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日本語版新聞紹介

幸徳が1910年6月に「大逆事件」で逮捕され処刑されたことで、彼の漢詩ハガキが印刷されることはなかったが、米国の同胞新聞が写真ハガキのイメージを掲載したことで世界に初めて知られることになったのだ。

2021-02-13 | 3・1独立運動の伝統を受け継いで

やつれた安重根の写真は

果たして彼を貶めるための日帝による演出だったのか

登録:2021-02-11 03:39 修正:2021-02-12 08:38
 
[ノ・ヒョンソクの時事文化財] 
安重根義士を有名にした「断指」写した写真 
一部は「安重根義士を貶めるために演出」主張 
ト・ジンスン教授「民衆が感銘受けて記念用に購入」と反論 
14日、安重根の死刑判決から111年目
 
1909年11月、日帝当局が初めて公開した安重根の写真をもとに、日本人の業者が制作した写真ハガキ。鎖に縛られ、ひざまずいた姿。韓国内の学界の一部の研究者は、この写真ハガキが安重根を貶めるために作られたものだと主張してきた//ハンギョレ新聞社

 朝鮮侵略の元凶である伊藤博文を射殺した義士・安重根(アン・ジュングン、1879~1910)が独立の志士の中で最も有名な人物として一般に刻印されたのは、写真媒体の力が大きかった。1909年10月の壮挙から一月も経たないうちに、その容姿を写した写真が新聞とハガキで大量に流布され、大衆がこれを熱烈に購入するという前例のない現象が起きた。あっという間に韓国と日本全域に彼の顔が知れわたった。

 後代の韓国人には、彼は10種以上の多様な写真イメージとして記憶されている。薬指を第一関節から切った「断指」の痕が見える左手をコートの上にのせた姿や、白い韓服を着た死刑執行日の姿などは、愛国烈士の代表的なイメージとなった。日露戦争前後に日本で流行した写真媒体の伝播力のおかげだった。諸業者は各地に代理店を作り、写真を簡便な大きさのハガキ形式に印刷して迅速に流通させた。では、写真を撮ってハガキとして配布した日帝の意図はどこにあったのだろうか。

 
1909年11月28日付の「大阪毎日新聞」に掲載された安重根の写真をもとに制作された写真ハガキ。薬指の切られた左手を胸にあてたポーズが際立つこのハガキは、日本が安重根を貶めるために作ったという批判を受けた//ハンギョレ新聞社

 最近になって、歴史学者で昌原大学教授のト・ジンスンさんが、この議論に火をつけた。昨年末、歴史学会の機関紙「歴史学報」248号に「安重根写真ハガキと国際連帯:蔑視と称賛、そして専用・専有」と題する論文を発表したのだ。地上波で放送された安重根に関する複数のドキュメンタリーに向けたものだった。これらの番組は、日帝強占期に大量普及した写真ハガキが、安重根を蔑視するために意図的に生産されたと批判していた。

 2014年の8・15特集ドキュメンタリー「安重根105年、終わらない戦争」(文化放送)は、日本が配布した2枚の写真ハガキについて、安重根が鎖で縛られてひざまずかされ、やつれた姿で演出されていると主張した。日本のアナキストである幸徳秋水(1871~1911)がハガキに安重根を賛美する漢詩を追加した新たな版を製作し、既存のハガキの蔑視の試みを挫折させたという結論を下してもいた。ト教授はこれに対し「国粋的民族主義による誇張・歪曲」と反論する。写真の原本は安重根の身元を把握するための捜査資料だが、一般に流布することで、性格が記念物へと変わったという主張だ。

 
日本のアナキズム思想家、幸徳秋水が持っていた安重根義士の写真ハガキ見本。大阪毎日新聞の写真を使用した既存のハガキの説明を英訳し、写真には安重根を称える自身の漢詩を書き入れた。「命を捨てて義を取り、身を殺して仁を成した…」とある//ハンギョレ新聞社

 当時、新聞に安重根の写真が初めて登場したのは、義挙から半月後の1909年11月9~10日ごろだった。安義士が中国の旅順に身柄を送られ、尋問を受ける直前だ。犯人の本名は安重根だという事実と共に、2種類の写真が日本と韓国の新聞に掲載された。鎖に縛られ、足枷がはめられたまま戸の前に立つ安義士の全身写真とひざまずいた写真だった。

 「京城新報」は同年11月10日付で「凶漢アン・ウンチル(安重根)の写真」との見出しを付けて写真の来歴を記述している。警視庁をはじめとする各道の警察署に関係者の検挙のために配布されたというのだ。捜査用の写真を報道用として出したわけだが、業者がハガキの素材として用いたことで、朝鮮民衆の関心と崇拝が加速した。国内学界の一部は、鎖につながれた安重根の姿が写ったハガキは蔑視を意図したものだったと断定しているが、実際の流通と購入の様相は違っていた。写真の中の安重根の目つきと風貌に感銘を受けた大衆が、先を争ってハガキを購入したことから、困惑した当局が販売を厳禁にしたという記事が無数に残っている。

 1909年11月28日付の「大阪毎日新聞」が安義士の写真を用いて作ったハガキも同様だ。薬指が切断された左手を胸に当てた姿勢が際立つこのハガキは、2015年に大韓民国歴史博物館で開かれた「光復70周年記念特別展:響き、安重根に出会う」でも「犯罪者としての安重根を浮き彫りにしようとの意図から発行された写真ハガキ」と紹介された。このハガキには「伊藤公を暗殺せし安重根」というタイトルの下に「韓人は古来より暗殺の盟約として無名指を切断するの旧習ある右手(写真ママ。左の誤り)を撮影せしものなり」という説明がついている。日本では暗殺も復讐の一つとして正当化したり賞賛したりするケースがあるため、この文言を蔑視を意図したものと断定するには根拠が貧弱に思える。

 
サンフランシスコの韓人社会の新聞「新韓民報」1910年3月30日付掲載の安重根の写真ハガキ。幸徳が英文の説明をつけてもらうために送った見本を載せ、「万苦義士安重根公」と記されている。安重根の義挙に触発された韓日知識人のアジア平和運動の連帯を示す貴重な史料//ハンギョレ新聞社

 このハガキは20世紀初め、日本のアナキストである幸徳秋水が、安重根を称える漢詩を付けることで脚色された。米国の同志に送られ、英語の解説もつけられた。この過程で、韓人団体国民会議北米地域総会の機関紙「新韓民報」がハガキを入手し、安重根の殉国直後の1910年3月30日に追悼論説とともに紹介したという。

 幸徳が1910年6月に「大逆事件」で逮捕され処刑されたことで、彼の漢詩ハガキが印刷されることはなかったが、米国の同胞新聞が写真ハガキのイメージを掲載したことで世界に初めて知られることになったのだ。ト教授は「安重根の写真ハガキが米国に渡り、知識人の平和連帯を触発して伝播したのは、安重根の壮挙の世界的意味を示すエピソード」とし「閉ざされた民族主義に寄りかかってハガキを蔑視の産物としてのみ見るのは穏当ではない」と述べた。ちょうど旧正月連休の最終日の14日は、安重根が111年前に死刑を言い渡された日だ。

ノ・ヒョンソク記者、図版/ト・ジンスン教授提供 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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1月2日、北京の街は通りの両側に赤い提灯が飾られ、おめでたい祝日ムードにあふれていた。しかし今年の春節(旧正月、今年は2月12日)に、・・・

2021-02-13 | 中国をしらなければ世界はわからない

春節を守り支える白衣の天使の12時間

人民網日本語版 2021年02月11日16:50
 

1月2日、北京の街は通りの両側に赤い提灯が飾られ、おめでたい祝日ムードにあふれていた。しかし今年の春節(旧正月、今年は2月12日)に、王利華さん(39)は仕事が忙しくて実家に帰ることができない。春節に帰省できないのは今年でもう6年目だ。

王さんは北京市豊台区の衛生サービスセンターで働く看護師で、主にPCR検査を担当している。

7:20-7:50 検査前の準備作業

仕事は朝8時に始まるが、王さんは早めに事務所に来て、設備の検査・テストやPCR検査の対象者の情報を確認する。

8:00 検査対象に通知

王さんはこの日の朝、隔離されている3人の自宅を訪問して検査することになっていた。「私たちの仕事の1つは、みなさんが新型コロナウイルス感染症対策を正しく認識するようサポートし、誤解やパニックが起こらないようにすること、またネット上のデマをうのみにしないようにすることだ」と王さん。

8:20-8:50 自宅訪問前の設備チェックと準備作業

王さんの19年の仕事人生で、新型コロナの発生がこれまでに遭遇した最大の挑戦だという。2020年の2月から7月まで、王さんは北京の集中隔離スポットで働き、40日以上家に帰れなかったこともある。「あの頃は新型コロナウイルスの検査、現場の消毒、物資の配達のほか、隔離された人の心のケアも行っていた。多くの人は隔離期間が長いため、怒りっぽく切れやすくなっていた」という。

規定によると、自宅訪問検査は少なくとも2人の医療従事者で行わなければならない。王さんとペアを組んでいるのは働き始めて1年足らずの26歳の医師だ。王さんは今、感染症との戦いの第一線で得た貴重な経験を若い同僚たちと共有し、彼らが早く一人前になるようサポートしている。

9:00-9:20 隔離された人の家に向かう

隔離された人の家へ向かう途中、王さんの心は遠く離れた湖北省黄岡市にある実家へと飛んでいく。

2020年に感染症が発生し始めた頃、王さんは高齢の両親のことが非常に心配になったが、看護師としての仕事に対する責任感から持ち場を離れないことを決意した。

武漢の「都市封鎖」は逆に王さんの揺れ動いていた心を安心させた。王さんは、「都市封鎖は感染経路を効果的に遮断できる非常に科学的な方法だ。政府は効率の高い措置を打ち出し、人々は心を一つにして協力し、医療従事者は無私の貢献をしている。私は感染状況は最終的には好転すると固く信じている」と述べた。

9:25-9:35 自宅訪問検査前の準備作業

自宅訪問検査の前に、冬の防寒着を脱いで、通気性のない医療用防護服に着替えなければならない。

「仕事は大変だが、周りの皆さんが気にかけて励ましてくれるので、なんとか持ちこたえている」と王さん。

9:40 自宅訪問検査

この日最初の検査対象者は高齢の男性だった。電話でPCR検査に対する疑問や恐れの気持ちを述べていた男性を、王さんは時間をかけて慰めた。

王さんは、「私の検査対象者は高齢者が大部分を占め、いつも私に両親を思い出させる。私は彼らの心情を理解できるし、専門的な知識によって恐怖心を克服できるようお手伝いしたいと思っている。私たちは単に医療従事者であるだけでなく、親の子でもある」と述べた。

王さんは普段、隔離された人がいる家3-7軒を朝から訪問して検査を行う。医療用防護服は着脱が大変なため、朝に水を1杯飲むだけにして、トイレに行く回数を減らしている。

1:00 自宅訪問検査、消毒が終わり、検体を実験室に送る

仕事開始から4時間後、午前中の個別訪問による検体採取が終わり、王さん2人は検体を何度も消毒した。医療用防護服を脱ぐと、汗が固まって氷の粒のようになり、両手は寒風の中で凍えて真っ赤になった。

1:40 ランチタイム

ランチタイムは王さんが1日の中で一番好きな時間だ。今日のおしゃべりの話題はそれぞれの家族のことだった。王さんは同僚に自分の13歳になる息子のことを話した。「うちの息子は私が仕事が忙しいことがわかっていて、幼い頃から自立心が旺盛で、小さい頃から私に朝ご飯を作り、私の生活の面倒を見てくれている」と王さん。

14:20 午後の自宅訪問検査

1時間の昼休みが終わると、王さん2人は午後の自宅訪問検査をスタートした。仕事の腕が確かで、優しく親切な王さんは、患者たちにとても人気がある。

16:50 自宅訪問検査が終わり、実家に電話

午後の仕事が終わると、王さんは時間を見つけて両親に電話し、春節に帰省しないことを話すと決めた。

これまでの10数年間、春節に帰省しないのは当たり前のことになっていた。しかし感染症の期間中に、王さんの両親は何度も娘に帰るように言ってきた。

「お母さん、今年の春節は帰らないことにした。感染症の期間中は移動しない方がいいし、北京での仕事は私を必要としているから」。不安な気持ちで母親にこう伝えた。

意外なことに、母親は娘が帰らないことをずっと前から予想していたようで、「私たちのことは心配しなくていい。あなたの好きな食べ物をたくさん準備して待っているから、帰って来たら作って食べさせてあげる」と王さんに話した。

17:20 集中PCR検査

仕事は午後5時に終わるはずだが、感染症の期間中にはほぼ毎日残業しなければならない状況だ。病院が組織した集中PCR検査は、主にコールドチェーン物流、外食産業などで大勢の人と頻繁に接触する人々を対象に行われている。

集中検査は一般的に5時にスタートし、5-6時間続くこともある。王さんも午後11時過ぎまで働いたことが何度もあり、家に帰ると全身くたくただったという。

18:20 集中検査が終わり、検体を消毒

午後6時30分、王さんたちは1日の検体採取作業を完了した。医療用防護服を脱ぐと、ほおにはマスクの跡がくっきり残り、頭は汗びっしょりで髪の毛が額に張り付いていた。

「今日の午後は検査対象者が少なかったので。仕事を終えれば早めに家に帰れて、温かいご飯が食べられる」と王さんは言う。

19:00 帰宅

12時間に及ぶハードな仕事を終えて、王さんはやっと帰宅することができた。

北京の街角は飾り提灯がともされ、いつもの春節のように賑わっていた。王さんは事務所を出て、人混みの中に紛れ込んだ。人々はまもなく訪れる春節を楽しそうに語りながら、すぐ側に春節を守り支える偉大な女性のヒーローがいることには気づいていない。(編集KS)

「人民網日本語版」2021年2月11日

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