気ままに

大船での気ままな生活日誌

鎌倉文学館の薔薇園

2012-10-26 06:45:01 | Weblog
岡山県牛窓町のホテルからスマホ投稿です。
以下の記事は、24日に鎌倉文学館を訪ねたときのものです。
・・・・・

鎌倉文学館の薔薇園が見頃になりました。まず、文学館と薔薇のツーショットから。


当館は、よく知られているように、旧前田侯爵家の別邸を鎌倉市が寄贈を受け、昭和60年(1985)以来、文学館として活用しているものです。国の登録有形文化財にもなっています。三島由紀夫の小説”春の雪”の舞台にもなっています。

それがきっかけとなり、薔薇の品種、”春の雪”が生まれました。ちょうど見頃になっています。



三島由紀夫がブラックティーが好きだったので、この品種が生まれました。”ブラックティー”。これは、あまり本気にしないでくださいね。


サマーサンシャイン。


白秋


コロラマ


グロリオサ。アフリカ、熱帯アジアに分布する、つる性植物。ここで咲いているのをはじめて見たような気がする。


アンデスの乙女。 いい名前をつけてもらったね。マメ科。


おまえはいつも威風堂々だね。すた爺。ぼくはスタスタ(あるく)爺


この展覧会も観てきました。帰ったら、紹介しますね。


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天地明察 

2012-10-25 07:53:29 | Weblog
天地明察ってなあに?天地真理のお兄さんですか ご明察、お見事です、とはいえませんが、あながち間違いとはいえません。天地の真理を明察する江戸のお兄さんの物語だからです。

映画、”天地明察”を観てきました。好評だった”おくりびと”の滝田洋二郎が監督で、原作が、本屋大賞の小説(冲方丁著)ならば面白くないはずがないと思った。加えて、江戸時代、日本独自の天文歴をつくった安井算哲の物語という。ぼくは、江戸の天文学とか数学にも、ちょっと関心をもっているので、是非行かねばと、出掛けたんでごわす。

算哲(岡田准一)は、もともと碁打ちの名家に生まれたが、ひょんなところから、幕府の命で、北極星の高度を測定し緯度を定める北極出地隊の一員となる。そして、それを終えたあと、さらに大命が下る。現在、朝廷が管理している(800年間使われてきた)唐由来の暦がどうも、少しくるってきているようだ、我が国独自の暦をつくれと言われる。朝廷側の激しい抵抗もあるが、妻えん(宮崎あおい)の内助の功や天才数学者、関孝和(なんと猿之助)の支援、そして水戸光圀(中井貴一)の後ろ盾もあり、とうとうやり遂げる。算哲の親友に、囲碁界の革命児・本因坊道策(横山裕)がいる。一昨日の朝日新聞の夕刊に出ていた、”初手天元(ど真ん中に初手を打つ、めったにやらない手)”ではじまる、両者の緊迫した対決もみられる。どっちが勝ったか、それは言えません。これから見る人の楽しみが減るからね。

キャスト陣が豪華。前述の俳優さんのほか、松本幸四郎、染五郎の親子が敵味方で登場。幸四郎は算哲の上司で、染五郎は朝廷の天文方。”おくりびと”に、焼き場の職員役で出演した笹野高史は、北極出地隊長を務めるが、途中で病死し、ここではおくられることになる。岸部一徳も隊員で出ている。

天体や数学の研究に目を輝かす算哲の姿に、思わず、ぐっとくる。(専門は違うけど)おれにもこんな若き日があった。今は遊びに目を輝かしています。クライマックスは、算哲のつくった暦が正しいかどうか、染五郎との最後の大勝負、その日、日食になるかどうか。江戸市中の大勢の人々が天をみつめる。おおっ!

岡田准一と宮崎あおい 染五郎 あれ、筋を教えてしまったかな。ごめん。

とても面白い映画であったでごわす。





”初手天元”の新聞記事の横に、算哲にちなむ展覧会の記事が。永青文庫で”細川家に残る江戸の天文学”展が開催中とのこと。細川家は算哲(のち幕府天文方に。渋川春海と改名)から天文学を学んだとのこと。また本因坊家から、囲碁も教わっている。さすが、熊本はえらいぜよ。これは、是非行かねばならない展覧会たい。

・・・・・
今日から数日間、西の方で遊んできます。留守中も、スマホ投稿の予定ですので、毎日、お訪ねください。
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冠雪の富士と小百合

2012-10-24 08:07:58 | Weblog
冠雪の富士山。この秋、はじめて出会った。
ぼくにとっては、初冠雪のお富士さん

うちのマンションのビューポイントから撮った富士。


ズームを最大にしてみた 冠雪の頂上


裾野を全部入れてみた


今日は、初冠雪の大サービス。近くの青木神社からの富士山。


やっぱり富士は日本一の山。いや、世界一の山。

この人は、世界一の美女です。 ミスユニバース女王


60代ではこの人でしょう 篠山作品より 
40代の初冠雪の小百合さんです
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篠山紀信展 写真力

2012-10-23 17:13:51 | Weblog
初台の東京オペラシティアートギャラリーで開催されている篠山紀信展を観てきた。

はじめの展示室に入ったとたん、いきなり先制パンチ。巨大な写真がどか---ん♪胸の鼓動がどきどき 目先はくらくら負けそう 負けそう♪
部屋の表札は”GOD:鬼籍に入られた人々

ひばりさんが微笑んでいる。大きい仏壇がうしろに。花も飾られている。1989年作というから、ひばりさんが亡くなった年だ。三島由紀夫のモノクロの大写真は、壮絶だ。毛むくじゃらの筋肉質の裸体に矢が二本撃ち込まれ、木に吊るされている。1970年作で、これも三島が亡くなった年の作品だ。まるでその後の自死を予言するような写真。そういえば、看板に使われた、ジョンレノンとオノヨーコの写真も、この3か月後にジョンが射殺されたとのこと。篠山紀信は言う、”写真家は「時の死」の立会人だ”。たまたま、その”時の死”が、本人の死の直前の輝きを捉えた。

三島の向かいには、にっこり笑った寅さんが。”結構毛だらけ、猫灰だらけ、尻の回りは・・・”なんて口上が今にも聞こえてきそう。そして、まだ、アラフォーの女盛りの大原麗子にもみつめられてしまう。すこし愛して、ながく愛して。スター達の一番輝いている”時の死”の瞬間も、見事にとらえている。

次の部屋は”STAR:すべての人々に知られる有名人
おっ、小百合ちゃん(汗)。1985年だから、アラフォー。夢千代あたりかな。そして、向こう側には百恵ちゃんの水着姿。昭和のスターがずらりずらりのずらりんこん。岸恵子、聖子ちゃん、ピンクレディー、学生服姿の、28歳の舟木一夫、岩下志麻、そして王、長嶋。ここで、挿入歌♪背番号1のすごい奴が相手 フラミンゴみたいひょいと一本足で スーパースターのお出ましに♪ 平成のスターももちろん。AKB48、なでしこジャパンの澤さんも。篠山紀信に撮られなきゃ、スターとは云えない、そんな感じで勢ぞろい。観客も自分史と重ね合わせながら、にこにこ堂。

そしてぼくらは”虚構の世界”へ連れて行かれる。第3室は、SPECTACLE:私たちを異次元に連れ出す夢の世界
隈取した歌舞伎役者の顔のアップがずらり。仁左衛門、獅童、橋之助、海老蔵、勘九郎等など。一瞬をとらえた表情が写楽のよう。玉三郎のいろんな場面も。歌舞伎役者は絵になるなあ。デェズニーランドの人々の勢ぞろいなんてのもある。草間弥生さまも、水玉模様の何か(忘れてしまった)の横にちょこんと立っていたっけ(笑)。

そして、次の部屋はに入ると、これまでのにこにこ顔は、がらりと変わる。挿入歌。♪さっと駈けぬけるサスペンス スリルの瞬間よ 熱い視線がからみ合ったら 白い火花がパチパチ 心はメラメラ 燃えそう 燃えそう 私ピンクのサウスポー♪ 第3室は”BODY:裸の肉体、美とエロスと闘い” おっ!裸の男どもが何十人もずらりと大画面で。ひとつは、全身刺青のヤーさんが背中の芸術作品を披露。健さんの唐獅子牡丹はなかったが(汗)、壮観だ。そして、まわし姿のお相撲さんが横綱から序の口まで、大集合。このときの横綱は、貴乃花と曙だった。これも壮観だったよーん。稀勢の里時代が来たら、またお願いしま~す。男のダンサーの裸体にもびっくりしたが、18才の宮沢りえちゃんのヌードにはほっこり。

そして、最終章は、”ACCIDENTS:2011年3月11日、東日本大震災で被災された人々の肖像”。ぼかした被災地を背景に、地元の人々の顔が10組ほど。稀代の肖像写真家の眼はどこまでもやさしい。写真をみればわかる。

50年間にわたり撮った写真の中から、”写真力”抜群の選りすぐりがここに来ている。巨大な写真の迫力もあり、これまで観た写真展とは一味違う、心に残る写真展であった。
・・・・・
巨大な写真。百恵ちゃんの写真の前に立つ篠山紀信 (芸術新潮から)


お相撲さん大集合


獅童と海老蔵


全盛期の王と引退直前の長嶋 長嶋のさびしい気持ちが表れている。長嶋はこの写真が気に入って、自宅に飾っているそうだ。


小百合と岸恵子










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ほととぎす ふじばかま咲く 笹竜胆

2012-10-22 18:33:59 | Weblog
午後、東慶寺と海蔵寺を散策し、見頃になった花々を愛で、一句つくりました。

ほととぎす ふじばかま咲く 笹竜胆

ほととぎす、ふじばかまは、わかるけど、笹竜胆とは?と思う人が多いと思いますが、最後に句の解釈をします。

まず、東慶寺の花々をご覧ください。ほととぎすとふじばかまが一緒に咲いている図です。


これは、句には出てきませんが、シュウメイギクです。うすピンク、白、八重の紅白の4点セットがそろって見頃になりました。


そして海蔵寺。竜胆とほととぎす





おまけにひょうもん蝶


そして、待ってました、染の助じゃない染五郎。笹と竜胆でごわす。このツーショットはめったに撮れない写真でごわす。海蔵寺の山門前でごわす。


笹竜胆とは、鎌倉の代名詞でごわす。何故なら、鎌倉市の市章なんでごわす。証拠をおみせします。
ほらね。マンホールの模様にもなっています。


まだ、信用できないお方には。鎌倉市役所の旗をみよ。


どうだ、参ったか。 

鎌倉にもほととぎす、ふじばかま、りんどうが咲き始めて嬉しか、という句なのじゃ。どうだ参ったか。
これでも、まだ知らんぷりする奴は、古代サメの餌食にしてやる


棒で、ど突くのもいいかな。


今日は上弦の月。

部屋の 灯をすっかり消して
風呂あがりの髪 いい香り
上弦の月だったけ
ひさしぶりだね 月見るなんて


まだわかんないって?じゃあ、ヒント。

浴衣のきみは 尾花のかんざし
熱燗徳利の首つまんで
もういっぱい いかがなんて
みょうに色っぽいね

これでわかっただろう。

よしだたくろうの旅の宿でしょ
よし、おいらもまた、そろそろ旅に出よう。







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東大本郷キャンパスで遊ぶ

2012-10-22 11:09:43 | Weblog
前日、白金台の東大医科学研究所(旧伝染病研究所)のレトロな建造物をみて、そういえば東大の本郷キャンパス内の建物も似てるな、と思ったので、今日、探検に行ってきた(汗)。

正門から入ったが、次々、目に入る古い建物は、たしかに白金台のとよく似ている。外壁は淡褐色のスクラッチ・タイルだし、ゴシック風で、玄関ポーチには連続アーチがついているところまで一緒だ。論より証拠、ほらね。






これらをみると、本郷の建物は旧伝研と同時期に、それも統一したデザインで建てられたことは一目瞭然だ。帰ってきて、ネットでみつけた、藤井恵介氏の”東京大学本郷キャンパスの歴史と建築”という論文がそれを裏付けてくれた。関東大震災後のキャンパス復興案として、昭和11年頃に提案された内田祥三工学部教授の設計案が実現したものだそうだ。白金台キャンパスも、それに付け加える形で出来たのだろう。

でも、安田講堂は建物の感じがちょっと違う。煉瓦が赤っぽいし、外観がきれいにみえる。きれいなのは、68年の東大紛争あとの修復の結果だろう。この建物の設計も内田祥三だそうだが、これは震災前から建造中だったものらしい。震災後、再開して完成したもので、前述のほかの建物とは”出自”が違う。今日はここで、”長寿時代の死生学”というシンポジュームが行われていた。参加しようかと思ったが、ぼくの死生学は”寿命”だから、何も心配することはない(汗)。


三四郎池で少し、ゆっくりした。三四郎池はまるで深山の沼のようにひっそりとしていた。


さて、と三四郎は立ち上がり、本日のメインテーマ、大学博物館巡り第2弾、東京大学総合研究博物館に向かった。その博物館は、戦前、前田侯爵の旧懐徳館があった傍らにある。(戦災で壊滅した)旧館の基礎になっていた煉瓦の遺構が、懐徳門の前に保存・展示されている。


博物館にも様々な生物の”遺構”が。常設展示は”キュラトリアル・グラフィティ/学術標本の表現”のテーマ。何十万という所蔵品の中からの選りすぐりが順次、展示されているとのこと。今回も、おおっ、の逸品がずらりずらりのずらりんこん(ぼくの造語です)。

E. S. モースらによる大森貝塚出土の代表的な土器標本とか、モースの弟子の佐々木忠次郎らによる日本人初の、茨城県の陸平貝塚の128点の土器、石器、骨器とか、古人骨頭骨「名品」展示とか。さらに、初めての縄文人の全身骨(堀之内貝塚、1904年出土)、顔面が復元された初めての縄文人頭骨(三ツ澤貝塚、1906年出土)など、めったなことでは拝めない人骨も。そうそう、坪井正五郎が選定した土偶、14点、どれもとてもも可愛かった。

そして、特別展示は”東大古生物学/130年の軌跡”。130年ということは、東大創立以来の教室ということ。その後、36年間、古生物を研究するところはここしかなかったらしい。地質学的古生物と生物学的古生物の流れがあるが、東大では後者の研究に年々比重が高まっているとのこと。とくに軟体動物系が得意のようだ。

数々の研究成果が実物標本と写真で展示されている。ここだけは写真撮影OK。

展示室


たとえば1950年代の成果


古本でいえば、稀観本(笑)。貴重な標本が三つ。まず、お雇い教授のナウマン(象ではありません、人間です)が発見したトーヨーゾウの歯。歴史的標本とのこと。


ヘリコプリオン(古代サメ)の螺旋状に巻いた歯。国内では、2個体しか産出記録がないそうだ。


螺旋状に巻き下がる異常巻のアンモナイト。左巻きだろうか(笑)。 


貝や


骨や


ああ。面白かった。大学の博物館巡り、第3弾はどこにしようか(汗)。



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近代医科学記念館

2012-10-21 10:06:20 | Weblog

白金台の松岡美術館を見終えて、大通りに出たら、向かいが東大医科学研究所であることに気付いた。ろくに地図をみないで歩く性分なので、この研究所が、こんな近くにあるとは思わなかった。以前、見学したことのある、旧伝染病研究所時代からのレトロな本館をまた観たいと思い、付属病院の小さな入口から入った。

塀沿いに歩いていくと、褐色のタイル貼りの建物が見えてきた。


さらに、進むと本館が。1937年(昭和12年)、内田祥三設計とのこと。外壁はスクラッチタイルを用い、車寄せのポーチには連続アーチが。よくぞ、今まで残ってくれやした。 


いつもなら、ここで正門を出るところだが、はたと目にとまった、”近代医科学記念館”の看板。ここにミュージアムがあるとは知らなかった。


5時前で、まだ入館できるという、それに無料。喜び勇んで入る。

おっ、少年時代に読んだ、偉人伝(笑)の面々の写真が。北里柴三郎が初代所長。野口英世も伝研の所員だったんだ。赤痢菌発見の志賀潔もここに所属だったぞなもし。ツツガムシ病の長与又郎も聞いたことがある。ぼくは、まるで少年時代に、戻ったように、目を輝かしていた(汗)。

北里柴三郎と業績集


野口英世のコーナー


志賀潔の履歴書


長与又郎の肖像画 (安井曾太郎画)


大正時代の顕微鏡まであるぞなもし


自動滴定装置まで


北里柴三郎とコッホ博士の写真だ!。この写真は稲村ケ崎のコッホの碑の説明文にもつけている写真だ。昨日、確認してきたノダ(汗)。




よく知られているように、北里は、病原細菌学の開拓者、ロベルト・コッホ博士の弟子。コッホは動物の病原細菌として初めて、炭疽菌を分離し、その後、ヒトの病原である結核菌、コレラ菌などを発見、1905年にノーベル医学生理学賞を受賞。北里は破傷風菌、ペスト菌を発見、さらに、ベーリングと共に破傷風(ジフテリアも)の血清療法も確立する。しかし、1901年の第1回ノーベル医学生理学賞はベーリングだけの受賞となった。

1908年(明治41年)、コッホは来日する。彼が65歳になったとき、二度目の妻を伴い、世界漫遊の旅に出たとき、弟子の北里柴三郎が招待し、日本に2ヶ月ほど滞在したのだった。夫妻はとくに鎌倉を気に入られ、一ヶ月ほど由比ヶ浜の海浜ホテルに宿泊した。奇遇にもこのホテルのコック長がドイツ人で、かってコッホがアフリカ旅行したときの船のボーイ長であり、アフリカ上陸後マラリヤに罹り、コッホの治療を受けたということであった。海浜ホテルは今はなくなってしまったが、瀟洒な洋式ホテルで明治19年に創立されたという。夫妻は近くの雲仙山(その先端部が稲村ヶ崎になる)の頂上からの江ノ島、富士山を見渡せるこの景観をことのほか好まれ、専用のベンチまでつくった。はじめ記念碑はこの雲仙山頂に建てられたが、荒れ果てて、昭和58年(1983年)の結核菌発見100年記念を期に、ここの公園内に移された。(以前、本ブログで紹介した記事を再掲載)

北里柴三郎の生家は阿蘇の小国町。ここにも記念館があり、一度、訪ねたことがある。巴里のパスツール研究所にはもっと充実したミュージアムがある。また、いつか紹介したい。こうして、いろいろのことを思い出させてくれたミュージアムであった。

これから大学の博物館にも、触手を伸ばそうかな。






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稲村ケ崎 夕富士&夕月

2012-10-20 23:08:10 | Weblog
鎌倉一の夕陽の名所といえば、稲村ケ崎。でも今日の夕陽はもうひとつだった。でも、夕富士と夕月は、なかなかのものだった。

もうひとつだった、夕陽。




でも、夕富士は、まずまずだった。日が落ちる頃、雲が行き過ぎ、富士山は全裸になった。




そして夕月も。 三日月だ




三日月といえば、ゴッホの糸杉(MET展、早く行かねば)だが、ここではコッホの芒だった。はあ? 高台に、芒と細菌学者、コッホの碑があるんです!





トンビもみていた、夕富士と夕月


みんなもみていた、夕富士と夕月






今晩はオリオン座流星群でもながめようかな。

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目黒のさんぽ

2012-10-20 08:21:26 | Weblog
”目黒のさんま”をモジリアーニして、目黒のさんぽ。

ワイフは独身時代、昔の名前でいうと”目蒲線”の武蔵小山に住んでいたことがある。どういう風の吹き回しか、しばらくぶりに散歩したいというので、一緒に目黒のさんぽをしてきた。目黒駅から一駅目の不動前で降りて、散歩の開始。目指すは目黒不動尊 。さてそのあとは、写真で説明します。20分も歩くと、お不動さまに到着。


甘藷まつりの垂れ幕が。甘藷(さつまいも)というと青木昆陽。甘藷先生とも云われていて、お墓がこのお寺の墓地にある。


甘藷先生のお墓


本堂にお参りし、裏に回ると、大きな大日如来さまが。境内には縁結びの愛染明王さまもいたが、延命地蔵さんにお参り(汗)。

入り口近くに、白井権八と小紫の悲話を伝える比翼塚。ここへ来る途中で歩いた、”かむろ通り”の名もこれにゆかりがある。遊女小紫のお付のかむろ(禿)も自害した。この道は桜並木で、目黒川の桜とセットで桜見物したことがある。




林試がつくばに移転したあとの公園だそうだ。都会の真ん中に森林。うらやましい環境だった。




武蔵小山の商店街は相変わらずの賑わいだった。


そのあと、白金台の美術館、博物館巡りをした。思いがけない発見もあった(のちほど)。

ああ、面白かった、サンマだけではない、サンポも目黒に限る。





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和辻哲郎 イタリアと鎌倉

2012-10-19 10:22:38 | Weblog
和辻哲郎といえば、奈良のお寺の印象を綴った”古寺巡礼”。ぼくも学生時代に読み、今も本棚にある。なんと、この本は大正8年(1919)、30歳のときに書かれている。ぼくだけの印象かもしれないが、もっとじいさんが書いていたのかと、当時は思っていた(笑)。

さて、その8年後、和辻は2年間のドイツ留学をしたが、その間、4か月余り、イタリア各地の聖堂などの建築物や博物館、美術館を観て回り、”イタリア古寺巡礼”を著わしている。どこをどう回って、どういう印象をもったのか、そんなお話を先日、聞くことが出来た。


”和辻哲郎の世界観”というテーマの大学公開講座で、初回は、和辻の孫弟子にあたるという竹内整一先生の”和辻哲郎の倫理学について”、今回が、イタリア美術史がご専門の伊藤淳先生の”和辻哲郎とイタリア巡礼の旅”だったわけ。

和辻が訪ねた場所がスクリーンに映し出され、そこで、彼がどういう印象をもったかが話されるという形で講義は進んでいく。興味深いことが多かった。なにしろ、和辻が訪ねた場所は、北イタリアのジェノヴァから始まって、ローマ、ナポリ、ボンベイを経て、そこからシチリア島に渡り、そこから、ローマに戻る。一休みして、そこから北へ向かい、アッシジ、フィレンツェ、シエナ、ピサ、ボローニャ、そしてヴェネツィアと、イタリア観光地、総なめなのだ。なんと、おいしい留学ナノだ(爆)。

では、各論に入りましょう。ローマ博物館のニオベ像にはいたく感動されたようだ。”この作は他の裸体像に観られないような非常に新鮮な印象を与えるのである。私は裸体彫刻を見てこれほど美しいと思ったことは一度もない”と愛する奥さんに手紙を書いている。因みに、”イタリア古寺巡礼”は、奥さんへの、連日の手紙がまとめられたものだそうだ。


ナポリ考古学博物館の”シヌエッサのビーナス”にも最大級の賛辞だ。”その美しさは巴里のミロのビーナスの比ではない。今まで発見されたビーナスの裸像のうち、これほどのものはない。内が完全に外に現れ、外は完全に内を示している”ぼくも両方みているが、人気者に弱いので、ミロに軍配(汗)。


ウフィツィ美術館のボッティチェリの”春”については手厳しい。この絵を全体として鑑賞しうる程の距離からながめると、色彩の暗いせいもあってそいう線などは、ほとんど見えず、線全体に対する効果もほとんどないのである。草花も扱いによっては人体以上の仕事ができるのに、何故そうしなっかたか、ルネッサンスの人には自然の美というものは添え物以上の意味をもたなかった、とも述べている。


トーハクにも来た、レオナルドの”受胎告知”もばっさり。背景の風景がレオナルドとしては少し、まずすぎる。そこにはイタリアの樹木が行儀よく標本のように並べられているだけ。


さすが、和辻哲郎、といった感じ。

さて、先日、鎌倉の川喜多長政・かしこ夫妻邸(現川喜多映画記念館)の庭に移築されている、旧和辻邸(江戸後期の民家を東京で居宅としていた)が一般公開されましたので見学してきました。



書斎 ここで、イタリア古寺巡礼も書かれたのでしょう。


お墓は東慶寺にあります。


和辻哲郎は、鎌倉にも縁があるのです。








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