また昨日の続きです。
(中略)
わたしたちはイリーナが呼ばれてアンダーソンのオフィスにいることを知っていた。(中略)
その週、イリーナはもうオフィスには現われず、わたしたちが彼女に事情を聞くチャンスは訪れなかった。(中略)
次の月曜日は、テディもオフィスに姿を見せなかった。その週の残りの日も、ずっと出勤しなかった。(中略)
その週、出勤してこなかったあいだにテディが何をしていたか、わたしたちは知るすべはなかったけれど、オフィスにやってきた日、カフェテリアでグリルドチキンステーキと即席マッシュポテトの昼食の列に並ぶヘンリー・レネットに、テディが背後から歩み寄ったことは知っている。
テディに肩を叩かれ、ヘンリーは振り向こうとした。そのとたん、テディはひと言も発することなく友人の顔めがけてパンチをお見舞いしたのだ。ヘンリーは一瞬よろめき、その場に倒れた。(中略)
(中略)
そして、その翌日、テディは指の関節に絆創膏二枚を貼ってオフィスにやってきたが、ヘンリーが姿を見せることはなかった。(中略)
二週間後、ジュディはカーディガンのポケットに手を入れ、ティッシュペーパーが入っているとばかり思っていたのに、ヘンリーの歯を見つけてぎょっとした。
三週間後、わたしたちはテディとイリーナのために購入していた結婚祝いを返品した。(中略)
一か月後、アンダーソンが新しいタイピストを連れてきたとき、わたしたちはイリーナがもう戻ってこないことを知った。
第二十一章 応募者 運び屋 修道女
(中略)
それこそわたしの求めたもので、それがいまここにある。任務と、片道切符のほかに、なんの経歴もない別人になる機会が。だから、わたしはそれを我がものとした。傷心からも解放されるだろう━━心は軽くなり、傷つける者も傷つけられる者もいない。少なくとも、わたしはそう自分に言い聞かせたのだった。(中略)
母の葬儀のあと、わたしはひとりになりたくなかった。だから、テディがうちに泊まってソファで寝てくれた。(中略)
翌日、嵐の影響でワシントンDCの半分が停電した。テディの車でオフィスに向かうあいだ、わたしたちは何も話さず、ラジオもつけなかった。(中略)その翌日、わたしはアンダーソンのオフィスに呼ばれ、サリーとの関係について問いただされた。サリーが解雇されたことを知らされたうえで、彼女との関係を疑問視されていることを告げられたわたしは、別人に説得力たっぷりにそれを否定し、きみを信じるよとアンダーソンに言わせた。そもそも、別人になる方法や実際の自分を偽るやり方をわたしに教えてくれたのは、彼らだ。(中略)もう引き返すことはできない。任務はすでに始まっていた。
わたしはスカーフで髪をおおい、待ち合わせ場所へ向かった。ブリュッセルは賑わっており、夜空には半円の月が浮かんでいる。通りは世界中から博覧会を見にきた人々であふれ返っていた。(中略)
やがて、イクセル池からちょっと行ったところにあるランフレ通り沿いの、管理者(ハンドラー)から指示された場所に着いた。立派なアールヌーヴォー建築の前に立ち、五階建ての凝った象眼模様の木材と、その前面をツタのようにはいのぼるミントグリーンの鉄に息を呑んだ。(中略)ダヴィト神父として知られている男のほうが、作戦のリーダーたる諜報員だ。女のほうはイヴァンナと言い━━彼女の本名だ━━その父親は亡命したロシア正教の神学者にして、宗教関連書を扱うベルギーの出版社を経営してもいる。イヴァンナは、ソ連で禁書になっている宗教関連書を密輸する地下組織〈神との生活〉の設立者でもあった。(中略)
彼らの前の光沢のある黒いコーヒーテーブルには、1958年万国博覧会の精密模型があった。(中略)
博覧会をプロパガンダの手段に利用するというのはイヴァンナの思いつきだが、それを採用してCIAの作戦としたのはダヴィト神父だった。(中略)(ダヴィト神父は模型を使って作戦の説明をした後)「それともうひとつ。これより我々は『ドクトル・ジバゴ』を聖書とのみ呼ぶ」(中略)「何か質問は?」だれも口を開かなかったので、彼はもう一度、最初から最後まで計画を説明した。そのあと、さらにもう一度、説明を繰り返した。(中略)
翌朝、わたしは詰め物をしたブラジャーとショーツを注意深く身につけ、だぼっとした黒い修道服を着ると、ひたいを縁取る硬い白頭巾の上から黒のヴェールをかぶった。(中略)
「うまくいったわね」彼らが立ち去ると、わたしは言った。
「もちろんだよ」ダヴィト神父は落ち着いた声で応じた。
その後、わたしたちのターゲットは次々にやってきた。(中略)
(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
→ブログ「今日の出来事」(https://green.ap.teacup.com/m-goto/)
(中略)
わたしたちはイリーナが呼ばれてアンダーソンのオフィスにいることを知っていた。(中略)
その週、イリーナはもうオフィスには現われず、わたしたちが彼女に事情を聞くチャンスは訪れなかった。(中略)
次の月曜日は、テディもオフィスに姿を見せなかった。その週の残りの日も、ずっと出勤しなかった。(中略)
その週、出勤してこなかったあいだにテディが何をしていたか、わたしたちは知るすべはなかったけれど、オフィスにやってきた日、カフェテリアでグリルドチキンステーキと即席マッシュポテトの昼食の列に並ぶヘンリー・レネットに、テディが背後から歩み寄ったことは知っている。
テディに肩を叩かれ、ヘンリーは振り向こうとした。そのとたん、テディはひと言も発することなく友人の顔めがけてパンチをお見舞いしたのだ。ヘンリーは一瞬よろめき、その場に倒れた。(中略)
(中略)
そして、その翌日、テディは指の関節に絆創膏二枚を貼ってオフィスにやってきたが、ヘンリーが姿を見せることはなかった。(中略)
二週間後、ジュディはカーディガンのポケットに手を入れ、ティッシュペーパーが入っているとばかり思っていたのに、ヘンリーの歯を見つけてぎょっとした。
三週間後、わたしたちはテディとイリーナのために購入していた結婚祝いを返品した。(中略)
一か月後、アンダーソンが新しいタイピストを連れてきたとき、わたしたちはイリーナがもう戻ってこないことを知った。
第二十一章 応募者 運び屋 修道女
(中略)
それこそわたしの求めたもので、それがいまここにある。任務と、片道切符のほかに、なんの経歴もない別人になる機会が。だから、わたしはそれを我がものとした。傷心からも解放されるだろう━━心は軽くなり、傷つける者も傷つけられる者もいない。少なくとも、わたしはそう自分に言い聞かせたのだった。(中略)
母の葬儀のあと、わたしはひとりになりたくなかった。だから、テディがうちに泊まってソファで寝てくれた。(中略)
翌日、嵐の影響でワシントンDCの半分が停電した。テディの車でオフィスに向かうあいだ、わたしたちは何も話さず、ラジオもつけなかった。(中略)その翌日、わたしはアンダーソンのオフィスに呼ばれ、サリーとの関係について問いただされた。サリーが解雇されたことを知らされたうえで、彼女との関係を疑問視されていることを告げられたわたしは、別人に説得力たっぷりにそれを否定し、きみを信じるよとアンダーソンに言わせた。そもそも、別人になる方法や実際の自分を偽るやり方をわたしに教えてくれたのは、彼らだ。(中略)もう引き返すことはできない。任務はすでに始まっていた。
わたしはスカーフで髪をおおい、待ち合わせ場所へ向かった。ブリュッセルは賑わっており、夜空には半円の月が浮かんでいる。通りは世界中から博覧会を見にきた人々であふれ返っていた。(中略)
やがて、イクセル池からちょっと行ったところにあるランフレ通り沿いの、管理者(ハンドラー)から指示された場所に着いた。立派なアールヌーヴォー建築の前に立ち、五階建ての凝った象眼模様の木材と、その前面をツタのようにはいのぼるミントグリーンの鉄に息を呑んだ。(中略)ダヴィト神父として知られている男のほうが、作戦のリーダーたる諜報員だ。女のほうはイヴァンナと言い━━彼女の本名だ━━その父親は亡命したロシア正教の神学者にして、宗教関連書を扱うベルギーの出版社を経営してもいる。イヴァンナは、ソ連で禁書になっている宗教関連書を密輸する地下組織〈神との生活〉の設立者でもあった。(中略)
彼らの前の光沢のある黒いコーヒーテーブルには、1958年万国博覧会の精密模型があった。(中略)
博覧会をプロパガンダの手段に利用するというのはイヴァンナの思いつきだが、それを採用してCIAの作戦としたのはダヴィト神父だった。(中略)(ダヴィト神父は模型を使って作戦の説明をした後)「それともうひとつ。これより我々は『ドクトル・ジバゴ』を聖書とのみ呼ぶ」(中略)「何か質問は?」だれも口を開かなかったので、彼はもう一度、最初から最後まで計画を説明した。そのあと、さらにもう一度、説明を繰り返した。(中略)
翌朝、わたしは詰め物をしたブラジャーとショーツを注意深く身につけ、だぼっとした黒い修道服を着ると、ひたいを縁取る硬い白頭巾の上から黒のヴェールをかぶった。(中略)
「うまくいったわね」彼らが立ち去ると、わたしは言った。
「もちろんだよ」ダヴィト神父は落ち着いた声で応じた。
その後、わたしたちのターゲットは次々にやってきた。(中略)
(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
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