まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第12回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~飫肥をほんの少しだけ回る

2023年10月04日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐり、朝に第39番・潮満寺を訪ね、油津のバス待合所のコインロッカーに荷物を預け、宮崎交通バスにて飫肥城下に到着。この先の行程の中で、50分ほどだけだが飫肥を訪ねる時間ができた。飫肥に来るのも20年以上ぶりである。その時は日南線に乗り、串間から都井岬に行ってユースホステルに泊まったのを覚えている。

バス停からまっすぐ進むと飫肥城の大手門に至る。その途中、「小村寿太郎候誕生之地」の石碑がある。小村寿太郎は飫肥藩士の家に生まれ、外務大臣として日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、関税自主権の完全回復という業績を残した人物である。

飫肥の城下町には掘割があり、ちょっと横筋に入ると屋敷の門の前で鯉を見ることができる。暑い中で涼し気な景色である。

飫肥城の大手門に到着。飫肥藩の伊東氏の居城である。元々は島津氏の出城だったが、こちらも室町時代から日向に勢力を持っていた伊東氏が攻略し、支配下とした。その後島津氏が勢力を伸ばして奪回したが、豊臣秀吉の島津攻めの後、伊東氏が再興する形で飫肥の地を与えられ、城主となった。その後、飫肥藩としてながらく明治まで続く。今回の札所めぐりでは、江戸時代、伊東氏が神社仏閣に対して手厚く保護したのに対して、いざ明治維新となると徹底して廃仏毀釈を行った・・という歴史に触れてきているが、その本拠地である。

現在の大手門は昭和の再建だが、地元の飫肥杉を使い、昔ながらの釘を使わない工法で建てられたという。そのため、江戸時代当時と変わらぬ重厚さを感じさせる。

城跡は史跡公園として、かつての本丸跡は小学校として活用されており、地元の人たちの散歩コースにもなっている。資料館はパスして、この上にある旧本丸跡を目指す。

こちらの旧本丸跡は飫肥杉の林が生い茂り、地面も苔むしていて涼し気な印象である。

武家屋敷群を回る。その中の一軒に、先ほどの生誕地から大正時代に移された小村寿太郎の生家がある。

周囲の屋敷にしっかりした石垣が備わるのは、城を護るということのほかに、台風の襲来が多いこともあるのかなと想像する。

そんな中、「元祖おび天本舗」に出る。「おび天」「飫肥天」とは飫肥の郷土料理で、魚のすり身揚げ。じゃこ天やさつま揚げの仲間というところだ。ネタは日向灘近海のさまざまな魚で、そこに豆腐を混ぜ、味付けに味噌、黒砂糖を使っている。せっかくなので1パック購入する。結局この日はそのまま自宅に持ち帰り、後でさつま揚げと食べ比べをしたのだが、飫肥天のほうが黒砂糖のせいか甘く感じられた。

これで、今回訪ねたかった飫肥の城下町を一通り回ることができ(単に歩いただけだが)、宮崎交通バスの飫肥営業所から油津に戻る。飫肥~油津といえば日南線と同じ区間なのだが、城下町と飫肥駅は離れていて、しかもほとんどのバスの瓶はなぜか飫肥駅を経由しない。

カープ油津駅に戻り(駅舎の画像がしつこいな)、次は11時07分発、油津始発の志布志行きに乗る。ホームに気動車が停まっているが、これは宮崎からの列車の折り返し便。

この後、志布志から油津止まりの列車が到着して、宮崎行きの列車に接続するとともに、折り返して志布志行きとなる。単行の気動車には地元の人のほか、いかにもその筋といった出で立ちの方もいて・・・。

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