京都祇園をぶらついているとき、四条通り沿いの何必館・京都現代美術館で”木村伊兵衛展”をやっていたので覗いてきた。何必館とは何ぞや?と帰って調べたら、”何必館”の名称は「何ぞ必ずしも」と定説を常に疑う自由な精神を持ち続けたい、という意味合いで名づけられたもので、作品も多くがその考えに基づいて収集されています。ということだった。
ポスターの写真は、”秋田おばこ”。秋田シリーズ”の写真が一室にずらりと。戦後すぐ、朝日カメラの表紙用に艶っぽい女性のポートレートを撮っていたが、ある評論家に酷評され、 本来の報道写真家に戻ろうと秋田へ1952年に訪れた。その日から71年まで、なんと21回、訪ね、319本のフィルムを撮ったという(別冊太陽/木村伊兵衛より)。 農民の生活の中に溶け込んだような写真がいっぱい。よくこんな場面がと思うようなのがいくつもあった。
そして、ポートレートの部屋。志賀直哉、上村松園などお馴染みさんの写真。高峰秀子のもあったが、何気ないポーズの写真だった。彼女のエッセーに、こんなエピソードが書かれている。どんな着物を着たらよいでしょうかと木村伊兵衛に尋ねたら、もう撮ったよ、と言われ、驚いたそうだ。一方、土門拳は半日、銀座八丁を行ったり来たりさせられて、ようやく撮られたらしい。両巨匠の、対称的な仕事のやり方が面白い。きっと、木村伊兵衛の”何必”精神の故だろう。
伊兵衛さんは京都によく来られ、祇園のお茶屋の台所を改造したような、おばんざいのお店(山ふく)がごひいきだったらしい。ここは美術館の近くで、伊兵衛さんも草場の影で喜んでいることだろう。
秋田おばこ (大曲市)1953
冬 (大曲市 雄物川)1953
高峰秀子 1956
添い寝する母と子 (大曲市) 1959
木村伊兵衛
ポスターの写真は、”秋田おばこ”。秋田シリーズ”の写真が一室にずらりと。戦後すぐ、朝日カメラの表紙用に艶っぽい女性のポートレートを撮っていたが、ある評論家に酷評され、 本来の報道写真家に戻ろうと秋田へ1952年に訪れた。その日から71年まで、なんと21回、訪ね、319本のフィルムを撮ったという(別冊太陽/木村伊兵衛より)。 農民の生活の中に溶け込んだような写真がいっぱい。よくこんな場面がと思うようなのがいくつもあった。
そして、ポートレートの部屋。志賀直哉、上村松園などお馴染みさんの写真。高峰秀子のもあったが、何気ないポーズの写真だった。彼女のエッセーに、こんなエピソードが書かれている。どんな着物を着たらよいでしょうかと木村伊兵衛に尋ねたら、もう撮ったよ、と言われ、驚いたそうだ。一方、土門拳は半日、銀座八丁を行ったり来たりさせられて、ようやく撮られたらしい。両巨匠の、対称的な仕事のやり方が面白い。きっと、木村伊兵衛の”何必”精神の故だろう。
伊兵衛さんは京都によく来られ、祇園のお茶屋の台所を改造したような、おばんざいのお店(山ふく)がごひいきだったらしい。ここは美術館の近くで、伊兵衛さんも草場の影で喜んでいることだろう。
秋田おばこ (大曲市)1953
冬 (大曲市 雄物川)1953
高峰秀子 1956
添い寝する母と子 (大曲市) 1959
木村伊兵衛
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