1月3日、大阪の実家での正月も終え、東京に戻る。・・・のはずだが、大阪駅から特急北近畿号に乗り、城崎温泉に向かう。
山陰本線の車窓を彩る名所として名高い餘部鉄橋。この春からの架け替え工事により、現在の姿をとどめるのもあとわずかとなった。餘部鉄橋自体は何回も渡ったことがあるし、鉄橋脇の餘部駅で下車して、鉄橋を真下から仰ぎ見たこともある。ただ、おそらく現在の姿を見るのは最後のチャンスだろうと思い、大阪から遠回りして彼の地を訪れることにしたのだ。
今回は大阪への帰省と合わせて、「周遊きっぷ」の「北近畿ゾーン」を組んでおり、結構広い範囲で特急の自由席も乗り放題である。
城崎温泉着。正月を温泉で過ごした人たちでごった返している。やはり温泉でのんびり温まって、そして山陰名物の松葉ガニを食して・・・・、いや、贅沢なもんだ。私はここに泊まるのではないが、しばし立ち寄って城崎を楽しむことにする。
まずは駅横の櫓が観光客の目を引く「さとの湯」へ。山陰本線の架線や円山川を見下ろす展望風呂と、中庭を見下ろす内風呂を交互に入浴する。雨や雪は降っていないがさすがに外に裸で出ると寒い。
入浴後は駅前の「山よし」でカニの釜飯の昼食。その後、駅前の土産物屋街を冷やかす。このシーズン、店頭には大小さまざまの松葉ガニが並べられている。城崎でカニが揚がるわけではないが、香住、柴山、津居山などの漁港から直送されており、店頭を彩っている。生簀に活けガニを囲っている店もあり、実によい目の保養である。豪快に1パイ買って貪り食いたいものだが、ここは抑えて、酒のアテ用にかに味噌などを買い求めるにとどめる。
さて、列車の時間になったので駅に戻る。キハ47の2両編成。車窓に日本海を望む。大阪を出たときは晴天だったが、こちらに来て空は灰色。風も出てきており、典型的な冬の景色である。
香住から鎧を過ぎると、この次が餘部である。ここで車内がざわざわする。乗客は汽車旅ファンやら子ども連れが多く、皆、あの鉄橋にさしかかるタイミングを見計らっているのだろう。それを見越してか、ワンマン運転手が「このトンネルを抜けると、餘部鉄橋です」と放送する。
トンネルを出た。高さ41メートルから見る餘部の集落と日本海。車内から一斉に歓声があがる。普段の高架線路でもなかなかこれだけの高度を走ることはないだろう。ゆっくりと鉄橋を渡り、餘部駅に到着。ここで多くの乗客とともに下車。駅に一時の賑わいが訪れる。
10分ほど後に大阪からの特急「はまかぜ」が餘部鉄橋を通過するので、早速駅の上にある撮影スポットに向かう。ここでは何と30人ほどのギャラリーが陣取っていた。中にはクルマで乗りつけた観光客とおぼしき人の姿も多いが、それだけに、この鉄橋の架け替えというのが鉄道ファンだけではなく多くの人の関心を呼んでいるのだろうか。
「間もなく、列車が来ます」と音声が流れ、それまでいろんな会話で賑やかだった撮影ポイントに、一瞬の静寂と緊張が走る。三脚を立てた本格的一眼レフカメラからケータイのカメラまで、「はまかぜ」を待つ。カタカタカタ・・・とレールを刻む音がトンネルの中から聞こえ、「はまかぜ」が現れる。やはり、実際に列車が走っている風景のほうが絵になるなあ。カメラのシャッターを切りながらうなることしきり。
ここで、鉄橋下の集落へと下りる。鉄橋も見る角度によってさまざまな表情を見せる。これがコンクリートの橋脚なら「あ、橋脚やな」で終わるのだろうが、この骨組みには周りの景色とも調和した味がある。
橋脚の下の小屋で、餘部鉄橋を走る列車の写真の無人販売が行われていた。餘部鉄橋の保存を訴える人たちの手によるものだという。コンクリート橋脚に架け替えられた場合の景観のイメージ図も掲示されていた。その中で、コンクリート橋脚を立てるのと同時に、現在のトレッスル式の橋脚も残せないものかという考察もなされている。
鉄橋の真下にある、列車転落事故の慰霊碑にお参りする。もう20年くらい前だろうか。強風にあおられた客車が鉄橋から転落し、かんづめ工場を直撃し、従業員と列車の車掌6名が犠牲となった事故。思えば、餘部鉄橋という名前が鉄道ファンだけではなく、広く一般に知れ渡ったのはこの事故以来ではないだろうか。そして、この事故から、強風時の運転に対して慎重になるとともに、運転休止のリスクを避けるために関西と鳥取を結ぶ特急が智頭急行経由になったり、「出雲」が廃止になったりで、そのうえで現在の架け替えに至ったというわけである。この移り変わりを、地元の人たちはどのような思いで見つめているのだろうか。冬の集落は固く扉を閉ざした家が多く、人々の表情はうかがえない。
形のあるものはいつか壊れるものであり、明治時代に建造されたこの鉄橋が未来永劫残るとは思わない。だから「架け替え絶対反対」という気持ちはない。
ただ、最近広まりつつある「近代化遺産」という言葉がある。文化遺産といえば江戸時代以前の神社仏閣や城郭建築をイメージするが、鉄道建設という、日本の近代化の歴史を物語る遺産というのも同じように何らかの形で残す必要があるのではないだろうか。これだけの高さの鉄橋を築き上げたのも日本の鉄道史、建築史の重要な史料である。
今の流れからすれば現在の橋脚は全て撤去されるのだろうが、何とか活かす方法はないだろうか。例えば、今年大宮に完成する鉄道博物館に橋脚1本持ってくるとか。
いつしか、次の浜坂行きがやってきた。今日はこの先浜坂まで行き、翌日、再びこの鉄橋を渡ることになる・・・。(続く)