常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

2018年10月24日 | 源氏物語

秋晴れの日は、朝、霧が出ることが多い。晴

れて風のない夜は、地熱が空中に放出される。

そのため地表近くの空気も冷やされて、空気

中の水蒸気が目に見えないような水滴になっ

て空中に浮かぶ。この水滴の特徴は地面に接

していることで、雲は地面から離れたところ

にできる。濃淡があり、視界が生1㌔未満のも

のが霧、それ以上は靄という。濃霧ともなれ

ば、視界は10mほどになり、自動車の運転に

も支障をきたす。この霧を高い山からみれば、

地表を覆って隠すように広がって見える。雲

海である。この景色をみることができるのも

山登りの魅力のひとつになっている。

ところで平安時代は、同じ現象でも、春は霞、

秋は霧と分けて使われていた。源氏物語の世

界では、霧が物語の舞台装置として効果的に

使われている。その6帖は「葵」の巻。葵の上

と六条御息所の、二人の女性の源氏への愛の

確執は葵祭の折、「車争い」という事件起し

た。御息所は生霊となって葵の上にとり憑き、

死に至らせるという悲しい結末となった。喪

に服している源氏のもとへ、御息所から弔問

の手紙が届く。そのシーンを瀬戸内寂聴訳で

採録してみる。

晩秋の淋しさのいよいよ深まっていく風の

音が、身にしみて、馴れないお独り寝に、源

氏の君が秋の夜長を明かしあぐねていらっし

ゃるその朝ぼらけのことです。霧が一面に立

ちこめているところへ、開きそめた菊の枝に、

濃い青鈍色の紙にしたためた手紙をつけて、

誰からともいわず置いて行ったものがありま

した。」

使者は、朝霧の中から姿を現したかと思うと、

そっと手紙を置いてまた濃霧の中に姿を消し

てしまう。別世界からやってきた使者の趣の

ような雰囲気である。霧は、晩秋のもの悲し

い景色であると同時に、御息所と源氏との間

の大きな距離を象徴している。二人の関係が

途絶える危機を救うため、御息所は手紙とい

う手法を使った。

お悲しみの折とご遠慮して、お便りをさし

上げなかったこの日頃の、わたくしの気持ち

はお察しいただけますでしょうか。

 人の世をあはれときくも露けきに

  後るる袖を思ひこそやれ

今の空の色をみましても、思いあまりまして

この手紙を見て、源氏は御息所を心憎い女性と

見直している。 

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帰り花

2018年10月23日 | 日記

秋晴れの日が続く。小春日和というのか、

実に気持ちのいい気候だ。報道で各地で

桜が咲いているという。解説では、秋には

花を咲かせないホルモンがあるのだが、何

かの拍子に、その効き目が切れて花を咲か

せるということであった。人間も気持ちい

い気候だ。花がうっかり間違えるのも無理

はない。特徴は、春のように万朶の花には

ならず、ところどことろに部分咲きする。

そのため、来春の開花には殆ど影響はない

らしい。

帰り花むかしの夢の寂かなる 円地 文子

この句は帰り花を、むかしの夢としたとこ

ろが手柄である。散歩の途中で、ツツジに

もポツンと帰り花が咲いていた。やはり、

秋の淋しさが漂っていた。先日の山行で、

山路の傍らに、イワウチワの花が一輪ひっ

そりと咲いていた。帰り花は爛漫の春の日

を思い出させる。 

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高秋

2018年10月22日 | 日記

漢語で秋の盛りを高秋(こうしゅう)という。

空気が澄みわがって、空が高く感じられるた

めである。唐の詩人・杜甫は詩にこの言葉を

しばしば用いている。知人の草堂に客として

招かれて、その挨拶に次のような詩を詠んだ。

汝が玉山の草堂の静かなるを愛す

 高秋の爽気相い新鮮

街のなかにあっては、この言葉に象徴される

秋にはなかなかお目にかかれない。3日続く

秋晴れ、高原に秋の冷気と出会いに出かける。

ススキの穂が秋風に揺れる景色も懐かしい。

 

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秋、満喫

2018年10月21日 | 登山

季節のめぐりが早い。高山の紅葉は、終りを

迎えつつある。今週の山は、県北の八森山と

二ッ森。紅葉ときのこを採りたい、という願

望で選ばれた山だ。さらに、山の近くの山小

屋風の温泉で汗を流し、バーベキューとナメ

コ汁を楽しむという欲張った企画だ。この企

画のもとになったのは、昨年、この山で紅葉

を楽しみ、ナメコの大収穫を喜び、麓の温泉

でバーベキュー設備のある宿泊ができるとい

う情報であった。途中仲間の一人が、昨年の

山頂での風や霧で寒かったことを話してくれ

た。すっかり、その部分の記憶が無くなって

いる。改めて、昨年のこのブログを読み返し

て見る。昨年は見晴らしのよい地点で素晴ら

しい紅葉だった。見上げるとはるか先の頂上

付近は霧に隠れている。今年は、快晴で頂上

付近まで展望がきく。昨年と比べて、高い部

分まで紅葉が残っているが、赤いカエデやウ

ルシは台風や豪雨の影響か、単調な紅葉でや

や見劣りがする。もうひとつ無くなっている

記憶は、きつい急坂で体力を消耗したことだ。

先週依頼していた革靴のソール張替えができ

てきたので、この山がそのテスト登山になっ

た。靴底が適確に登山道の土をつかみ、苔む

した石の上でも滑りにくい。テストは上々で

ある。特に急な下り道で威力を発揮した。本

日の参加者10名。男女5めいづつ。登山口7時

30分、11時30分頂上着。

 

秋山のもうひとつの楽しみは、きのこ採りだ。

昨年はやや湿気のある地点の倒木に、さほど苦

労することなくムキタケやナメコを見つけるこ

とができたが、今年はなかなか見つからない。

昨年は丁度一週間後であったので、少々時期が

早いのか。だが、昨年も採ったブナの枯れ木に

近づくと、木の下の方に、太い枯れ木を埋め尽

くすようにびっしりと出ている。笠が開き、虫

も入らない上々のナメコだ。男性4人がビニー

ル袋を次々と満たしていく。数えてはいないが

10袋はあったような気がする。温泉宿りんどう

で開く焼き肉パーティーには、ナメコのたくさ

ん入ったお吸いもののおまけがついた。今回の

山行と焼き肉パーティーの担当したSさんとTさ

んのお二人には改めて感謝したい。参加の呼び

かけから、宿泊翌日の二つ森登山の計画、食材

の買い出し、赤飯まで。参加者14名、全員が忘

れられない愉しい会になった。

 

翌21日(日)、霧が晴れると、太陽と青空が

まぶしい晴天となった。朝ぶろに入って朝食。

夜遅くまで飲みながらの談笑にも係わらず、

全員が爽快な気分で宿を後にした。Sさんの

り合いの農家に立ち寄り、原木ナメコを1

袋づつ買う。一路目指すは、尾花沢の二ッ森。

ここは冬カンジキを雪の上を歩くのが定番だ

が、紅葉の二ッ森を歩くことになった。

牧場の端にある登山道入り口から、沢に沿っ

た急坂をひたすらコルを目指して登っていく。

二ッ森は標高600m。沢から離れると、左手に

ムスコ岩が見えてくる。コルから左の岩峰は、

登山道がない。岩の奇観とそれを取り巻く樹

の紅葉が、八森山よりきれいに見える。コ

ルからは低い笹のなかの急な登山道を直登し

て、頂上を目指す。道中、寒河江からきたと

いう中年のご夫婦、頂上では4人組の山ガール

と一緒になり短い会話を交わす。山形百名山

が指定されて、故郷の山に登る人も増えてい

るような気がする。今年は、北アルプスや他

県名高い山にも登ってきたが、やはり山形の

ふるさとの山には、やすらぎがある。山から

の眺望もけして人が群れる百名山に劣るもの

ではない。そこには、麓の人々の暮らしの痕

跡もあって、安堵と癒しの気分を味合わせて

くれる。下山して昼食に百笑屋姫で、手打ち

そばを堪能。 

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イノシシ

2018年10月18日 | 日記

農作物にイノシシの被害が出ている。市内で

も東の山側で多いようだ。以前はイノシシの

生息の南限は福島県とされてきたが、温暖化

の影響で、宮城県へ広がり、宮城県から山形

へ侵入しているらしい。原発で居住が許され

なかった浪江町などの荒廃した田畑では、す

ざましい勢いで、イノシシの繁殖が見られる。

日帰り温泉でも、老後の楽しみに野菜作りを

している人たちが、イノシシの害にあってい

る。農作物の害だけで、人が襲われた形跡が

ないことがせめてものことである。

ところで干支の亥(イノシシ)は北に位置し、

水を象徴している。そのために火に強く、古

来、防火のお呪いとして、用いられてきた。

江戸の遊郭、吉原ではよく火事が出たので、

予防のためにイノシシが飼われた。游客のま

わりをイノシシがうろついていたらしい。あ

まり気持ちのいいものではなかったであろう。

柳原の土手の辺りで放し飼いをしていたのだ

が、そのおまじない甲斐もなく、天保8年10

月18日、吉原の大火が起こり、その一郭が全

焼した。

だが、そのような前例があるのも関わらず、

商家では幕末まで、この風習が受け継がれた。

麹町の伊勢八、尾張町の布袋屋などの豪商で

もイノシシが飼われていたという。江戸でイ

ノシシの肉を食べさせる店が繁盛したのは、

この風習と関係があるらしい。

猪の来る黍が夜風にさわぐなり 藤原たかを

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