きのうまでの雨が上がり、青空に朝の月がひっそりと出ていた。アメリカでは大統領選挙の開票が始まり、ラオスで開かれていたASEM首脳会議は閉幕した。そんな世界の動向をよそに月は透明に光っている。
武士社会では、仇討ちは残された家の者の義務であった。荒木又右衛門の伊賀上野で起きた36人切りは寛永11年11月7日のことである。この朝も、月は朝日を受けて中空に輝いていた。明治の世になって仇討ちは禁止された、記録に残る最後の仇討ちは明治13年の秋の臼井六郎という青年が起こした一瀬直久判事殺害事件である。
六郎の父臼井亘理は福井藩士で、幕末の藩政改革に活躍していた。それを快く思わない反対派も少なくなかった。その一人が一瀬である。一瀬とその一党は、臼井の私邸に夜襲をかけて亘理夫妻を殺害した。その様子を見ていた子の六郎は、当時6歳であったが、親の仇討ちを決意する。しかし悲しいことに子どもの六郎には、親を殺害した下手人が誰であるか分からない。
苦心惨憺の末一瀬の名を探りあてた六郎はひたすら剣の修行を行う。一瀬は新政府で栄達を遂げ、判事職についていた。東京、名古屋、甲府の裁判所を転職したのち、東京上等裁判所へ戻ってくる。六郎は一瀬の動静を追いながら、果し合いの機会を狙っていた。だが、判事ともなれば、なかなか一人でいることがなくそのチャンスはやってこない。仕損じしないためには、一瀬が単独でいるところ襲わねばならないから、辛抱づよくその機会を待った。
ほどなく、六郎は一瀬が京橋の碁会所へ通っていることを付きとめた。その碁会所の同じ座敷に上がったが、一瀬が臼井の子であることに感づくよしもない。一瀬はひとり碁会所を出た。後を追った六郎が、「父の仇、覚悟せよ」と懐から短刀を引き抜いて、一瀬の首を突き、胸を突いて殺害し、みごとその本懐を遂げた。長年の判事の生活は、一瀬の武士としての術を衰えさせたいた。武術修行を怠ることのなかった六郎の敵ではなかった。
武士の世であれば、六郎の行為は親の仇を討ち、天晴れと褒められたであろうが、時代は変わっていた。殺害を自首した六郎を待っていたのは、終身刑で牢獄のつながれることであった。