気ままに

大船での気ままな生活日誌

ぶらり横浜 ミュージアム巡り

2015-03-11 09:08:21 | Weblog

横浜には徒歩圏内にミュージアムが、(ちょっと思い浮かべるだけでも)10やそこらはある。ミュージアム好きにはこたえられない町だ。昨日も、ぶらりと出かけて、五つやそこら覗いてきた。一つひとつ、単独の感想を書いていると、数日、かかってしまいそうなので、一気にまとめて記事にしようかと思う(笑)。

JRの関内で降りて、駅前のラーメン屋さんで腹ごしらえして、馬車道を上り、まず、県立歴史博物館へ。ここでは”陸にあがった海軍”展をやっている。海軍の連合艦隊は戦時中、洋上の最前線に司令部を置いていたが、戦線が不利になってから、陸に上がった。その場所が、慶応大学の日吉キャンパスだった。ぼくはこの界隈の住人だったこともあり、ぜひ観ておきたかった。

何故、ここが選ばれたかというと、丘陵地帯で電波の送受信が良好であり、宿舎として利用できる、りっぱな学生寮もあった。東横線もあり、東京との連絡も良い、などが理由だ。ここに広大な地下壕がつくられた。

歴博が慶応大学の協力を経て、調査を進め、その全貌が明らかになり、このたびの展覧会となった。地下壕の写真や、そこで見つかった備品や日用品など、また、ここから、戦争末期の特攻隊突撃や戦艦大和のレイテ沖海戦への出動命令が出されたが、それらゆかりの写真や品々も展示されている。この日はちょうど、東京大空襲のあった日。大勢の方が見学に来られていた。見応えのある、かつ、いろいろ考えさせる展覧会だった。

そして、そこから、5分も歩くと、河津桜の並木がみえて、その先の日本郵船歴史博物館。何度も行っているので入るつもりはなかったが、氷川丸の模型が一般公開されているというので入場。この模型はバンクーバーの日本郵船の代理店で保管されていたが、戦時下に対日資産凍結によりカナダ政府に没収さえていた。戦後、競売でアメリカ人が手に入れ、さらにウィスコンシン海洋博物館に行っていた。日本郵船は何度かの交渉の末、ようやく、このたび、返還され、今回の初公開のはこびとなった。

籾山艦船模型製作所製で、実物の1/48の大きさである。精巧に出来ていて、全長は340センチメートルもある。同社製の浅間丸、鎌倉丸の模型と並んでいる。撮影禁止が残念。でも、本物の氷川丸が山下公園に係留しているからよしとしよう。この日、ぼくは、何と40万人目の入場者!・・・うそです(笑)。でも、その40万人後、一と月ほど先着何名さまかに粗品を頂けるとのこと。それはゲットしました!一筆箋です。

郵船に入る道に河津桜並木。いままで気づかなかった。

そして、ちょっと歩いて、横浜開港資料館。日米和親条約などをみていた玉楠のあるところ。ここで、今、ガールズビーアンビシャス/横浜山手のミッションスクール展が開催されている。明治初期に日本に赴任した女性宣教師や修道女らによって、明治4(1871)年以降、山手に次々と小さな学校が開設された。

共立女学校、捜真女学校、フェリス和英女学校、横浜紅蘭女学校(現・雙葉)、横浜英和女学校の五校。それぞれの学校の歴史資料を辿りながら、横浜の女子教育の果たした役割について考察している。これら女学校の生徒たちやOBがうれしそうに見学していた。

そして、横浜ユーラシア文化館でもいくつかの展覧会が。古代エジプトファラオと民の歴史展。ここでは、鈴木八司コレクションや写真を中心に、1)古代エジプト/人々の生活と祈り、2)アプ・シンベル神殿とヌビア遺跡群/現代によみがえる古代ヌビアなどのくくりで展示されている。ナポレオンの”エジプト誌”という巨大な本も観ることができた。一番、大きな本は二人がかりでページをめくったとか。



さまざまな展示物

エジプト観光ポスター。右下にネフェルティティがいる。行きたいけど、行けないという国が多くなった。

外ではモンゴルのパオ(ゲル)の展示が。パオは昨日の相撲記事に関連させて載せていますので、ごらんください。ここでは、中に展示してあったモンゴル衣装をおみせします。

男性衣装

女性衣装

ここから、さらに山手の文学館へ向かおうとしたが、お相撲があるので帰ることにした。途中、玉楠をモチーフにしたオブジェを見付けた。

横浜公園でみた風景。今朝の新聞によると、この日の夕方、福島原発事故から神奈川県に避難してきた人と支援団体が主催する”3・10東日本かながわの夕べ”が開催されたのこと。約800個のキャンドルが灯され、被災地への祈りを捧げたとのこと。今日は、3.11。合掌。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする