今回の九州西国霊場めぐりは目的の3ヶ所を回り終えて、大牟田に戻る。レンタカー返却までの2時間半ほどの時間でかつての三井三池炭鉱に関するスポットを回ることにする。ここは素通りするのはもったいないと思っていて、わざわざ日帰りででも1回分費やした次第である。
まず向かったのは駅の西側、三池港の北側にある大牟田市石炭産業科学館。隣接してイオンモール、帝京大学のキャンパスが広がるところにある。かなり以前、この科学館だけは訪ねた記憶がある。その時は駅から歩いたか、レンタサイクルを使ったか。ひとまずここで炭鉱のことに触れた後で、現在も残る産業遺産を回ることにする。炭鉱関連の遺産が世界遺産の一部になったことで、大牟田としてはそれらを観光資源としてPRしている。
室町時代に地元の農夫が「燃える石」を発見したのが大牟田の石炭の歴史の始まりで、その後は柳川藩、三池藩による採掘を経た後、1873年に官営の三池炭鉱となった。1889年に三井に払い下げられて規模も広がり、三池港も整備された。その発展に大きな功績を残したのが実業家の団琢磨である。かつては日本最大の生産量を誇っていた時期もあった。坑道は有明海の海底にまで深く伸びていた。
その一方で、歴史には光もあれば陰もあった。一時は採掘作業に囚人を使っていたり、朝鮮人や中国人を徴用したこともあった。科学館では採掘に従事させられたそうした人たちの史料も残されている。
歴史的に知られるのは、1960年に発生した三井争議、1963年に450人以上が犠牲となった三川鉱の炭じん爆発事故である。三井争議とは、戦後石炭産業が斜陽化する中で経営合理化のために指名解雇に踏み切った会社側と、それに対抗して113日にわたりストライキを行った組合側の闘争である。当時は安保闘争も繰り広げられており、人々のエネルギーがあちらこちらで爆発していた背景がある。ストライキの結果、会社は指名解雇は撤回したものの、労働者側も生活の困窮に耐えかねて退職する者が多く、結局は痛み分けのようになった。この闘争が労働環境を悪化させたのか、管理体制が弱くなったのか、3年後に発生したのが戦後最悪の労働災害となった炭じん爆発事故である。
そんな暗い中で大牟田の人たちを沸かせたのが、1965年夏の甲子園に出場した三池工業高校。現在の巨人・原監督の父である原貢監督率いる野球部は初出場にして奇跡の初優勝をとげた。近年は甲子園の優勝校も強豪の私立校が続いているが(原貢監督も後に東海大相模の監督として優勝するのだが)、三池工業はこれまでの甲子園の歴史にあって、工業高校として唯一の優勝校である。地方の無名の公立高校が名門校を破って全国制覇するというの日本人の判官びいきが好むストーリーだし、また当時の三池炭鉱の状況も相まって、今でも語り草になっている。
結局、エネルギーの主力が石炭から石油になったこと、また石炭も外国からの低価格の輸入炭が入るようになったこともあり、国内各地の炭鉱は相次いで閉山した。三池炭鉱も1997年に閉山となった。
科学館ではそうしたさまざまな歴史にも触れている。また映像コーナーでは大牟田市が「こえの博物館」として、当時の記録映像や、関係した人たちの証言をまとめた映像を視聴することができる。時間があればもっとじっくり鑑賞したかったポイントである。
さて、この科学館では地下400メートルの世界を見ることができる。坑道へ続くエレベーターに乗り込み、1秒間に10メートルの速さで地下400メートルへ降下する・・・。
・・というのは科学館の演出で、実際には先ほどの展示フロアと同じ高さに設けられた模擬坑道に到着。ここには採掘に活躍する様々な特殊機材が並ぶ。中には近づくとセンサーが感知して実際に作動する機材もある。炭鉱は閉山となったが、現在は三井三池製作所という会社が掘削機械や原動機、運搬機械などを製造しており、海外の炭鉱にも納入実績があるそうだ。炭鉱の技術は別の形で現在も受け継がれている。
これらを踏まえて、市内に残る産業遺産を回ることにする。見どころは結構あるのだが、時間的に宮原坑、そして県境をまたいだ荒尾市に入って万田坑を、それぞれ駆け足で見るくらいしかなかった。三池港エリアは完全に省略である。これも帰りの新幹線(「バリ得」のため列車変更不可)と、それに合わせたレンタカー返却の時間が近づいているからで、無理やり詰め込んだ結果で・・・。