毎度のGoogleのロゴがこんなことに!
アンナ・メイ・ウォンを称えて
すみません💦 どなたでしょう?
毎度のWikipediaによりますと・・・
アンナ・メイ・ウォン(Anna May Wong、本名:Wong Liu Tsong、
中国名:黃柳霜、ピン音:Huáng Liǔshuāng、1905年1月3日 - 1961年2月2日)は、
エキゾチックな美貌で、“チャイニーズ・ヴァンプ”として人気を博し、ヨーロッパでも活躍した。
ほ~ 女優さんなのね
ウォンは中国系の3世として、ロサンゼルスのチャイナタウンに生まれた。
父親はクリーニング業者である。
1919年、14歳の時に『紅燈祭』のエキストラで映画初出演。
1922年の『恋の睡蓮』で16歳にして初主演を果たした。
1924年、『バグダッドの盗賊』でダグラス・フェアバンクスと上山草人と共演し、
エキゾティックな悪女を演じて一躍有名になった。
とはいえ・・・
ウォンはその後、悪女、妖婦、メイド、売春婦、女奴隷等々、
妖艶でミステリアスな東洋人女性を演じ、脇役ではあったが立て続けに映画に出演した。
しかし、似たような役柄しか与えられないことに次第に苛立つようになった。
これは、当時の東洋人に対するイメージや偏見に加えて法の存在もあった。
と、差別があったらしい😢
そこで・・・
1928年、23歳のウォンはヨーロッパに渡った。
猛レッスンの末、ドイツ語もフランス語もマスターし、映画や舞台で華々しく活躍。
社交界でももてはやされる存在となり、
1929年にはイギリス映画『ピカデリー』で大成功を収めた。
1930年、凱旋帰国したウォンは、ブロードウェイの舞台に立って喝采を浴び、
続いて意気揚々とハリウッドに戻った。
ところが、ハリウッドで待っていたのは、以前と変わらない扱いだった。
失望したウォンはヨーロッパに戻った。
なんと😠
しかし・・・
1930年代半ば、ヨーロッパでは日増しに戦争が色濃く影を落とし始めた。
ウォンは戦争の気配から逃れるように帰国し、ハリウッドに戻った。
しかしハリウッドにウォンの活躍の場は最早なかった。
1930年代後半、ウォンは映画界での限界を感じ、
中国系の血統や容姿が関係しないラジオ番組に出演するようになった。
1942年、ウォンは37歳の若さで映画界から引退した。
しかも・・・
ウォンはついに、求めていた役柄と巡り会った。
『フラワー・ドラム・ソング』(1961年)の母親役だった。
ウォンは興奮し、出演に向けて意気込んだ。
ところが、出演が実現するかに思えた1961年、
肝硬変を煩っていたウォンは、サンタモニカの自宅で心臓発作で急死した。
56歳、終生独身だった。
なんと😢
でも・・・
映画界への貢献が認められ、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに加えられた。
とのこと😌
このロゴはスライドになっていて、
アンナ・メイ・ウォンの生涯を描いているのかな?
女優を夢見る少女時代
映画デビューするもステレオタイプな役ばかり・・・
ヨーロッパに渡り・・・
一躍スターに✨
テレビに出演したということ?
検索画面のロゴはこんな感じ
でも、何故今日称えられたんだろう?🤔
そうやら初出演映画の公開日にちなんだものらしい?
とにかく・・・
おめでとうございます
今日一日不愉快でした。
台詞とらないでください。