また昨日の続きです。
(中略)
フランクは硬い笑みを浮かべた。「じつは、きみが興味を持ちそうな話があるんだ」
あたしは彼の声に耳を傾けた。
「ある本に関わる件で」
東 1950年~1955年
第五章 ミューズ 矯正収容された女
アナトリ・セルゲイエヴィッチ・セミョーノフさま
(中略)
あなたは言いました。きみは夜ごとの会話ですべてを語ってはいないし、そもそもきみの「話」は穴だらけだと。(中略)人の心はけっして一部始終をありのままに記憶することができないのです。とはいえ、やるだけやってみましょう。
わたしにあるのは、この削った鉛筆一本だけです。これはわたしの親指よりも短く、わたしは両手首にすでに痛みを感じています。とはいえ、この鉛筆がすり減って塵(ちり)になるまで書くつもりです。
でもどこから始めればいい?(中略)
モスクワを出たあと、わたしたちはまず、女性看守たちが運営する一時収容所に着きました。(中略)
到着後、数日経つと、彼らが夜にやってきて、監房142号を空っぽにしました。わたしたちは列車に乗せられ、(中略)唯一の停車駅はポチマだと告げられました。(中略)
わたしたちはだれも踏みしめていない雪の上を進み、列車の線路をたどりましたが、やがて線路はなくなり、いちめんの白のなかに消えました。(中略)
あれは『ドクトル・ジバゴ』そのものの光景でした。(中略)
最初に、いくつもの監視塔━━そのひとつひとつのてっぺんに、くすんだ赤い星がついていました━━が、はるか彼方の高い松の木々の上から姿をのぞかせました。(中略)
到着したのです。(中略)
看守たちは列を三つに分け、わたしは自分の列について十一号棟へ行きました。アナトリ、わたしはそれから三年間をそこで暮らすことになるのです。靴をなくさないように足を引きずりながら。
(中略)わたしの信仰の対象は、ひとりの男性でした。詩人で、単なる人間の、わたしのボーリャです。そして、アパートから連行されて以来、ボーリャと連絡を取れなくなっていたわたしには、彼の生死さえわかりませんでした。
(中略)
(収容所長官は)何も言わずに机の引き出しをあけ、わたしに包みを渡しました。
「おまえさんにだ。この部屋から持ち出すことはできん。ここで読むしかない」(中略)
「なんですか?」
「たいしたものじゃない」
包みのなかには、十二枚の手紙と小さな緑色のメモ帳が入っていました。(中略)見えたのは、その手書き文字━━彼の手書き文字。(中略)ボーリャは生きていたのです。(中略)いまもわたしが生きている証拠を見せろとボーリャが要求したため、わたしがその夜に手紙を読んだあとで署名した紙が、数か月も経ってから彼に送られたと知ったのは、ずっとあとになってからだったのです。(中略)
親愛なるアナトリ、スターリンが死ぬ前の晩を覚えていますか?(中略)
翌朝、夜明け前だというのに、収容所の拡声器から音楽が鳴り響きました。(中略)だれひとり、死んだのはだれかと尋ねませんでした。わかっていたのです。(中略)
赤い皇帝の崩御後まもなく、わたしの五年の刑期は三年に短縮されました。(中略)
アナトリ、矯正収容所を終えたわたしはモスクワ行きの列車に乗りました。(中略)
それは四月で、モスクワは春を目前にしていました。(中略)列車は到着していました。わたしは恐る恐る線路を見通しました。彼が待っていると言っていたからです。
第六章 雲に住む者
(中略)
オリガの声を聞いてから三年。彼女に触れてから三年。国立出版所編集部(ゴスリツイダット)前の公園のベンチが、最後だった。(中略)「黒い背広の男たちが」と母親は言った。「ふたり……いえ、三人……あの子の手紙を全部、本も……黒い車で」(中略)
「子どもたちはどこに?」ボリスは尋ねた。(中略)
「ふたりはここに? ふたりとも無事なのかい?」
オリガの母親が返事をしなかったので、ボリスは子ども部屋へ行き、閉じたドアの向こう側でミーチャとイーラが静かに泣いているのを聞いて、安心するとともに同時に胸が張り裂けそうになった。(中略)
列車が到着したら、オリガは四日がかりの旅を終える。ポチマから行進し、それから列車に乗り、別の列車に乗り換えてモスクワに帰ってくるのだ。(中略)
ボリスは書き物机に向かう。(中略)
階下の時計が八時を告げる。くぐもった音が聞こえる。オリガの列車が到着するまであと三時間だが、ボリスはまだ一語も書いていない。(中略)
角を曲がったイーラは、ベンチに座っているボリスを見つけて手を振り、大きな笑みを浮かべた。(中略)
いま、イーラは十五歳の若い娘で、母親の絹のスカーフを肩にかけていた。ボリスは彼女の美しさに目を奪われ、〈新世界〉編集部で初めてオリガを見たときと似た欲望のうずきを感じる自分を恥じた。(中略)
(続きはあさってにアップします……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
→FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)
(中略)
フランクは硬い笑みを浮かべた。「じつは、きみが興味を持ちそうな話があるんだ」
あたしは彼の声に耳を傾けた。
「ある本に関わる件で」
東 1950年~1955年
第五章 ミューズ 矯正収容された女
アナトリ・セルゲイエヴィッチ・セミョーノフさま
(中略)
あなたは言いました。きみは夜ごとの会話ですべてを語ってはいないし、そもそもきみの「話」は穴だらけだと。(中略)人の心はけっして一部始終をありのままに記憶することができないのです。とはいえ、やるだけやってみましょう。
わたしにあるのは、この削った鉛筆一本だけです。これはわたしの親指よりも短く、わたしは両手首にすでに痛みを感じています。とはいえ、この鉛筆がすり減って塵(ちり)になるまで書くつもりです。
でもどこから始めればいい?(中略)
モスクワを出たあと、わたしたちはまず、女性看守たちが運営する一時収容所に着きました。(中略)
到着後、数日経つと、彼らが夜にやってきて、監房142号を空っぽにしました。わたしたちは列車に乗せられ、(中略)唯一の停車駅はポチマだと告げられました。(中略)
わたしたちはだれも踏みしめていない雪の上を進み、列車の線路をたどりましたが、やがて線路はなくなり、いちめんの白のなかに消えました。(中略)
あれは『ドクトル・ジバゴ』そのものの光景でした。(中略)
最初に、いくつもの監視塔━━そのひとつひとつのてっぺんに、くすんだ赤い星がついていました━━が、はるか彼方の高い松の木々の上から姿をのぞかせました。(中略)
到着したのです。(中略)
看守たちは列を三つに分け、わたしは自分の列について十一号棟へ行きました。アナトリ、わたしはそれから三年間をそこで暮らすことになるのです。靴をなくさないように足を引きずりながら。
(中略)わたしの信仰の対象は、ひとりの男性でした。詩人で、単なる人間の、わたしのボーリャです。そして、アパートから連行されて以来、ボーリャと連絡を取れなくなっていたわたしには、彼の生死さえわかりませんでした。
(中略)
(収容所長官は)何も言わずに机の引き出しをあけ、わたしに包みを渡しました。
「おまえさんにだ。この部屋から持ち出すことはできん。ここで読むしかない」(中略)
「なんですか?」
「たいしたものじゃない」
包みのなかには、十二枚の手紙と小さな緑色のメモ帳が入っていました。(中略)見えたのは、その手書き文字━━彼の手書き文字。(中略)ボーリャは生きていたのです。(中略)いまもわたしが生きている証拠を見せろとボーリャが要求したため、わたしがその夜に手紙を読んだあとで署名した紙が、数か月も経ってから彼に送られたと知ったのは、ずっとあとになってからだったのです。(中略)
親愛なるアナトリ、スターリンが死ぬ前の晩を覚えていますか?(中略)
翌朝、夜明け前だというのに、収容所の拡声器から音楽が鳴り響きました。(中略)だれひとり、死んだのはだれかと尋ねませんでした。わかっていたのです。(中略)
赤い皇帝の崩御後まもなく、わたしの五年の刑期は三年に短縮されました。(中略)
アナトリ、矯正収容所を終えたわたしはモスクワ行きの列車に乗りました。(中略)
それは四月で、モスクワは春を目前にしていました。(中略)列車は到着していました。わたしは恐る恐る線路を見通しました。彼が待っていると言っていたからです。
第六章 雲に住む者
(中略)
オリガの声を聞いてから三年。彼女に触れてから三年。国立出版所編集部(ゴスリツイダット)前の公園のベンチが、最後だった。(中略)「黒い背広の男たちが」と母親は言った。「ふたり……いえ、三人……あの子の手紙を全部、本も……黒い車で」(中略)
「子どもたちはどこに?」ボリスは尋ねた。(中略)
「ふたりはここに? ふたりとも無事なのかい?」
オリガの母親が返事をしなかったので、ボリスは子ども部屋へ行き、閉じたドアの向こう側でミーチャとイーラが静かに泣いているのを聞いて、安心するとともに同時に胸が張り裂けそうになった。(中略)
列車が到着したら、オリガは四日がかりの旅を終える。ポチマから行進し、それから列車に乗り、別の列車に乗り換えてモスクワに帰ってくるのだ。(中略)
ボリスは書き物机に向かう。(中略)
階下の時計が八時を告げる。くぐもった音が聞こえる。オリガの列車が到着するまであと三時間だが、ボリスはまだ一語も書いていない。(中略)
角を曲がったイーラは、ベンチに座っているボリスを見つけて手を振り、大きな笑みを浮かべた。(中略)
いま、イーラは十五歳の若い娘で、母親の絹のスカーフを肩にかけていた。ボリスは彼女の美しさに目を奪われ、〈新世界〉編集部で初めてオリガを見たときと似た欲望のうずきを感じる自分を恥じた。(中略)
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