木戸孝允
2016年09月23日 | 人

山堂夜半 夢結び難く 千岳万峰 風雨の声
維新三傑とは、薩長同盟を結び、討幕を果たした薩摩の西郷隆盛、大久保利通と長州の木戸孝允(桂小五郎)をさしている。明治政府を薩長の人材をもとに作りあげ、その中心にいたのが木戸孝允である。しかし、その座に安閑としている暇はなかった。
明治4年に、欧米各国に条約改正のため予備交渉に岩倉使節団が派遣された。木戸孝允は大久保利通、伊藤博文、山口尚芳らとともに全権副使として随行した。アメリカで早々にこの交渉が失敗に終わり、使節団は目的を先進国視察に変更した。
明治6年には、使節団の一行は1年10ヶ月に及ぶ米欧の視察を終えて帰国したが、国内では重大な問題が起きたいた。新政府と朝鮮の国交をめぐって話し合いが進まず、一部に征韓論が持ち上がり、西郷隆盛を朝鮮派遣使節に任命した。この問題をめぐる政争で、西郷は下野し、その後は大久保が実権を握ることになる。最長老であった木戸も大久保から距離を置き、次第に政権から遠ざかった。
邦家の前路容易ならず 三千余万蒼生を奈せん
木戸孝允は政権から身を引いて、山堂にこもって余生を過ごしたが、日本の進むべき道を考えると、安らかな眠りすらえられなかった。寒燈を前にして考えるのは、3千万を超える国民の進むべき道、生きる道である。その心境を一篇の詩に残した。容易でない日本に針路を考えると、眠ることもできず、聞くのは周りの山々に吹き付ける風の音であった。
明治10年になると、下野した西郷を担ぎだして西南戦争が起こった。このとき木戸はすでに病の床にあり、「西郷よ、いいかげんにしないか」とつぶやきながら、死に至った。