11月10日に刊行された、雑誌『エトセトラ vo.2 Fall / Winter 2019 特集 We ❤ 田嶋陽子! 山内マリコ・柚木麻子・責任編集』を読みました。その中から、田嶋さんの著書『愛という名の支配』に関する斎藤美奈子さんの書評と、田嶋さんが『愛という名の支配』の中で書いた文章の一部をこちらに転載させていただきたいと思います。
まず斎藤さんの「空気を読まない彼女の直球ド真ん中な「愛情」論」と題された文章です。
「気鋭の英文学者にして、テレビのバラエティ番組でズケズケものをいう異色のフェミニスト。80年代は上野千鶴子や小倉千加子らスター級のフェミニストが何人も登場した時代だったけれど、田嶋陽子のインパクトはとりわけ大きかった。彼女はけっして空気を読まない。相手にどう突っ込まれてもひるまない。あうんの呼吸で話が通じるホームではなく、わからず屋の巣窟であるアウェイでいつも勝負する。
『愛という名の支配』はそんな田嶋陽子らしさが炸裂した初期の代表作である。講演をそのまま文字化したような、ユーモラスかつざっくばらんな語り口。だが二十数年ぶりに読み直して、おおー! と思った。驚くべきわかりやすさ。そのうえ、いま読んでもまるで古びていない。ってことはしかし、30年近くたっても日本はさして変わってないってこと!?
性差別はどこから来て、個人の精神にどう影響し、男女関係をどう歪めるか。この本で彼女が読者に投げかけているのは、そんな本質的な問いである。
〈私の場合、親の愛というのは、“いじめ”と紙一重だった〉というシビアな告白から話は始まる。子どもの頃、いちばん怖いのは母だった。〈いくら勉強ができたって、人に好かれるようなかわいい子でないと、お嫁のもらい手がなくなるからね〉と母はいった。だが母もまた、その母(著者の祖母)を恨んでいた。〈結婚することでしか女は生かされない。女は飼い殺しにされている。自分の人生を自分で選べない。選択権がない。自己決定権はない、ということなんですね〉
そもそも女は「女の国」から「男の国」に連れてこられ、ガレー船の船底に閉じ込められたドレイと同じだ、というのが彼女の持論だ。甲板の上にいるのは男たち。女は妊娠と出産に束縛されて逃亡の機会を失い、肉体的には活動に不向きな衣服と窮屈な靴に、精神的には「女らしさ」という社会規範に縛られて、ますます身動きがとれなくなった。それでも安心できない男たちは〈植民地支配の鉄則の一つ、「分割して統治せよ」で、主人一人にドレイ一人、男一人に女一人を割りあてたのです〉。何を隠そう、それが奴隷制度だ、と。そしてさらにキツイ一発。〈恋愛結婚ができたからよけいに困ったことになった〉。〈恋愛して結婚すれば、女は愛の名のもとに尽くすだけですから、男社会にとってこんな得なことはないわけです〉
母と娘の関係も、結婚制度も、流行のファッションも、男の快楽に寄与するセックスも、気持ちいいくらいに一刀両断。ことに「愛」に対する彼女の評価は厳しくて、〈女たちが年がら年中、「愛! 愛!」と男の愛ばかり求めるようになったのは、原点にドレイ状況におかれている女の現実があるからだと思います〉と容赦がない。〈ドレイ状況にある女は、甲板の上の主人の愛と温情がなければ、食べものひとつろくにもらえない〉。だから女は〈相手の言うことはなんでもきいて、逆らわずに、「ハイ、ハイ」と従ったほうが無難で安全だと、体験からも知るようになります〉
二十一世紀の今日、表面上、女性をめぐる状況はかなり変わった。結婚しない女性も増えたし、結婚しても働き続ける女性も増えた。しかし、「愛」にまつわる右のような状況を否定できる人がどのくらいいるだろうか。
そう、「愛」はおそろしいのである。ぼーっとしてると、絡めとられるぞっ。
この種のストレートな言説は、そういえば近年、減った気がする。過激すぎると読者が引く、敵が増える。フェミニストもフェミニズム本も、なにかと「忖度」しながら世間とつきあってきたせいかしらね。けれど田嶋陽子は空気を読まない。だからこそ、それは読者の心にダイレクトに響く。若いときに(若くなくても)この本を読んだかどうかで人生は変わる。目の前の霧が晴れるような感覚をあなたは味わうだろう。」
(明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
→FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)
まず斎藤さんの「空気を読まない彼女の直球ド真ん中な「愛情」論」と題された文章です。
「気鋭の英文学者にして、テレビのバラエティ番組でズケズケものをいう異色のフェミニスト。80年代は上野千鶴子や小倉千加子らスター級のフェミニストが何人も登場した時代だったけれど、田嶋陽子のインパクトはとりわけ大きかった。彼女はけっして空気を読まない。相手にどう突っ込まれてもひるまない。あうんの呼吸で話が通じるホームではなく、わからず屋の巣窟であるアウェイでいつも勝負する。
『愛という名の支配』はそんな田嶋陽子らしさが炸裂した初期の代表作である。講演をそのまま文字化したような、ユーモラスかつざっくばらんな語り口。だが二十数年ぶりに読み直して、おおー! と思った。驚くべきわかりやすさ。そのうえ、いま読んでもまるで古びていない。ってことはしかし、30年近くたっても日本はさして変わってないってこと!?
性差別はどこから来て、個人の精神にどう影響し、男女関係をどう歪めるか。この本で彼女が読者に投げかけているのは、そんな本質的な問いである。
〈私の場合、親の愛というのは、“いじめ”と紙一重だった〉というシビアな告白から話は始まる。子どもの頃、いちばん怖いのは母だった。〈いくら勉強ができたって、人に好かれるようなかわいい子でないと、お嫁のもらい手がなくなるからね〉と母はいった。だが母もまた、その母(著者の祖母)を恨んでいた。〈結婚することでしか女は生かされない。女は飼い殺しにされている。自分の人生を自分で選べない。選択権がない。自己決定権はない、ということなんですね〉
そもそも女は「女の国」から「男の国」に連れてこられ、ガレー船の船底に閉じ込められたドレイと同じだ、というのが彼女の持論だ。甲板の上にいるのは男たち。女は妊娠と出産に束縛されて逃亡の機会を失い、肉体的には活動に不向きな衣服と窮屈な靴に、精神的には「女らしさ」という社会規範に縛られて、ますます身動きがとれなくなった。それでも安心できない男たちは〈植民地支配の鉄則の一つ、「分割して統治せよ」で、主人一人にドレイ一人、男一人に女一人を割りあてたのです〉。何を隠そう、それが奴隷制度だ、と。そしてさらにキツイ一発。〈恋愛結婚ができたからよけいに困ったことになった〉。〈恋愛して結婚すれば、女は愛の名のもとに尽くすだけですから、男社会にとってこんな得なことはないわけです〉
母と娘の関係も、結婚制度も、流行のファッションも、男の快楽に寄与するセックスも、気持ちいいくらいに一刀両断。ことに「愛」に対する彼女の評価は厳しくて、〈女たちが年がら年中、「愛! 愛!」と男の愛ばかり求めるようになったのは、原点にドレイ状況におかれている女の現実があるからだと思います〉と容赦がない。〈ドレイ状況にある女は、甲板の上の主人の愛と温情がなければ、食べものひとつろくにもらえない〉。だから女は〈相手の言うことはなんでもきいて、逆らわずに、「ハイ、ハイ」と従ったほうが無難で安全だと、体験からも知るようになります〉
二十一世紀の今日、表面上、女性をめぐる状況はかなり変わった。結婚しない女性も増えたし、結婚しても働き続ける女性も増えた。しかし、「愛」にまつわる右のような状況を否定できる人がどのくらいいるだろうか。
そう、「愛」はおそろしいのである。ぼーっとしてると、絡めとられるぞっ。
この種のストレートな言説は、そういえば近年、減った気がする。過激すぎると読者が引く、敵が増える。フェミニストもフェミニズム本も、なにかと「忖度」しながら世間とつきあってきたせいかしらね。けれど田嶋陽子は空気を読まない。だからこそ、それは読者の心にダイレクトに響く。若いときに(若くなくても)この本を読んだかどうかで人生は変わる。目の前の霧が晴れるような感覚をあなたは味わうだろう。」
(明日へ続きます……)
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