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川上未映子『お花畑自身』その2

2019-11-15 05:59:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

(中略)
 フェンスの地がみえないくらいに見事に咲き乱れたアイスバーグがみえます。わたしがいなくても去年とおなじように咲いているばらたちがけなげでした。(中略)ここからはみえないけれど、あっちのツユクサやクチナシたちもおなじようにちゃんと咲いているのでしょうか。あそこは日の当たりにむらがあるから水の加減が難しいのに。(中略)どうしたらいいんでしょう。わたしの家。わたしの庭。どうしたら。
 そのとき、玄関の扉がひらくのが見えました。(中略)女でした。(中略)女はもちろんこちらには気づきもせず、門を出ると駅のほうへつづく道をまっすぐに歩いてゆきました。(中略)
 今しかない。そう、今しかない。でも何が今しかないの。わからない。わかりませんでした。でも今、あの女はわたしの家にいない。(中略)元にもどりたい。今までの生活にもどりたい。あれはわたしの家だもの。(中略)

わたしは公園を出てゆっくりと道路をわたり、ポーチに立ちました。門まで歩いてノブをまわして中に入るとやはり土は乾いていました。(中略)
 隅のほうに放ったらかしにされていたホースを水道の口にはめて蛇口をひねって水をやりました。(中略)
 やってもやっても土は水を吸いつづけました。じゅうぶんなだけ水をやると、終わった花をつまんでまとめ、草や寄せ植えの鉢の中の葉の変色した部分をちぎり、物置の横の専用のゴミ入れに捨てました。ついでに固形肥料の入った袋を手にとってひとつひとつを土に埋め、少し迷ってからもう一度、大型のじょうろをとりに物置へもどって水を溜めてからそこにハイポネックスを入れて、すべての花と葉と草にまんべんなくふりかけました。
 それだけやってしまうと庭は息を吹きかえしたようにみえました。(中略)それから最後にゆっくりと顔をガラスのほうへ向けると、そこに女の顔がありました。

(中略)
「入れば」
 女はわたしの目をみたまま静かな声で言いました。(中略)
「何の用ですか?」(中略)
「先週から何ですか。気味が悪いんですけど。何しに来てるんですか」(中略)
「この暑さの中であんなところでよく何時間もいられますね」(中略)
「まああなたの気持はわからなくもありませんけど、だからといって人んちに勝手に入っていいってことにはなりませんよ。これ不法侵入ですよ。立派な犯罪」(中略)
「それで、あなたはどうするんです」(中略)
「わたしの、これから」
「そうですよ。わたしには現実的な迷惑がはっきりかかっているわけです。いまのこの無駄な時間だってそうです。(中略)この家でいちばん気に入っているものって、何ですか」
「ぜんぶ……ですけど」とわたしは言いました。(中略)
「ぜんぶではなくて、できれば絞ってください」
「……庭」とわたしはしばらくして、つぶやくように言いました。
「庭ですか」女はわたしの返事をきくと、何かを考えるようにして黙りこみ、それからわたしをじっとみつめました。
「庭は……いいかもしれませんね」(中略)
「(中略)いちばん大切なものと、それもほんらい一体化できないものと一体化してみる(中略)」
「でも、どうやって」
「あなたがお花畑の一部になるんですよ」と女はさっきより冷たい声で言いました。「埋まってみるんです。庭に。(中略)何かを成仏させるには焼くか埋めるかしかないんです。(中略)」(中略)

「では、寝てみてください」女は言いました。
 わたしは女に言われるまま、掘りかえしたばかりの黒く湿った土にお尻をつけ、それから脚をのばして、両手を体にまっすぐ添わせてみました。(中略)じっとしていてくださいね、と女は言い、それから、かけますよ、と言いました。それは、あの声でした。(中略)わたしの手足は土の中でどんどん重くなってゆきました。(中略)声は無言のまま、ただどこかで息を吐き、わたしに土をかけてゆきます。(中略)わたしも土をかけてゆきます。わたしが息を吐くたびに、声が手のひらで押すたびに、わたしは重くなってゆく。(中略)かろうじて動く首を少し横にすると、すぐそこにペチュニアの葉がみえました。水滴がゆれて光が走り、生まれたてのような柔らかい天道虫がそこにいて、極小の天道虫がそこにいて、羽をひろげる瞬間でした。ずいぶん昔にわたしはおなじようにこの瞬間をみたような気がしましたけれど、もういつのことかは思いだせない。それでもわたしは家に帰ったら夫に天道虫のことを言いましょう。わたしの家、窓の向こう、いつも鐘の音がします。部屋を出て、階段を降りて、わたしはいろんな話をしましょう。何も奪わず、ただここで静かに呼吸をしているだけの花について、わたしについて。それからあなた、あなたにも。言いそびれておりましたが、わたしは悪魔ではありません。

 不思議な味わいのある短篇でした。

 →サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto