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パウル・クレー生誕139周年
画家の?
毎度のWikipediaによりますと・・・
パウル・クレー(Paul Klee, 1879年12月18日 - 1940年6月29日)は
ワシリー・カンディンスキーらとともに「Blaue Reiter(青騎士)」グループを結成し、
バウハウスでも教鞭をとった。
その作風は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特のものである。
1879年、スイスの首都・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれた。父は音楽教師、
母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。
クレー自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くなど、
その腕はプロ級であり、1906年に結婚した妻もピアニストであった。
1898年、当時はパリと並ぶ芸術の都だったミュンヘンに出て、
2年後に美術学校に入学し、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受ける。
なお、シュトゥックはカンディンスキーの恩師でもあった。
ただ学校の画一的な教育はクレーにあわず、1年後の1901年には退学している。
クレーの画業において転機となったのは
1914年春から夏にかけてのチュニジア(北アフリカ)旅行であった。
この旅行に感銘を受けたクレーは鮮やかな色彩に目覚め、作風は一変した。
「色彩は、私を永遠に捉えたのだ」という言葉が、
チュニジアでの体験を端的に表す一節として日記に残されている。
クレーの画集等で紹介されている色彩豊かな作品は、ほとんどがこの旅行以後のものである。
またこの頃からクレーは抽象絵画にも踏み込み、その後の表現の幅は飛躍的に拡大した。
1915年にはリルケと知り合い、互いの作品に関心を抱きあっている。
翌1920年にはゴルツの画廊で大回顧展が開かれた。
またエッセイ『創造的信条告白』を発表し、
現代美術の最前線に位置する画家の一人として知られるようになる。
同年にヴァルター・グロピウスの招聘を受け、
バウハウス退職後は1931年から1933年までデュッセルドルフの美術学校の教授をしていたが、
1933年のナチス政権の成立とともにはじまった前衛芸術の弾圧はクレーにも及び、
批判も激化する。
美術学校からの休職の通達やアトリエの家宅捜索を受けたクレーは
身の危険を感じた妻リリーの促しもあり、
生まれ故郷のスイス・ベルンに亡命した。
亡命直後は創作もはかどらず、作品数も激減するが、1937年には復調し、
旺盛な創作意欲を見せた。
また同年にはピカソとブラックがそれぞれクレーを訪問している。
1939年には創作の爆発に達し、デッサンなども含めた1年間の制作総数は1253点に及んだ。
この頃の作風は手がうまく動かないこともあって、
単純化された線(色のある作品では太い場合が多い)による独特の造形が主なものとなる。
1940年、画架に『無題(静物)』を残してロカルノ近郊のサンタニェーゼ療養所に移り、
その地で死去した。
ベルンのショースハルデン墓地にあるクレーの墓石には
「この世では、ついに私は理解されない。
なぜならいまだ生を享けていないものたちのもとに、死者のもとに、私はいるのだから」
というクレーの言葉が刻まれている。
日本では宮城県美術館に35点のコレクションがある。
なるほど😌
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