木瓜の花が咲いた。これと言って変わり映えのしない素朴な花である。夏目漱石はなぜかこの花を好んだ。その素朴さに憧れのような気持ちを持っていた。ちょと難しい言葉だが、「拙を守る」ということを自分の生き方のようにしたところがある。それは、西洋の文化が奔流のように日本に入り込んできたことと関係がある。漱石は、その移入の最先端を走る学者として、イギリスにも留学した。その流れに翻弄された漱石が受けたストレスははかり知れない。胃を病んで、それが命取りになったのもこのストレスと無縁でない。ストレスに傷つく、自ら心の癒しとして木瓜の花を愛したのではないだろうか。
その愚には及ぶべからず木瓜の花 漱石
守拙とは、交遊において守るべきルールである。他人の昇進や栄達、訴訟問題について口を挟まず、賭博はしない。推奨されることとして、ゆったりとした心、風流、自由、そして安静な気持ちを持つことである。世渡りの下手なことを自覚し、それをよしとする愚直な生き方である。
いま全世界を覆うような新型コロナウィルスの猖獗。これにストレスを感じる人も多いらしい。山形市は桜満開の霞城公園を閉園してしまった。堀の土手を歩くことでどれだけの人のストレスをなくすのか、と思うと残念な気持ちだ。たしかに花の下で宴会をする人がいることの措置だろうが、散歩もできないようでは、本末転倒である。
スマートウオッチにストレスの監視という機能がある。私の場合、これだけは優等生である。ウィルス騒ぎが起きてもストレスがたまる様子はない。これは、80歳になろうとしている年齢も関係しているかもしれない。もう明日の心配がない。いつ訪れるか知れない死を受け入れ、その日を充実して過ごす。これは、拙を守るという生き方にどこか通じるものがある。