大学に入ったころ、専攻は英語と決めていた。状況の変化でそのことは叶わなかったが、名物の先生が多くいた。岩波の英語辞書を書いた田中菊雄先生、それから深町弘三先生がいた。田中先生のことは以前にこのブログで書いたが、深町先生も名物教授であった。毅然とした姿勢で、学生が近寄りがたいオーラがあった。今、ネットで検索してみると、岩波文庫スウィフト『奴婢訓』の翻訳者として先生の名がヒットする。娘さんが大学の先輩で英語を専攻していたように記憶している。背の高い美人で、学生の憧れの的だったが、所詮は高嶺の花というべきだろう。
先生が住んでいたところは、木の実町にある官舎であった。私はその隣に住んでいた数学の黒田先生を訪ねて、イチゴをご馳走になったことがあるが、深町先生のお宅を訪ねたことはない。むしろ近寄りがたい先生であった。先ごろ読んだ新関岳雄先生の『文学の散歩道』で、深町先生の奥さんが歌人であることを知った。横浜の生まれで、アララギに属し、山形に嫁いでからは結城哀草果に師事していたという。新関先生の記述によると、酒が好きな深町先生のためにずんぐりとした徳利に酒をあたためてお酌をし、酒のつまみを出してくれた、とある。
さびしさびし五十のわれの躰より夜毎剥落するものがある
朱に燃ゆるこころ五十の胸にもちあなつめたし掌の雪
教授の妻、深町伊都子の詠んだ和歌2首である。昭和33年に刊行された歌集「冷凍魚」に収められている。50歳という節目の年齢になって、女性の生のありようを深く掘り下げている。今、自分の娘たちがその年齢になった、時代の落差に驚くほかはない。