話はさかのぼって7月31日のこと。野球観戦や鉄道の旅などを織り交ぜて現在関西、中国、九州で5種類の札所めぐりを同時進行させているが、今回は中国四十九薬師めぐり。現在、第21番の不動院まで進んでいて、次の宮島の第22番・大願寺で広島県が終わりとなる。
宮島なら近くでその日思い立ってもすぐに行けるところだが、7月の機会をうかがううちに月末となった。一方で、光市にある第23番・渓月院から山口県にも入っていきたい気持ちもある。そこで変則的だが、後の予定もあるので7月31日、クルマで先に渓月院に行ってしまうことにした。宮島については後回しだが、天気のよさそうな頃を狙うことにする。しかし、7月31日はどうも天気が不安定なようだ。
朝7時半、西広島バイパスから国道2号線を走る。ようやく、中国四十九薬師めぐりも自宅から西に向けて出発ことになった。途中宮島口も通る。それなら、ここでクルマを置いて宮島行きのフェリーに乗ればよいのだろうが、今回、宮島口に行くなら広電で行くことと決めている。それはまた後に触れることに・・。
大竹市から岩国市と走る中、時折強い雨に遭遇する。何もこうして雨の日にわざわざ出なくても・・と思う。遠方なら新幹線のチケットを買っているとか、宿を手配しているとかでその日に出ることになるが・・。
欽明路トンネルを抜け、岩徳線の周防高森駅近くから県道に入る。光市、柳井市方面に抜ける道である。以前にもこの道を通った覚えがあり、今の軽自動車を買って初めてのドライブということで2号線沿いの「いろり山賊」や、光の伊藤公資料館を訪ねた。
やがて渓月院への看板も出て、細道に入る。この坂道の奥が寺のようで上っていく。その奥に駐車場、寺の楼門が現れた。寺の規模にしてはそれなりの広さの駐車場があるが、この先は登山ルートにもなっており、ひょっとしたら登山の人たちがクルマを停めるのかもしれない。ちょうど宅配便の2トン車がやって来て寺への配達があり、運転手からあいさつの声を掛けられる。
渓月院は室町時代中期、大庵須益禅師が開いたとされる。その後一時荒廃したが、再興以来、数十人の雲水が修行する禅寺として栄えた。戦国時代には大内、毛利氏の保護を受け、毛利元就が合戦の時に陣を構えたこともあったそうだ。残念ながら明治のはじめに焼失し、今の建物はその後の再建である。
本堂前の庭も掃き清められ、鯉も泳いでいる。雲が出ているせいかそれほど暑さを感じない。中国四十九薬師のホームページには「深山幽谷」と紹介されていたが、いかにも山中の禅寺の趣である。
本堂に上がれるのかなと扉に手を掛けると鍵がかかっている。というわけで本堂の外でお勤めとする。朱印だが、先ほど宅配便が来た時に寺の人が出て応対していたから留守というわけではないだろう。隣接する庫裏のインファーフォンを鳴らすと出てこられ、わざわざ本堂の扉を開けていただく。「朝雨が降ってましたので・・」とのこと。
綴じ込み式の朱印の紙をいただき、どうぞお参りと言われる。寺の方も庫裡に戻り、本堂に一人腰を下ろす。
これで寺を後にする。中国四十九薬師めぐりはこの先第24番・法瀧院、第25番・月輪寺薬師堂と周南市の寺院が続くが、ここはいったん引き返す。31日はちょっとした用事もあるため、近くの熊毛インターから山陽道で広島に戻る。
時刻は昼前、少しずつ空も明るくなってきた。これなら、用事が済んだ後でも宮島に行ってもいいのではないかという気になった。順番は逆になったが、いったん帰宅した後、第22番・大願寺にも向かうことに・・・。、