先月、佐賀県の吉野ケ里遺跡を見学してきてから、卑弥呼の邪馬台国のことを想うことが多い。
吉野ヶ里のガイドの人が言っていた。"魏志倭人伝で記述されている、邪馬台国の風景の3点セットがそろっているのは、ここだけなんですよ、えへん"。3点セットとは、宮室、楼観、城柵のことである。”宮室、楼観、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持し守衛す”とあるのだ。
吉野ヶ里遺跡が有名になってから、30年にもなるが、今回が初めての訪問であった。悲願が果たせた(笑)。当時のクニの様子がよく再現されていて、弥生時代にタイムスリップしたようで、楽しめた。まず、その風景をいくつか紹介してみたい。一番有名なのは、吉野ヶ里のシンボルといわれている楼観(物見やぐら)であろう。
これが物見やぐらである。城柵もクニを囲っている。新聞、雑誌なのでみていた通りのびっくり物見やぐらであった。
城柵を主役に撮ってみた。柵板の先を尖らせてある。
宮室。祭祀などを行う建物である。ここが邪馬台国であれば、卑弥呼はここで祈り、うらない、そして住んでいたことになる。思ったより、大きな建物だった。
以上が3点セットで、これが見つかったときは、世の中大騒ぎだった。この遺跡の発掘、そのあとの公園化計画などに携わった方の本を読んでみた。この方は学者ではなく、この地域の役所の担当の係の人なので、マスコミなどの対応とか、いろいろな人間模様が書かれていて、とても面白かった。たとえば、こんなことも紹介されていた。
こういう遺跡発掘の公表は大体、記者クラブを通して行われるものだが、平成元年、2月23日に朝日新聞とNHKが他社にさきがけて、”特ダネ”として発表してしまった。もちろん他社はゲキドし、翌日共同発表が行われ、より詳しい報告を行い、なんとか収まったそうだ。著者も述べていたが、報道の自由は認めるが、ルールを守り、発表内容には、きちんと責任をもってほしい。当然のことだ。
一面トップで、大々的に報道され、翌日から見学者が殺到し、邪馬台国は吉野ケ里だった、と大騒ぎになったそうだ。しかし、邪馬台国論争はまだ決着済みでなく、九州説、畿内説と100年もの間、学者だけではなく、郷土史家や小説家そして野次馬を含め、さまざまな説が出ている。小百合ちゃん主演で最近、映画にもなった”幻の邪馬台国”の盲目の郷土史家、宮崎康平は島原説だし、高木彬光の”邪馬台国の秘密”では大分の宇佐辺りだったし、松本清張も確か九州説だった。ぼくは、ワイフの故郷、熊本説です(笑)。実際、熊本県の(玉名)江田船山古墳説も提唱されたことがあるそうだ。ついでながら、東博には国宝を含む、そこの発掘品が時々展示されている。えへん(ぼくがいばることはないけれど)。
その後、逗子図書館で、前述の本と並んでいた、もうひとつの本を読み、最近の邪馬台国論争の状況を知ることになった。どうも、考古学者の間では、九州説を支持する人は少ないらしい。 何故かというと、年輪法(使用された木材の年輪で年代を測定する)という新しい、きわめて精度の高い、年代測定法が確立され、畿内のこれまでの弥生遺跡が約1世紀ほど前倒しになったのだ。そのきっかけになったのは、1995年、弥生時代の巨大な建造物跡、大阪の池上曽根遺跡の発掘調査である。年輪年代法により、その建造物はBC52年に建造されたことになり、これにより、従来先進地域とされていた九州に一気に追いついてしまったのだ。
そして、弥生時代と古墳時代も連結し、畿内に多くある前方後円古墳のどれかが、卑弥呼の墓ではないか、とくに奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかという説が有力になってきたのだそうだ。
でも決着がついたわけではない。魏志倭人伝に記述されている邪馬台国への行路からすると、九州の方が有望のようだし、まだまだ論争は続くのだろう。こうゆう論争は、ロマンがあっていい。ぼくは、今日、前述の二冊の本を図書館に返却した代わりに、未読だった、松本清張の”邪馬台国”を借りてきた。九州のどの地域に特定したのか、楽しみである。ぼく自身もそのうち、独自の説をたててみよう。できれば邪馬台国を湘南地方に特定したい(爆)。へりくつを楽しみにまっていてね。期限は鳩ぽっぽと同じ、5月末です。できなければ、(ワイフの代わりの)掃除職をします。
これが2冊の本。
吉野ケ里は実際の邪馬台国の跡ではないかもしれないが、たぶん、こうゆう風景だったのだろうと夢をみさせてもらった、ロマン紀行であった。
吉野ヶ里のガイドの人が言っていた。"魏志倭人伝で記述されている、邪馬台国の風景の3点セットがそろっているのは、ここだけなんですよ、えへん"。3点セットとは、宮室、楼観、城柵のことである。”宮室、楼観、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持し守衛す”とあるのだ。
吉野ヶ里遺跡が有名になってから、30年にもなるが、今回が初めての訪問であった。悲願が果たせた(笑)。当時のクニの様子がよく再現されていて、弥生時代にタイムスリップしたようで、楽しめた。まず、その風景をいくつか紹介してみたい。一番有名なのは、吉野ヶ里のシンボルといわれている楼観(物見やぐら)であろう。
これが物見やぐらである。城柵もクニを囲っている。新聞、雑誌なのでみていた通りのびっくり物見やぐらであった。
城柵を主役に撮ってみた。柵板の先を尖らせてある。
宮室。祭祀などを行う建物である。ここが邪馬台国であれば、卑弥呼はここで祈り、うらない、そして住んでいたことになる。思ったより、大きな建物だった。
以上が3点セットで、これが見つかったときは、世の中大騒ぎだった。この遺跡の発掘、そのあとの公園化計画などに携わった方の本を読んでみた。この方は学者ではなく、この地域の役所の担当の係の人なので、マスコミなどの対応とか、いろいろな人間模様が書かれていて、とても面白かった。たとえば、こんなことも紹介されていた。
こういう遺跡発掘の公表は大体、記者クラブを通して行われるものだが、平成元年、2月23日に朝日新聞とNHKが他社にさきがけて、”特ダネ”として発表してしまった。もちろん他社はゲキドし、翌日共同発表が行われ、より詳しい報告を行い、なんとか収まったそうだ。著者も述べていたが、報道の自由は認めるが、ルールを守り、発表内容には、きちんと責任をもってほしい。当然のことだ。
一面トップで、大々的に報道され、翌日から見学者が殺到し、邪馬台国は吉野ケ里だった、と大騒ぎになったそうだ。しかし、邪馬台国論争はまだ決着済みでなく、九州説、畿内説と100年もの間、学者だけではなく、郷土史家や小説家そして野次馬を含め、さまざまな説が出ている。小百合ちゃん主演で最近、映画にもなった”幻の邪馬台国”の盲目の郷土史家、宮崎康平は島原説だし、高木彬光の”邪馬台国の秘密”では大分の宇佐辺りだったし、松本清張も確か九州説だった。ぼくは、ワイフの故郷、熊本説です(笑)。実際、熊本県の(玉名)江田船山古墳説も提唱されたことがあるそうだ。ついでながら、東博には国宝を含む、そこの発掘品が時々展示されている。えへん(ぼくがいばることはないけれど)。
その後、逗子図書館で、前述の本と並んでいた、もうひとつの本を読み、最近の邪馬台国論争の状況を知ることになった。どうも、考古学者の間では、九州説を支持する人は少ないらしい。 何故かというと、年輪法(使用された木材の年輪で年代を測定する)という新しい、きわめて精度の高い、年代測定法が確立され、畿内のこれまでの弥生遺跡が約1世紀ほど前倒しになったのだ。そのきっかけになったのは、1995年、弥生時代の巨大な建造物跡、大阪の池上曽根遺跡の発掘調査である。年輪年代法により、その建造物はBC52年に建造されたことになり、これにより、従来先進地域とされていた九州に一気に追いついてしまったのだ。
そして、弥生時代と古墳時代も連結し、畿内に多くある前方後円古墳のどれかが、卑弥呼の墓ではないか、とくに奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかという説が有力になってきたのだそうだ。
でも決着がついたわけではない。魏志倭人伝に記述されている邪馬台国への行路からすると、九州の方が有望のようだし、まだまだ論争は続くのだろう。こうゆう論争は、ロマンがあっていい。ぼくは、今日、前述の二冊の本を図書館に返却した代わりに、未読だった、松本清張の”邪馬台国”を借りてきた。九州のどの地域に特定したのか、楽しみである。ぼく自身もそのうち、独自の説をたててみよう。できれば邪馬台国を湘南地方に特定したい(爆)。へりくつを楽しみにまっていてね。期限は鳩ぽっぽと同じ、5月末です。できなければ、(ワイフの代わりの)掃除職をします。
これが2冊の本。
吉野ケ里は実際の邪馬台国の跡ではないかもしれないが、たぶん、こうゆう風景だったのだろうと夢をみさせてもらった、ロマン紀行であった。
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