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ハワード・ホークス監督『大自然の凱歌』その1

2019-11-29 05:25:00 | ノンジャンル
 先日、渋谷のシネマヴェーラで、ハワード・ホークス監督の1936年作品『大自然の凱歌』を観ました。こちらでは山田宏一さんの本「ハワード・ホークス映画読本」に掲載された「やさしく愛して━━『大自然の凱歌』」という文章を転載させていただくと、

 生まれる前から見たかった映画なのである。そして、五十年以上も待って、やっと見られることになった━━それも、映画館のスクリーンではなく、ビデオ用の小さな受像機で、東芝EMIから出た「サミュエル・ゴールドウィン」シリーズの一本だったのである。
 もちろん、それでも、待った甲斐があったのである。
 1936年のモノクロ作品。監督はハワード・ホークスとウィリアム・ワイラーの共同になっている。ホークスが撮りはじめたが、途中でプロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンと意見が衝突して監督を降ろされ、ワイラーがその後を受け継いだ。
 戦前から戦後にかけて『ショウボート』『シマロン』『サラトガ本線』『ジャイアンツ』などの原作者として知られるアメリカの女流作家、エドナ・ファーバーの小説(「Come and get it」━━邦訳はあるのだろうか?)の映画化で、ハワード・ホークスがこの原作に興味を持ったのは、彼自身の祖父をモデルにした物語だったからだという。
 材木の切出し人夫たちの飯場(キャンプ)の監督から製材所の社長の娘婿になり、材木王として億万長者に成り上がっていく男の野望の物語だが、最初のシナリオでは飯場でウェートレスとして働く小児麻痺で足の悪い娘に二人の男が同情する、あるいは歌が下手で男たちに野次られっぱなしの哀れな酒場女に集まったあらくれ男どもをたちまち静かにさせてしまう圧倒的な魅力と歌声を持つ女が二人の男に愛される物語、見てくれはあばずれだが、じつは心意気の女であるという、『脱出』(1944)、『三つ数えろ』(1946)のローレン・バコールや『リオ・ブラボー』(1959)のアンジー・ディキンソンにつらなるホークス的美女の典型をヒロインとする話に書き替えてしまった。そのためにプロデューサーの怒りを買い、結局、監督を交替させられる、というような事情は、じつは映画を見れば一目瞭然なのである。
 前半がホークス篇、後半がワイラー篇になるのだが、ホークスのハードボイルド・タッチにワイラーの文芸メロドラマ調と、演出の調子があまりにも異なるので、まるで二本立てを見たような気になる。前半のホークス篇が1884年の物語、そして深い、深いフェイド・アウトとともに、それから二十三年後の物語が後半のワイラー篇になる。一時間四十分足らずの映画にもかかわらず、『人生劇場』さながらの大河ドラマ的な物語でもあるから、前半を野望に生きる主人公(エドワード・アーノルド)の青春篇、後半をその残侠篇と見ることもできるだろう。後半のいかにもウィリアム・ワイラー調のメロドラマ(1939年の名作『嵐ヶ丘』がウィリアム・ワイラー監督作品だ)もなかなか見ごたえがあり、とくにフランシス・ファーマーが母と娘の二役を演じ、かつて母が酒場で歌った歌を娘が同じように美しい声で歌うところなど、フランスのアベル・ガンス監督のメロドラマの傑作『失われた楽園』(1939)を想起させる感動的なシーンになっているのだが、前半のホークス・タッチの息を呑むすばらしさのあとでは後半のゆるやかなドラマが少々色あせて見える。とはいえ、フランシス・ファーマーとう映画史から消えてしまった、あるいはむしろ消されてしまった、幻の女優を、それも彼女の二役を、二重のイメージを、見るだけでも、胸がつまる思いだ。1982年にジェシカ・ラング主演で映画化された『女優フランシス』(グレーム・クリフォード監督)という彼女の伝記映画にはもちろん、ケネス・アンガーの血なまぐさい名著「ハリウッド・バビロン」にも、その不幸な生涯がスキャンダラスに語られていることは周知のとおりだが、この「美しく繊細で、きわめて刺激的な女優」の最も幸福なイメージを、「新しいガルボ」とそのクールな美貌がうたわれ、1936年のハリウッドの「最も衝撃的な発見」とまでいわれたときのフランシス・ファーマーを、見ることができるだけでもすばらしく、その意味では彼女をヒロインにした二本の連作と見ることもできよう。。
 まず、クレジットタイトルとともに流れる主題曲のなかに、かつて聴きなれた懐かしいメロディーがあって、おやっと首をかしげながらも心なごむ。間違いなく、エルヴィス・プレスリーが1956年に映画初出演したロバート・ウェッブ監督の西部劇、『やさしく歌って』の主題歌と同じメロディーだ。(中略)それから四年後の1960年にプレスリーが白人とインディアンの混血児を感動的に好演したドン・シーゲル監督の鮮烈な西部劇、『燃える平原児』のイメージがなぜか救いのようにそこにダブって、忘れがたいのである。

(明日へ続きます……)

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