中国四十九薬師めぐりは第25番の月輪寺の参詣を終えて、次に目指すのは山口市街にほど近い第26番の興隆寺である。島地川から、徳地の町を流れる佐波川沿いに出る。8月15日、ここからまだまだ長々と紀行文は続く・・。
先の記事で、東大寺の再興に尽力し、月輪寺も建立した重源のことを紹介したが、徳地の地で調達した木材を運搬するのに使ったのがこの佐波川で、重源はそのために河川の改修も行ったという。島地川から佐波川をたどるとちょうど防府に出ることから、そうした条件も木材調達にプラスになったことだろう。
しばらく佐波川沿いに走った後、山口市街への最短ルートである荷卸峠に差し掛かる。軽自動車もうなりをあげる。荷卸峠とは、かつて行商人たちが頂上付近で荷物を下ろして一服したことからついた名前だそうだが(そのまんまやな)、中国自動車道のパーキングエリアもある。国道のほうは特に休憩スポットがあるわけでなく、ここは荷を下ろすこともなく一気に峠を上り下りする。
峠を下ると仁保に出る。JR山口線にもこの名前の駅がある。山口線の駅は先日も列車で通った際、結構山の中にある印象だったが、県道は仁保川沿いの開けたところを行く。仁保の町は川沿いだが、鉄道は島根県へ少しでも近道ということで山の中を通したのだろう。
仁保川沿いに下るうち、周りの町名や交差点名に「大内」の文字が目立つようになった。現在の山口の町の元を造ったのが室町時代の大内氏で、京と地形が似ている山口を「西の京」とすべく市街地を整備し、文化人も招いた。明や朝鮮との交易が盛んだったこともある。今回の札所めぐりにあたっては、せっかく山口に来たのだから、四十九薬師の札所には含まれていないが瑠璃光寺にも行ってみようかと思っていた。ただ、同じ市内でも少し離れており、またこのまま下道で夕方までに福岡に行くため、残念だが見送りとする・・(一応、以前の中国観音霊場めぐりの時は参詣している)。
カーナビはやがて細い道に案内する。かつての萩往還である。こちらは江戸時代に整備された街道で、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏が萩に居城を移した後、萩~山口~三田尻(防府)を結んだ。日本海側と瀬戸内海側の西国街道、中関港をつなぐルートで、現在も国道262号線に引き継がれている。
その萩往還沿いに「妙見社」と刻まれた石灯籠があり、その道を進む。どうやら興隆寺のかつての参道のようだ。
そして到着した駐車場には石の鳥居がお出迎え。これは神仏習合の名残を残す寺かな。案内板には「興隆寺・妙見社」と記されている。正面の本堂も寺というよりは神社を思わせる造りである。
興隆寺が開かれたのは、聖徳太子の時代、琳聖太子によるとされる。以後、平安時代前期に大内茂村が妙見社を勧請して氏神とし、興隆寺を氏寺とした。その後、大内氏は周防、長門を中心に勢力を持ち、山口を「西の京」として大いに栄えた。しかし戦国の世となり、家臣の陶晴賢の謀反により滅亡してしまう。
その後も興隆寺は多くの塔頭寺院を有していたようだが、明治の神仏分離である。ほとんどが取り壊されたり他の地に移されたりして、残ったのは本堂にあたる妙見社、隣の釈迦堂、そして大内義隆が寄進した梵鐘くらいだった。今は地元の人が気軽に手を合わせるという感じの寺(というのか神社というのか)だが、大内氏の氏神だったとは初めて知った。山口の観光ガイドでも紹介されることはなかなかないのでは。
妙見社の前に、最近修復が施されたことの看板が立てられている。妙見社や釈迦堂の屋根の老朽化がすすみ、このままでは建物が倒壊する恐れもあり、檀信徒を持たない寺ということでクラウドファンディングにより修復費用を募ったそうだ。とりあえず最低限度の目標額には達したそうで、賛同した人の名前が看板に記されている。この資金をもとに、屋根もブリキから銅板のものに葺き替えられた。
妙見社に上がる。祭神は北辰妙見大菩薩で、北極星または北斗七星を神格化したものである。まずはここで神式に柏手を打ってお参り。
で、薬師如来はというと・・・妙見社の少し離れた脇にちょこんとした木像が祀られていた。朱印の書置きもここに置かれていたので間違いないだろう。ただ、祭神は妙見菩薩だし、隣のお堂は釈迦如来だし、中国四十九「薬師」の一つを名乗るにはインパクトが弱いように感じる。ただ、そこは何かいわれがあるのだろうとネットで調べてみると、昔の本地垂迹説の中に、妙見菩薩を薬師如来の化身と見なす考えがあるそうだ。はぁ・・そういう札所の加わり方もあるのか・・。
隣の釈迦堂では室町時代の作とされる釈迦如来像が祀られている。また、堂内に掲示されている新聞記事の切り抜きによると、両脇に祀られている文珠・普賢両菩薩像だが、2001年に台座もろとも盗まれる事件があった。窃盗団は逮捕されて仏像は戻ってきたが、文殊菩薩の台座だけは戻らず、このたび江戸時代の技法をもとに復原したという。なかなか、現代まで波乱にとんだ歴史を持つ寺である。
鳥居の脇には漢詩が彫られた石碑がある。「山口十境詩碑」の一つ「氷上滌暑(氷上に暑さを滌く(さく)」というもので、氷上とはこの辺りの一角を指す。解説文をざっくり要約すると、「氷上の景色は人々に清涼感を与えて暑さを断つ。しかしここは中国の河北のように暑気払いの酒を酌み交わす風習がなく、私の中ではふるさとの山々の姿が去来するばかりである」というもの。南北朝の頃、明の使節として趙秩という人が日本にやって来て、倭寇の討伐や明の冊封体制に入るよう求めた。その時は南北朝でごたごたしていて使節としての成果はそれほどでもなかったが、大内弘世の招きで山口に滞在しており、町の景色を「山口十境詩」と10の詩に詠んだ。氷上の詩もその一つである。
さてこれで興隆寺を後にして、次の第27番・広沢寺に向かう。ルートとしては山口市街地の南に沿うルートで、市中心部から少しずつ離れることに・・・。