【tv】ぶらぶら美術博物館「没後70年 吉田博展」
開催中の美術展や博物展を紹介する番組。今回は、東京都美術館で開催中の「没後70年 吉田博展」を取り上げていた。これは見に行きたいと思っているので、メモ取りながら鑑賞。備忘録として残しておく。
解説は学芸員の小山明子さん。もともとは油絵や水彩画を描いていた吉田博(Wikipedia)は、40代になってから本格的に木版画に取り組んだ。日本画と西洋画を融合させた作品を数多く生み出す。今回は、その木版画を中心とした展覧会となっている。
プロローグ
「穂高山」
「穂高山」は30代の頃の油彩画。吉田博は登山家でもあったので、実際に登って描いている。穂高山は3000m級の山。既に写実性と独特の色使い。
久留米出身の吉田博は神童と呼ばれていた。元の姓は上田。中学生の時、美術教師だった吉田嘉三郎(Wikipedia)に才能を認められ養子となった。17歳で上京し不同舎に加わる。
20歳でアメリカに渡り活動の場を広げる。ちょうど官費でヨーロッパで学んだ黒田清輝(Wikipedia)が戻って来て白馬会(Wikipedia)を作った頃。所属していた明治美術会(Wikipedia)が旧式となってしまった。薩摩出身の黒田と旧幕府側という側面もあり、エリートに対する反発もあった。
友人の中川八郎(Wikipedia)と共にアポなしでデトロイト美術館に作品を持ち込み、気に入られて二人展を開催。大評判となり絵も売れた。現在に換算すると数千万を稼いだらしい。当時日本にはアメリカ人が美術品の買い付けに来ていたため、彼らの好みを知っていた。
海外だけでなく日本でも評価を得ていて、第一回文展で入賞しも文部省買い上げとなっている。
「明治神宮の神苑」
「明治神宮の神苑」は44歳の時の作品。木版画ではあるけれど下絵のみ担当し、渡邊版画店(現 渡邊木版美術画舗 Wikipedia)が作成したもの。渡邊版画店の渡邊庄三郎(Wikipedia)が新版画(Wikipedia)を考案した。今作は明治神宮完成を記念して画家たちに下絵を描かせたもので、吉田博も依頼を受けて下絵を描いた。
とはいえ、今作が木版画を手掛けるきっかけとなったわけではなく、本格的に取り組むきっかけとなったのは、1923年に関東大震災が起き、多くの木版が燃えてしまい、窮地に陥った太平洋画会(Wikipedia)を救うため、アメリカへ美術品の売り込みに行ったことだった。アメリカで木版画が大人気で、質の良くない作品も売れており、だったらもっとすごいものを見せてやる!と意気込んだため。
第1章 それはアメリカから始まった
「エル・キャピタン」
ヨセミテ公園の世界最大の花崗岩を描いた「エル・キャピタン」はアメリカ市場を狙った作品。西洋画の題材を日本風に描いているのが特徴であり人気の秘密。色使いが独特。左端の枠外に"自摺"と書かれており、自ら摺った作品であることが分かる。
木版画は基本、下絵、彫り、摺りと3つの工程をそれぞれが担当する分業制だが、吉田博は専属の摺師と彫り師を抱えており、彼らに指導するために自らも技術を習得した。しかもアラフィフで😲
第2章 奇跡の1926年
「剣山の朝」
1925年から本格的に木版画に取り組み、1926年に多くの傑作を生んだ。「剣山の朝」もその中の1つ。まるで海外の風景のよう。ダイナミックな構図と版を重ねたグラデーションで奥行きを出している。山田五郎氏によるとこの色は印刷所泣かせとのこと。
パーティを組んで夏に1ヶ月かけて登り、手前に描かれたテントで野営して描いた。登るのにも技術がいる。登山家でもある吉田博ならでわ。地質学的にも正確。
「光る海」
「光る海」は瀬戸内海を描いた作品。海面のキラキラした光は丸鑿で彫っている。印象派の作品からインスピレーションを受けている? そもそも印象派は日本の木版画である浮世絵から影響を受けたが、その印象派から日本の画家が影響を受けるという不思議な連鎖。
また「光る海」はダイアナ妃も所有しており、初来日時に購入した「猿沢池」と併せて、ケンジントン宮殿の執務室に飾っていた、お気に入りの作品だった。
山田五郎氏による豆知識としては、ジークムント・フロイト(Wikipedia)もコレクター。現代ではノラ・ジョーンズが有名で、父親でシタール奏者のラヴィ・シャンカールの祖国であるインドシリーズを集めているとのこと。
「帆船 朝」
帆船シリーズ「帆船 朝」「帆船 午前」「帆船 午後」「帆船 霧」「帆船 夕」「帆船 夜」の6枚からなるシリーズ。同じ版木で色を変えている。クロード・モネ(Wikipedia)の「積みわら」を連想させる。
第3章 特大版への挑戦
「渓流」
「渓流」は80cmの特大版。版木を変えて摺りを重ねて1枚の作品になる木版画は、見当という印を目当てに摺りを重ねるわけだけど、これだけ大きいと合わせるのが大変だろうと山田五郎氏が驚いていた。紙も一枚ものなので、おそらく特注なのではないかとのこと。
一般的に木版画は十数回重ねて摺るそうだけれど、なんと吉田博の作品は30枚摺るのだそう。今作の水の部分は自分で彫ったそうで、根を詰め過ぎて歯を痛めてしまったのだそう💦 しかし、これはスゴイ! 水の音が聞こえて来るような迫力。まさに絵の鬼!
第5章 TOKIOを描く
「上野公園」
「上野公園」は桜の季節を描く。当時から都美術館もあったし、この辺りは活動の中心だった。浮世絵的な作品で海外市場を狙った? 色が渋い。枝ぶりが写実的で、雨が降った後の水たまりなども印象的。
当時は黒田清輝の白馬会と、吉田博の太平洋画会はしのぎを削っていたが、実は今展が開催中の都美術館の近くに黒田記念館がある。現在、東京国立博物館平成館で吉田博の「精華」が展示されていることもあり、東京国立博物館と連携した企画「めぐる美術 黒田清輝と吉田博」を開催中。と、告知が入った😅
第8章 印度と東南アジア
「フワテプールシクリ」
長男とインドへ行く。「フワテプールシクリ」を描いたのはムガール帝国のアクバル大帝(Wikipedia)ゆかりのファーテプール・シークリー。逆光の表現や、室内の光との描き分けが素晴らしい、薄い色を重ねて描いていく。
登山家でもあるためヒマラヤへの強い憧れがあり、長男とともに写生旅行を敢行。約1ヶ月で考えられないくらいあちらこちら周る弾丸ツアー。移動の列車内で眠り、目的地に着くと写生三昧だったのだそう。とにかくパワフルな人だったのね。
第9章 日本各地の風景Ⅱ
「陽明門」
戦時下の日本を描く。「陽明門」は言わずと知れた日光東照宮の陽明門を描いた作品で、なんとこれ96回摺り!! 出演者からも96回も摺るなら描いた方が早いとの声が😅 イヤ、確かにそうだけど木版画を極めたかったのでしょう。
第10章 外地/大陸を描く
特に作品の紹介はなし。1937年従軍画家に志願して中国へ渡る。戦争に賛成ということではなく、画家としての好奇心が勝ったということではないかとのことだった。
エピローグ
「農家」
「農家」は1947年に描かれた遺作。この3年後の1950年に73歳で亡くなった。この「農家」は板橋区成増で描かれた。これ素朴でいい。
この当時、吉田博は下落合に吉田御殿と呼ばれるアトリエ兼自宅で暮らしていた。この吉田御殿にGHQが目をつけ接収しようとするも、英語が堪能な吉田はアトリエの必要性を説明し難を逃れた。また、英語が話せる画家がいると外国人が集うサロンのような場所になった。吉田博の社交性を感じさせるエピソード。
木版画だけでなく油絵や水彩画も描き続け、亡くなる直前まで写生旅行をしていたという、まさに絵に生きた人生。もちろん努力もしたのだろうし、辛い思いをしたこともあっただろうけれど、これだけ絵を愛した人生は清々しいものを感じるし、作品からそれを感じる。
写実性と不思議な色味が気に入り、見てみたいと思っていたけど、今回ご本人のことを知りますます見たくなった! 3月28日までだからそれまでに緊急事態宣言解除されるかな? これは絶対絶対見たい!!
ぶらぶら美術博物館:毎週火曜日 20:00~21:00 @BS日テレ
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