山形県と宮城県の境にある関山トンネルのすぐの宮城県側に登山口がある。この山行は、全山の紅葉と眺望の美しさが印象のすべてである。標高1117m、奥羽山脈の一端を占めるこの山は、まさに秋から冬の装いに移行しようとする瞬間であった。眼下に国道48号線のカーブが山間を縫っているのが見える。
心配した天気は登るにつれて晴れ間が出る。日ざしに全山の紅葉が輝いている。面白山や大東岳、眼前には後白髭山、船形山の山容が迫ってくる。雲がなければ蔵王連峰や月山の眺望も得られる筈だ。いづれにしても、この一瞬にしか出会うことのできない山の景色だ。尾根すじにくると、風の通り道になっているのか強い風が通り抜ける。
遠くの名も知らぬ三角の山は、木々が葉を落として、静かな眠りにつこうとしている。寒風山をネットで事前調査してみたが、どれも感動的な報告はない。むしろ、登ってみて後悔したような記述が目をひいた。ところが、この紅葉の季節最後の山行は、これらを覆すに十分な展望であった。
しっかりと刈り払いのしてある山道は、落葉の絨毯を敷き詰めて歩きよい。この登山道には、995mのコブとアオの背の二つのピークがあり、その起伏を越して頂上の着く。もう15年も前の雪のある時期に登って以来の登頂であるので、初めて登る山となんら変わりはない。ただ紅葉の輝きに目を奪われカメラのシャッターを押す。なんとか見た印象を留めたものが数枚あった。
正岡子規が関山峠を越えて山形に行ったのは、明治26年7月のことである。子規は『果て知らずの記』でそのときの印象を書いている。
遠ざかる蝉(せみ)の音、山間をわたる鳥の鳴き声、そしてどこからかこだまするきこりの歌声。
隧道のはるかに人の陰すゞし 正岡 子規
子規のくぐった隧道(ずいどう)は、現在の関山トンネルではない。閉鎖された旧道の奥に、それはある。山形の初代県令、三島通庸が掘削させた隧道である。山形側から廃道になった道に車を入れてトンネル跡まで行った。道は所々に落石などがあるものの、危険箇所にはロープを張り、注意を促していた。はるかに下の沢を見ながら通る。その景色の美しさは正岡子規を感嘆させたものである。実にすばらしい。
木の格子で覆われたトンネルを覗いて見ると、出口が握りこぶしくらいに小さく見えていた。明治の国づくりは、このような難所を切り開いて文明や経済の通り道を作ったのだから、やはり偉大だというほかはない。平成維新を唱える人々も、明治の気宇壮大に負けずに頑張って欲しい。