた、先生のお姿、歩く動作をみて、あっというような、深い感銘を受けたといいます。颯爽として、それでいて、少しも飾ったところのない、等身大の動きが、少女の胸に、この人はただものではないと、思わせたそうです。気品のある英語での華厳哲学の話は理解できませんでしたが、もっともっと先生のお話を聞きたいと思ったそうです。

その後、岡村さんは、先生に教えを請いつつ、論文をタイプで清書するなどのお手伝いをするようになります。そして、1958年に先生が、帰国されるとき、当時大学生だった彼女も一緒について行きます。先生は81才になっていました。それ以来、15年もの間、松ヶ岡で先生の研究のお手伝いをされてきたのです。

先生は1966年に96才でお亡くなりになりますが、その前日の朝までお元気だったそうです。亡くなる直前、彼女が、何かしてほしいことはありませんかと尋ねますと、Nothing, thank you (なにもない、ありがとう)と答えられ、それが最後のお言葉だったといいます。通常の英語の会話で、よく出てくる言葉ですが、禅の先生の最後の言葉として、とても相応しい言葉と思います。

松ヶ岡文庫を確認してから、大拙先生のお墓に参りました。五輪塔のお墓です。アメリカ人の夫人のお名前も刻まれています。卒塔婆に風流庵大拙居士とありました。大拙は戒名だったのです。風流庵は先生にはちょっと軽い名のような気もしますが、あるいは、本人はそういう気持ちで生きていたのかもしれません。

右隣の五輪塔は安宅弥吉氏(安宅産業)のものです。大拙先生の同郷の人で、学生時代から、自分が財界で成功したら、あなたを支援すると言っていたそうです。そのとうり、松ヶ岡文庫に巨額な財政的支援をされたそうです。
小径を挟んで左に出光家(出光石油)のお墓があります。安宅産業が倒産したあと、支援を引き継いでくれた方です。先生は、こういう方々に支えられて大きな仕事をされたのです。昔の財界には本当に偉い人がいました。

三つのお墓に手を合わせているときに、とてもそのお年にはみえない、チャーミングな岡村さんのお顔が、自然と目に浮かんできました。彼女の人生は、とてもchallengingですばらしい、そして、二人の財界人以上に、大拙先生をサポートしてこられたのは岡村さんだと、思いました。


今、東慶寺は花が目立たない時期ですが、みずひき草の赤い点々とした花と、咲き始めた、あでやかな女郎花が見送ってくれました。






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