まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第19回中国観音霊場めぐり~三朝温泉と倉吉の白壁町歩き

2021年05月13日 | 中国観音霊場

第31番の三佛寺の参詣を終え、倉吉の市街地に戻る前に三朝温泉で下車する。

三朝温泉は「三たび朝を迎えると元気になる」といわれるラジウム温泉。三徳川沿いに温泉宿が並び、河原の露天風呂もある。もっとも奇数日の午前中は清掃のため入浴は不可とのこと。もっとも、入浴可といっても素っ裸で入るには結構勇気がいりそうだが。

観光案内所のバス停の目の前に「たまわりの湯」という公衆浴場を見つけたので、手っ取り早くこちらに入る。シャンプー、ボディソープの備え付けが受付で買い求める。その浴槽もそれほど広くなく、入浴客はそれなりにいるのに先客が四隅で長居していてそれほど居心地はよくない。まあ、三朝の湯にちょこっとだけ浸かったことにしてそそくさと出る。「六感治癒」にはちと遠かったかな。

再びバスに乗るのだが、ちょうど三朝温泉から打吹にある白壁の町並み方面に向かう路線があるのを見つけた。先ほどの三佛寺の方もご存知なかったようだが、やはり観光地同士を結ぶバス路線があってもおかしくない。これで多少ショートカットして打吹に向かう。

長谷寺を回る前に町歩きとする。まず向かったのはバス停の北にある倉吉線鉄道記念館。かつて、倉吉から関金を経て山守まで走っていた国鉄倉吉線の打吹駅跡地に建つ。駅とその周辺の廃線跡は打吹公園として活用され、現代アートも展示されている。

館内はかつての倉吉線の写真がいろいろと展示されている。かつては姫新線の中国勝山まで延ばす計画があったが断念、また打吹、西倉吉と倉吉の中心部を走る路線だったが、周辺の道路整備が進み、バスやマイカーの利用者が増えたことで全面廃止となった。現在でも一部区間は当時の線路が残されていて、年に数回開放してウォーキングイベントも開かれる。案内を見るとちょうどこの日(5月3日)も開催が予定されていたが、このところの感染拡大の影響で中止になったとある。

今度は打吹山の方面に向かう。かつては打吹駅からのメインストリートだったところ。

その道の突き当りに、両手を高く広げた力士の像が建つ。倉吉出身の第53代横綱・琴櫻である。現役時代は「猛牛」という愛称もあった。

すぐ近く、白壁の町並みの中の一軒の家が琴櫻記念館として開放されている。横綱土俵入りで使った化粧まわし、優勝額、トロフィーなどが数多く展示されている。私は琴櫻の現役当時の相撲は見ていないが、佐渡ヶ嶽親方・審判部長の印象が強い。親方としては琴風をはじめ数多くの関取を育てたし、審判部長として土俵下で睨みを利かせていたのもテレビで覚えている。千秋楽を終えて新たな横綱・大関が誕生することが確実になった時に、「佐渡ヶ嶽審判部長が臨時理事会の招集を要請しました」という形で放送されていたなあ。

定年にともない娘婿の琴ノ若に部屋を譲り、現在、その琴ノ若の息子が同じ四股名で幕内で活躍している。その関係か、佐渡ヶ嶽部屋の力士の3月場所の手書きの星取表も掲示されている。

鳥取県出身の力士でもっとも出世したのは琴櫻と言えるが、現在では鳥取城北高校出身の力士が活躍している。鳥取県出身として番付に出ているのは父が相撲部の監督を務める石浦が知られるが、モンゴルからの留学組ではこのたび大関に復帰した照ノ富士、逸ノ城、水戸龍などがいる。国内では沖縄出身の美ノ海・木﨑海の兄弟力士も鳥取城北出身だ。さらに引退組では元大関の琴光喜、貴ノ岩などもいる。

この後は白壁の町歩き。元々は室町時代に造られた打吹城の城下町で、江戸時代には陣屋町として整備されたところ。白い壁と、赤い石州瓦の組み合わせが味を出している。

その町屋を利用してさまざまな店が開かれている。倉吉は最近「フィギュアの町」としてPRしており、関連した商品も多く並ぶ。

2003年に大きな火災が発生して焼失した一角もあるが、そこも含めて町並みが保存されている。そぞろ歩く人たちの姿も多い。

これから訪ねる長谷寺は町並みの西の外れまで歩き、目の前の打吹山を上るコースである。テクテクと歩を進めることに・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~第31番「三佛寺」(投入堂は・・)

2021年05月12日 | 中国観音霊場

5月3日、晴天の中、倉吉駅前からの路線バスに乗り込む。発車までの間、「日本遺産 三朝温泉、三徳山行きです」という案内が流れる。この両スポットは「六根清浄と六感治癒の地」として日本遺産に認定されており、サブタイトルには「日本一危ない国宝鑑賞と世界屈指のラドン泉」とある。厳しい六根清浄の修行の後、温泉で六感を治癒するという組み合わせだ。

この日は中国観音霊場めぐりの倉吉シリーズということだが、まずは札所順番で後となる第31番の三徳山三佛寺にお参りする。この三佛寺といえば奥の院にあたる投入堂が有名で、これが「日本一危ない国宝鑑賞」の地である。断崖絶壁にどうやって建てられたのか、まるで外から投げ入れたかのようだということでその名がついた。実物でなくとも、旅番組やネットなどでもその姿をご覧になった方も多いだろう。

2019年に中国観音霊場めぐりを始めるにあたり、どういった寺があるのかリストを眺めていたのだが、この三佛寺は難関だなと思っていた。麓までは路線バスで行けるのでどうということはないが、この投入堂にたどり着くのはハードルが高い。本堂から40分~1時間かけて投入堂の近くまで行くのだが(建物保全のためお堂に入ることはできない)、急な上り坂、木の根をよじのぼったり、鎖場の上り下りもある。あくまで昔ながらの修行の地である。滑落事故も発生しており、中には死亡した例もあるそうだ。

寺のほうも「観光気分では上らないように」と注意を呼び掛けており、受付では衣装や履物のチェックが行われるという。特に履物が不適と判断された場合、草鞋を買って履き替えて上るのだという。また、冬季は登山道が全面閉鎖、それ以外でも雨天時などは閉鎖するという。

これがあったので、中国観音霊場めぐりに当たって三佛寺は冬季、雨の多い夏は避けようと思っていた。そして5月の連休に照準を合わせることになった。

坂道や鎖場は何とかなるとして、私にとってそれよりも高いハードルがある。それは「一人での入山禁止」というルールである。上に書いたように死亡事故も起こるくらいだから、寺としては安全を期すために複数人での入山ルールを厳として科している。

自分の旅のスタイルとして一人で回っている中で(単に同行の友がいないだけなのだが)、これはどうしたものかと思いながらプランニングをした。なお、下の本堂までは拝観料のみで一人でも行けるし、中国観音霊場めぐりとしてはクリアとなる。

投入堂まで行くとなると、一人の場合は境内を行く人に声をかけて一緒に登らせてもらう方法がある。ただそれもきっかけが必要で、状況次第だろう。境内で長いこと待って、同じように一人で来ていた人をつかまえて道連れで登ったというブログ記事もある。

・・さて、倉吉駅から三徳山行きのバスに乗ったのは私の他に3人、そして市街地のバス停から1人乗ってきた。いずれも若い男性で、地元の人には見えない。市街地を抜け、三徳川沿いに上っていく。

途中、三朝温泉を経由する。山間の静かな温泉地で、ここで1人下車。後は町らしいところもないので、全員が三佛寺に行くのだろう。

そして寺の入り口のバス停に到着。バスはその奥の駐車場まで行くのだが、ここで私のほかに2人下車した(残る1人はそのまま乗車)。本堂に続く石段の写真も撮っていたし、明らかに寺目当てである。いや、投入堂目当てと言っていいのでは。

・・・今思えば、ここで2人に私から声をかければよかった。向こうから見れば私のほうが年上で、遠慮もあっただろう。ただ、私もこういう場面でなかなか自分から声をかけられない性分なのである。

この後どうなったか。3人がお互いにけん制しているようで、私がしびれを切らす形でそのまま先に石段を上がり、拝観の受付をした。受付で「朱印帳を預かる」と書かれていたように見えたので中国観音霊場の納経帳を出すと、「あ、それは上の輪光院さんで受け付けてもらいます」と返される。

そしてやって来た支院の輪光院。住職らしき人がタイミングよく出てきて「ご朱印の方ですね~」と声をかけられる(受付から連絡が行っていたわけでもなさそうだが・・)。納経帳を差し出すと、「中国観音、どれくらい回りました?」と訊きながらパラパラめくる。

(寺)「(第30番の)長谷寺が飛んでますね~」

(私)「この後に行きます」

(寺)「大山寺、(書き置きの)紙でしたか~」

(私)「3月で冬の扱いだったので、納経所が閉まってました」

(寺)「(第28番の)清水寺も紙ですか~」

(私)「コロナがどうのこうの、とかで」

(寺)「(表側を見ながら)すごいですね~これだけ回って。私がいいなと思ったのが、(第15番、広島市にある)三瀧寺。あの寺は風情ありますな」

(私)「ちょうど、私も近くに住んでますよ」

(寺)「ここまで来たら、今日中には全部回れるんじゃないですか。(第33番の)大雲院も、最後にふさわしい立派な寺ですよ。楽しみにしてください」

・・・などとやり取りしているうちに、先ほどバスから降りた2人が連れだって奥に向かうのが見えた。そもそも納経帳は参拝の後に出すべきところ、先に出したことでこうした流れになって絶好のチャンスを自ら手放すことになってしまった。

まあ、お二人は何も悪くないし、むしろ(私がいなくて)ホッとしているのではないかな。

朱印・墨書をいただき、次の長谷寺への道を教えてくれる。バスで移動となれば、倉吉駅に戻る途中の竹田橋あたりで下車して、市街地方面に向かう系統に乗り換えて・・と親切に教えてくれる。「本当だったら、この投入堂を見てもらいたかったんですが」と言われるが、仕方ない。「宝物館には十一面観音や、投入堂に祀られた蔵王権現もあるのでゆっくり拝んでください」と送り出される。ここまで中国観音霊場を回った中で、ここまで納経帳をいじられたのは初めてだし、歓迎していただいたのも初めて。これはこれでよかった。

さらに奥に進み、本堂に着く。靴を脱いで中に入る。ここでお勤めである。

三佛寺は修験道の開祖である役行者が開いたのが最初とされる。大山と同じように古くからの山岳信仰の修行の場であった。平安時代、慈覚大師円仁が釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来を安置して三佛寺という名前がついた。

その後も山岳修験道の霊場としての長い歴史を持つ。役行者が法力で投げ入れたという言い伝えがある投入堂だが、これまでの研究の結果、平安後期に建てられたと推測されている。時代が下り、江戸時代には鳥取藩の池田氏の保護を受け、現在に至る。投入堂以外にも文殊堂や地蔵堂などの建物が山上エリアに残っている。

本堂の裏が山上エリアの受付で、連休中、また天気がいいこともあって多くの人が訪ねている。負け惜しみ、ひがみを言うと、その多くは、本堂を素通りして投入堂に「ハイキングに行く」ように見えた。

受付の前で次のバスで一人で来た人を待ち受けるとか、やり方はあったはずだが、もういいかなとここで引き返すことにした。もう少し私に執念とか、粘るとかいうのがあればいいと思うのだが・・。

本堂の下が宝物殿である。三佛寺の歴史が紹介されるとともに、かつて投入堂を支えていた柱の1本も展示され、手で触ることができる。思ったより細い。他にも諸仏があり、中国観音霊場としての本尊である十一面観音像もここに安置されている。先ほどの輪光院の住職の話だと、元々は十一面あったのが、頭の他の顔がすべて欠けてしまい(盗まれてしまい?)、今では聖観音像になっているとか。

他にも、投入堂に安置されていた蔵王権現の数々もこちらで祀られている。さすがに、投入堂にそのまま祀っていたのでは持たないだろう。まあ、投入堂には行けなかったが、お堂の中身に手を合わせることができたことでよしとする。他のハイキングの人たちも、せっかくなのでこの宝物殿に立ち寄ればいいのにと思うが・・。

これで帰りのバスを待つが、少し歩いて奥の駐車場に向かう。その先に、投入堂の遥拝所がある。上ることができない場合でもここからはいつでも遥拝することができ、ここもそこそこの数の人が訪れていた。双眼鏡も備え付けられている。

手持ちのデジタルカメラがそれほどズームできないので、画像ではどこに写っているのかわかりにくい。ただ、現地では肉眼でも案外大きく見えた。まあ、これで投入堂も拝んだことにする。それにしても、どうやってあそこに建てることができたのか。いずれ、さまざまな科学の力で判明する時も来るのだろうが、「役行者が法力で投げ入れた」という伝説はそのまま残してほしいという気持ちもある。

帰りは駐車場から折り返しのバスに乗る。次の参道入口で、朝一番で投入堂に登ったとおぼしきご夫婦や子供連れが乗ってくる。足元が泥で汚れていて、おそらく前日あたりの雨の残りだろうか。いいですね、お疲れ様です。

投入堂については、某ツーリズムの「ハイキング中級」で訪ねる大阪発の日帰りツアーがある。実は、今回の中国観音霊場めぐりで投入堂に行けないことも想定して、後日開催のこのツアーを申し込んでいた。これなら団体客ということで入山は問題ない。ただ、緊急事態宣言の延長を受けて催行中止となった。もっとも、仮に催行されたとしても、こうして現地に来てみると、ハイキングツアーに参加してまで行くものではないなということでキャンセルしたと思う・・。

もうええわ。投入堂に対してすっかり「投げやり堂」である。

気分を切り替えて長谷寺に向かう。投入堂への往復がなくなった分、この先は時間に余裕がある。教えていただいた竹田橋のバス停に戻る前に、せっかく来たので三朝温泉に立ち寄ることに・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~東郷温泉にて1泊

2021年05月11日 | 中国観音霊場

5月2日、宿泊最寄である松崎で下車。無人駅だが、東郷温泉、羽合温泉の玄関駅である。駅前からの道の突き当りには東郷湖の水面も見える。

松崎という駅名で思い出されるのが、宮脇俊三の『最長片道切符の旅』。この中で、翌朝、夜行列車で着く同行者と倉吉で合流する予定だった宮脇氏だが、倉吉に手頃な宿泊施設がなく、向かったのが松崎駅すぐの東郷温泉。旅館では「板前が忘年会で不在でして」と恐縮されたが、それでも山盛りの松葉ガニが供されたり、不調法ながらと番頭が柿をむいて差し出したりと、結構な夜だったようだ。

今回、倉吉にホテルがなかったわけではなく、当初は5月2日、3日と同じホテルに連泊しようと考えていたのだが、宿泊地を増やすという意味で1駅隣の松崎を選んだ。

やって来たのは、駅から徒歩すぐの「水明荘」。東郷湖畔に中国風の建物がある。東郷温泉がある湯梨浜町の町営国民宿舎。同じ湯梨浜町の旧東郷町エリアには燕趙園という中国庭園があり、この建物もそのノリの延長で建てられたのかな。もっとも、施設内はごく普通の内装で、中国モノがあふれているわけではない。

基本は温泉宿の和室なのだが、一人向けにはシングルルームもある。ただし、トイレつき、入浴は大浴場でということだが、部屋そのものは結構狭い。そこは割り切りが必要だ。

テレビをつけてみる。BSが映らないのは設備的なもので別に驚かないが、チャンネル構成が意外だった。島根、鳥取両県の民放は日本海テレビ(日本テレビ系)、山陰放送(TBS系)、山陰中央テレビ(フジテレビ系)の3局で、テレビ朝日系、テレビ東京系の放送局はない。ただここでは、岡山・高松の瀬戸内海放送(テレビ朝日系)、テレビせとうち(テレビ東京系)、さらには神戸のサンテレビが映る。

これは地元の鳥取中央有線放送というケーブルテレビでの地上波プランだそうだ。このおかげ?で、夜から翌朝にかけては、倉吉にいながら香川の天気予報を見たり、岡山で家を建てようというCMを見るということに。この日は中継がなかったが、倉吉にいながらサンテレビの阪神戦の完全中継を見ることも可能だ。

その一方で、ネット環境が整っていなかったのは残念である。パソコンを持参して、先日の日帰り乗り鉄の記事の続きを書こうと思っていたのだが、アテが外れた形になる。まあ、ここの客室においてはネットの需要がそこまでないのかもしれないな。

食事まで時間があるので先に入浴とする。2階の大浴場はそれほど広いとまではいかないが、ちょうど視線に東郷湖の穏やかな湖面を見ることができる(画像は、大浴場に近い角度で撮ったもの)。対岸に建つ旅館群は羽合温泉。

さて食事。浴衣姿で大広間に向かう。1グループずつ離れて席が用意され、隣とは衝立で仕切られている。畳の上での椅子なのでくつろげる。一人客も5組ほどいて、あとは家族連れである。このご時世なので宴会のように盛り上がる客もおらず、かといって子どもが騒いだりするわけでもなく、静かな食事会場である。

料理は季節の会席コースということで、前菜、造り、カルパッチョ、鍋物、焼き物、揚げ物と一通り揃う。どこからどこまでが鳥取の地物かという詮索はしない。

酒は、生ビールの後でおとなり琴浦町の鷹勇を徳利でいただく。夕食のボリュームの予測がつかず、先ほど倉吉駅前でいろいろと仕入れていたのだが、これだけあれば食事も満足である。買い出しした多くは翌日以降に「温存」することができた。

食後、最上階(5階)にある露天風呂に向かう。こちらは小ぢんまりとした浴室だが、風に吹かれて夜景を眺めることができる。

後はどこかに出歩くわけでもなく、部屋でのんびりする。ネットが使えないので、皮肉にもパソコンでブログの記事を書くことから解放された気分である。ケーブルテレビの鳥取中央有線放送も見てみる。湯梨浜町、琴浦町、北栄町の3つの町をエリアとしたケーブルテレビで、オリジナル局では地元のニュースやら町の人や企業の紹介なども放送されている。旅に出てホテルに泊まるとたまにこうした地元ケーブルテレビに出会うが、手作り感満載で、1泊限りで見ると一般の地上波の番組より面白かったりすることがある(あくまで、1泊での出来事。毎日こればかり見せられるとウンザリするだろうが)。

さて翌朝、5月3日。朝食が7時半開始ということで、その時点でのんびりしたものである。大浴場が5時半から開いているので早速朝風呂とする。今度は朝日を受けた東郷湖の景色である。温泉と東郷湖の眺めを楽しむことができ、この時点で宿泊地を松崎と倉吉に分けて正解だったと思う。

朝食も同じく大広間の同じ席でいただく。バイキングではなく配膳式だが、おかずの種類も豊富でご飯が進む。

支度を整えて松崎駅に向かう。乗るのは8時20分発の米子行きで、倉吉まで1駅移動する。この3日、そして翌4日は晴れの予報で、これからメインイベントとなる中国観音霊場めぐりにはもって来いの天気である。

さて、札所の順番で行けば倉吉市の中心部である打吹地区にある第30番の長谷寺が先だが、ここはあえて第31番の三佛寺を先に目指す。倉吉からバスで入った三朝温泉を抜け、さらに奥にある三徳山にある。バスがおおむね1時間に1本で、三徳山まで35分とある。先に奥地に向かい、午前中いっぱいが三佛寺、途中三朝温泉にも立ち寄り、午後からの倉吉の町並み見物と合わせて長谷寺を回り、夕方に駅前のホテルにチェックインという組立である。

倉吉駅から8時35分発の三徳山行きのバスに乗る。今回一人で向かうのだが、バスにはどういう相客がいるのか気になるところだ・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~「あめつち」で宍道湖から東郷湖へ

2021年05月10日 | 中国観音霊場

5月2日、山陰線の観光列車「あめつち」での一献で心地よい移動である。

列車は宍道湖に差しかかる。ここが見せどころとばかりに、列車のオリジナルソングである「あめつちのテーマ」が流れる。雲は出ているものの空は青く、「あめつち」の車両カラーにもぴったりである。

車内放送で「宍道湖七珍」の紹介がある。スズキ、モロゲエビ、ウナギ、アマサギ、シラウオ、コイ、シジミ・・・それぞれの頭文字を取って「すもうあしこし(相撲足腰)」と覚えるのだが、現在ではいずれも高級食材である。この中でまだ気軽に手が届くのはシジミくらいかな・・。

松江に到着、ここで4分停車。駅員が横断幕を持って出迎える。出雲市では入線してすぐに発車したこともあり、まずは慌ただしいながらも列車の記念撮影タイムである。

続いては宍道湖から中海に移る区間で、安来に到着。列車待ち合わせの時間が長く、こちらでも記念撮影タイムである。安来といえば中国観音霊場めぐりでも訪ねていて、歩道や境内に雪が積もる中歩いたのも印象的だ。

安来を過ぎて鳥取県に入り、15時33分、米子に到着。出雲市から2時間近くかけて走ったことになる。特急「やくも」なら1時間、鈍行でも1時間半で結ぶ区間だが、途中直江、安来での長時間停車による。その間に車内での飲食も終え、米子で下車する人も結構いる。まあ、一つの列車に乗って楽しむなら2時間くらいが妥当かな。一方で入れ替わって米子から乗車する客もいる。この先倉吉まで1時間、鳥取まで2時間かけて走るから、実質米子で前後半が入れ替わるようなものだ。

山陰線といえば日本海に沿って走る姿がイメージされるが、「あめつち」が走る出雲市~鳥取間というのはそれほど日本海に近いわけではない。車窓として一番の見どころは宍道湖と言っていいが、それは別に「あめつち」のせいではない。

この区間でも大山口あたりでは風力発電の風車が並ぶ景色、少し離れているが日本海と漁村の瓦屋根群を見ることができる。

山陰地方最古の駅舎が残る御来屋でも列車行き違いのため長時間停車する。扉を開けて外に出られるようにすればとも思うが、そうすると停車駅扱いとなり、指定席券の発売もしなければならなくなるからややこしいのだろう。あくまで、運行ダイヤの都合で長時間停まるだけで、車窓見学くらいでちょうどいいのかな。

駅といえば、「コナン駅」の愛称がある由良でも行き違い停車。ちょっと「あめつち」の世界観とは異なる感じだが、こうした駅で客扱いしてもいいかなと思う。

16時34分、倉吉到着。今回の札所めぐりのベースであり、宿泊のために下車する。乗り鉄を満喫するなら終点の鳥取まで行くところだが、倉吉まででも十分満足である。

さて、翌日の札所めぐりの最寄り駅ということで当初から倉吉に泊まる予定にしていたが、いったん改札口を出て、後から来る17時03分発の鳥取行きに乗り継ぐ。やってきたのは「まんが王国とっとり」ということでコナンのキャラクターをあしらった車両。

当初は、倉吉で2泊することにして駅前のビジネスホテルを連泊で取っていた。ただ、せっかくならあちこちに泊まるのもいいかなと、近場で1泊、そして倉吉で1泊に分けることにした。そこで見つけたのが、1駅鳥取寄りの松崎下車の東郷温泉。翌朝の列車で倉吉に出れば同じことである。出雲市からの乗車券も松崎まで買っていた。

そして17時09分、松崎に到着。これまでにも途中下車で訪ねたことはあるが、宿泊では初めてである。まずは駅すぐ近くの東郷湖に向けて歩くことに・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~観光列車「あめつち」にて飲み鉄

2021年05月09日 | 中国観音霊場

5月2日、出雲市から観光列車「あめつち」に乗る。今回の札所めぐりにおけるイベントの一つである。

キハ47の改造車両で、「あめつち(天地)」というのは「古事記」の書き出しの言葉である。出雲をはじめとした山陰は神話にも多く取り上げられている地域で、列車名にも奥ゆかしさを感じる。

入線から発車までは2~3分しかなく、慌ただしく写真を撮って乗車する。そして発車。

2両編成の列車は、いずれの車両も海側を向いたカウンター席、4人掛けのテーブル席、そして山側は2人向い合せのテーブル席が並ぶ。テーブル席はグループ、カップル客がいるかと思うと、1人で占領しているところもある。2両見渡して、テーブル席でも知らない客同士が会い席になっているところもなく、それぞれゆったり過ごしている。

で、私が割り当てられたのはカウンター席。これはいいのだが、目の前は縦に細長い窓。これは元となったキハ47の窓枠がそのまま反映されている。元車両で座席だったところは上下に仕切られた窓が残っていて、1両に2ヶ所ついていたドアの1つのところも座席にしている。元々ドアだったところは広い窓がつけられ、展望もよくなっている。そしてその横、元々戸袋だったところ・・・が私の割り当ての席だ。

そして、改造車両につきものだが、座席と窓枠の位置が合わないところも多い。席によって当たり外れの差が多いのではないかと思う。

それを補うわけではないだろうが、車内のいたるところで鳥取、島根両県の産品や工芸品があしらわれている。テーブルに埋め込まれたタイルは石州瓦、窓枠には隠岐の松や智頭の杉が使われている。洗面所の手洗い鉢は鳥取の岩井窯だったり。

この列車のプロデュースには出雲出身の映画監督・錦織良成氏も携わっており、車内には錦織氏による「あめつち手帖」という小冊子が置かれている。沿線の魅力について独自の視点で触れられている。この先、この冊子も読みながらの車窓である。

出雲市を出て斐伊川を渡る。まずはここで徐行。先ほどもこの川べりをバスで通って来た。ヤマタノオロチ伝説の元になったとされ、また上流の奥出雲ではたたら製鉄がさかんだったということで、出雲の歴史的な川である。この先でも車窓のいいところでは徐行運転をするという。

発車直後に車内販売員が回ってきて、一人ずつ食事の予約の有無を確認する。実はこの列車に乗るに当たり、車内での食事プランを予約していた。出雲市発の便には「山陰の酒と肴」、「松江の和菓子詰合せ」の2種類がある。これらはJRの窓口やネット販売では扱っておらず、日本旅行のサイトでの事前受付となっている。今回、「山陰の酒と肴」を買い求めており、事前に自宅に送られていた引換券を販売員に渡して、運ばれるのを待つ。

出雲市の次の直江で20分ほど停車する。山陰線は一部を除いて単線で、その中で特急も走る区間である。列車の行き違い、追い越しの合間を縫って走る「あめつち」だが、長く停車する駅でも扉は開かない。その間はじっと待つことになる。

そのタイミングで車内にはサックスとピアノの軽快なBGMが流れる。「あめつちのテーマ」という、地元島根のシンガーソングライター・浜田真理子さんの作品である。この時はボーカルなしだったが、この先の徐行区間では歌声も入る。歌詞には「駆け抜けよう」という言葉が多く使われている。山陰は山陰でも「SUN-IN」をイメージさせる感じだ。

直江を出たところで「山陰の酒と肴」がやって来た。私の乗った1号車では他に2~3組が注文していた。そして、目玉が「あめつち」のオリジナルラベルをあしらった「豊の秋 花かんざし」の1合瓶(地ビールとの選択制)。飲食店での酒の提供停止を要請している東京や大阪の知事が見たら怒り狂うやろうな・・。

器は小ぶりだが、島根牛、大山鶏、長芋、穴子、出雲そばの素揚げ、四季の野菜など、島根、鳥取両県の名物がふんだんに盛り込まれている。酒のアテが並ぶと言えるし、ミニ会席とも言える。別に飲んだからといって騒ぐわけでもなく、カウンター席の隣のご夫婦も静かに召し上がっている。

列車内での一献を楽しむうちに、「あめつち」は宍道湖に差しかかる。駆け抜けよう・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~広島から出雲市へ中国山地横断

2021年05月08日 | 中国観音霊場

5月2日、広島駅新幹線口9時00分発の一畑バスの出雲市駅行きに乗る。乗客は10名ほどである。この日は出雲市まで北上し、山陰線を観光列車「あめつち」で横断して倉吉に向かう。

続く広島バスセンターでも乗客は2~3名。初めて乗る路線なので、これがコロナ禍の影響で乗客が減っているのか、あるいはもともとこのくらいの乗車率なのかは何とも言えない。私が座ったのが進行左側の最前列の席。ちなみに右側の最前列の席はネットでも座席指定ができないようになっていた。これはコロナ対策というよりは乗務員のためのスペースのようだ。

広島バスセンター横の旧広島市民球場跡地を見下ろす。こちらでは3~5日にひろしまフラワーフェスティバルが開催される。昨年は緊急事態宣言発令中のため中止、今年は規模を縮小しての開催ということで、市民球場跡地にはメインステージが設けられ各種ショーが行われる予定だったが、結局ここでは無観客開催、ステージの様子はライブ配信のみとなった。

高速4号線を経て、大塚駅に停車。広域運動公園の一帯のエリアを抜けて、広島西風新都インターから広島道に乗る。広島から山陰方面に向かうバスの定番ルートである。山がちな一帯に入ると雨が落ちてきた。そういえば2日の天気予報も傘マークがついていたような。

広島道から中国道に入り、まずは三次インターを目指す。座席から運転席をのぞくと、時速80キロ区間で常に時速70キロをキープしている。雨が降っていてスリップ注意とはあるが、速度規制が出ているわけではない。余裕を持たせたダイヤなのかな。

特に渋滞があるわけでもなく、まずは休憩地の江の川パーキングエリアに到着。トイレ、自動販売機のほかにミニ売店がある。ちょうど、後から出発した広島発松江行きのバスがここで追いついた。

次の停車である三次インターでは、料金ゲートの外には出ずに敷地内に設けられたバス停に停まる。この路線も乗車専用、降車専用と区別しておらず、途中の乗降も可能だ。三次インターから1名乗車。予約はしていないようだが、空席はいくらでもあるので好きなところに座るよう案内していた。

三次東ジャンクションから松江道に入る。ここまで、前回の中国観音霊場めぐりで帰途に利用した松江~広島間の高速バスと同じルートである。国道54号線の改良道路という扱いで無料区間である。この道は尾道までつながっており、こうした無料道路の存在が中国山地のJRのローカル線には大きな痛手で、存続問題も出るくらいである。

2車線区間ということもありクルマが連なっており、中国道よりも通行量が多いようにも見える。その中で高野インターをいったん出て、「道の駅たかの」に停車。この間に、後から来ていた松江行きがそのまま本線を走って追い越す。

松江道にはサービスエリア、パーキングエリアがない代わりに、こうした道の駅を休憩スポットとして案内している。まあ、無料区間なのだから自由に出入りすれば済むことだが、この「道の駅たかの」駐車場には警備員が出るほど多くのクルマが立ち寄っていた。現在は合併で庄原市の一部になっているが、ここ高野町は広島県の最北部に位置する。広島県も結構広いのである。

4878メートルの大万木(おおよろぎ)トンネルを抜けると島根県に入る。中国地方で最も長いトンネルである。三段式スイッチバックもループ橋も真っ青の力業。今は高速バスのシートに身を任せているからいいものの、これだけ長いトンネルだと運転するほうは緊張するだろう。普通の追越車線がある高速道路ならまだしも、2車線区間である。2車線区間でも結構飛ばして、前のクルマとの間隔を詰めて煽るかのような運転をするのも結構いるので落ち着かないし、もしここで事故を起こしたり、あるいは事故に巻き込まれた場合、逃げ場がない。

雲南吉田インターで再び下車して、隣接する「道の駅たたらば壱番地」に停車。ここで1名下車。この一帯はかつてのたたら製鉄が盛んだったところ。この雲南吉田もかなり前に一度ドライブで来たことがあり、たたら製鉄の歴史スポットを回っている。また、中国山地のそうしたスポットもこれから訪ねてみたいものだ。

無料区間の最終となる三刀屋木次インターで下車して、下熊谷バスセンターに停車。国道54号線沿いにあり、ロードサイドの大型店も多数並ぶ。ある意味雲南市の中心部といってもいいところだ。1キロほど離れて木次駅があるので、そちらとの接続に使えないこともない。ここで松江道とは別れ、県道を走っていく。地図で見ると、この先斐伊川に沿って走るとそのまま出雲市まで行くことができる。

順調に走り、12時22分、終点の出雲市駅に到着。これから乗る観光列車「あめつち」は13時44分発ということで時間が中途半端にある。広島を1本早い便に乗ったとしても出雲大社まで往復するのは慌ただしい行程になるくらいだから、この時間からだと行くのは無理である。そこで、しばらくゆったりしようと、駅前の温泉に向かうことにした。ちょうど雨も止んだ。

駅南口からすぐのところにある「らんぷの湯」に入る。以前の中国観音霊場めぐりでも来たことがある。館内はランプの灯りが出迎えてくれ、ヒノキの浴槽がある浴室もランプのほのかな明るさが古民家の雰囲気を出している。

昼食ということで、駅構内の「麺家」に入る。出雲の割子そばをと思ったが、一番人気は「スサノオラーメン」とある。さらに、この両方をセットにした「出雲神話セット」というのもある。ラーメンと日本そば、どんだけ麺類好きやねんと思いつつ、面白そうなのでこのセットを注文する。

スサノオラーメンはなかなか濃厚な味噌味。このスープが好評ということでスープを1.5倍に増量したということで、出てきた時は中身が見えなかった。ほじくり出すと、卵にチャーシュー、メンマ、そして剣をかたどったかまぼこが出てきた。さすがにスープを全部飲み干すのは遠慮したが、これは美味かった。

その後は割子そばの二段。そばも悪くはなかったが、今回はラーメンのインパクトに押された形になった。やはりラーメンとそば、一食で同時にというのは欲張りすぎたかな。

入浴と食事、土産物の物色でそろそろいい時間になり、みどりの券売機で乗車券を購入して高架ホームに上がる。西出雲側から、青色に塗られたキハ47の「あめつち」が入線する・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~今回は鳥取県を横断

2021年05月07日 | 中国観音霊場

残り5ヶ所となった中国観音霊場めぐり。前回は3月中旬、まだ残雪のあった第29番の大山寺を訪ね、残すは鳥取中部、東部となる。そろそろ結願も見えてきた。

5月の連休に合わせて、このうちの第30番・長谷寺、そして第31番・三佛寺を訪ねることにする。今回、緊急事態宣言の発令に関係なく、前回終了後に、この連休に訪ねることに決めていた。

場所は長谷寺が倉吉の市街地、そして三佛寺は倉吉からバスで行った三朝温泉の奥にある。広島から倉吉への移動で半日かかるということもあるが、2ヶ所めぐりで1日を取り、そして次のエリアである鳥取まで前線を延ばしておくことを考えると2泊3日コースとなる。ならば、普通の土日ではなく、5月の連休に回るのがよい。カレンダーは5月1日~5日の5連休だが、前後にオフの日を設けるとして、5月2日~4日に出ることにする。

例によって、札所めぐりのエリアへのアクセスをどうするかで一つの記事となる。

山陰で一度乗ってみようという列車があった。観光列車「あめつち」である。2018年から鳥取~出雲市間で運行されている列車で、キハ47の改造である。これまで鳥取駅等での看板で見かけてはいたが、実際に乗る機会はなかった。せっかくなので今回、出雲市~倉吉間で利用することにした。乗るのは出雲市13時44分発の上り列車。

「あめつち」は全席グリーン車で、「◯◯のはなし」と同じく、カウンター席、2人席、4人席がある。グリーン車だから青春18きっぷでの利用はできず、それがこれまで乗る機会を得なかった理由とも言える。座席配置が変則的なため、ネットでは座席図を見て自分で席を選べないのだが、出てきたのは海側のカウンター席(まあ、みどりの窓口に行けば係員にリクエストできることだが)。

その出雲市には高速バスで向かう。広島から各方面に向かうバスの乗りつぶしにもなる。朝の初便は広島駅7時45分発、出雲市駅10時59分着。これなら出雲大社にも参詣できるかなと、出雲市駅からの電車、バスの時刻を調べてみた。ただ、往復はできるものの境内では駆け足になりそうだ。結局参詣は見合わせとして、次の便である広島駅9時発のバスで向かうことにした。これで2日の朝もゆっくり出発できる。出雲市駅では1時間半ほどの待ち合わせだが、さすがにその後の便だと間に合わない。

そして5月2日、広島駅新幹線口に向かう。4月29日に益田行きに乗ってからわずか3日後のことである。あの日は午前中強い雨が降っていたが、この日も朝だけ傘マークが出ていた。まあ、2日は移動日と割り切って、翌日の3日の天気がよければそれでよい。充実した札所めぐりになりますように・・。

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DLやまぐち号に乗車

2021年05月06日 | 旅行記F・中国

津和野からの「DLやまぐち号」に乗車する。まずは先頭に向かって機関車の姿を見る。この日(4月29日)は普通の祝日だったためか観光客の姿も思っていたより少なく、特に子ども連れが少なかったように思う。機関車の前で記念撮影する人もちらほらいる程度。

やはり、乗る客車は同じレトロ風車両だったとしても、それを牽引するのがSLかDLかの違いによって、人気、注目度も違うのかなと思う。私としては実際に乗車した経験からDLのほうに懐かしさを感じるのだが、やはり見て絵になるということではSLに軍配が上がるだろう。

客車に乗る。今回取った席は最後尾の5号車。戦前を代表するオハ31を復刻したもので、後ろには展望車がついている。先頭の1号車グリーン車(マイテ49を復刻)は満席で、中央の2~4号車(オハ35を復刻)はガラガラだったが、5号車はそれなりの乗車率で、各ボックスに1人以上客がいた。展望車がついているからだろうか。

前回乗った時は中央部のオハ35だったが、そちらは背もたれにもシートがあったのに比べて、オハ31は板張り。それがより一層のレトロ感を出している。

また、昨今の事情を反映して、テーブルにはアクリル板が設置されている。もっともこの日は普通車は全体的に空いていて、知らない人同士がボックス席で相席になっている様子はなかった。ちょうどアクリル板を支える足のところが飲み物を置くのにちょうどよかった。

発車する頃にはすっかり青空が戻り、15時45分、津和野を出発。早速、展望デッキに出てみる。心地よい風が吹き出す。

展望デッキも譲り合いということで、しばらくして客席に戻る。飲み鉄もしないといけないし。天気もよいので窓も開けてみる。SLと違って煙が入り込む心配はないのだが、それでも車内放送では「トンネルの中では『排気ガス』が入りますので、展望デッキには出ないようにしてください、窓も閉めてください」という注意が入る。

まずは長い白井トンネルをくぐり、島根県から山口県に向かう。次の船平山からは穏やかな田園地帯。再び窓を開ける。ちょうど田植えの時季、田圃に水が張られているところ。こういう、窓を開けても文句を言われない列車というのも貴重な乗車機会だ。

展望デッキにも出てみる。こうして外の風を感じるのがよい。天気が回復してよかった。撮影する人、クルマの窓から手を振る人、やはりこうした列車はみんなの目を引く。

この「DLやまぐち号」は春は5月5日までの運行で、次は7月から9月まで、土日祝日を中心に走る。そのインターバル機関の5月30日、山陽線の厚狭~下関間の開業120周年記念イベントとして、このレトロ風客車を使用した臨時列車が走るという。牽引するのは「トワイライトエクスプレス」などを牽引したEF65で、さしずめ「ELやまぐち号」といったところ。乗ってみたいとも思うが、札所めぐりも進めたいし・・。

給水塔跡が残る篠目に到着。ここで3分停車ということでいったん外に出る。ディーゼル機関車となると給水は直接関係しないが、かつての鉄道景色ということで楽しめる。

ここから再びの峠越え。ただ、先ほどの船平山もうそうだが、どちらかといえば下り勾配がメインである。やはり往路、新山口方面から険しい峠に挑むのが列車の見どころだろう。

山口に到着。観光列車としての風情は次の湯田温泉までで、後は新山口に帰るための走行である。車内にも「もうすぐ終点か」という雰囲気が漂う。後は住宅が広がる中を走り抜ける。

17時30分、2時間近い走行を終えて新山口に到着。DD51も自分で客車を車庫に回送させるべくいったん切り離され、入替線に向かう。お疲れ様でした。

SL2両の検査、修繕ということで今季は「DLやまぐち号」としてDD51が使われているが、この機関車も徐々に役割を終えて、2021年3月のダイヤ改正ではJR貨物の定期運用からも姿を消した。SLは各地でイベント列車として運行されているが、DLは観光客向けにはアピールが弱いのかそうした話もなく、現在表舞台で見られるのはこの「DLやまぐち号」くらいしかない。見方によっては、SL列車に乗るよりも貴重な機械かと思う。

さてこれから広島に戻る。今回使うのは「山陽新幹線直前割きっぷ」。利用3日前から前日までネット限定での発売。「こだま」「ひかり」の指定席が割引になるが、3月までは「直前割50」という名前で50%引きだったのが、4月からは割引率が減少した。それでも、新山口~広島間が通常5370円のところ3500円で利用でき、乗車券も「広島市内」までとなっているから、利用価値はある。

18時01分発の「こだま864号」を予約していた。時刻表を見ると500系使用とあり、ならば6号車がかつてのグリーン車の流用である。博多寄り(後方)の席を指定していた。

到着の案内があり、列車が来る方向を見るとどうも500系と様子が違う。やって来たのはN700系(山陽・九州新幹線用)だ。車両運用の都合かと思うが、「こだま」にも登場するとは。

500系の6号車はあくまで普通車の指定席だが、N700系は「みずほ」「さくら」での運用がメインで、6号車は博多寄りの半分が指定席、新大阪寄りの半分が現役のグリーン車である。それが「こだま」運用ということで6号車は普通車の指定席なのだが、私が取っていたのは博多寄りのほう。まあ、N700系の指定席は2人がけシートが並び快適なのだが、席の選択によってはグリーン車に乗れたわけだ。このきっぷは列車、座席の変更ができないのでちょっと惜しいなと思いつつ自席に座る(実際は、停車の間にちょっとだけ席に腰かけてみたのだが)。

鈍行で広島に戻ってもよかったのだが、青春18きっぷの時季ではないので、通常の運賃に1200円ほどの差額を払って新幹線に乗って時間短縮できるのはよい。翌日は通常の出勤なので、早めに帰宅しようというところだ(最近、自分の中でこうした思考が増えているように思う)。

徳山でコンビナート群を見た後は山の中に入り、18時50分、広島に到着。いろんな乗り物に出会えた津和野行きとなった。

これで大型連休を迎えることになったが、緊急事態宣言とは関係なくこういうプランで行こうと考えていたコースをたどることにする。行先は同じ中国地方だ・・・。

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津和野を歩く(森鷗外と安野光雅)

2021年05月05日 | 旅行記F・中国

4月29日、津和野の町を道の駅からJRの駅まで歩く途中。森鷗外記念館に着く。

津和野の有名人として森鷗外を挙げる人は多いだろう。明治から大正にかけて、軍医として、また文学者として活躍した人物で、文学作品は学校の教科書でも取り上げられるほどである。もっとも、津和野で幼少期を過ごしたものの、10歳過ぎに学問のために父とともに上京し、その後生涯津和野に戻ることはなかった。

記念館の展示コーナーは上京後の生活から始まる。東京医科大学から陸軍省に入る当時の史料もさまざまに残されている。そしてドイツへの留学。この時にドイツ文学にも触れ、またドイツ時代を舞台とした作品を後に手掛けることになった。日清、日露戦争にも軍医として従軍している。

軍医としての森鷗外には「脚気」に関する話が残っている。脚気はビタミン欠乏により発症するのだが、当時の日本の軍隊ではこの病気に罹って亡くなる者が多く問題となっていた。そこで海軍の軍医はイギリス式にならって洋食や麦飯を取り入れたところ発症者がぐんと減ったのに対して、陸軍の軍医である鷗外は、脚気の原因は細菌によるものであるとして、白米の支給にこだわり、当時論争にもなったという。そして陸軍では引き続き脚気で命を落とすものが後を絶たず、麦飯を導入したのはかなり後になってからのことだった。

脚気は、少量のおかずで白米だけを大量に食べていたから発症したことで、当時はビタミンも発見されていなかったし、現在のようにさまざまな食品から栄養素を取り入れるという考えも発達していなかったから致し方ないのだが、当時の周囲の人たちの鷗外評というのは、絶対に自説は曲げない、論争では相手を徹底的に叩き潰すというものだったとか。まあ、こういうことは記念館では紹介されない。

友人に口述筆記させた遺言状の写しが展示されている。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」の一節で知られる。10歳での状況以後、亡くなるまで津和野の地を踏むことはなかったが、死に際まで生誕の地である津和野に思いをはせていた・・と評される。ただ、亡くなった60歳までの間に一度も帰らなかったとは、陸軍の軍医として、また文学者として多忙だったとはいえ、時間を取ろうと思えば取れたのではないか。何か他に「帰りたくない」「帰れるけど帰らない」思いや事情があったのではと思う。文学作品では自身の津和野の幼少時代に触れたものもあり、決して津和野が嫌だったわけではなかったのだろうが・・。

記念館に隣接する旧居跡をのぞく。

再び津和野川に沿ってぶらぶら歩く。記念館に入っている間にちょうど雨も止んだようだ。川沿いに櫓がある。その横が津和野高校で、藩校の養老館の気風を受け継ぐ学校である。

山口線のガード下をくぐって、殿町通りに出る。錦鯉も相変わらず元気で、観光客がまくエサに群がっている。

この辺りまで来ると商店街にもなり、喫茶店や食事処もある。実は先ほど道の駅で昼食をと思っていたが、たまたま温泉の定休日に当たったことと、併設のレストランにこれと目を引くものがなかったことで、そのまま歩いてきた。遅いながらの昼食とも考えたが、もういいかなと思う。どうせこれから乗る「DLやまぐち号」の中では「飲み鉄」に走るだろうから・・・。

ちょうど、益田からの路線バスとすれ違う。

駅前に戻り、展示されているD51を見た後で、観光案内所に入る。前の記事でも触れたが、津和野の謎解き散歩の答えも無事に出たので、答え合わせである。見事正解ということで、参加賞として「SLやまぐち号」のシール、そしてくじ引きの4等賞で同列車のマグネットが当たった。これは自宅の冷蔵庫に貼って使うことにしよう。

残った時間は駅前の安野光雅美術館に入る。昨年夏の中国観音霊場めぐりの時にも入館したのに続いてのことだ。2021年3月に開館20周年を迎えたが、その安野光雅氏は昨年12月に亡くなった。94歳だから長生きされたと思うが、この人の絵は私が子どもの頃にも絵本その他で目にしていたから、画家生活もずいぶん長いものだった。

企画展は「繪本 平家物語」。1989年~2005年にかけて月刊誌に連載されたもので、2006年に出版された作品群。絵本といっても子供向けの作品ではなく、大人の鑑賞眼にも耐えうるものにしたという。平家物語は今から800年以上前の日本史の話だが、安野光雅は京都をはじめ物語に出てくる場面のほとんどに足を運び、その土地から発せられる何かを得ながら描いたそうだ。勇猛な場面、哀愁を感じさせる場面、平家物語の原典をじっくり読んだことがない人に対しても、物語の世界観を存分に語ってくれているように思う。これに琵琶の音でも重ねてみると・・。

その安野光雅も、生まれは津和野だが13歳で転校したのに始まり、その後は応召や就職などあり、やはり画家生活としては上京してのこととなる。この辺りは鷗外とも共通しているが、安野光雅は津和野をテーマとした絵画作品や著作も多数発表しているし、折に触れ津和野にも戻っている。日本の原風景を語る舞台として津和野を語ることも多かった。

路線バスで津和野に来た時、列車の時間まで4時間をどのように過ごそうかと思っていたが、森鷗外記念館や安野光雅美術館で結構な時間を過ごすことになった。この後、いったん殿町通り近くのローソンポプラで遅い昼食兼飲み鉄用の飲食物を仕入れて、駅に戻る。

ちょうど、「DLやまぐち号」を牽引するDD51が、側線に停まっていた客車の前につながれて、ホームのある本線に向かうための入換作業のところだった。車両の中央部に運転台があるので、入換作業もスムーズにできる長所がある。ただ、こうした光景も今や貴重なものだ。

客車がいったん新山口方面に引き上げられたのを見て、駅舎に戻る。列車の改札が始まり、これからこの日初めての列車、それも客車列車に乗ることに・・・。

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津和野を歩く(謎解き参加)

2021年05月01日 | 旅行記F・中国

4月29日、広島から高速バスで日原を経由して津和野に向かうところ。

国道9号線沿いにある道の駅「シルクウェイにちはら」のバス停から、石見交通の津和野温泉行きの路線バスに乗る。乗客は私一人だけ。

高速バスとは異なり日原の町の中心部を経由するが、乗り降りはなし。その後、再び9号線に入るもすぐに側道に入る。到着したのは日原駅。停車せずに通過したので画像はないが、日原というところ、駅、町並みはこういうところなのかなと見ることはできた。

しばらく山口線の線路と並走する。残念ながら列車とすれ違う場面はなかった。

前方に見える赤い橋を渡るのかなと思いきや、ここでバスは右手の狭い道を選択する。津和野川沿いの集落を経由するようだ。すれ違うのもやっとという細い道を走る。茶畑なども見る。また、区間によってはフリー乗降区間が設けられ、前方の運賃表示にも「フリーパス」の文字が出る。もっとも、区間を通して乗客はいなかったが。

突然、山口線の線路と合流する。すぐに津和野駅に到着したが、とりあえずそのまま乗り通す。この先、鯉が泳ぐ水路で有名な殿町通りも過ぎるが、バスの車内から見るのも初めてのことだ。

町並みを抜けた先の終点・津和野温泉に到着。道の駅「津和野温泉 なごみの里」の中にある。ここで入浴、昼食の後、津和野駅まで戻る形で歩くことにする。まあ、歩くといっても3キロほどのことだが。

ところが、建物の入口にはこんな表示が。木曜日、温泉のみ定休日とある。4月29日は木曜日。先ほど「津和野温泉に行こうか」と思い立った時には全く気付かなかった。まあ、仕方がない。せめて土産物コーナーを物色する。

ここで見つけたのが、「春の津和野 謎とき散歩」のチラシと参加用紙。3月20日から5月31日まで行われていて、津和野の観光スポットを回り、そこで謎解きをしてキーワードを見つけ出すというもの。解答がわかれば津和野駅前の観光案内所に用紙を持っていき、正解だとくじを引いて津和野町での宿泊券や「SLやまぐち号」のグッズが当たる。

謎解きのヒントとなるポイントは、森鴎外記念館、殿町通り、鷲原八幡宮、津和野駅前にある。具体的な内容はネタバレになるので書かないが、現地に行けば必ずわかる内容である。駅からだと最も離れた鷲原八幡宮まで往復となるが、今回は道の駅から出発なので、ほど近い鷲原八幡宮から駅に戻りながら謎解きができる。

道の駅から津和野川を渡り、鷲原八幡宮に入る。まず見えるのは流鏑馬馬場。鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場を模して造られたそうで、日本で唯一、鎌倉時代からの原形をとどめているという。この時は草生していて、また雨のため地面もぬかるんでいたが、毎年4月の第1日曜日に流鏑馬神事が奉納される。今年に関してはコロナ予防のために無観客で行われたそうだ。

その先の鳥居。扁額の文字には鳩があしらわれている。

鷲原八幡宮は平安時代に宇佐八幡を勧請したのが始まりとされる。南北朝時代に吉見氏が改めて鶴岡八幡を勧請したところで、その後戦乱で焼失したものの、吉見氏、江戸時代の亀井氏らの手により長く保護されてきた。まずはここで手を合わせる。

ここから津和野駅まで戻る形での町歩きである。

駅からは離れているが、鷲原という地名には覚えがあり、かつてユースホステルがあった。私も学生の頃、社会人になりたての頃の2回宿泊している。夕食がカレーだったり、風呂が五右衛門風呂だったな。泊まった2回それぞれ、「安野光雅研究」、「森鷗外研究」という女性と泊まり合わせて、話ができたのも思い出。まあ、若い時のことだ。そのユースホステルも閉館となり、後にはレストランとなったようだが。

石州瓦の並ぶ家並みを歩き、やってきたのは森鷗外記念館。この先は記事を改めることに・・・。

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