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川上未映子『お花畑自身』その1

2019-11-14 06:12:00 | ノンジャンル
 文芸雑誌『群像』2016年10月号「創刊70周年記念号・群像短篇名作選」に掲載されていた、川上未映子さんの2012年4月の作品『お花畑自身』を読みました。

 悪魔がきたかと思いました、と声がしました。(中略)
 あれはまだ、ぜんぶがうまくいっているように━━わたしにも夫にも、それからわたしたち夫婦が関係するすべての人々にだっておそらくそうみえていたはずの頃のことで、(中略)とにかくそれから三年も経たないうちに何もかもがこんなにも変わり果ててすべてを失ってしまうことになるなんて夢にも思わなかった頃のことです。(中略)
 一時間と少しあと、いわゆる鑑定というものを終えてからビルを出て、しばらく歩いてから入った喫茶店で、近藤さんが本当に申し訳なかったわ、という顔をして謝りました。(中略)
 気にしないで。
 わたしがみせると、近藤さんは苦笑いをして唇を前につきだし、大げさに肩をすくめてみせました。(中略)

 土曜日。今から三ヵ月前の、すごくよく晴れた春の日の、土曜日の午後三時。あの瞬間がなかったら、そしてあの女じゃなかったら、わたしはそんな先生に会ったことも近藤さんのことを思いだすこともなかったと思います。(中略)このわたしの玄関にあらわれた女をみたときに、その言葉が突然やってきたのでした。悪魔がきたかと思いました。(中略)そこには美人でも不美人でもない女に特有の努力のあとがみてとれました。(中略)このろくでもないいつもの不動産屋の男に連れられて、その女はわたしの家を値踏みにしにきたのです。

 (中略)
 それにしてもこの女は何なのでしょう。(中略)そう、内見に女がひとりでやってくるというのはまずないこと。(中略)夫の会社が破産して、倒産ということになって、まだローンが残っているこの家を売却することになりました。(中略)
 夫が独立するまえ、まだ勤め人だったときでもお金が足りなくて困ったというようなことは覚えているかぎり一度もありませんでした。(中略)

 (中略)
 女は部屋の中のありとあらゆるものをいちいち大げさに褒めてみせました。(中略)

 (中略)わたしにとってはこの家のすべてが誇りだったけれど、とくに念入りに手を入れていたのは庭でした。(中略)

(中略)わたしはリビングのいちばん左端の窓辺からそれ(庭)を眺めるのが好きでした。(中略)

(中略)夫の知り合いが管理している家具付きのウィークリーマンションの一室で、目に見える物の中から今の自分はどれにいちばん近いだろうとそんなことを考えていたのです。
 食器と洋服だけはほとんど持ち出すことができましたけれど、ずいぶん昔の、捨てていなかったのが不思議なくらいにくたびれて袖と脇のあたりの生地がこすれて薄くなって毛玉のういたサマーセーターをわたしはもう何日も着たままで、ここに寝泊まりをするようになってからもう三週間が経とうとしていました。
 家財道具はそのまま置いてきました。(中略)倉庫か何かを借りて、また生活が持ち直してつぎのちゃんとした場所に越すときまで保管しておくことは無理だったのかとわたしはほとんど泣きそうになって問いただしました。けれど夫は、衣類や食器や細々したもので精一杯だったろう、それに、家を出た時点で家具はもう俺たちのものじゃなくなったんだよと静かに言い、わたしはそれでも黙ることができませんでした。(中略)やがてわたしが何を言っても夫はもう返事をしなくなり、何もかも置き去りにされ、暗闇がのしかかり、わたしはぺらぺらの夏布団を頭からかぶってどこまでも覆いかぶさってくる湿り気のなかで息を少しずつ吐きながら、明け方まで泣きつづけました。

 契約が成立して家を追い出されて、ここにやってくるまでの記憶は(中略)何もかもがはっきりしませんでした。(中略)

 おおきなつばのついた日除け帽子を目深にかぶり、(中略)電車を二度乗り換えて片道に一時間かけて、わたしはわたしの家へ向かいました。(中略)夏の午後。わたしは道路を隔てて家の斜め向かいにある小さな公園のベンチに腰をおろし、わたしの家をじっと眺めました。(中略)

 あの家は女がひとりで購入したらしいということでした。(中略)作詞家だって話だったよ。(中略)

 気がつくと蝉の声があたりいっぱいに満ちていて、ゆるみきったペットボトルを握りしめながら、わたしのアトリエで机に向かっている女を思い浮かべました。(中略)
 作詞家というものがどんな生活をしているのか見当もつきませんでしたけれど、この二週間、わたしは女を一度もみかけませんでした。(中略)

(明日へ続きます……)

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