寒中とはいえ、少し気温が上がると、山形盆地の川ある付近に霞が立ち込める。これは、細かな水滴が空中に浮遊し、遠くがぼんやりとして見えにくくなる現象だ。春先によく現れるので、春の景色と思われている。山形城が霞ヶ城と呼ばれるのは、白鷹の丘陵から見た城に霞がかかって敵の眼に見にくかったので、こんな名がついたらしい。
城下町であった山形には、商業の発展を物語る市日を示す町名が残っているが、その外側には職人町が置かれていた。戦国時代を生き抜くために必要な軍需品の生産を必要としていたためである。曲げ物細工の桧物町、桶製造を担う桶町、漆器製造業塗師町、金銀細工の銀町、蝋燭製造の蝋燭町、材木業者の材木町、弓製造の弓町、刀の鞘を製造する鞘町、鉄砲製造業者のいた鉄砲町。また馬見ヶ崎川の北側に鍛冶町、銅器製造の銅町を置き、火を使う職人の町を北側の風下に置いて火の用心への配慮も図られた。
これらの町名は、私がこの地に住んだ昭和30年代には多く残っていたが、行政の町名表示の簡素化によって多くの昔なつかしい町名が失われしまった。いま藤沢周平の時代小説に親しみを感じるのは、海坂藩などの小説の舞台に、江戸の生活のリアリティが書かれているからであろう。もし、藤沢が山形の城下町を描く小説を書けば、山形の江戸は生き生きと甦ってくるに違いない。