まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第6回九州西国霊場めぐり~第16番「清水寺」(ここにも清水観音)

2021年12月23日 | 九州西国霊場

第15番・普光寺を後にして、次の第16番・清水寺に向かう。九州西国霊場にも「清水寺」を名乗る寺は複数あり、宇佐市の第3番・清水寺(せいすいじ)、これから向かうみやま市の第16番・清水寺(きよみずでら)、そして長崎市にある第25番・清水寺(きよみずでら)と並ぶ。京都の清水寺をはじめとした「全国清水寺ネットワーク」というのも形成されている。

まずは三池の集落を抜け、新幹線の新大牟田駅近くを通る。この駅を利用したことがないので何ともいえないが、果たしてどのくらい利用客がいるのやら。列車本数が1時間に1本なのは仕方ないとしても、新大牟田駅~大牟田駅間は路線バスで30分ほどかかってしまう。あ、今回の帰りに新大牟田から「バリ得」を使ってもよかったかな。こういう時でなければ新大牟田に乗り降りすることはないだろうから。

カーナビは距離が近いルートを選んだためか、広域農道に入った後、急なカーブが続く山道に入る。大牟田市からみやま市に移動するだけなのに、ちょっとした山越えである。九州西国霊場めぐり、なぜかこうした山道に出会うことが多い。

さて、みやま市である。いわゆる平成の大合併で、瀬高町、高田町、山川町が一緒になってできた市である。「みやま」とは、三池郡、山門郡の頭文字から取ったもので、親しみやすさを出すためにひらがなにしたそうだ。

県道から清水寺への案内板が出る。もっとも、清水寺そのものよりは麓の清水寺本坊庭園、清水山荘などの案内が目立つ。本坊庭園は雪舟が造ったと伝えられており、こちらのほうが有名なようだが、私はそこは省略してともかく寺を目指す。途中、ハイキング姿の人をちらほら見かける。寺に行くのがちょっとしたハイキングコースなのかな。

仁王門に着き、いったんクルマを停める。門の下には五百羅漢の石像が並ぶ。ここから車道、歩道が分かれていて、本来ならこの歩道を登るところだろうが、このまま車道で行けるところまで行くことにする。

山の上が清水公園となっており、茶屋のある駐車場までがクルマが行ける終点。

寺の境内としては裏手から入るようで、先に三重塔や乳父観音を過ぎる。乳父観音は母乳の出がよくなるとして古くから信仰されていて、おっぱいをかたどった絵馬も奉納されている。

本堂の前に出るが、石段の下に山門が見えたのでいったん石段を下りる。途中クルマで楽をしたので、せめて山門だけでもくぐることにする。

清水寺は1200年あまりの歴史を持ち、伝教大師最澄が開いたとされる。最澄が唐から帰国した際、有明海の東の山中に一条の光を見つけた。その光を求めて、一羽の雉を道案内にして山中に入ったところ、苔むした合歓の霊木に出会った。最澄はこの木から千手観音を彫り、お堂を建てて祀ったという。

時代が下り、清水寺は柳川藩の立花氏の保護を受けたという。山門は6代藩主立花貞則が願主となって建てられ、その他の仁王門や三重塔も地元の民衆の願いで建立されたそうだ。

境内には「夜観音 朝観音」のポスターが掲げられる。清水寺にとって年に一度の大祭で、8月9日の夜から10日の朝にかけて大掛かりな祈祷が行われ、この日にお参りすると四万六千日お参りした功徳があるとされる。四万六千日は観音を本尊とする寺で行われることがあり、もっとも有名なのが浅草の観音さんだと思うが、どういう由来なのだろうか。諸説あるそうだが、米一升が約46000粒ということで一升=一生と掛けたとか、46000日は約126年で人の寿命の限界、つまり一生・・というあたりから出た数字だという。

本堂に上がる。扉の前には「清水寺 豪雨災害への寄付のお願い」の看板が立つ。2021年8月の豪雨ではみやま市にも大きな被害が出て、清水寺も三重塔の地盤に亀裂が入り、参道の石段も土砂に埋まったとある。そういえば先ほど三重塔から本堂に向かう道の一部がシートで覆われていて、足元注意の貼り紙もあった。こうした被害に対して行政の支援を受けられるものもあるが、寺自身で修復しなければならないものが多いようだ。

本堂の外陣でお勤めとして、朱印をいただく。

さて、清水寺の周囲は清水公園として整備されていて、茶屋の向こうにも展望台がある。そして行ってみるとちょうどみやま市の市街地、エリアでいえば瀬高あたりだろうか、平野の景色を見ることができる。雲がかかっていてはっきりとは見えないが、その先の有明海、さらには島原半島らしき形も望める。

北原白秋の「山門の歌」の歌碑がある。その一節に「山門はも うまし邪馬台 いにしへの 卑弥呼の国」とある。近畿か、九州かと昔からその場所が論争になっている邪馬台国。少なくとも白秋は山門から邪馬台国と来て、卑弥呼の国と歌っているから、九州派なのだろう。それは考古学的にどうというより、ここから見た一帯の景色の豊かさから連想されたものと思われるが、ここに立ってみるとそれもわかるような気がする。

邪馬台国の九州説といっても、九州は広い。吉野ヶ里遺跡の発掘であの辺りが有力とも言われているが、ここから見る瀬高近辺、あるいはここから北にある八女近辺も捨てがたいところだという。

これで清水寺を後にして、次の永興寺に向かうことにする。駐車場には清水寺の案内板の横に、永興寺まで3.5キロとの看板があった。

しかし、そこに行くべき道には「車両通行止」の文字・・。これも2021年8月の豪雨のせいだという。幸い、いったん県道まで下り、また別の道から上がるとたどり着けそうだ。遠回りになるが、せっかくここまで来たのだ、ともかく向かうことに・・・。

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