前回に紹介した家族の鳴門ツーの続きです。「びんび家」での昼食の後に向かったのが、ドイツ俘虜収容所跡です。
「びんび家」前のR11を西に走り、左折して県道41号線を南に向かったのですが、この県道41号線は恐るべき道路でした。まあ山越えですから仕方ないのですが、ブラインド・カーブの連続で、しかも幅員は一車線分しかないのが大半でした。前からクルマが来ると避けようがない県道です。
やっとこさ山を越えて到着したのが、最初の写真のドイツ館です。ここは鳴門市の建物ですが、第一次世界大戦のドイツ俘虜収容所の歴史や資料が展示されています。
ここでドイツ俘虜収容所について紹介しますと、板東俘虜収容所と呼ばれていたもので、第一次世界大戦で敗れたドイツ兵を収容していた施設です。当時の日本は勝者である連合軍に所属していましたから、敗戦国のドイツ兵を収容したものですね。
しかし、なぜこの板東俘虜収容所が有名なのか?ですが、実は俘虜であるドイツ兵が有名なベートーベンの第九交響曲を日本で初めて演奏したからです。
そんなところで、ドイツ館に行くと俘虜収容所のことだけではなく、第九の演奏に至った経緯なども詳しく紹介されています。
下の写真は館内の1コマですが、ビデオと当時を再現した人形などが展示されていました。

ところで板東俘虜収容所跡はこのドイツ館の場所ではなく、500mぐらい南側ということで本当の板東俘虜収容所跡地に行ってきました。下の写真のように再現した正門があります。

跡地は公園のようになっていて、誰でも入ることができます。当時のまま残っているのは、下の写真の給水塔です。

他に当時のまま残っているのは、下の写真の収容中に亡くなったドイツ兵の慰霊碑です。石碑が風化して判別できなかったのですが、亡くなったドイツ兵の名前が刻まれているように見えました。

下の写真は、最近に建てられた思える慰霊碑です。おそらく鳴門市がドイツとの友好の証として建てられたのでしょう。


下の写真は、現在の俘虜収容所跡の全景です。ドイツ館で展示されていた当時の状況の模型と同じで、敷地内に池が残っています。この場所に千人近いドイツ兵が収容されていたと思うと、感慨深いものがあります。

この板東俘虜収容所は100年ぐらい昔のことですが、それでも現地に行くと当時のことを肌で感じますね。本やテレビなどでは得れないことです。
「びんび家」前のR11を西に走り、左折して県道41号線を南に向かったのですが、この県道41号線は恐るべき道路でした。まあ山越えですから仕方ないのですが、ブラインド・カーブの連続で、しかも幅員は一車線分しかないのが大半でした。前からクルマが来ると避けようがない県道です。
やっとこさ山を越えて到着したのが、最初の写真のドイツ館です。ここは鳴門市の建物ですが、第一次世界大戦のドイツ俘虜収容所の歴史や資料が展示されています。
ここでドイツ俘虜収容所について紹介しますと、板東俘虜収容所と呼ばれていたもので、第一次世界大戦で敗れたドイツ兵を収容していた施設です。当時の日本は勝者である連合軍に所属していましたから、敗戦国のドイツ兵を収容したものですね。
しかし、なぜこの板東俘虜収容所が有名なのか?ですが、実は俘虜であるドイツ兵が有名なベートーベンの第九交響曲を日本で初めて演奏したからです。
そんなところで、ドイツ館に行くと俘虜収容所のことだけではなく、第九の演奏に至った経緯なども詳しく紹介されています。
下の写真は館内の1コマですが、ビデオと当時を再現した人形などが展示されていました。

ところで板東俘虜収容所跡はこのドイツ館の場所ではなく、500mぐらい南側ということで本当の板東俘虜収容所跡地に行ってきました。下の写真のように再現した正門があります。

跡地は公園のようになっていて、誰でも入ることができます。当時のまま残っているのは、下の写真の給水塔です。

他に当時のまま残っているのは、下の写真の収容中に亡くなったドイツ兵の慰霊碑です。石碑が風化して判別できなかったのですが、亡くなったドイツ兵の名前が刻まれているように見えました。

下の写真は、最近に建てられた思える慰霊碑です。おそらく鳴門市がドイツとの友好の証として建てられたのでしょう。


下の写真は、現在の俘虜収容所跡の全景です。ドイツ館で展示されていた当時の状況の模型と同じで、敷地内に池が残っています。この場所に千人近いドイツ兵が収容されていたと思うと、感慨深いものがあります。

この板東俘虜収容所は100年ぐらい昔のことですが、それでも現地に行くと当時のことを肌で感じますね。本やテレビなどでは得れないことです。