団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

作者が、得々として奥様に己の考えた説を披瀝すること自体間違っていたのでは。(笑)

2020-04-13 03:13:19 | 日記
 
 中日新聞のサンデー版の「おじさん図鑑」に「決めない(下)」というタイトルで、飛島圭介さんがエッセーを書かれていました。
昨日の続きです。

 「何事も決めないで、その時々に応じて、柔軟かつ懸命必死に生きるのが人生の要諦なんだ」と、
おじさんは得々として妻に己の考えた説を披瀝に及んだ。

 すると妻は、一瞬の間も置かず楯突いた。

 「何事も決めないで、という姿勢は良しとしても、もうすでに論理が破綻してるじゃない。
だって”決めない”ってことを”決めてる”でしょ。
”落書きするな”と落書きするのと同じよ」

 ふーむ、な、なるほど。
さすれば”決めないことも決めない”というのでどうでしょう。

 「とにかく、私は決めるの!決めなきゃ何も始まらないよ。
毎日の献立だって栄養バランスや体調をなんかを考えて、あらかじめ決めなきゃ何も作れないでしょう。

 あるいは、物を増やしたくないと決めたから物を買わないとか、何でも決めて行動しないと物事進まないわよ」

 そういう日常の些末なことじゃなく、ワシは人生の基本的姿勢のことを言ってるんだよ。
「あら、人生って日常のささやかなことの積み重ねじゃないの」

 そうやって夫に対して、”決めつけて”反論するのは良くないでしょ!


 以上です。


 昨日の「決めない(上)」の文を下記に乗せます。

 中日新聞のサンデー版の「おじさん図鑑」に「決めない(上)」というタイトルで、飛島圭介さんがエッセーを書かれていました。



 若いときは迷いが多く、どう生きたらよいかをあれこれ考えた。
とくに青春期の頃は何をどうしていいのか皆目見当もつかず、心はいつも不安定だった。

 そんな折も折、おじさんの若い時分は人生論がブームとなっていて、
トルストイや下村湖人、武者小路実篤、佐古純一郎などの人生論が盛んに読まれていた時代だった。

 今考えれば時代そのものがけっこう真面目だった。

 若きおじさんも、「人生のなぜ」を解き明かしたく、そういった類の本を次々と読み、
心の安定を図ったのだった。

 しかし、迷いは解消せぬまま矢のように時は過ぎ、
成年となり現在に至ってしまった。
この年になっても迷いや不安は手に余るほどだ。

 が、人生の大半を過ぎた今振り返れば、迷いとか不安など、たいしたことではなかった。
「かくあるべきだ」などと<決めない>からこそ、ここまでなんとか過ごしてこられた、と最近つくづく思うのだ。

 もちろん今の若い人たちとは時代相も環境も違うから、
単純には参考にならないだろう。

 が、何事も<決めない>で、その時々を懸命必死に生きることこそが人生の要諦ではないか。


 以上です。



  作者も、奥様には勝てないようです。(笑)

>「何事も決めないで、という姿勢は良しとしても、もうすでに論理が破綻してるじゃない。
だって”決めない”ってことを”決めてる”でしょ。
”落書きするな”と落書きするのと同じよ」

 たしかにお説ご尤もです。(笑)

>「とにかく、私は決めるの!決めなきゃ何も始まらないよ。
毎日の献立だって栄養バランスや体調をなんかを考えて、あらかじめ決めなきゃ何も作れないでしょう。

 うちのかみさんも、今日の献立を決めるのに苦労しています。
決めなければスーパーに買い出しにいけないでしょうし。


>そういう日常の些末なことじゃなく、ワシは人生の基本的姿勢のことを言ってるんだよ。
「あら、人生って日常のささやかなことの積み重ねじゃないの」
 そうやって夫に対して、”決めつけて”反論するのは良くないでしょ!

作者が、得々として奥様に己の考えた説を披瀝すること自体間違っていたのでは。(笑)






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コメント (4)
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