まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第12回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第39番「潮満寺」(油津の運河を見下ろす廃仏毀釈からの復興寺院)

2023年10月03日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

9月10日、天福球場を後にして、九州八十八ヶ所百八霊場の第39番・潮満寺を目指して油津の町を歩く。

やがて川べりに出る。といってもここは自然の川ではなく、堀川運河と呼ぶ。その昔、こちらの名産である飫肥杉は広渡川の水運を利用して油津の港まで運ばれていたが、川の河口から港までは岬をぐるりと回る必要があり、また油津も頻繁に台風がやって来る中、船を避難させる場所に困っていたという。そこで江戸前期、飫肥藩によって川と港をショートカットする形で開削されたのが、この運河である。

時代が下ると、日南線の開通もあって水運は衰退し、運河も泥が溜まるなど荒廃したのだが、その後は観光資源として注目あれるようになり、整備が進められたという。運河にかかる堀川橋という石橋の辺りは油津の見どころの一つとされている。

この堀川橋の脇に、吾平津(あびらつ)神社の鳥居がある。神武天皇の妃とされる吾平津姫を祀っており、油津という地名の由来ともいわれている(私はてっきり、何かの油がよく採れる場所だから油津なのかと思っていたが・・)。神社の石段のたもとに映画「男はつらいよ」のロケ地を示す礼があり、この運河も日本らしい風情を求めて全国をロケハンする山田洋次監督のお眼鏡にかなったようだ。

「油津」という地名を書く中で、私の勤務先企業もここに拠点を置いていることを思い出した。ある研修で同じグループになった社員の中で、「私の職場は宮崎県の日南の油津というところで・・」というのを切り口に発表していたのがいたと思う。もう20年以上前のことだし、たまたま研修で一緒になったというだけで名前も顔も憶えていないが、宮崎県にあって欠かすことのできない港であると力説していた「日南の油津」というキーワードだけは印象に残っていたようで、ここに来て思い出した次第である。ひょっとしたらその方、現在は油津の職場の主になっていたりして・・・。

地元の方から「おはようございます」と挨拶をかけられる中、レンガ造りの建物も通る。かつての港湾の賑わいを今に伝えるところだ。

潮満寺は駅から徒歩20分ほどとあり、天福球場に立ち寄ったことが遠回りになった。朝から日差しが照りつける中、早くも汗だくになっている。その一方で、この後商店街の「fan! ABURATSU」に戻って荷物を引き上げ、飫肥行きのバスに間に合うように油津駅に行く時間を考えると、寺ではそう長い時間ゆっくりできない。やることを詰めすぎて札所めぐりがスタンプラリーのようになるが・・。

運河近くの町並みの一角に潮満寺があり、石段を上がる。ちょうど、家の屋根の向こうに運河の出口が見える。

本堂の扉に手をかけると、「朱印の方は先に右手の玄関のインターフォンを」との貼り紙がある。そちらに向かうとまず犬の鳴き声がして、寺の方が出てきた。納経帳を預けて本堂に入る。閉め切っていて蒸し暑いので扇風機をまわさせていただく。

潮満寺の創建時期は明らかではないが、江戸前期、飫肥藩の時に再興されたという。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺になった。一説では飫肥藩の廃仏毀釈は薩摩藩に次いで実に強烈だったともいわれていて、藩内のほぼすべての寺が破壊されたという。明治の後半になって高野山金剛峯寺の直系として再興され、「日南高野山」として現在に至る。

現在の本尊は波切不動で、厄除けや開運のほかに海上安全、大漁祈願のご利益もあるという。

お勤めを終えて、再びインターフォンを鳴らして犬の鳴き声とともに納経帳を受け取る。

帰りは少し速足となって、ホステルに戻った。幸い少しだけだが時間の余裕ができたので、エアコンの冷風に当たり、アンダーシャツも取り替えた。これでチェックアウトとして、油津駅に向かう。

前日鵜戸神宮から来た時、宮崎交通バスの油津待合所にコインロッカーがあるのを確認しており、荷物を預ける。次に乗るのは9時07分発の飫肥行き。これから城下町・飫肥を訪ねるのだが、この後は日南線で志布志まで往復するという行程を控えており、滞在時間は50分ほどしかない。

バスは日南市の中心部を走り、路線名、市の名前になっている日南駅前も過ぎる。また宮崎交通バスは、飫肥の玄関口であるはずの日南線飫肥駅を経由しない便が多い。油津や日南は駅前にバス停があるのだがこの差は何なのだろうか。

飫肥城下のバス停に到着。滞在時間は限られているが、まあ、博物館や屋敷内部といったところの見学を抜きにすれば、この時間で回ることくらいはできそうだ・・・。

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